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江戸検お題問題解説その2(新江戸百景めぐり番外②)

江戸検お題問題解説その2(新江戸百景めぐり番外②)

  今日は、江戸検のお題解説の2回目です。今日は、6問から10問まで解説します。

 この中では、6問が難しいと思いますので、丁寧に解説します。

それ以外の問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)をよく読んでいれば、正解は導き出せる問題です。

【6】江戸には高い建物がなかったこともあり、眺望に恵まれた山が行楽地となりました、では、『江戸名所図会』に(見落ろせぱ、三条九陌の万戸千門は、甍をつらねて所せく、海水は渺焉とひらけて、千里の風光を貯へ、もっとも美景の地なり〉と記されている山は、どれでしょう?

い)飛鳥山   ろ)愛宕山   

は)道灌山   に)待乳山

 この問題は、お題の問題の中では、難しいほうの問題だと思います。

そもそも、問題文の中の『江戸名所図会』に書かれている内容が、難しいと思う人が多いと思います。 

 この文章は、ちくま文庫「新訂江戸名所図会1」の「愛宕山権現社」の項(263ページ)に載っています。正解は ろ)愛宕山 です。

 しかし、『江戸名所図会』の該当部分を読んである人はほとんどいないと思います。そこで、お題テキストから正解がわかるかですが、お題テキストの愛宕山の中で、『江戸名所図会』を引用した説明はされていません。 

ですから、お題テキストから直接正解はわかりません。しかし、前述の『江戸名所図会』の文章と四つの選択肢について説明している以下のページの挿絵・写真とを比べると正解がわかります。

 い)飛鳥山―30ページ、52~53ページ 
 ろ)愛宕山―48ページ  は)道灌山―54ページ  
 に)待乳山―106ページ

 『江戸名所図会』の文章は、なかな読むのが難しいのですが、そののなかの①「甍をつらねて所せく」と②「海水は渺焉(びょうえん)とひらけて」に注目します。

 まず、①「甍をつらねて所せく」とは、多くの家並が建ち並んでいるということを意味しています。また②「海水は渺焉とひらけて」は海が見えるということだろうと推測できます。
 そこで、選択肢のなかから海が見えそうな山をさがします。すると飛鳥山や道灌山は内陸部だから無理、待乳山は隅田川が見えるが、隅田川は海ではないから、海が見える山となれば、ほぼ ろ)愛宕山だろうとなります。
 さらに、山頂から多くの家並が見える山を探すには、お題テキストの前述の四つの選択肢を説明しているページの挿絵や写真が参になります。
 い)飛鳥山について30ページの名所江戸百景「飛鳥山北の眺望」をみると人家は見えません。
 は)道灌山について54ページの江戸名所図会「道灌山聴虫」を見ると人家がありません。
 に)待乳山について106ページの「東都名所 真土山之図」を見ると人家はありますが、密集しているほどではありません。
 ろ)愛宕山について、48~49ページのベアトの写真を見ると、明らかに、人家が密集しているのがわかります。
 以上から、山頂から見下ろして山の麓に人家が建ち並んでいるのは ろ)愛宕山 しかありません。
 ですから、正解は ろ)愛宕山 で間違いないということになります。

 こうしたことから、この問題の正解は、お題テキストには直接書かれていませんが、お題テキストの挿絵と写真をよく見ていれば、正解を導きだすことができる問題です。難しい問題ですが、よく工夫した問題だと思います。

【7】次に示すのは、幕府の施設とその位置の組み合わせです。間違っているものはどれでしょう?

 い)金座一日本橋の北西    

ろ)小塚原刑場一千住宿の北  

は)猿江御材木蔵一深川の横十間川西岸

 に)鈴ヶ森刑場一品川宿の南

 これは、選択肢となっている四景について説明しているページを読んだうえで、巻頭部分にある地図を見てあれば解ける問題です。

 い)金座一日本橋の北西  
 説明は73ページ、地図は7ページに書いてあります。これには間違いありません。

 ろ)小塚原刑場一千住宿の北  
 説明は161ページ、地図は17ページに書いてあります。
 小塚原刑場は千住宿の北でなく南にありますので、これが間違っています。

 は)猿江御材木蔵一深川の横十間川西岸 
 説明は71ページ、地図は20ページに書いてあります。これには間違いありません。

 に)鈴ヶ森刑場一品川宿の南 
 説明は160ページ、地図は25ページに書いてあります。これには間違いありません。

 以上より、正解は ろ) となります。

 

【8】幕府が全国の募領から集めた米を管理・保管するために設けたのが、浅草御蔵です。では、浅草御蔵についての次の記述のうち、間違っているものはどれでしょう?

 い)隅田川の西岸にあった

 ろ)4本の船入堀が設けられた

 は)勘定奉行配下の蔵奉行が管轄した

 に)30万石以上の米を保管することができた         ’

浅草御蔵について説明したある69ページに、四つの選択肢の内容が書いてあります。 浅草御蔵の船入堀は、8本ありましたので、 3)が間違っていることなり、正解は ろ) です。

【9】千鳥ヶ淵が整備されたのには、江戸城の防御のためだけでなく、もうひとつ別の目的もありました。それは、次のうちどれでしょう?

  い)火災の延焼を防ぐため  
  ろ)食用の魚を養殖するため

  は)水害を防ぐため     
  に)生活用水を確保するため

 千鳥ヶ淵について説明したある42ページに、四つの選択肢の内容が書いてあります。それによれば、 に)生活用水を確保するため  が正解です。

10】下の絵は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武陽佃島」です。画面中央の島の右側が佃島の漁師町ですが、その左の木が茂っているところは、どこでしょう?

 い)石川島  ろ)永代島  は)越中島  に)月島

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問題となっている葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武陽佃島」は、お題テキスト47ページに載っていて、同じページに説明してある通りで、い)石川島が正解です。



by wheatbaku | 2019-10-31 13:58 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説-その1(新江戸百景めぐり番外編①)

江戸検お題問題解説-その1(新江戸百景めぐり-番外編①))

 昨日実施された江戸検を受検された皆さん、お疲れ様でした。

めでたく合格ラインを越えた人おめでとうございます。また、惜しくも合格ラインに達しなかった人、とりあえず一休みして英気を養ってから、来年も是非挑戦してください。

 さて、江戸検の今年のお題は『新江戸百景めぐり』で、このブログでも連載してきました。この今年のお題は、私自身関心が高いテーマでしたので、江戸検の問題を入手して、挑戦しながら内容を分析してみました。

 その結果、お題の問題20問のなかで、お題のテキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)から出題されている問題が19問ありました。

 従って、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)を読み込んでいた人は、お題に関係する問題は、比較的良い成績がとれただろうと思います。

 しかし、その一方で今年の問題は難しかったという声も届いています。

 そこで、数回に分けて、お題の問題がお題テキスト「新江戸百景めぐり」(小学館刊)のどこから出題されているか解説していきます。とりあえず、初回は、1問から5問まで解説します。

【l】右(このブログでは下)の絵は、歌川広重『名所江戸百景』の1枚です。画面奥に描かれている池は上野不忍池ですが、手前に描かれた鳥居ほどこの鳥居でしょう?

    い)神田明神   ろ)根津権現 
    は)不忍池弁天堂 に)湯島天神

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 この問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下はお題テキストと略します)の110ページに、そのまま載っていますので、正解は に)です。

 湯島天神に上がる坂には男坂と女坂がありますが、上画像の右隅の坂が男坂で、絵の正面に描かれているのは女坂です。なお、上画像は国立国会図書館のHPから転載させていただきました。


 今回は、絵に関する問題が多いのではないかと8月に開講した「合格虎の巻講座」の受講者の皆さんにお話ししておきましたが、案の定、絵に関する問題が4問出題されていますが、この問題もその一つです。
 

【2】次にあげるのは、大名庭園の名残をとどめる庭園と、
そこにある施
設の組み合わせです。間違っているものは
どれでしょう?

   い)旧芝離宮恩賜庭園一玉藻池  
   ろ)小石川後楽園一九八屋

   は)肥後細川庭園一松聾閣  
   に)六義園一出汐の湊

 いきなり、答えるのは難しい問題だと思いますが、4つの選択肢は、次の通り、全てお題テキストに載っています。

 い)旧芝離宮恩賜庭園一玉藻池 
   玉藻池は、お題テキスト83ページに載っているごと
  く新宿御苑内にある池です。これが間違いです。
   なお、芝離宮恩賜庭園については82ページで説明さ
  れていて、大山・大島、石柱が取り上げられています。

 ろ)小石川後楽園一九八屋  
   お題テキストの85ページに載っています。

 は)肥後細川庭園一松聾閣  
   お題テキストの87ページに載っています。  

 に)六義園一出汐の湊    
   お題テキストの86ページに載っています。

今回の問題は、この第2問と同様に、お題テキストの4ヶ所から選択肢を作成するという形式の出題が多いように思います。この形式の問題は、1ヶ所だけでなく4ヶ所までよく読んでいないと正解がわからないということになります。そのため、幅広い知識が求められることになります。

【3】梅と萩の名所として知られる「向島百花園」は、文化
  元年(1804)に開園した花園がもとになっています。
  では、ここを「百花園」と名付けたのは、誰でしょう?

   い)画家の酒井抱一   は)俳人の宝井其角 

ろ)骨董商の佐原鞠鳩  に)文人の大田南畝

この問題は、お題テキストの126ページの本文に、そのまま載っています。正解は い)です。お題テキストをしっかり読んでいる人にはすぐにわかった問題だったと思います。

なお、選択肢の は)俳人の宝井其角は、元禄時代に活躍した人ですので、まず選択肢から外れることになります。ろ)骨董商の佐原鞠鳩は、「向島百花園」を作った人、に)文人の大田南畝は、「花屋敷」の扁額を書いています。
 下写真は向島百花園の入り口です。

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【4】現在多くの参拝者でにぎわう寺社のなかには、江戸時
  代の建物が残っているところも少なくありません。では
  次のうち、最も古い建物はどれでしょう?

    い)赤坂氷川神社の社殿  ろ)王子稲荷の拝殿

    は)泉岳寺の山門     に)根津権現の楼門

 4つの選択肢の建立時期は全て、お題テキストに明確に載っていますので、選択肢の順に書いていきます。

い)赤坂氷川神社の社殿 
     享保15年(1730) 
     お題テキスト134ページに載っています。

  ろ)王子稲荷の拝殿   
     文政5年(1822)  
     お題テキスト149ページに載っています。

  は)泉岳寺の山門    
     天保3年(1832)  
     お題テキスト153ページに載っています。    

  に)根津権現の楼門   
     宝永3年(1706)  
     お題テキスト112ページに載っています。

 建立年をみていただいてわかるように、最も古い建物は に) ということになります。

 この問題も第2問と同様に、4ヶ所を理解していないと解けない問題ということになります。

【5】下の絵は、歌川広重『東都坂尽』のうちの1枚です。
  富士見の名所として知られ、坂の上の茶屋が人気だった
  この坂は、どこでしょう?

  い)神楽坂      ろ)九段坂  
   は)日暮里富士見坂  に)目黒行人坂

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(上画像は国立国会図書館のHPからの転載です。)

 お題テキスト51ページに載っている絵がそのまま出題されています。正解は に)です。
 お題テキストをよく読んで、この絵にも注目した人にとっては簡単な問題だったと思います。      
 
 




by wheatbaku | 2019-10-28 18:46 | 新江戸百景めぐり
神田明神(新江戸百景めぐり㊽)

神田明神(新江戸百景めぐり㊽)

 いよいよ明日が江戸検本番となりました。

 江戸検を受検される皆さん、全力で頑張ってください。そして、ぜひ合格を勝ち取ってください。

 先日、受検される皆さんの合格を祈念して、神田明神に合格祈願に行ってきました。

 神田明神は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の114ページの第59景で紹介されていますので、今日は、江戸検を受検される皆さんの合格を願うつもりで神田明神のご案内をします。

 この記事を読まれた方にも、神田明神の御加護が必ずあると思いますので、その御加護を信じて是非頑張ってください。下写真は、本郷通りに面している鳥居です。

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神田明神か神田神社か

神田明神の正式な名称は神田神社です。しかし、神田明神と呼ぶ人が多いと思います。数年前に、神田明神の神官に「神田明神を案内する際に、神田神社が正式名称なので、神田神社とお呼びしたほうがよいでしょうか」と尋ねたことがあります。その時の回答は「神田明神でも結構です」ということでしたので、それ以降は、私は「神田明神」と呼んでいます。

神田明神の歴史

神田明神は、社伝によると、天平2年(730)に創建されたとされています。

天平2年というのは、奈良の大仏を造った聖武天皇の時代ですから大変歴史の古い神社でもうまもなく創建1300年になるということになります。ちなみに大仏完成が天平勝宝4年(752)ですので、奈良の大仏より古いということになります。

当初は大手町にある平将門の首を埋めたとされる将門塚近くに創建されました。

その後、近くに埋葬された平将門の天罰を恐れ、将門の霊を鎮めるために鎌倉時代後期に、時宗真教上人により平将門を一緒にお祀りするようになりました。

江戸時代になると、2代将軍秀忠の時代の元和2年(1616)に、鬼門を守護するために現在地に鎮座し、江戸の総鎮守として、江戸っ子から崇拝されました。

明治に入って、正式な社名が神田明神から神田神社に改称されました。


現在の祭神

現在、お祀りしている神様は、三体あります。

まず、 一之宮は、大己貴命(おおなむちのみこと)別名は大国主命(おおくにぬしのみこと)と言いますが、 だいこく様のことです。天平2年(730)の創建当時からお祀りされています。
  次いで、二之宮は 少彦名命(すくなひこなのみこと)です。少彦名命は、えびす様とも呼ばれている商売繁昌の神様です。この神様は、明治7年に新たにお祀りされた神様です。
 そして最後に三之宮として平将門が平将門命(たいらのまさかどのみこと)として祀られています。神田明神では「まさかど様」と呼んでいます。

平将門は、もともとは、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)に祀られて、その後江戸時代を通じて祀られていましたが、明治になって、明治天皇が行幸する際に、本殿から摂社に移されました。

そして昭和59年に改めて、本殿のご祭神となったものです。

随神門

現在の随神門は、昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立されました。

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外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」の彫刻がされています。そして、二層目には「繋馬」の彫刻が飾られていますが、この繋馬は平将門の家紋に由来しています。下写真

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社殿

随神門を入ると正面に見えるのが社殿です。

江戸時代末期の天明2年(1782)に造られた社殿は、関東大震災で焼失してしまいました。

今の社殿は昭和9年に竣工したもので、設計は伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一が担当し、国の重要文化財に登録されています。

木造のように見えますが、鉄骨鉄筋コンクリート造りです。そのため、昭和20年の東京大空襲の際にも焼失を免れました。

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だいこく様

随神門を入った左手に「だいこく様」の像があります。これは一之宮の大己貴命(おおなむちのみこと)が大国(大黒)様と呼ばれていることにちなみお祀りされています。この「だいこく様」は、昭和51年に完成しました。高さ約6.6メートル、重さ約30トンあり、石造りとしては日本一の大国(大黒)像です。

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えびす様

 平成30年12月に開館した神田明神文化交流館(通称 EDOCCO)の南側に「えびす様」がお祀りされています。下写真

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二之宮として祀られている少彦名命(すくなひこなのみこと)は 恵比寿様とも呼ばれます。

そうしたことから「えびす様」が祀られています。この像は、平成17年に作られたものです。

少彦名命(すくなひこなのみこと)は、神話では、木の実を舟にして海の彼方から来た小さな神様と伝えられています。そのため、この像は、いろんな海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡る『えびす様』としてつくられています。
 東京芸術大学の宮田亮平学長によって作成されたものです。

普通の恵比寿様は、烏帽子をかぶり、釣り竿、そして立派な鯛を小脇に抱えているお姿です。

しかし、宮田学長は、そのイメージとは違っている神田明神以外どこにも無いえびす様をつくろうと考え、さらに心が安らぐえびす様をつくりたいと考えて、この像を作ったそうです。下写真は拡大です。

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銭形平次の碑

神田明神の拝殿の東側に銭形平次の碑があります。下写真

大川橋蔵が演じた銭形平次は、テレビで、昭和41年から昭和59年まで18年間も放映されました。

 原作は、野村湖堂の「銭形平次捕り物控」で昭和6年から昭和32年にかけて書かれたものです。

原作では銭形平次は明神下に住んでいたという設定になっていますので、神田明神に、銭形平次の碑が作られました。

平次の碑は寛永通宝を模した台座の上に設置されています。隣には、八五郎(通称:ガラッ八)の碑も設置されています。

昭和45年に建てられたもので、発起人には、大川橋蔵や長谷川一夫などが名をつらねています。

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国学発祥の碑

銭形平次の碑の隣には、国学発祥の碑があります。下写真

京都伏見神社の神官である荷田春満が、江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社の宮司であった芝崎家の邸内でした。有名な賀茂真淵もここに学んだそうです。

こうしたことから、神田神社が江戸における国学の発祥の地とされています。

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摂社・末社と力石

神田明神には、数多くの摂社・末社があります。摂社・末社は社殿の西側から北側にかけて鎮座しています。

 その中で、最も有名な摂社が、江戸神社です。(下写真)

 江戸神社は、大宝2年(702)に現在の皇居内に創建された江戸最古の地主神とされています。


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江戸神社のほかに、大伝馬町八雲神社、小舟町八雲神社などの摂社・末社があります。

江戸神社と大伝馬町八雲神社の間にあるのが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)でも取り上げられている力石です。下写真の左側です。奥は小舟町八雲神社です。この力石は直径80cm・短径67cm で、文政5(1822)に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたもので、文化財に指定されています。

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神田祭

神田明神のお祭りは、神田祭とよばれ、東京を代表するお祭りです。

江戸時代には、江戸城内に山車を乗り入れられることができたため、山王まつりとともに天下祭りと呼ばれていました。

江戸時代は、9月15日に行われていましたが、現在は、神田祭は、5月中旬に行われています。

下写真は今年の神田祭の宮入の様子です。まさに同朋町の神輿が随神門を潜ろうとしているところです。

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男坂と女坂

神田明神は、 台地の先端にあるため、神田明神の東側は急に下がっています。

そのため、東側から、神田明神に通じる道は、多くの石段を登ることになります。その坂は、男坂と女坂があります。

男坂は、明神下から直接境内に通じる坂です。下写真

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女坂は、男坂より南側にあります。女坂は境内とは直接つながっていなくて、境内より少し南の道路に通じている坂です。下写真

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通常ですと、女坂の方が勾配がゆるやかですが、神田明神の場合には、女坂のほうが急坂となっています。上の男坂と女坂は共に最上部から撮ったものですが、写真を見ていただくだけでも女坂が急坂であることがわかると思います。

赤印が神田明神の社殿です。

青印が随神門です。

緑印が「だいこく様」です。

オレンジ印が「えびす様」です。

ピンク印が江戸神社です。

紫印が男坂です。

黒印が女坂です。







by wheatbaku | 2019-10-26 12:57 | 新江戸百景めぐり
湯島聖堂(新江戸百景めぐり㊼)

湯島聖堂(新江戸百景めぐり㊼)

江戸検まで、あと3日となりました。

受検される方は、最後の追い込みに頑張っていることだと思います。

残り期間、全力で頑張って、合格を勝ち取ってください。

さて、今日の新江戸百景めぐりは湯島聖堂をご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、76ページの第31景で紹介されています。

下写真は江戸時代から残る入徳門です。

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湯島聖堂の歴史

湯島聖堂は、徳川家康のブレーンであった林羅山が、江戸時代初期の寛永9年(1632)に、上野の自分の屋敷内に孔子廟を建設したのが始まりです。

そして、5代将軍綱吉が、元禄3年(1690)に、孔子廟を湯島に移し、湯島聖堂ができました。将軍綱吉は、犬公方として有名ですが、実は、大変な学問好きな将軍で自ら学ぶだけでなく、家臣にも講義するほどの打ち込みようでした。そこで、儒学を盛りたてるために、湯島聖堂を建てたそうです。
 しかし、13年後の元禄16年(1703)には、大火のため、主要な建物が全焼し、翌年の宝永元年(1704)大成殿などを再建復旧しました。このとき復旧した入徳門は、現在も残っています。

そして、100年程時代がさがった寛政9年(1797) に昌平坂学問所(または昌平黌とも言います)が設置され、幕府直轄の学校となりました。

「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前からとったもので、昌平坂という地名は現在も聖堂の東側の坂に残っています。下写真が昌平坂です。

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明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府が所管するようになります。

当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存続していましたが、明治4年(1871)に廃止されて文部省が置かれることとなりました。

そして明治5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置されました。両校はそれぞれのちに、明治19年(1886)、23年(1890)】高等師範学校に昇格したのち、東京師範学校は現在の筑波大学、そして、東京女子師範学校はお茶の水女子大学へと発展しました。

さらに、ここには、わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれました。また、わが国初の図書館である「書籍館」が置かれました。まさにわが国の文教政策の源流としての重要な役割を果たしてきました。

湯島聖堂は、江戸時代に何回もの(元禄12年、安永元年、天明6年)大火に見舞われた後、関東大震災により入徳門と水屋を残し、すべて焼失してしましいました。
 現在の多くの建物は、昭和10年に再建されたものです。

聖堂の敷地は約4300坪あり、いろいろな建物が並んでいます。

湯島聖堂の回り方は秋葉原から向い仰高門から入る方法、お茶の水から向い杏壇門から入る方法とあります。今日は、仰高門から順にご案内します。

仰高門

秋葉原駅から向かって最初にある門が、「仰高門」です。この門は、聖堂の第1の門で、昭和10年(1935)に再建されたものです。

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仰高門の仰高という言葉は、論語の中に出てくる言葉です。

孔子がどんな人物か訪ねられた弟子の顔回が「先生は仰げば仰ぐほど高さをますすばらしい人です」と答えたことに由来するそうです。

現在の額の字は、徳川圀順(くにつぐ)氏によるものです徳川圀順氏は水戸徳川家第13代当主で貴族院議長、日本赤十字社社長を務めました。

楷の樹

仰高門を入ると正面に「楷の樹(かいのき)」があります。漢字の書体で、楷書という書き方がありますが、その語源となった木です。

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漢字は楷書、行書、草書という順で字がくずされていき、楷書が一番整然としています。楷の木は、枝が整然としているので、楷書の語源になったと言われています。

それだけでなく、中国では、楷と孔子は切り離すことができないものとなっている木です。それは、楷は、中国山東省の曲阜の孔子の墓所に植えられているからです。最初に孔子の弟子の子貢が植えたと伝えられている木で現代まで植えつがれているそうです。

楷の木は、中国では殆ど全土に生育しています。しかし、日本に到来したのは大正4年です。曲阜から種子を持ち帰り、苗に育成し、儒学に関係深い所に植えました。現在、日本では非常に少ない木として珍重されています。

孔子銅像 
楷の木の右手に非常に大きな孔子の像があります。

この孔子像は、昭和50年に台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。

高さは4.57メートルあります。重さは1.5トンあるそうです。

孔子の銅像では世界最大のものだそうです。

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入徳門(にゅうとくもん)
 入徳門は、将軍綱吉の晩年になる宝永元年(1704)に建築され、その後の大火や関東大震災も免れた聖堂内で数少ない木造建築物です。もう建築以来300年を超えています。  

入徳とは、「大学」という本にある「大学は孔氏の遺書にして、初学(しょがく)の徳に入(い)る の門なり」によるそうです。
  「入徳門」の額は、門を建設した当時に能書で有名であった寺明院基輔の書いたものです。

下写真は、入徳門から見た杏壇門、さらにその奥に大成殿が見えています。つまり、入徳門、杏壇門、大成殿は一直線上にあります。

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杏壇門 

入徳門の正面にある門は杏壇門といいます。
 中国山東省の曲阜で孔子が教えていた講堂跡に建てられた門の名前が杏壇門です。

講堂跡の周囲に杏を植えられていたので、杏壇門と名づけられたようです。杏壇の杏はあんずのことで、湯島聖堂もそれにちなんでいるそうです。
 鉄筋コンクリート造りで、昭和10年に再建されたものです。額の字は徳川宗家第16代の徳川家達公の書いたものです。

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大成殿

大成殿は、孔子が祀られているところです。孔子を祀った建物は、上野にある頃は先聖殿と呼ばれました。先聖とは孔子のことを言います。その後、湯島に遷った時に、大成殿に変更されました。

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大成という言葉は「孟子」という本の中から取られた言葉です。「孟子」という本の中に、「孔子をこれ集大成という」という文章があり、それから大成という言葉がとられています。  

なお、「集大成」という言葉があります。この言葉は多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることを指し、何々を集大成するという風に使われますが、もとは孔子のことをいったようです。

湯島聖堂の大成殿の額は、元々の額は将軍綱吉が書いていたそうです。現在の額は、昭和の時代に海軍軍令部総長を務めた伏見宮博恭(ひろやす)王の書いたものです。

大成殿は、土曜日曜祝日のみ公開されます。

赤印が湯島聖堂大成殿です。
青印が仰高門です。
緑印が入徳門です。





by wheatbaku | 2019-10-25 15:41 | 新江戸百景めぐり
薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

今日の新江戸百景めぐりは、「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑のある薩摩藩蔵屋敷跡をご案内します。

「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では158ページの第94景で紹介されています。「西郷南洲・勝海舟会見之地」というのは、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟が会見した場所のことです。下写真は「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑です。

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 「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は、JR田町駅から徒歩3分の場所に、三菱自動車工業の本社が入居していた第一田町ビルの敷地内に立てられていました。

建てられていましたと過去形で書くのは、実は、私が訪ねた令和元年10月7日現在では、「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は撤去されていて、下の写真が掲示されているだけでした。上記の写真は以前撮影したものです。

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第一田町ビルがある場所は再開発されるため、解体作業が始まっていました。下写真のように仮囲いに掲示されているだけですので、この状態もすぐに変わるのでは思います。 

 再開発後、どうなるのか、第一田町ビルに問い合わせましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。
令和元年10月25日追記
 第一田町ビルを所有している三菱重工㈱に、再開発完了後は石碑が戻るかどうか問い合わせていましたが、「建替え後(2026年春予定)、石碑は所定の位置に戻す予定ですが、正確な位置は未定です。その間、現状どおり写真を掲示しております。」という回答をいただきました。

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さて、新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛薩は、摩藩蔵屋敷で会見し江戸無血開城を取り決めました。

薩摩藩蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜でした。当時、薩摩藩の国元より船で送られてくる米などが陸揚げされ蔵屋敷に保管されていました。

 3月14日の西郷・勝の会見が行われたのは薩摩藩蔵屋敷だと書きましたが、西郷・勝の会見場所については、田町の蔵屋敷(田町藩邸)のほか、高輪藩邸、愛宕山、田町の橋本屋など諸説があるようです。

 田中惣五郎氏は、人物叢書「西郷隆盛」の中で、「田町藩邸」としています。また、勝部真長氏は、「勝海舟」の中で、「田丁(たまち)の蔵屋敷」としています。海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」の中で、「芝田町の薩摩屋敷」としています。このように、田町の蔵屋敷とする人が多いようです。

 しかし、犬飼隆明氏は、岩波新書「西郷隆盛」の中で、「田町の橋本屋というしもた屋」としています。また、吉村昭氏は、「彰義隊の」の中で、3月13日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、その後、愛宕山に一緒に登ったとしています。

 このように、西郷隆盛と勝海舟の会見場所には諸説ありますが、石碑のあった薩摩藩蔵屋敷跡が、最も馴染みがあります。

 薩摩藩は、77万石の大藩ですので、江戸に、いくつもの屋敷がありました。幕末には、薩摩藩邸は最低6か所あったと言われています。

 三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷 そして現在は八芳園になっている白金の屋敷、以上6か所です。

 その中で、上屋敷と蔵屋敷はお互いすぐそばにありました。

 三田では、NECの本社が一際目立ちますが、NECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。下写真は東側から撮ったNEC本社です。

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 多くの案内書では、下写真の石碑がよく紹介されます。この石碑は、NEC本社の北側の植え込みに設置されています。

そのため、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちです。しかし、NEC本社は、正しくは、北側が薩摩藩上屋敷跡で、南側が因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。

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 NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれとなっていて、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行と「ホテル ザ セレスティン東京芝」のある部分です。

 三井住友信託銀行と「ホテルザ セレスティン東京芝」の間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた説明板があります。下写真の中央が説明板で、左手の建物が「ホテル ザ セレスティン東京芝」です。

 

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 三田にあった上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。

 ここが薩摩藩の江戸での中心になりました。

 幕末には、島津斉彬が住んでいました。また、天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に、三田の上屋敷に入りました。

 しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に、安政の大地震が起きて、上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。

 篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。

下写真が「芝さつまの道」に掲示されていた薩摩藩邸の見取り図です。掲示されている写真は縦長ですが、南北を揃えるため横長にしました。上が北になります。

 赤い印がある地点が「芝さつまの道」です。この藩邸見取り図を見るとNEC本社のある場所が、薩摩藩邸の南端であることがよくわかります。

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この屋敷が慶応3年12月25日に、旧幕府側の庄内藩等の軍勢により焼き討ちされた事件が、薩摩藩邸焼討事件です。

 西郷隆盛から江戸を攪乱するようにと命じられた益満久之助らが、多くの浪人たちを集め、強盗などを働かせ江戸の治安を混乱させたことに怒った幕府は、慶応3年12月25日、庄内藩と上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩の約千人の軍勢が薩摩藩邸を包囲したうえ焼討ちしました。

 これにより、薩摩藩上屋敷は全焼し、薩摩藩邸の周囲も焼失しました。

 こうした事情により、西郷隆盛と勝海舟が会見しようとした慶応4年3月には、薩摩藩上屋敷がなかったため、焼け残っていた蔵屋敷で会見したと思われます。

赤印が「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑があった場所です。 

青印がNEC本社北側にある「薩摩屋敷跡」の石碑です。

緑印が「芝さつまの道」の説明板がある場所です





by wheatbaku | 2019-10-24 19:22 | 新江戸百景めぐり
元和キリシタン遺跡(新江戸百景めぐり㊺)

元和キリシタン遺跡(新江戸百景めぐり㊺)

新江戸百景めぐり、今日は、元和キリシタン遺跡をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では159ページの第95景で紹介されています。元和キリシタン遺跡は、JR田町駅から徒歩7分の第一京浜沿いにある住友不動産三田ツインビル西館の裏側(西側)にあります。

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浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。

 下写真は田町駅側から見た札の辻の交差点とその南側方向を撮った写真です。下写真の中央の高いビルが住友不動産三田ツインビル西館です。その西側に元和キリシタン遺跡はあります。

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元和キリシタン遺跡は、元和9年(1623)12月4日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、原主水をはじめとする50人が処刑された場所です。

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最初に一般信徒たちが殺害され、次いで2人の神父と原主水が炎の中で神に命を捧げたといいます。

原主水は家康の小姓でしたが、駿府城を追放され、江戸市中に潜伏していたところを捕えられました。

同じ年の12月24日には、殉教者の妻と子どもたちの24人が、同じように市中を引き回しされた上、ほぼ同じ場所で処刑されました。

その後も、札の辻近くで、キリシタンの処刑が行われています。

札の辻は東海道から江戸への正面入り口で、高札場であったため、多くの人が江戸に入るために通過しました。小高い丘となっていたこの地で処刑されたのは、見せしめのためでした。

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智福寺

元和キリシタン遺跡のある場所は、処刑場だったことから長いこと空地となっていました。そこに、浄土宗の智福寺が建てられました。

智福寺は、寛永2年(1625)、桜田元町に光誉一空(こうよいっくう)上人によって開かれた浄土宗のお寺です。その後、芝の田町に移転しましたが、智福寺がいつ頃移転したのかは、はっきりしていないようです。

ここに移転したのは処刑された人々の慰霊のためだったようです。

その智福寺は、明治になってから、明治44年に崖崩れにあい、さらに大正14年にも崖崩れで本堂・庫裡が倒壊、墓地も埋没するという被害にあっています。

そして、昭和20年5月の空襲でも、建物が全焼してしまいました。

こうした災害が多かったため、田町からお寺を移すことになり、昭和41年、練馬区上石神井に移転しました。智福寺はまだ訪問していないので、写真はありません。

カトリック高輪教会

智福寺が上石神井移転する前の昭和31年に、智福寺境内に、「江戸の殉教者顕彰碑」がカトリック信徒によって建てられました。

その石碑は、智福寺移転の際に、聖マリア学園に移され、その後カトリック高輪教会に移され、現在もカトリック高輪教会にあります。下写真がカトリック高輪教会です。

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高輪教会はJR品川駅から真西にむかって坂を上っていくと南側に高輪教会があり、道路からも「江戸の殉教者顕彰碑」を見ることができます。

下写真の左が顕彰碑です。右側の白いものが「江戸の大殉教」と題された説明板です。

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済海寺

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には、済海寺についても書いてありますので、済海寺もご案内します。

元和キリシタン遺跡の隣にあると『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には書いてありますが、これは不正確です。地図の上では隣かもしれませんが、斉海寺と元和キリシタン遺跡の間には、高い崖があり、以前は、ぐる~っと回らないといけませんでした。しかし、現在はエレベーター塔が建てられていて、エレベーターを利用して移動することができます。

下写真がエレベーター塔です。

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 済海寺は、浄土宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。

元和7年(1621)に越後長岡藩初代藩主牧野忠成と念無聖上人によって創建されました。
 そのため、江戸時代は越後長岡藩牧野家の菩提寺でした。
 しかし、昭和57年、長岡の悠久山蒼柴(あおし)神社への改葬が行われ、現在は、合祀墓が残るだけとなっています。
 また、伊予松山藩松平家の江戸での菩提寺であり、松平家から1500坪の土地の寄進を受けたこともあったようです。
 伊予松山藩松平家は久松松平家ともいい、家康の生母於大の方の再嫁先で、譜代の名門です。明治以降は、久松家と名前を変えています。

下写真が山門前から写した済海寺です。

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済海寺は、安政6年(1859)にフランス公使館となり、明治7年まで続きました。 
 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。下写真が港区教育委員会設置の説明板です。

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札の辻

 元和キリシタン遺跡の前にある札の辻についてもご案内しておきます。

 札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。

 「札の辻」という地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。

 埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。

 また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。

 その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて六大高札場と呼ばれていました。

 六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。

 元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。

 そして、高札場は、後に 天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されたと港区教育委員会の説明板には書かれています。

(下写真が港区教育委員会の説明板です)

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 なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設と書いてあります。どちらが正しいのかは確認できていません。

 高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は、「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。


赤印が元和キリシタン遺跡です。
青印が札の辻です。緑印が済海寺です。 





by wheatbaku | 2019-10-22 15:08 | 新江戸百景めぐり
戸山公園(新江戸百景めぐり⑦)付記-穴八幡宮と高田馬場

戸山公園(新江戸百景めぐり⑦)付記-穴八幡宮と高田馬場

 昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で早稲田周辺を散歩してきました。

 高田馬場駅に集合したあと、早稲田に向かい、次のようなコースを散歩してきました。

リカーショップ小倉屋 ⇒ 夏目漱石誕生の地 ⇒穴八幡宮 ⇒ 高田馬場跡 ⇒ 水稲荷神社 ⇒ 早稲田大学構内各所 (演劇博物館 ⇒ 大隈庭園 ⇒ 大隈講堂 ⇒早稲田歴史館 ⇒ 大隈重信銅像 ⇒  早稲田駅  
 本来は、先週土曜日に開催予定でしたが、台風19号襲来のため順延して昨日開催にしました。

週半ばの天気予報では雨模様でしたが、スタート時には、朝のうちに降っていた雨もあがり、雨に降られずに散歩できました。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

昨日案内した史跡のなかで、穴八幡宮が、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の90ページの第41景戸山公園の中に紹介されていますので、今日は、穴八幡宮についてご案内します。下写真は穴八幡宮の社殿です。

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〈穴八幡宮の由緒〉    

穴八幡宮は、神社の由緒書によれば、平安時代に、八幡太郎義家が奥州の乱を治め凱旋の途中に創建したと言われています。

 しかし、新宿区文化財ガイドによれば、「寛永13年(1636)に松平左衛門尉直次という武士が、射術の練習をするため、ここに的山を築き、弓矢の守護である八幡神の小祠を営んだのにはじまる。」と書かれていて、実際は江戸時代の初めに創建されたものと思われます。

 江戸時代の名所ガイドブック「江戸名所図会」にも松平直次が的山を築き、八幡宮を勧請したと書かれています。

 当時は高田八幡宮と呼ばれていましたが、寛永18年(1641)、宮守の庵を建てるため南側の崖を整地していると、ほら穴が見つかり、そこから金銅の阿弥陀如来像が発見され、それ以降、穴八幡宮と呼ばれるようになりました。

 

〈高田馬場の流鏑馬(新宿区指定無形民俗文化財)〉 

 鳥居の脇に、流鏑馬の銅像(下写真)があります。(下写真)

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穴八幡宮の流鏑馬は、享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世継の家重の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ流鏑馬を奉納したのが最初です。

その後、将軍家の厄除けや若君誕生の祝に高田馬場で流鏑馬が奉納されました。特に元文3年の家治誕生の時のものは、その様子が極彩色の二巻の絵巻物に描かれたものが、穴八幡神社に伝えられているそうです。

 明治維新以降中断し、昭和9年(1934)に皇太子(現上皇)誕生祝のため再興され、数回行われたが、戦争のため中断されました。

昭和39年(1964)流鏑馬の古式を保存するため、現在の水稲荷神社境内で復活し、昭和54年(1979)からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年体育の日に高田馬場流鏑馬保存会により開催されています。

体育の日は、ちょうど今週の月曜日でしたが、台風19号が襲来した直後であったため、中止になったそうです。下写真は、鳥居の前で流鏑馬の説明を聞く参加者の皆さんです。

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〈出現殿〉

「穴八幡宮」の由来となったほら穴がある場所は、江戸名所図会の挿絵にも出現地と書かれています。

 現在は、そこに御社殿が造られていて、出現殿と呼ばれています。

内部は一般公開されていません。下写真は、出現殿の前で説明を聞く参加者の皆さんです。

このほら穴は、江戸城に続いており、万一の時には、この穴を通って城外へ脱出するためのものだとのいい伝えが残っているそうです。

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〈光松〉

髄神門の東側に、江戸時代、東都十八松のひとつに数えられる松があり、それに八幡大菩薩の使いという山鳩がとまり、夜になると松が青白く光るようになったとの伝説があります。

下写真の参加者の皆さんが見上げている中央の松が「光松」です。

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〈布袋像水鉢〉 

穴八幡宮には新宿区指定文化財となっている「布袋像の水鉢」があり、そのレプリカが手水舎の脇にあります。

 「布袋像の水鉢」は、昔、江戸城吹上の御庭にあったもので、慶安2年社殿竣工の際に徳川家光により奉納されたと言われています。現在、本物の布袋像水鉢がどこにあるか穴八幡宮に質問しましたら、出現殿の中に安置されているとのことでした。下写真は、布袋水鉢を見る参加者の皆さんです。

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〈一陽来復(いちようらいふく)御守〉

穴八幡宮では、毎年冬至から節分までの間、期間限定で頒布される「一陽来復御守」が有名です。

一陽来復とは易経での冬至を表す言葉です。

財運・金運アップ、商売繁盛の御利益があるとして、大変人気があります。

右写真の一陽来復御守は800円で、他に一陽来復懐中御守という身につけるものもあり、300円です。

一陽来復御守は、白い紙を丸めたような円筒系の立体的な構造で、中にお祓いを受けた金柑と銀杏が1個ずつ包まれているそうです。金柑の「金」と銀杏の「銀」で「金銀融通」の御利益があるとされています。

この一陽来復御守が頒布されるのは、冬至から節分までの期間です。

頒布初日の冬至の日は、朝5時から夜9時まで授与されますが、早朝から大行列となり、授与されるのに長時間並ばなくてはなりません。下写真が以前授与いただいた一陽来復のお守りです。その時の様子は下記ブログに書いています。
 穴八幡「一陽来復御守」

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〈社殿〉

穴八幡の御社殿は昭和20年の空襲で全て焼失してしまいました。現在の社殿は、昭和36年(1961)、御鎮座900年事業として再建され、平成元年に着工し、平成3年に完成したもの、慶安・元禄の設計絵図に基づいて建築されたものです。非常に見事な社殿です。下写真は、穴八幡宮に御参拝に向かう参加者の皆さんです。

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高田馬場

穴八幡宮と縁の深い高田馬場もご案内しておきます。

高田馬場は、穴八幡宮の北200メートルほどの西早稲田の交差点の西北部に東西に細長い形でありました。

現在、西早稲田の交差点角に八幡鮨と書かれたビルがあります。(下写真)そのビルの壁面に、新宿区教育委員会の説明板が設置されています。

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高田馬場は、高田馬場の地名発祥の地で、江戸時代に馬術や弓の練習場としての馬場がありました。

馬場の場所は、江戸時代初期に徳川家康の側室で将松平忠輝の母である高田殿と呼ばれた茶阿局がこの辺りの風景をこよなく愛し、遊覧の地とした(もしくは庭園としたとも)関係から高田と呼ぶようになったといいます。

下写真は、八幡鮨のビルの壁面に設置された新宿区教育委員会の説明板を見る参加者の皆さんです。

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高田馬場は、寛永13年(1636)に幕府持弓頭の松平直次が、この地に的場を築いたのにはじまるといいます。

享保13年(1728)には、8代将軍徳川吉宗の世嗣家重の病気平癒を祈って高田馬場で流鏑馬を開催し、穴八幡に奉納したことから、以後、将軍家若君誕生の折などには流鏑馬が奉納されるようになりました。

享保年間(17161753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされていて、現在も茶屋町通りの名前が残っています。下写真が茶町通りです。

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下の浮世絵は、歌川広重の名所江戸百景「高田の馬場」(国立国会図書館のHPから転載させてもらいました)です。

手前の大きな木は松のようですし、奥にも松が描かれています。手前の円形は革張りの的、馬を走らせている武士も描かれています。

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〈高田馬場の決闘〉

高田馬場といえば、高田馬場の決闘が有名です。

茶屋町通りに面したところで、堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたと言われています。

堀部安兵衛とは、吉良上野介の屋敷に討ち入った赤穂浪士四十七士の一人、堀部安兵衛で、当時は中山安兵衛といっていました。

元禄7211日、伊予国西条藩士・菅野六郎左衛門と同僚の村上庄左衛門が、果たし合いを高田馬場で行うこととなりました。その話を聞いた安兵衛は助っ人として高田馬場に行き、菅野を助けて、村上庄左衛門ほか3人を斬り殺したといいます。安兵衛と菅野六郎左衛門は、叔父・甥の契りを結んでいたとも実の叔父・甥ともいわれています。

当時、安兵衛は牛込に住んでいたといい、そこから高田馬場へ向けて走り続け、馬場下まで駆けつけたとき。近くにあった酒屋に立ち寄り、酒で喉を潤したといいます。

その店は現在も「リカーショップ小倉屋(こくらや)」の屋号で酒店を営んでいます。(下写真)

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この時安兵衛が酒を飲んだ升が現在も残されているようで、店内に写真が掲示されています。下写真が、店内に掲示されている五合升の写真です。

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この安兵衛の評判を聞いた赤穂藩江戸留守居役堀部弥兵衛は、安兵衛に養子となることを強くお願いしました。それに応じて娘婿となった安兵衛は、それまでの中山安兵衛から、堀部姓を名乗ることとなりました。そして、赤穂浪士の一人として吉良邸に討ち入りました。

堀部安兵衛の功績をたたえるため、明治43年に「堀部武庸(たけつね)加功遺跡之碑」が馬場の隅に建てられましたが、昭和46年水稲荷神社参道に移されました。下写真は、「堀部武庸加功遺跡之碑」の説明を聞く参加者の皆さんですが、右端が石碑です。

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赤印が穴八幡宮です。

青印が高田馬場の説明板がある場所です。
 オレンジ印が茶屋町通りです。

緑印が「堀部武庸加功遺跡之碑」です。
 紫印リカーショップ小倉屋です

 



by wheatbaku | 2019-10-20 18:17 | 新江戸百景めぐり
高輪大木戸(新江戸百景めぐり㊹)
高輪大木戸(新江戸百景めぐり㊹)

新江戸百景めぐり、今日は、高輪大木戸をご案内します。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では70ページの第23景で紹介されています。

高輪大木戸は、都営地下鉄「泉岳寺」駅のすぐそばにあります。駅の上といってよい所にあります。

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 輪大木戸は、芝口門が新橋に移転した年の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが始まりといわれています。
 そして、享保9年(1724)に現在地に移されました。
 また、現在地に宝永7年(1710)に造られたという説もあります。

 高輪大木戸は、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていました。
 天保2年(1831年)には、ここより北にある「札の辻」から高札場も移されました。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は石垣だけとなっています。
 東海道を行く旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく、月見の名所でもありました。

 歌川広重の名所江戸百景の中に「高輪うしまち」というのがあります。

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高輪大木戸を出た岡側に、車町、俗称「牛町」という町がありました。
 寛永11年(1634)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まります。
 この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(いわゆる牛町)が作られました。
 それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになりました。
 この絵には、手前に大きく牛車が書かれています。
 そして、絵をよく見ると遠く海の中にはお台場が見えています。
 この絵が描かれたのが、 安政4年(1857)です。
 お台場は、嘉永6年(1853)8月から安政元年(1854)5月の間に作られましたので、描かれていて不思議はありません。



現在、高輪大木戸周辺に牛町の面影はまったくありません。

そうした中で、高輪大木戸近くにある願生寺に牛供養塔があります。(下写真)

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牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋7(吉田・水谷・仙波・田中・山口・大田・岩井)によって、最初、牛供養のため元文3(1738)に建立されました。その後、文化3年(1806)の大火で焼失してしまったため、その当時まだ残っていた4家が中心となって文政11年(1828)に再建されたものです。

供養塔はその後3回、江戸時代では、慶応2年(1866)に修復が行われているようです。

赤印が高輪大木戸跡です。

青印が願生寺です。




by wheatbaku | 2019-10-18 18:04 | 新江戸百景めぐり
江戸検・記述対策シートの正誤表

江戸検・記述対策シートの正誤表

江戸検まで2週間を切りました。江戸検を受検される方は一生懸命頑張っていられることと思います。

努力は必ず報われますので最後まで頑張ってください。

記述問題を苦手とする人に対する記述問題対策シートを作成し販売しておりますが、その記述問題対策シートに誤りがありましたので、本日は、正誤表にて訂正させていただきます。

正誤表〕 赤字が誤りの部分、ピンクが正しい文字です。

〈人名〉

「江戸博覧強記」173ページ

 たばたやろうざえもん 田端屋郎左衛門

正  たばたやろうざえもん 田端屋郎左衛門

「江戸博覧強記」263ページ

誤  平沢常

  平沢常

「江戸博覧強記」279ページ

 朝寝むらく

 朝寝むらく

〈書名・絵画名・芝居名編〉

「江戸博覧強記」275ページ

誤 こくせんやっせん 爺合戦

正 こくせんやっせん 爺合戦

「江戸博覧強記」304ページ

誤 和蘭

正 和蘭

「江戸博覧強記」306ページ

誤 大略天学名目

正 大略天学名目

「江戸博覧強記」313ページ

誤 そらいせんせいもんどうしゅう 徂徠先生問答

正 そらいせんせいもんどうしょ   徂徠先生問答

「江戸博覧強記」331ページ

誤 懲記後正

正 懲記後正

「江戸博覧強記」377ページ

誤 英米対話捷

正 英米対話捷

〈難書漢字編〉

「江戸博覧強記」205ページ

さいにち 賽日

改訂版で削除されているので削除します。

「江戸博覧強記」350ページ

燻乾

燻乾  (おくりがなのしを削除)

〔補足説明〕

上記の正誤表に関連していくつか補足説明をします。

1、田端屋次郎左衛門

 田端屋次郎左衛門は、伊勢出身の豪商で、大伝馬町に店をもつ木綿問屋です。田端屋は、歌川広重の名所江戸百景の「大てんま町木綿店」に描かれています。下写真の浮世絵の最も右が田端屋です。暖簾に「たばたや」と書かれています。

c0187004_21241270.jpg

2、国爺と国爺(こくせんや)

 「国性爺合戦」は、近松門左衛門の名作であり、初演時に17ヶ月連続で上演された大ヒット作です。しかし、Wordで「こくせんや」と入力すると、「国姓爺」しか出てこず、「国性爺」は出てきません。そのため、国姓爺と書きやすい言葉ですので、江戸検の記述問題では注意が必要です。

「国姓爺」とは、中国の武将鄭成功の別名です。近松門左衛門は、この鄭成功をモデルとした和藤内を主人公とした物語を書きました。それが「国性爺合戦」です。史実とは異なるため、国姓爺の一文字を替えて「国性爺合戦」としたと言われています。

3、英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)

「英米対話捷径」 は、ジョン万次郎が書いた英会話書です。

「捷径(しょうけい)」という語句は、「早道、または、近道」という意味です。
 簡単にいえば「はやわかり英会話」といった意味でしょうか。

4、賽日(さいにち)
 賽日は、『江戸博覧強記』初版では、「縁日(賽日ともいう)とも呼ばれる」と書いてあります。しかし、『江戸博覧強記』改訂版では、「縁日」とだけ書かれていて、賽日が削除されています。

賽日を調べると「藪入りに閻魔(えんま)にお参りする日」という意味ですので、縁日とは少し意味が違っているため、改訂版で削除されたものと思われます。

5、有院と有院(4代将軍徳川家綱の院号)

 「江戸博覧強記」76ページの「歴代将軍の墓所」という表の中で、4代将軍徳川家綱の院号が「有院」となっています。
 私の作成した記述問題対策シートでは「有院」としていたことから、「厳有院」は間違いではないかとお問い合わせをいただきました。

 「巌」は、音読み「ガン」で、旧字は「巖」です。「厳」は音読み「ゲン・ゴン」で旧字は「嚴」です。
 こうしたことから、「巌」と「厳」は、新字と旧字という関係ではなく、まったく別の漢字です。

 家綱の院号を「巌有院」と書いたものもあるとのことですが、「国史大辞典(吉川弘文館)」「徳川幕府事典(東京堂出版刊)」「徳川諸家系譜(続群書類従完成会刊)」「徳川実紀(国史大系)」の全てで「厳有院」と書いてあります。

 従って、「江戸博覧強記」記載の「巌有院」が間違いだとはいいませんが、「厳有院」のほうが適切だと思います。






by wheatbaku | 2019-10-15 21:20
東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

 台風19号は日本列島各地に多くの被害をもたらしました。
 私も近くの大河川が氾濫する怖れがあるということで大変心配しました。そうしたことから被害を受けた人々のことが他人事とは思えません。被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。


さて、新江戸百景めぐり、今日は、東禅寺のご案内をします。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では158ページの第93景で紹介されています。

 東禅寺は、品川駅から、第一京浜を田町方向に歩いて、丘陵側に少し入った場所にあります。徒歩で約10分かかります。 下写真は本堂と庫裏の全景です。

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 東禅寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、妙心寺派の江戸四箇寺の1つでした。妙心寺派江戸四箇寺とは、東禅寺の他、湯島の麟祥院、浅草の海禅寺、牛込の松源寺を言いました。

東禅寺は、慶長15年(1610)嶺南和尚が日向国飫肥藩2代藩主伊東祐慶(すけのり)の帰依を受け、溜池に開きました。
 当初は嶺南庵と呼ばれていました。アメリカ大使館とホテルオークラの間にある霊南坂の名称は、嶺南庵に由来します。
 開基の伊東祐慶の法名が東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士ですので、東禅寺という寺号は伊藤祐慶の法名からとられたものと思われます。

 寛永13年(1636)、現在地に移転しました。眼前に江戸湾が広がることから海上禅林とも呼ばれ、その額も本堂に掲げられています。(下写真)本堂と庫裏は昭和6年に建てられたものです。 以前のものが震災や火災にあったためでなく、古くなったため建て替えられたとのことでした。

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 江戸時代の境内は、多くの塔頭が建ち並んでいたそうですが、現在は、緑の多い静かな雰囲気の境内となっています。下写真は山門から見た参道ですが、参道自体はあまり広いわけではないのですが、参道両脇に樹木が植えられていて、緑の参道となっています。

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 その境内に大きくそびえる三重塔が建っています。
 この塔は、建築後25年とのことですので、昭和の終わりに建てられたようです。
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 江戸時代には東禅寺は、開基の飫肥藩伊東家をはじめ、陸奥仙台藩伊達家、伊予宇和島藩伊達家 備前岡山藩池田家、信濃高島藩諏訪家、豊後佐伯藩毛利家など多くの大名家の菩提寺でした。 そのため、少し離れた墓地には、今も諸大名の見事な墓群がありますが、一般の人には公開されていません。その中で、墓所の外から見えるお墓もかあります。下写真は、仙台藩伊達家の合祀墓です。また、有名な蘭学者大槻玄沢のお墓が港区の史跡となっているのですがこれもみることができません。

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 東禅寺は、安政6年(1859)には日本初のイギリス公使館が置かれ、初代公使オールコックが駐在しました。

山門の前には、「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建てられています。(下写真)

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東禅寺事件

この東禅寺では有名な「東禅寺事件」という外国人に対する襲撃事件が起きています。

「東禅寺事件」というのは第一次東禅寺事件と第二次東禅寺事件と2回起きています。

第一次東禅寺事件は、文久元年(1861)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックらを襲撃した事件です

文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入りました。

この行動に対し、尊攘派の志士らは「神州日本が穢された」と憤激しました。

オールコックが東禅寺についた翌日の5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃しました。

オールコックは危うく難を逃れたが、乗馬用のムチで立ち向かった書記官オリファントとピストルで応戦した長崎領事モリソンの2人が負傷しました。

一方、攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し、警備側に3名が討取られたり、一旦は逃走したものの逃げ切れず切腹した者もおり、その後逮捕された者もいますが、逃亡した後、坂下門外の変に参加した者もいます。

第二次東禅寺事件は、「第一次東禅寺事件」のちょうど1年後の文久2年(1862)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス人2人を斬殺した事件です。

第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移しました。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻しました。

その頃、東禅寺の警備を命じられていたのが松本藩でした。警備を任せられていた松本藩士伊藤軍兵衛は、公使を殺害しようとして夜中にニールの寝室に入ろうとしましたが、警備にあたっていてイギリス兵2人に発見され戦闘になり、イギリス兵が殺害されました。襲った伊藤軍兵衛も負傷し自刃しました。

これにより松本藩は警備の任を解かれ、藩主戸田光則は差控(謹慎)処分を受けることになりました。

 また、この事件により、イギリスは、公使館を襲撃されやすい寺院に置くのではなく、独立した公使館を建設するよう幕府に要求しました。この要求に応えて幕府が建設することにしたのが品川御殿山の公使館です。

赤印が東禅寺です。
青印が泉岳寺です。






by wheatbaku | 2019-10-14 19:43 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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