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赤門(新江戸百景めぐり㊲)

赤門(新江戸百景めぐり㊲)

新江戸百景めぐり、今日は、東京大学の赤門についてご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では89ページの第40景で紹介されています。

「赤門」は東大を象徴する門であり、東大の代名詞でもあります。(下写真)

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 文政10年(1827)加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、
11代将軍徳川家斉の娘溶姫(多くは「ようひめ」と呼びますが「やすひめ」とふりがなされていることもあります)を正室に迎えることになりました。この時に建立されたのが「赤門」です。


 江戸時代、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際は、奥向きの住まいは御守殿と呼ばれました。御守殿の門であることから正式には御守殿門と呼ばれますが、朱塗りの門であったことから通称で赤門とも呼ばれました。
 

 三位以上大名に将軍の娘は御守殿と呼ばれ、四位以下の大名に嫁いだ場合には御守殿でなく御住居(おすまい)と呼ばれ、御守殿とは区別されていたとされています。

ちなみに手元にある角川書店発行の「角川新版 日本史辞典」にも、そう書いてあります。

 なお、「赤門」(東京大学総合研究博物館発行)の畑尚子氏の「加賀藩邸内の徳川将軍家」によれば、9代将軍家治以前は輿入れ先の家格や相手の官位にかかわらず御守殿と呼ばれていたが、11代家斉の息女から御守殿と呼ばれるのは御三家・御三卿と婚姻を結んだ者に限られるようになった。そして、溶姫の場合は加賀藩からの強い要望により安政3年(1856)に御住居から御守殿に変わったと書いてあります。

以上、御守殿と御住居の区分の違いはあるもの、御守殿が、加賀藩だけに許されたわけではありません。

 溶姫の姉の峯姫は水戸家に嫁いでいますが、嫁ぎ先の徳川斉修(なりのぶ)が従三位であったため、やはり御守殿と呼ばれたと「十五万両の代償」(佐藤雅美)に書かれています。

御守殿門は一代限りで対象となる人物がなくなると再建を許されないので、東大の赤門は御守殿門として唯一残された門です。 

赤門は、 建築様式は薬医門という形式で、屋根は切妻作りの本瓦葺で、左右に番所があります。
 門の屋根上部の棟瓦は葵の紋、軒の丸瓦は前田家の家紋梅鉢となっています。前田家は菅原氏の出身と称しています。そのため、前田家の家紋は天神様の神紋と同じ梅鉢紋となっています。

鬼瓦には大学の学の旧字である學という字が刻まれています。下写真は休日の赤門、潜り門だけが開いています。

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 赤門は明治10年に東京大学に移管され、それ以降、東大の門となりました。

赤門の所在地は、元々は現在地より15メートル東にありましたが、明治36年校舎建設のため現在地(つまり西側に15メートルの場所)に移転しました。
 その後、幸いなことに関東大震災や空襲も免れることができて、昭和36年に解体修理され、現在は国の重要文化財に指定されています。

加賀藩上屋敷の変遷

東大の本郷キャンパスの中心を占める部分は加賀藩上屋敷、そして東側の東大病院の部分は、加賀藩前田家の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷、農学部のある弥生キャンパスや浅野キャンパスが水戸藩中屋敷でした。
 本郷の加賀藩江戸藩邸は、元々大久保忠隣の屋敷であったが忠隣が没落したのち、元和2年(1616)・元和3年(1617)頃に拝領し下屋敷として発足しました。
 加賀藩の上屋敷は、江戸時代初めの慶長10年~明暦3年(1605~1657)は、大手門の前の辰の口に、その後の明暦3年~天和3年(1657~1683)は筋違橋門内にありました。
 その後、5代将軍綱吉の時代 天和31683)年に本郷が上屋敷となりました。(いずれも「江戸のミクロモス 加賀藩江戸屋敷」(追川吉生著)によります)
 それ以降の加賀藩の江戸藩邸は中山道に沿ってあり、中屋敷は現在の文京区駒込の六義園の近くに、下屋敷は現在の板橋区にありました。下屋敷の跡地には加賀町という名前が現在残っています。


鉄門(てつもん)
 東京医学校(現在の東大医学部)が本郷に移転した1876年から法・

文学部が移ってくるまで、赤門は医学部の通用門として使われていたどうです。そのため、東大医学部の紋章は赤門をデザインした紋章となっています。

医学部が移転してきた当初は赤門は通用門でしたが、医学部の正門であったのが鉄門(てつもん)です。

鉄門は、現在、東大病院の近くに再建されていて、先日の江戸散歩でもご案内しました。下写真はその時の写真です。

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東京大学医学部の創立は安政5年(1858)5月、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷に開設されたお玉ヶ池種痘所までさかのぼります。

お玉ヶ池種痘所は開設したばかりにもかかわらず同じ年の11月に類焼し、現在の秋葉原駅の北東の下谷和泉橋通りに移転しました。

種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ点黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいたそうです。

その後、種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称されました。

そして、明治9年に東京医学校は本郷に移転しました。

本郷に移転した翌年の明治10年に東京医学校は東京大学医学部となりました。

東京医学校の正門は、現在の鉄門の位置から西に約30メートルほどの場所に設置されていました。移転当初は種痘所の門扉も使用されたそうです。

明治17年に法学部と文学部が、その翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、全学部共通の正門として本郷通り側に現在の正門が造られてからは、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになりました。

その後、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去されてしまい、その後、長いこと鉄門はありませんでした。

現在の鉄門は、東京大学医学部の創立150年を記念し、2008年に再建されたものです。下写真が現在の鉄門です。

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赤印が赤門です。青印が鉄門です。








by wheatbaku | 2019-09-29 16:34 | 新江戸百景めぐり
江戸検「記述問題対策シート」販売します(再掲)

江戸検「記述問題対策シート」販売します(再掲)

 今日は、江戸文化歴史検定(略称:江戸検)のお話をします。江戸検まで、あと1か月あまりとなりました。準備が不十分の人、「もう1ヶ月か。大変だ!」とあせる人もいるかもしれません。しかし、あせる必要はありません。「まだ、1ヶ月あります!」。 1ヶ月あれば、かなりの準備ができます。これからの1ヶ月をフルで頑張れば、必ず良い成績がとれます。ぜひ頑張ってください。

 さて、江戸検1級の中でも難しいという人が多い記述問題ですが、それを克服するための「記述問題対策シート」を販売しています。まだ、購入されていない方は、以前お知らせた内容を再掲しましたので、下記の告知を読んでいただいて、ぜひ購入してください。
 購入した方からは、大変役に立つというお褒めの言葉のほか、多くの語句を覚えるのが大変だという声も寄せられています。しかし、合格するに必要な語句を抽出してあります。ただ、レベルの高い人は、この対策シートに載せてある語句をすべて覚えなくても合格できるとも思います。ご自分なりに、削除あるいは追加して、自分なりの記述対策シートに仕上げてください。

 記述対策シートについては、今日時点での正誤表の公表は必要なさそうです。もし、間違いを見つけましたら、所定のメールアドレスまでご連絡ください。

【江戸検「記述問題対策シート」販売します】(告知)
 江戸検は、来年の15回検定で終了することが、江戸文化歴史検定協会から発表されていて、江戸検1級に合格できるチャンスが残るところ2回に限定されてしまいます。

その一方で、江戸検1級を受ける人からは、記述問題が苦手だとする声を多く聞きます。記述問題を苦手とする人に対して、これまでは、「『江戸博覧強記』をよく読んで、繰り返し、書き取り練習をすれば、記述問題をクリアできる」と説明していました。

 しかし、残りが2回しかないという状況では、そうも言っていられません。即効策も必要です。そこで、記述問題克服のための「記述問題対策シート」を作成しました。

 記述問題の過去問の傾向を分析すると『江戸博覧強記』から出題されているものが約7割を占めていて、人名は約3割、書名は1割近くを占めています。こうした過去の傾向を踏まえて、『江戸博覧強記』から語句を抽出し、①人名編、②書名・絵画名・芝居名編、③難書漢字編としました。

また、過去の記述問題では、基礎知識も侮れないため、元号・十干十二支・旧国名を④基礎知識編としてまとめました。

 こうして抽出した語句数は1500語句を超えるものになりました。

 この「記述問題対策シート」を、8月10日に江戸楽アカデミーで開講された「江戸検1級合格虎の巻講座」で、受講者に見本をみてもらい購入希望を募ったところ、受講した人全員が購入してくれました。(ちなみに、この講座は満員でした。)

 このように「記述問題対策シート」大変好評でしたので、江戸楽アカデミーが、合格虎の巻講座受講者以外の方に対しても販売をしてくれることになりました。

 詳細は、江戸楽アカデミーのトップページの上段の「過去問題販売中」をクリックして出てくるページの下段に案内されています。

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 また、下記URLをクリックしていただければ、そのページに飛びますので、画面の下段までスクロールしていって「記述問題対策シートを販売します」をご覧ください。手続きが詳しく書かれています。

江戸楽アカデミー「過去の出題問題を販売いします」

記述問題が苦手だと言う人は、この「記述問題対策シート」を購入していただき、ぜひ記述問題を克服してください。

そして、栄冠をかちとるよう祈念しています。




by wheatbaku | 2019-09-28 05:09
麟 祥 院(新江戸百景めぐり㊱)

麟 祥 院(新江戸百景めぐり㊱)

 先週土曜日に行われた毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」では、麟祥院も訪ねました。

 そこで、今日は麟祥院をご案内します。

 麟祥院は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では94ページの第46景に紹介されています。

 麟祥院は、東京メトロ湯島駅3番出口からは徒歩6分、都営地下鉄本郷三丁目駅4番出口からは徒歩5分です。湯島駅からだと登り坂になりますので、本郷三丁目から行くと楽です。

 麟祥院は、臨済宗妙心寺派のお寺で、春日局のお墓もあります。下 写真は、山門前で説明を聞く散歩参加者の皆さんです。

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 麟祥院は、寛永元年(1624)に春日局によって創建されました。

春日局は、幕府の恩恵に報いるために、湯島本郷に寺院を建立しようと思い立ち、将軍家光から湯島本郷の土地を拝領しました。そしてお寺は寛永元年に創建され、名前は「報恩山天沢寺」と名づけられました。下写真は本堂です。

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最初、春日局の甥の神龍和尚が住職となりましたが、神龍が病気となったため、寛永7年(1630)に宇都宮の興禅寺の渭川和尚(定光禅師)を住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
 寛永11年(1634)春日局が渭川和尚から法号「麟祥院殿仁淵了義大姉」をおくられたことを喜んだ家光は、春日局の法号をもって寺号とするように命じたため、「天沢山麟祥院」と号するようになったそうです。下写真は、山門を入ると正面に見える庫裏です。

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春日局の生涯を簡単に紹介しておきます。

春日局は、名は福といいました。

春日局という名前は、寛永6年(1629)に大御所になっていた秀忠の意向により上洛した際に、御所に参内した際に、朝廷より春日局の号をいただいたものです。

春日局の父は明智光秀の家老であった斎藤利三(としみつ)です。

明智光秀が本能寺の変を起こしたため、父は首を斬られ、お福も苦労します。

成人して、母方の一族稲葉氏の 稲葉重通(しげみち)の養女となり、小早川秀秋の家老であった稲葉正成と結婚します。

慶長9年(1604)家光が生まれ、乳母を捜していたことから、京都所司代板倉勝重の推挙により 乳母となります。

家光は病弱であったり、弟忠長が将軍の後継者になりそう情勢になったりする中、必死に家光を守ります。

忠長との後継者争いの際には、伊勢参りのふりをして、駿府に行き、大御所家康に訴えました。これにより家光は後継者になりました。また家光が疱瘡にかかった際には、薬だちの誓いをしてまで回復を願いました。

こうしたことから、軍家光に対しても強い影響力をもち、お江がなくなったあと、春日局は大奥を統率し、絶大な権勢を振いました。

春日局は寛永20年(1643)9月14日になくなりました。64歳でした。下写真が春日局のお墓です。

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 春日局のお墓は、墓石に四方および台石に穴が貫通(かんつう)している大変めずらしい形をしています。
 春日局は「黄泉(よみ)の国からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言を残しました。その遺言によってこのような形に造られたものだそうです。

 下写真は春日局のお墓の前で説明を聞く散歩参加者の皆さんです。

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 春日局は、稲葉家の出身ですが、春日局の権勢に応じて稲葉家も繁栄します。長男の稲葉正勝は老中となり小田原藩主となり、その子3代正則も老中となっています。そして、中期以降は淀藩を治め、幕末には、16代正邦が老中となっています。

 また、3代将軍家光の寵愛を受けた老中堀田正盛は、春日局からみると義理の孫にあたります。

 春日局のお墓近くには、稲葉正則の正室のお墓、さらに堀田正盛の子供で大老まで出世した堀田正俊の正室(稲葉正則の娘)のお墓もあります。下写真は、春日局墓域の案内板です。

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 麟祥院では、境内の周囲の垣根に枳殻(からたち)の木を植えていたので、別名「枳殻寺(からたちでら)」とも呼ばれました。

 森鷗外の「雁」の主人公の青年は東大の鉄門近くに下宿していて、毎日、散歩する習慣がありましたが、その青年の散歩ルートとして枳殻寺が登場します。

 「雁」が明治13年の話ですから、明治10年頃には、麟祥院の垣根には枳殻の木が植えられていたのでしょうが、現在は、枳殻の木は、植えられていません。

 文京区には春日局に関係する地名が多くあります。文京区にある春日という住居表示は、もとは「春日町」といい、さらに昔には「春日殿町」とも呼ばれたことがあるようですが、それは春日局の拝領屋敷があったことに由来する町名です。

また、麟祥院の前の通りを通称春日通りとも言いますが、この通りは、文京区春日や麟祥院前など春日局ゆかりの地を通っています。こうしたことなどから春日通りの名前は春日局にちなんでつけられたようです。

 文京区役所から西に約100メートル行った春日通り沿いの礫川(れきせん)公園に、春日局の銅像があります。(下写真)この銅像は、この秋に麟祥院前に移設される予定だそうです。
〔9月26日追記〕文京区役所に確認したところ、礫川(れきせん)公園にある銅像は、すでに撤去されていて、9月28日に、麟祥院の山門前に設置されるとのことです。また10月14日の春日忌にあわせて除幕式が行われる予定だそうです。

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赤印が麟祥院です。

青印が春日局の銅像がある場所です。(20199月現在)






by wheatbaku | 2019-09-25 12:41 | 新江戸百景めぐり
湯島天神(新江戸百景めぐり㉟)

湯島天神(新江戸百景めぐり㉟)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、湯島周辺を散歩してきました。

 数日前には、長時間雨が降るという予報でしたが、幸いにも昨日は雨は全く降らず、楽しく散歩してきました。

 昨日のコースは、御徒町駅 ⇒ 上野風月堂・上野松坂屋 ⇒ 心城院 ⇒ 湯島天神 ⇒ 旧岩崎邸庭園(休憩を兼ねて) ⇒ 常楽院 ⇒ 耕安寺 ⇒ 東大鉄門(てつもん) ⇒ 麟祥院 ⇒ 富士浅間神社 ⇒ 本郷三丁目駅 

というコースでした。

 ご参加いただい皆様、ありがとうございました。下写真は、湯島天神の社殿前で説明を聞く参加者の皆様です。

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 昨日ご案内した中に、新江戸百景めぐりに取りあげられている寺社が二つあります。湯島天神と麟祥院です。

 そこで、今日は湯島天神についてご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)110ページの第56景で紹介されています。下写真は正面から見た社殿です。

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湯島天神は、正式には「湯島天満宮」と言います。以前は「湯島神社」と言いましたが、平成12331日に「湯島天満宮」に改称しました。

湯島天神は、社伝によると、雄略天皇2年(458)に、雄略天皇の勅命により、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祭神として創建されたと伝えられていて、南北朝時代の正平10年(1355)、住民の願いにより菅原道真を勧請したとされています。

太田道灌の信仰もうけ、徳川家康が江戸に入ってからは徳川家の崇拝を受けました。

 将軍綱吉の時代に、社殿が火災で全焼した時に、綱吉から金五百両の寄進を受けたこともあるそうです。


湯島天神のご由緒には戸隠神社のことは触れられていませんが、湯島にはもともと戸隠神社が地主神としてお祀りされていて、その御祭神が天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)であり、その後、菅原道真を勧請したとも言われています。その戸隠神社は摂社としてお祀りされています。(下写真)

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社殿

社殿は平成712月に再建されました。

現在の建築基準法では、神社の建築でっても防火地域では新しく木造の建築物を建てることは認められていません。しかし、湯島天神では、防災設備をととのえ、特に木造建築が許可されたそうです。

社殿の正面の屋根の三角部分が特に大きくなっています。

これは、神社の南側の通りに面した鳥居のある場所が社殿の場所より約1メートルの高いため、「妻」と称される三角部分をより大きくして社殿を立派に見せていまるそうです。
 下写真の上部の三角形の部分が「妻」です。

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奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)

社殿南側の梅林の端に奇縁氷人石と書かれた石柱があります。(下写真)

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これは、江戸時代の迷子情報を交換するための石柱です。

この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。
 これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙を貼って知らせた「迷子しらせ石標」です。

奇縁氷人石は京都の北野天満宮にあり、湯島天神の奇縁氷人石は、それをモデルにしたものと思われます。

「迷子しらせ石標」は、人通りの多い所に建てられました。現在も日本橋に残っていますし、浅草寺にもありました。

このことからも、湯島天神が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。

なお、氷人というのはどういう意味か調べました。「精選版日本国語大辞典の解説」によると次のように書いてあります。

ひょう‐じん【氷人】

〘名〙 (中国、晉の令狐策が、氷上に立って氷の下にいる人と話をした夢を見たところ、索紞(さくたん)が、陽である氷上から陰である氷下に語ったのであるから、誰かのために仲人をするだろうといって、その通りになったという、「晉書‐芸術伝・索紞」に見える故事から) 婚礼の媒酌人。なこうど。月下氷人。また、仲立ちをする人

 下写真は、奇縁氷人石を見ながら説明を聞く参加者の皆さんです。

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富くじ

 湯島天神に大勢の人が集まった理由の一つに富くじが行なわれていたことがあげられます。

 湯島天神は、江戸時代は、江戸の三富の一つに数えられほど富くじで有名でした。江戸の三富とは、谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神を言いました。

富くじはお寺や神社の修理費用に充てるために興行されました。

このため、興業の許可願いは寺社奉行に出願していましたし、抽籤の際には、寺社奉行の与力が立ち会いました。

庶民に大変人気のあった富くじも、寛政の改革で、松平定信によって制限され、天保の改革では、水野忠邦により全面的に禁止されてしまいました。

筆塚

 湯島天神と言うと、「婦系図」の湯島の白梅でも有名です。

そうしたことから、作者である泉 鏡花の「筆塚」が、昭和17年に、里見惇、久保田万太郎らによって建てられました。

『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。』というお蔦のセリフは非常に有名です。

 実はこの有名な湯島天神でのせりふは泉鏡花の原作「婦系図」にはなく、このせりふは「婦系図」が、明治41年に新富座で上演されたときに 付け加えられたものです。

その後、大正3年になって、泉鏡花自身が、お蔦と主税の別れの場面である「湯島天神の場」を、舞台のために書き下ろしています。

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表鳥居(東京都指定有形文化財)

湯島天神の鳥居は銅製で、柱の刻銘に江戸時代初期の寛文7年(1667)に建立されたと記されています。その後、何回にわたり修理されたことをしめす刻銘もあります。 

昭和45年東京都指定有形文化財に指定されています。

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湯島天神のホームページには、鳥居の様式は神明鳥居といわれるものと書いてあります。

鳥居の横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いています。横木の上の方を笠木、下の方を島木といいます。鳥居の大きさは、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81mだそうです。

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上の写真が鳥居の台座部分ですが、台座に唐獅子が飾られていますが、見落としてしまいそうです。

写真の上部に四角い刻銘が写っていますが、ここに寛文6年建立されたこと、その後、寛文11年、宝暦11年、文化6年などに修理されていることが刻まれています。

名所江戸百景「湯しま天神坂上眺望」

 歌川広重は、湯島天神を「湯しま天神坂上眺望」で描いています。

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 湯島天神は台地の上にあるため、東から湯島天神にお参りにするには坂を登る必要がありました。湯島天神に登る坂には男坂と女坂がありました。男坂は急坂で現在は38段の石段があります。下写真は、坂上から見た男坂です。

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一方、女坂は、男坂より少し緩やかな女坂があります。

上の広重の浮世絵は、雪の日に女坂から登る人々を正面に据えて描いたものです。右隅に描かれているのが男坂です。

下写真は現在の女坂です。現在の湯島天神周辺はビルが立ち並んでいて、全く眺望は効きませんが、江戸時代は、不忍池が間近に見えたようです。

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心城院

湯島といえば天神様ということで湯島天神を多くの人がお参りしますが、湯島天神の男坂の前にある心城院というお寺を拝観する人は少ないだろうと思いますが、拝観する価値のあるお寺ですのでご案内します。下写真が本堂です。

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江戸時代は、湯島天神の場合には、喜見院という別当寺がありました。

元禄7年(1694)、湯島天神の別当寺であった喜見院の住職が、道真の信仰していた聖天様を湯島天神境内にお祀りしました。その聖天様は比叡山から勧請したもので、慈覚大師作と伝えられているそうです。

それ以来湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、有名な紀国屋文左衛門も帰依したそうです。 江戸時代の喜見院は相当の境内があったそうですが、明治維新の神仏分離令の影響で廃寺となりました。心城院は、喜見院の隠居所の役割を果たしていて、喜見院も廃寺になるところでしたが、幸いにもその難を逃れることができ、天台宗に属した単独の寺院として歩み出し、寺名を心城院と改めたそうです。江戸時代に喜見院でお祀りされていた聖天様が心城院の御本尊様です。下写真は、心城院の本堂前の参加者の皆さんです。奥が本堂です。

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本堂の前に手水がありますが、これは「柳の井戸」と呼ばれている江戸名水の一つでした。 柳の井戸というのは、この井戸水で髪を洗うと、髪が、風にそよぐ柳のようになることから、こう呼ばれるようになったといいます。心城院は「柳の井戸」があることから「柳井堂(りゅうせいどう)」とも呼ばれました。 

東大震災の時、湯島天神の境内に避難した人々の飲料水となり多くの命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けたそうです。下写真が「柳の井」です。

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 今まで、井戸の水は5メートルからくみ上げていたそうですが、最近は、水量が少なくなったため、今年(2019年)の夏に新たに50メートルの井戸を新たに掘ってくみ上げるようにしたそうです。

赤印が湯島天神です。

青印が心城院です。








by wheatbaku | 2019-09-22 14:19 | 新江戸百景めぐり
すみだ北斎美術館(新江戸百景めぐり㉞)

すみだ北斎美術館(新江戸百景めぐり㉞)

 今日は、両国の「すみだ北斎美術館」をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では64ページに紹介されています。

 すみだ北斎美術館は、都営地下鉄両国駅から徒歩4分、JR両国駅の東口からだと8分かかります。

すみだ北斎美術館は、葛飾北斎は、本所割下水で生まれたとされていることや本所界隈で生涯を送ったといわれていて、墨田区と非常に縁が深いことから墨田区が建設した美術館で、平成28年11月に開館した新しい美術館です。

すみだ北斎美術館は、江戸時代に弘前藩津軽家の大名屋敷があった緑町公園の南端に建てられています。下写真は、公園内から撮ったものです。

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 すみだ北斎美術館は建築家妹島和世氏が設計したもので、一般社団法人日本建設業連合会により、日本国内の優秀な建築作品に与えられるBCS賞を昨年(2018年)に受賞しています。

大変近代的な建物だと思いましたが、建物外壁に淡い鏡面のアルミパネルを使用しているのは、建物外壁にやわらかく下町の風景が映り込み、周辺地域の風景に溶け込むようにという意図だそうです。(下写真)

 

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建物は、地上4階 地下1階で、常設展示場は4階にあります。

 展示は、葛飾北斎の生涯に沿った展示となっています。

下写真は入口からみた常設展示場です。右半分が展示場内ですが照明を落としてありますので、真っ暗な感じです。

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常設展示は、葛飾北斎の絵の歴史にそった展示となっていて、習作の時代⇒宗理様式の時代⇒読本挿絵と肉筆画の時代⇒錦絵の時代⇒肉筆の時代というふうになっています。

この中で錦絵の時代で富嶽三十六景が触れられています。

このコーナーで、有名な「山下白雨」と「神奈川沖波裏」が展示されています。(下写真) 
 その他の富嶽三十六景は、デジタルで見られるようになっていました。また、展示場には北斎漫画も展示されています。

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 常設展示場には、下のような模型もあります。

 葛飾北斎は、晩年、本所の榛稲荷(後述)の近くに、娘の阿栄(おえい)と一緒に住んでいました。その姿を弟子の露木為一(つゆきいいつ)が書き残しています。

 それをもとに再現したもので、北斎が炬燵に半分入りながら絵を画いていて、そばで阿栄が見ている様子です。北斎は90回以上も引っ越ししたと言われていますが、それは、ごみを処理しなかったことが理由らしいと匂わせるコメントがしてありました。

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 ほくさい美術館の周辺に、北斎ゆかりの地がありますので、2ヶ所案内します。

 まず、北斎生誕の地です。

 葛飾北斎は、本所割下水で生まれたとされています。

 現在は、緑町公園に「葛飾北斎生誕地」の説明板が建っています。

 しかし、緑町公園は、前述のごとく津軽藩上屋敷があった場所ですので、葛飾北斎が、ここで生まれた訳ではなく、この周辺で生まれたという意味です。

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 JR両国駅東口から徒歩4分の所に、「榛(はんのき)稲荷」があります。 この辺りには、江戸時代、東西185メートル、南北22メートルほどの馬場がありました。その馬場には榛があったため、馬場が榛馬場と呼ばれました。

 その馬場にお祀りされていたお稲荷様が「榛稲荷」です。下写真

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 その境内には「葛飾北斎住居跡]と書かれた墨田区教育委員会の説明板が設置されています。その中に、露木為一が残したという葛飾北斎と阿栄の絵が描いてありました。(下写真)

 この絵を基に作成されたのが前述したすみだ北斎美術館の模型ですが、模型がよくできていることがわかります。 

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赤印がすみだ北斎美術館です
青印が葛飾北斎生誕地の説明板の設置場所です。
緑印が榛稲荷神社です。








by wheatbaku | 2019-09-18 14:45 | 新江戸百景めぐり
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)
吉良邸跡(新江戸百景めぐり㉝)

今日の新江戸百景めぐりは、有名な吉良邸跡をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では152ページの第87景で紹介されています。

 吉良邸は、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3メートル)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9メートル)、面積2550坪ありましたが、現在はほとんど民家となっています。その中で、吉良邸の面影を感じさせるのが本所松坂町公園です。(下写真)

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 吉良家が改易された後、屋敷の跡は町屋になったため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それが吉良松阪町公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。本所松坂町公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1.1%ほどの広さです。本所松坂町公園は、JR両国駅東口から徒歩5分です。下写真は東南方向から見た本所松坂町公園です。

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吉良上野介の屋敷は、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた当時は現在の東京駅あたりにあった呉服橋門内の以前紹介した北町奉行所と同じ場所にお屋敷がありました。

 そして、刃傷事件の起きた年の元禄14年(1701)9月3日に、吉良上野介は、本所にあった松平登之介(近藤登之介はまちがい)の屋敷跡に移転しました。

 義士の討入りがあってお屋敷を没収されたのが元禄16年(1703)2月4日ですから、吉良家の御屋敷であったのは1年半に満たない短かい期間でした。吉良邸は、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となり、その跡に入る旗本はなかなかいませんでした。そこで、吉良邸跡は、町人が住む町屋になりました。

 江戸時代は、町名は、原則町人が住む町にだけつけられていました。そのため、吉良邸があった頃は本所松坂町という町名はありませんでした。討ち入りの2年後、町人町となった町につけられた町名が松坂町でした。

松坂という名は、謡曲の中からめでたいものが選ばれたようです。
 

吉良上野介像 

公園内には吉良上野介の像が鎮座しています。(下写真)
 これは、愛知県吉良町(現在は西尾市吉良町)にある吉良家の菩提寺の華蔵寺にある木像をモデルに造られています。
 その上野介の木像は元禄3年(1690)、50歳の時に自らが監督し彩色を施したと伝えられています。

以前、華蔵寺を訪ねた際に、吉良上野介の木像は、通常は、御影堂の中にあり、公開されていないのですが、特別に鍵をあけて拝観させていただいたことがありました。

 本所松坂町公園の吉良上野介の像は。華蔵寺の像をモデルに横浜在住の米山隆氏が制作したもので、平成22年に墨田区に寄贈されたものです。

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「吉良家家臣二十士」の供養碑

 公園内に「吉良家家臣二十士」と刻まれた碑があります。

これは、赤穂浪士が討ち入りした際に、なくなった家臣の名前を刻んで慰霊したものです。赤穂浪士が討ち入った際、赤穂浪士側は、完全武装であったため、軽傷者2名で死者はゼロでした。一方、衝撃された吉良方は、20人の死者が出ました。その20人の名前を書いて供養したものです。

 死者で有名な人を挙げると、吉良家の家老の小林平八郎八郎、そして、忠臣蔵によくでてくる清水一学の名前も刻まれています。清水一学は、吉良上野介の小姓でした。その他18名の人の名前が刻まれていました。

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霊験あらたか松坂稲荷大明神 

 公園内には神社もあります。松坂稲荷大明神です。
 これは、江戸時代、この辺りに鎮座していた「兼春(かねはる)稲荷」と「上野(こうづけ)稲荷」を合わせてお祀りしたものです。

 公園開園当時からここに鎮座しています。それ以前に、二つのお稲荷さんがどこに鎮座しているのか調べましたが、それは分かりませんでした。

 「兼春稲荷」をどう読むかについても、「兼春(けんしゅん)稲荷」とフリガナをふった本もありました。しかし、公園近くの和菓子屋さん「大川屋」のおかみさんに以前尋ねたところ「かねはる」と呼ぶと教えていただきました。地元では霊験あらたかなお稲荷さんとして深く信仰されているそうです。

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吉良邸表門

吉良邸は、東側に表門があり、西側に裏門がある細長いお屋敷でした。
 本所松坂町公園の東側近くに、吉良邸表門の説明板が設置されています。(下写真)

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赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われたと言われます。

 討ち入りした時刻は午前4時ころですので、今の時間の数え方でいえば正しくは15日に討ち入ったことになります。江戸時代は、夜明けから翌日の夜明けまでを一日と数えました。そこで、討入りした時刻は夜明け前ですので、12月14日ということになります。
 下写真は説明板の遠景写真、歩道もない道路のわきに設置されています。

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 表門隊23人と裏門隊24人に別れ、討ち入りしました。表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。

 大石内蔵助に指揮された表門隊23人は、表門の屋根に梯子をかけて、屋根を乗り越えて屋敷に討入りました。

屋敷の道路に面した三方向には長屋が設置されていました。

 長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。

 この長屋は二階建てだったと考えられています。

 屋根までの高さは6.6メートルあったとNHKによる推測がされています。

 それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。

 赤穂浪士が準備した道具の中に梯子2丁と長縄がついた鉤(フック)16丁が含まれているのは、こうした事情があったためです。

 表門からの一番乗りは、大高源五と間十次郎でした。

吉良邸裏門

 吉良邸裏門があったのは本所松坂町公園の西側にありましたが、裏門があった辺りにも説明板が設置されています。(下写真)

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裏門隊は大石主税が大将となり、吉田忠左衛門が補佐しました。総勢24人でした。

裏門隊は、表門と違い、門を乗り越えることはせず、かけや(大型の木槌)で三村次郎左衛門と杉野十平次が裏門を打ち破り討入りました。
 下写真は説明板の設置地点を撮った遠景写真、マンションの脇に設置されています。

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討入りの際に、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を打つのが、テレビ、映画、歌舞伎、講談の定番ですが、これが後世の創作であるのということは、現在では多くの人が知っているところです。

 それは、赤穂浪士が準備した道具の中に陣太鼓がなかったり、事前に定めた「人々心覚」の中にも「太鼓」という言葉でてこないことから、陣太鼓そのものがなかったためと説明されています。

 しかし、討入り当時から、「山鹿流陣太鼓」はともかく大石内蔵助が太鼓を打ち鳴らして討ち入ったという話は、早くから流れていたようで、多くの史料に「討入りの合図に太鼓を使った」と記録されています。

 これは、裏門から赤穂浪士が突入する際に、かけや(大槌)で裏門を打ち破り押し入りましたが、吉良邸の周囲の人が、その扉を打ち破る音を太鼓の音と思ったのだろうと宮澤先生は考えます。

 それが、さらに発展し赤穂浪士が山鹿素行の兵法の影響を受けているという風聞のひろまりにつれて、いつの間にか山鹿流陣太鼓といわれるようになっていたのではないかと

考えている先生もいます。

前原伊助宅跡

 赤穂浪士が討ち入る際に、吉良家の動向を探ることは、非常に重要なことです。

 そのため、赤穂浪士のうちの前原伊助と神崎与五郎は名前を姿を変えて、吉良邸周辺に潜んでいました。

 前原伊助は、吉良邸の裏門近くで米屋五兵衛と名を変えて商売をしていました。その前原伊助宅跡の説明板が、裏門跡の説明板のすぐ近くに設置されています。(下写真)

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前原伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、刃傷事件の時には金奉行として勤仕していたため、商才に長けていました。

 刃傷事件後は日本橋に住んで古着屋を営んでいたといいますが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。討ち入りの際には、裏門隊に属していました。

また、前原伊助は、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤城盟伝」を残しています。これは、赤穂浪士自身が書いた討ち入りまでの記録で、赤穂事件の貴重な史料となっています。


赤印が本所松坂町公園です。

青印が吉良邸表門の説明板の設置場所です。

緑印が吉良邸裏門の説明板の設置場所です。

ピンク印が前原伊助宅跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2019-09-15 18:21 | 新江戸百景めぐり
回向院(新江戸百景めぐり㉜)

回向院(新江戸百景めぐり㉜)

今日の新江戸百景めぐりでは、回向院をご案内をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では122ページの第64景で紹介されています。

 回向院は、JR両国駅から徒歩5分の距離にあります。

 下写真は、回向院の山門ですが、現在工事中でしたので、以前い撮影したものをアップしておきます。

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 回向院は、明暦の大火でなくなった人々を供養するために明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。

 この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人がなくなりました。この大火により亡くなられた人々の多くは、身元のわからない人々でした。

 明暦の大火は1月18日~19日に起きました。1月24日は2代将軍秀忠の命日です。大火の後なので、将軍家綱でなく家光の弟の保科正之が代参しました。代参の途中、多くの焼死体が放置されている町の様子を見て、亡くなった人々を一か所に葬むるようにしたいという保科正之の提案を受けて、幕府は、無縁の人々を手厚く葬るようにと現在の回向院がある場所に土地を準備し「万人塚」というお墓を設けました。

 そして、増上寺の住職遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を行いました。

 このとき、念仏をあげるため御堂が建てられました。これが回向院の始まりです。

 宗派に関係なく無縁の人々を回向するということから、諸宗山無縁寺回向院と名付けられました。(下写真は、回向院の本堂です)

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供養塔

 回向院には、創立の経緯から、災害で亡くなった人々の供養塔が多く建てられています。

 回向院建立のきっかけとなった明暦の大火でなくなった人々を供養する明暦大火横死者追善供養塔は、東京都指定文化財となっています。(下写真の最も右手の供養塔です)

 また、安政大地震で亡くなった人々を供養する供養塔も3基建立されています。

 さらに、海難事故で亡くなった人々を供養するものも建立されています。そのなかには、有名な大黒屋幸大夫の名前が刻まれたものもあります。

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鼠小僧の墓

回向院には、鼠小僧次郎吉のお墓があることで有名です。

鼠小僧は大名屋敷を狙い、3000両の金を盗んだと言われます。現在の研究家の間では「鼠小僧は盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。

長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が江戸時代から盛んで、いまも墓石を削ってお守りにする人が大勢います。

特に「するりと抜ける」ということから合格祈願に来る受験生方があとをたたないそうです。

 江戸時代は、罪人は原則的に墓を建てらることはできませんでした。回向院の鼠小僧のお墓は、正面に「俗名中村次郎吉之墓」と刻まれていて、裏面には大正15年12月15日建立と刻まれていることから 大正15年に建てられたものと思われます。

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 回向院には、鼠小僧のほか有名な人々のお墓もありますので、そのうちのいくつかを紹介します。

山東京伝・京山の墓

 山東京伝は、本名岩瀬醒(さむる)、紅葉(もみじ)山の東にあたる京橋に住居する伝蔵の意で、山東京伝の号を用いていました。初め北尾重政の門に入り浮世絵師として活躍しましたが、文筆生活に入り、黄表紙・洒落本作者として活躍しました。その隣に、京伝の弟、山東京山(本名、岩瀬百樹)のお墓もあります。下写真の左手が山東京伝(本名の岩瀬醒と刻まれています)、その右が山東京山(本名の岩瀬百樹と刻まれています)です。

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加藤千蔭の墓

 加藤千蔭は、町奉行与力で歌人でもあった加藤枝直の子どもで、父の跡を継ぎ町奉行与力を勤め、賀茂真淵に入門し、村田春海(はるみ)と並ぶ江戸派の代表的歌人として知られました。

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鳥居清長顕彰碑

 浮世絵師鳥居清長のお墓も回向院にあったそうですが、その行方がわかなくなっていました。清長の没後200年になるのにあわせ平成25年に鳥居清長の顕彰碑が本堂裏に建立されました。

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勧進相撲

 江戸時代後期になると、回向院で、相撲が盛んに行われました。

相撲は、江戸時代は主として神社仏閣の再興や造営の費用を集めるための勧進相撲の形態をとっていました。

 最初は、深川の富岡八幡宮で開催されましたが、その後江戸市中のいろいろな神社、寺院で行われるようになり、回向院でも開催されるようになりました。

勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768)と言われています。その後、天明年間から回向院での相撲興行が多くなり、天保4年(1833)以降、回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになり、ついに、回向院だけで行われるようになりました。

そして、明治42年に先代の両国国技館が、回向院の境内地に完成するまでの約80年間、回向院で大相撲が開催されました。

 このように、回向院が江戸の勧進相撲の中心地であったことから、回向院に力塚の碑が建てられています。力塚の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものです。(下写真)

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名所江戸百景「両ごく回向院元柳橋」

歌川広重は、回向院と勧進相撲を結び付けて名所江戸百景のうちの一つ「両ごく回向院元柳橋」を描いています。(下画像)

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近景左手に大きく描かれているのが回向院境内に建てられた櫓太鼓です。相撲が行われている際は、櫓を建てた上で開場閉場などを知らせる太鼓が打たれました。江戸時代の末期には相撲の櫓の高さは約 16mと規定されていましたが、その櫓から打出す太鼓の音は江戸市中に伝わり、大勢のお客を呼び込んでいました。

 隅田川の対岸に描かれているのが元柳橋です。元柳橋は、薬研堀にかかる橋で、北側のたもとに柳があったことから柳橋と呼ばれていましたが、神田川の最下流にかかる橋が柳橋と呼ばれるようになったことから元柳橋と呼ばれるようになりました。

 

 薬研堀は江戸時代初期、両国広小路の南側にあった矢ノ倉と称する米蔵に通じる堀でしたが、明治36年に完全に埋め立てられて現在は残っていません。

赤印が回向院です。

青印が元柳橋があった場所です。

なお、緑印辺りに、江戸時代の両国橋が架かっていました。






by wheatbaku | 2019-09-13 14:13 | 新江戸百景めぐり
両国広小路(新江戸百景めぐり㉛)

両国広小路(新江戸百景めぐり㉛)

 新江戸百景めぐり、今日は、両国広小路についてご案内します。

 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では120ページの第63景で紹介されています。下写真は、江戸東京博物館の両国広小路のジオラマです。

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 明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の反省から、幕府はさまざまな防火対策や火事に強い街づくりを実施しました。前回書いたように、両国橋の架橋も、その中の重要な施策でした。

 その一環として、幕府は、市中や重要な橋のたもとには広小路と一般に称せらる火除地(防火地帯)を設けました。

 広小路とは、広い道路のことを言いますが、火除け地としての役割をはたしました。

江戸時代の消防の方法は、火事の延焼を防ぐという考えかたが中心でした。

そのため、実際に火事が発生した場合の消火活動は建物を壊して延焼を防ぐ破戒消防でした。

同じ考えに基づいて、火事が起きた際に道路を広くしておけば容易に延焼しないということから、道路を広くした広小路がつくられました。

 橋は一度焼失すると再建の多くの日数と多額の費用がかかる重要施設でした。そして、橋は、中央から燃えることは少なく、橋の両端からの延焼で燃えることが多かったため、橋のたもとに広小路が設けられました。

 そして、両国橋の東西にも広小路が設けられ、両国広小路と呼ばれました。

火除地としての機能から,広小路には恒久的な建造物は許可されませんでした。

床みせと呼ばれた移動可能な店舗施設が置かれたり、矢来(やらい)や葭簀(よしず)で囲んだ仮設の小屋が設けられました。

この見世物小屋で芝居や講釈などいろいろな興行が行われました。

これらの施設は、高い集客力をもっていました。

さらに、隅田川を越える人々がこの両国橋を利用し、「江戸の盛り場考」(竹内誠著)によれば、その数は2万3千から2万5千に上ったそうです。

そのため、両国広小路は、江戸第一の盛り場として繁栄しました。

その繁栄ぶりは、江戸東京博物館のジオラマによく表現されています。

下写真は、広小路を行きかう大勢の人々です。

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旧跡両国広小路の碑 

 現在は、両国といえば、両国橋の東側(墨田区)を指していますが、江戸時代に西側(現在の中央区東日本橋)のほうが栄えていました。

そのため、中央区側の両国橋の西詰に両国広小路を記念した碑が、設置されています。(下の写真)

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 碑文の前半部を抜き書きすると次のようになっています。

明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。

その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。 このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。 隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。

また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。

やがてこれが広小路となり 江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。

 以上のように書いてありました。

両国の川開き 

 人々の集まりやすい両国橋西詰にあった両国広小路は,花火の行われる夏の納涼では特ににぎわいました。

両国の川開きは、享保18年(1733)に始まりました。

前年の享保17年に西日本ではイナゴの大群が発生し凶作となり、多くの餓死者が出ました。さらに疫病も発生し多くの死者がでました。

そこで、幕府は、亡くなった人の慰霊と疫病退散を祈って、隅田川で水神祭を行いました。この時、両国橋畔の料理屋が幕府の許しを得て、川施餓鬼を行い、花火を上げたといいいます。これが後年、年中行事化されて川開きとなりました。

川開きは例年5月28日。この日から8月28日までの3か月間は、隅田川に涼み船をこぎ出すことが許可されました。
 下写真は、納涼船でごったかえす両国橋の下流を描いた江戸東京博物館のジオラマです。

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両国の花火

両国での納涼のかたわら花火を楽しむ風習が生まれたようです。

 江戸で花火業者がいつ起こったかは、はっきりしていないそうですが、有名な鍵屋は万洽2年には、既に両国広小路近くの横山町(現在の中央区)に居住していたと伝えられています。 

花火が墨田川縁で行われるようになったのは、万治2年6月の町触によって「町中にて花火一切仕る間敷侯。但、大川口にては格別の事」と規定され、市中での花火が禁止されたものの隅田川縁では許可されたことが、大きな理由だと考えられています。

花火師で有名なのが横山町の鍵屋弥兵と両国広小路の玉屋市郎兵衛です。玉屋は両国橋の上流を、鍵屋は下流を受け持って、互いにその技を競い合い、「玉屋ぁ~、鍵屋ぁ~」の呼び声が夏の夜空に響きわたりました。

 しかし、天保14年(1843)4月、将軍家慶の日光社参の前夜に当たって、玉屋は不幸にも火災を起こし、吉川町一帯を焼いたため、江戸所払いとなって業を廃し、以後鍵屋のみが存続しました。

その両国の花火を描いたのが、歌川広重の「両国の花火」です。この絵は、現在の台東区側の隅田川上流から両国橋を描いた浮世絵です。

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華屋(花屋)与兵衛

現在の両国は、江戸時代は東両国あるいは向両国と呼ばれました。

 その東両国の「与兵衛鮨(よへいずし)」が、握りずしの初めといわれています。

握りずしの創案者は、華屋(花屋と書くという説もある)与兵衛と言われています。

 華屋(花屋)与兵衛は、霊厳島で生まれ、福井藩出入りの八百屋の倅で、9歳の時に、江戸蔵前の札差に下男奉公に入り、20歳まで勤めます。その後、握り鮨を考案し、文政年間、本所横綱の長屋に住んで、最初は岡持をもって、毎夜、夜明けごろまですしを売り歩き、のちに屋台見世を出して商売を始め、金を貯め、両国回向院前に小さな店を持ったと伝えられています。

 与兵衛寿司は、江戸中の評判となり、

  鯛ひらめ いつも風味は与兵衛鮨 
    買手は見世にまって折詰

  こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮓 
    客ももろてを握りたりけり

 という狂歌ができるほど賑わいました。 

  与兵衛鮨があった場所(墨田区両国1-8)近くに、「与兵衛鮨発祥の地」と書かれた史跡説明板が、建てられています。それによると、「与兵衛鮨」は、昭和5年まで同じ場所で営業していたそうです。

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by wheatbaku | 2019-09-10 13:32 | 新江戸百景めぐり
両国橋(新江戸百景めぐり㉚)

両国橋(新江戸百景めぐり㉚) 

今日からは、両国橋周辺の新江戸百景をご案内します。

 最初は両国橋をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、64ページの第18景で紹介されています。

 両国橋には、JR総武線浅草橋駅からは7分、両国駅からは13分です。

 下写真は、浅草橋駅側から撮った現在の両国橋です。

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【両国橋架橋】

両国橋が架けられたのは明暦の大火がきっかけでした。

それまで、徳川幕府は、防備の面隅田川には、橋を架けない方針でしたので、江戸初期は、隅田川には千住大橋以外の橋はありませんでした。

 しかし、明暦3年(1657)明暦の大火の時に、被災者が隅田川東側に避難するすべがなく、被害を拡大させた反省から、両国橋が架けられました。

 両国橋の創架年は2説あり、万治2年(1659)と寛文元年(1661)の説がありますが、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋で、長さ96間(約200m)、幅4間(約8m)でした。

 江戸時代の両国橋が架けられていたのは、現在の両国橋より50メートルほど下流でした。

 橋の名称は当初「大橋」と名付けられていました。しかしながら隅田川の西側が武蔵国、東側が下総国であり、この2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると「両国橋」が正式名称となりました。

 なお、隅田川の東側が武蔵国になった時期については、まさに諸説があります。

【現在の両国橋】 

 両国橋は、江戸時代には、火事により燃え落ちたり、洪水により流されたり、古くなって破損したりして、何度も架け替えがされました。

 明治になってから、明治8年に最後の木でできた橋が架けられました。しかし、この木の橋は明治30年8月の花火大会の最中に、大勢の群集に押されたことにより欄干が崩落してしまい、死傷者が数十名にもおよぶという事故がおきたため、明治37年に、鉄橋に架け替えられました。

 そして、その橋が関東大震災後で被害を受けたため、昭和7年に新しく架けられたのが現在の橋です。

 両国橋は、平成20年、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定されました。(下写真は東側下流からとった両国橋全景です)

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浅草御門

浅草橋駅から両国橋に向かうには神田川を渡ります。その神田川にかかる橋が浅草橋です。

その浅草橋の北たもとに浅草見附跡と書かれた石碑がたっています。(下写真)

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見附というのは、城門のことです。

 江戸時代には、浅草橋の南側に浅草御門がありました。これが浅草見附とも呼ばれていました。

 浅草御門は、奥州街道の出入り口の関門として建てられました。浅草御門は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附の真北が浅草寺になります。

 門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。

 幕府が開かれた当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。

 現在は浅草御門の面影がまったくありませんが、橋の近くにある初音森神社の資料館に浅草御門の門柱の一部が展示されています。(下写真が初音森神社で、写真左手奥に資料館があります。)

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 江戸の三大大火の一つである明暦の大火の時には、この門が閉じられたため、ここで2万3千人もの人が死亡するという惨事が起きました。

 火事が小伝馬町牢屋敷に近づいた時に、石出帯刀が、小伝馬町牢屋敷の囚人を切放(きりはなし)をしましたが、そのことが、浅草橋門に正しく伝わらず、「囚人が牢屋敷から逃げ出した」と伝わりました。浅草門は、江戸市中から浅草方面に逃げる逃げ道でした。そのため、多くの市民が殺到していました。
 しかし、囚人が脱走したと勘違いした番人が警戒のため門を閉めたといわれています。そのため、浅草門内には大勢の人が集まり、身動きできない状態となりました。そこに火事が迫ってきました。

 逃げ場を失った人の中で、体力のあるものは、浅草門の石垣をよじ登り屋根を乗り越えて、そこから神田川に飛び込みました。彼らは頭や体を打ち、大けがをしたり死亡したりしました。後から飛び降りてくる人たちに圧殺されたりしました。そうしているうちに浅草門自体に火が移り、門が大音響とともに崩れおちました。これにより門内にいた人たちも燃やし尽くされてしまいました。ここでの死者は2万3千余りと「むさしあぶみ」は書いています。下写真が初音森神社の資料館に展示されている浅草御門の門柱です。なお、資料館は常時公開されていないようです。どうしても見たいという時には事前連絡されると良いと思います。

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柳橋 

 浅草橋の下流にある橋が柳橋です。(下写真)

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 柳橋は、神田川の最下流にある橋で隅田川との合流地点にあります。そうしたことから、当初は川口出口之橋といっていたようです。
 江戸時代初めには、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年に完成しました。

 当初は川口出口之橋と呼ばれていましたが、いつしか柳橋とよばれるようになりました。

柳橋という名前は、柳原の土手の先にあるので柳橋と呼ぶとか、橋のたもとに柳があったので柳橋の名がついた等の諸説があります。

現在の柳橋は、永代橋のデザインを採り入れて、昭和4年(1929年)に完成したものです。


 両国橋は、浮世絵にも数多く描かれています。

 その中から、歌川広重の描く名所江戸百景に描かれた両国橋を取り上げみます。

名所江戸百景の「両国橋大川ばた」

 下の絵は、名所江戸百景の「両国橋大川ばた」です。

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 この絵は、西詰から本所側を描いたものです。手前の川端にあるのは、両国広小路のよしず張りの茶店です。

 川面には、屋根船、猪牙(ちょき)船、帆船などが描かれていて隅田川が賑わっている様がうかがえます。

対岸には百本杭(隅田川の水の勢いを弱めるために打たれて多くの杭)も描かれています。

名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」

 下の絵は、名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」です。

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両国橋の東たもとには、垢離場(こりば)があり、大山参りの人々が、そこで、身を清めました。

この絵は、垢離場で水垢離を終えた大山講の講中が出発するところです。画面最下段には梵天(棒の先に幣束を何本もさしたもの)を先頭にした大山講の人々が描かれています。

この大山講の人たちが渡っているのが両国橋という説と船で渡っているという説があるそうです。

中ほど右の船上にも梵天が立てられ、先達を務める修験者が法螺貝を吹いています。
 左手に描かれているのが柳橋の料亭で、有名な「万八楼」だろうといわれています。

両国橋の東側に「石尊垢離場跡」(しゃくそんこりばあと)の説明板があり、次のようにわかりやすく書いてあります。

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「石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山の事です。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離をとり、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の東南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。」

【9月8日追記】

 葛飾北斎の富嶽三十六景の中に両国橋を描いたものがありますので、追記して紹介しておきます。それは「御厩川岸(おんやまがし)から両国橋夕陽見(りょうごくばしせいきようをみる)」です。(下の絵です)

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 御厩川岸は、隅田川の両国橋と吾妻橋の間、現在の厩橋が架かる付近で、江戸時代には、ここに渡し船があり、御厩の渡しといいました。

北斎は、夕暮れ時の渡し船を絵の近景に描き、中景に両国橋を描き、その先に小さな富士を描いています。
 夕暮れ時の富士は紺青に彩られています。

そして、この絵をよくみると船頭の頭を中心点として、両国橋と渡し船が点対称となっていることがわかります。

北斎の面目躍如といったところでしょうか。



赤印が両国橋です。
青印が浅草橋です。
緑印が柳橋です。
ピンク印が初音森神社です。





by wheatbaku | 2019-09-07 23:06 | 新江戸百景めぐり
志村一里塚(新江戸百景めぐり㉙)

志村一里塚(新江戸百景めぐり㉙)

今日は、板橋区にある志村一里塚を案内します。

志村一里塚は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)70ページに第24景として紹介されています。

 志村一里塚は、都営三田線志村坂上駅より徒歩1分です。出口を出ると目の前にあります。

志村一里塚は下写真でわかるように国道17号を挟んで東西に2基の塚が残っている全国的に見ても貴重な一里塚です。

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一里塚は、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(約4km)毎に築かせたものです。

一里塚の大きさは、五間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)とされました。
 一里塚には榎が植えられることが多いのですが、その由来について、徳川実紀に2つのエピソードが書かれています。
 一つは、2代将軍秀忠が大久保長安に「良い木」を植えよと命じた際に、大久保長安が「えのき」と聞き間違ったためとされています。
 もう一つのエピソードとして、徳川家康が、土井利勝に対して「余の木」を植えろと指示したのを土井利勝が「えのき」と聞き間違えたためだとも書いてあります。
(下写真は、志村一里塚の西側の一里塚です)

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志村一里塚は中山道の第3番目(つまり日本橋から3里)の一里塚として築かれたものです。 

中山道の日本橋から数えた一番目の一里塚は追分の一里塚です。現在の東大農学部正門前の本郷追分にありました。

現在は、その面影はまったくありませんが、老舗の酒屋「高崎屋」の壁際に文京区教育委員会の設置した説明板があります。(下写真)

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中山道の2番目の一里塚は、板橋の平尾にありました。

現在で言えば、JR埼京線板橋駅の近くになります。板橋駅の東口を出ると駅前に近藤勇のお墓があります。(下写真の左手が近藤勇の墓、右手が永倉新八の墓です)

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その前の道を北に向かい中山道と交差した場所辺りが平尾の一里塚です。現在は、まったく面影もありませんし。板橋区教育委員会の説明板もありません。下写真の濃茶色のビル辺りに平尾の一里塚があったようです。左手道路を進むと板橋駅の東口、中央の道路が旧中山道で、奥が板橋方面です。

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このように、一里塚がほとんど消滅しているのは、明治9年(1876)に「一里塚廃毀」の法令が出され、全国的に取り壊しが進んだためと思われます。

明治以降多くの一里塚が消滅するなか、現在、2基一対で残っている一里塚は、東京では、志村の一里塚と西ヶ原の一里塚だけですし、全国的にも大変少ないものだそうです。

ちなみに西ヶ原の一里塚は、北区西ヶ原(飛鳥山公園の南側)にある一里塚で、日光御成街道の一里塚です。下写真は本郷通りの中央にある一里塚です。この塚から道路を挟んだ東側にもう一つの塚が残されています。

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志村の一里塚は、現在国道17号の東西に、広い道路を挟んで残っているため、いずれかの一里塚が移設されたものだと勘違いする人が多いようです。

しかし、志村の一里塚は、当初から中山道とは少し離れた場所に設置されていたため、国道17号の拡幅工事によって移動したり、削ったりはされていないそうです。

赤印が志村一里塚(東側)です。
青印が志村一里塚(西側)です。






by wheatbaku | 2019-09-04 22:37 | 新江戸百景めぐり
  

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