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池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3)

池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3

池上本門寺の3回目になりますが、今日は、奥絵師の狩野探幽や加藤清正供養塔など有名なお墓のほか、あまり有名ではないものの注目すべき人物のお墓を案内します

 

狩野探幽の墓

狩野探幽の墓は、多宝等の南西部にあります。

記念碑のような縦長のお墓と瓢箪形をしたもの2つのお墓が並んでいます。(下写真)

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 狩野探幽は、江戸時代初期の狩野派の絵師で、有名な狩野永徳の孫です。父の狩野孝信と一緒に慶長19年(1614)江戸へ下向し、幕府の奥絵師として、二条城障壁画制作などに大活躍しました。鍛冶橋門外に1000坪余の屋敷と215石を拝領し、鍛冶橋狩野家の祖となりました。

瓢箪形のお墓は、元々、目黒区の永隆寺にあった分骨墓で昭和11年に改葬されたものです。瓢箪形の墓には「玄徳院殿前法眼守信日道」と刻まれています。

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 なお、狩野探幽について、興味深いことを知りましたので、ここで書いておきます。

 狩野探幽の母は、戦国武将佐々成政の娘養秀院だとされています。この養秀院の姉岳星院は五摂家の一つ鷹司信房に嫁いでいます。鷹司信房の娘孝子が将軍家光の正室となっていることは前回ブログに書きましたが、家光の正室となった孝子と狩野探幽とは従兄妹ということになります。また、将軍家光と狩野探幽は義理の従兄弟ということになります。思いがけない関係に驚きました。

狩野孝信の墓

 狩野孝信は、狩野探幽の父です。狩野孝信のお墓は多宝塔の南東にあります。狩野探幽のお墓とは少し離れています。

 孝信のお墓には、法名慈父圓大院考信日養霊と刻まれています。

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 狩野孝信は狩野永徳の次男として生まれました。しかし長男光信が若くして亡くなり、さらに光信の長男貞信も若くしてなくなったため、孝信が狩野派の中心となって活躍しました。

 孝信の長男探幽は鍛治橋狩野家となり、次男尚信が木挽町狩野家を興しました。三男安信は、狩野派宗家を相続し中橋狩野家を興しました。さらに、次男尚信の孫岑信が浜町狩野家を起こしています。

 下写真の一番右のお墓が狩野孝信です。真ん中が、若くして亡くなった狩野貞信(本来の狩野派宗家を継ぐはずであった人物)、そして一番左が、木挽町狩野家を興した狩野尚信の墓です。

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加藤清正家供養塔

 霊宝殿の裏側(西側)に、加藤清正の供養塔があります。

この供養塔は、加藤清正の娘で、紀州徳川家の初代藩主徳川頼宜の正室である瑤林院が、慶長16年(1611)に亡くなった加藤清正の供養のために満38年目の忌日に当る慶安2年(1649)に建立したものです。

表面に加藤清正の法名「浄池院殿永運日乗」が刻まれています。

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加藤清正正室の逆修供養塔

加藤清正の正室正応院が建てた逆修供養塔は、五重塔に向かう参道の北側にあります。

 加藤清正の正室正応院は、清正の嫡男忠広の母です。

加藤忠弘は、11歳で家督を相続しましたが、いわゆる「牛方馬方騒動」と呼ばれる御家騒動が起きるなど藩政が混乱しました。そして、寛永9年(1632)には、加藤家は改易されてしまいます。加藤忠広の改易は、3代将軍家光の日光社参のおりに、老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を計画するという内容の密書を、忠広の子供光広が発したとされることに基づくというもので、秀忠死去後の大名の動向をうかがうために企てられた可能性がある事件とも言われています。

正応院は、改易後、忠弘と一緒に出羽国丸岡に移り、慶安3年(1650)に亡くなっています。

この供養塔は正応院が、寛永3年(1626)に建てられたもので、生前に建てられた逆修供養塔です。

逆修供養塔といのは生前に自分の供養のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るために建立される供養塔をいいます。

元は11層でしたが、3層が失われ8層になっています。

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前田利家側室の逆修供養塔

加藤清正正室の逆修供養塔の手前に「前田利家室層塔」があります。

これは、前田利家の側室寿福院が生前に自身のために建てた逆修供養塔です。

寿福院は前田利家の側室で、加賀藩3代藩主前田利常の生母です。

元々、寿福院は利家の正室芳春院(お松)付の侍女でしたが、利家の側室となり3代利常を生みました。

関ヶ原の戦いが起こる前年に、前田利家亡き後、金沢城主となった前田利長の謀反が疑われ、実母の芳春院が人質として江戸に送られました。芳春院は15年間、人質として江戸で暮らした後、金沢に戻ります。この芳春院の替わりに人質として送られたのが寿福院でした。

寿福院が生前に死後の冥福を祈り造ったのが11層塔です。現在は五層のみが残されています。

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円光院(米沢藩主上杉綱憲正室)の墓

 五重塔の北側すぐ近くに、紀州徳川家2代藩主徳川光貞の次女で、米沢藩上杉家4代藩主綱憲の正室であった円光院のお墓があります。

 表面に「円光院殿日仙榮寿大姉」と刻まれています。

 上杉綱憲は、赤穂事件で有名な吉良上野介の実子で、米沢藩 代藩主上杉綱勝の養子となりました。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には、赤穂浪士を追いかけようとして家老に留められる場面で有名です。宝永元年(1703)になくなった上杉綱憲のあとを追うように宝永2年(1704)に亡くなっています。

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by wheatbaku | 2019-11-15 18:02 | 新江戸百景めぐり
池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2)

池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2

池上本門寺の2回目ですが、今日は、池上本門寺に眠る有名人をご案内したいと思います。

 池上本門寺は、大名家、絵師など多くの有名人が眠っています。そのため、それらをすべてお参りするには、多くの時間が必要です。先日、お参りした際は、江戸時代の大名家のお墓を中心にお参りしましたが、英一蝶など、時間がなくてついにお参りすることができませんでした。また、日をあらためてお参りしようと思っています。

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 多くの有名人が眠っている中で、特に目立つのが紀州徳川家関係のお墓です。

 前回ご案内した、多宝塔(上写真)の北側は斜面となっていますが、その中段に紀州徳川家のお墓がまとまってあります。

 下写真の最も右から養珠院(ようじゅいん)、妙操院(みょうそういん)、天真院(てんしんいん)、瑤林院(ようりんいん)のお墓です。 そのお墓の順にご案内します。

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養珠院(ようじゅいん)

 養珠院は徳川家康の側室で紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の母です。名は万(まん)といいます。御三家の一つ水戸徳川家初代藩主徳川頼房の母でもあります。

 お万の方は上総国勝浦城主・正木頼忠の娘として生まれました。慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となりました。

万は慶長7年(1602年)に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌慶長8年に鶴千代(後の徳川頼房)を生みました。

慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長14年(1609年)には、駿河・遠江50万石に移り、元和5年(1619)、紀伊和歌山55万5千石に封じされました。

なお、鶴千代(徳川頼房)は慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が与えら、慶長14年水戸25万石に移封されました。

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妙操院(みょうそういん)

妙操院は、11代将軍徳川家斉の側室で、名は登勢といいました。

子どもが13女あり、男子が徳川治寶の養子となり、11代藩主となった徳川斉順です。

斉順の子供慶福が14代将軍となる徳川家茂ですので、妙操院は家茂のお祖母さんということになります。

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天真院(てんしんいん) 

天真院は、紀州藩第2代藩主・徳川光貞の正室です。
 伏見宮貞清親王の王女として生まれました。名は照子といいます。
 4代将軍徳川家綱の正室である顕子女王は妹です。また、8代将軍・徳川吉宗の正室である理子女王は、姪となります。

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瑤林院(ようりんいん) 

 瑤林院は、徳川頼宣の正室です。瑤林院は、加藤清正の娘で、名は八十姫(やそひめ)といいました。元和3年(161717歳の時に、肥後より駿府藩主徳川頼宣に輿入れしました。

 瑤林院は、池上本門寺に加藤清正供養塔を寄進しています。

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寛徳院(かんとくいん)

寛徳院は、第8代将軍となる徳川吉宗が紀州藩主だった頃の正室です。

寛徳院のお墓は、瑤林院のお墓の北側にあります。

寛徳院は、伏見宮貞致(さだゆき)親王の娘です。名は理子(まさこ)といいます。宝永3年(1706)に吉宗と結婚し、4年後の宝永7年(1710)死去しました。ちなみに吉宗が将軍に就いたのは享保元年(1716)です。

2代藩主徳川光貞の正室の照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の正室顕子女王は叔母、

9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の正室増子女王は姪に当たります。法名は寛徳院玄真日中大姉です。

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松寿院

養珠院のお墓の近くに、松寿院のお墓があります。
松寿院は、徳川頼宣の娘松姫で、上野国吉井藩の祖松平信平の正室です。

松平信平は、関白鷹司信房の4男で、徳川家光の正室孝子(本理院)の弟でした。鷹司家は、五摂家の一つですが、信平は京都にとどまらず、家光の正室として江戸に下向した姉の孝子(本理院)を頼って、江戸に下りました。

そして、家光に愛され、徳川頼宜の娘松姫を正室として娶り、松平の称号をゆるされ、鷹司松平家と呼ばれるようになり、孫の代には、上野国に吉井藩を起こしました。

松平信平のことは、昔から知っていましたが、その正室のお墓にお参りできて、新たな収穫となりました。

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 以上が多宝塔の背後にある紀州徳川家のお墓ですが、このほか、徳川吉宗の側室二人のお墓が、五重塔の北側にもありますので、二人のお墓をご案内します。

深徳院(しんとくいん)

 深徳院は、八代将軍徳川吉宗の側室で、9代将軍徳川家重の生母です。お須磨(おすま)の方とよばれました。

 徳川吉宗の側室となったのは、吉宗が将軍となる享保元年(1716)より以前のことで、家重を出産したのは正徳元年(1711)でした。その後、再び懐妊しましたが、難産のため母子ともに 正徳3年(1713)に亡くなりました。享年26才、法名は深徳院妙順日喜大姉です。

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本徳院(ほんとくいん)

本徳院は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の側室で、御三卿の田安宗武の生母です。お古牟(こん)の方と呼ばれました。

正徳5年(1715)に田安宗武)を出産しました。翌享保元年(1716年)、吉宗は将軍となり、お古牟の方も吉宗とともに江戸城大奥に入りました。

しかし、享保8年(1723221日、28歳でなくなり、池上本門寺に埋葬さました。法名は本徳院妙亮日秀大姉です。

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 このほかに有名人のお墓がありますが、長くなりましたので、今日は紀州徳川家関係者のお墓だけの案内とします。
 狩野探幽のお墓などは次回にご案内します。

赤印が紀州徳川家の墓所です。それぞれのお墓は省略します。
ピンク印が多宝塔ですので、多宝塔の背後に紀州徳川家の墓所があります。
オレンジ印が五重塔です。
青印が深徳院のお墓です。
緑印が本徳院のお墓で、深徳院の北側で少し離れた場所にあります。








by wheatbaku | 2019-11-12 21:39 | 新江戸百景めぐり
目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

目白・神田川散歩(「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」)

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、目白から神田川沿いを散歩してきました。

 絶好の行楽日和で、快晴のもと楽しく散歩してきました。

今回のコースは目白駅から江戸川橋駅までの次のようなコースです。

目白駅 ⇒ 千登世橋 ⇒ 宿坂 ⇒ 金乗院(目白不動尊)⇒ 南蔵院 ⇒ 山吹の里 ⇒ 甘泉苑(休憩) ⇒ 肥後細川庭園 ⇒  水神社 ⇒ 芭蕉庵 ⇒ 椿山荘 ⇒ 大洗堰跡 ⇒ 江戸川橋駅

 ご参加いただいた皆さん、お蔭様で楽しい散歩となりました。ありがとうございました。

 今日は、目白・神田川散歩での主な案内箇所をご紹介しておきます。

目白不動尊(金乗院)

 目白不動尊は、現在は金乗院の境内に鎮座しています。

 もともと、目白不動尊は、現在の場所から東に1Kほど離れた東豊山新長谷寺に鎮座していましたが、昭和20年の空襲で新長谷寺が焼失したため、金乗院と一緒になったものです。

 金乗院の山門の脇に不動堂が建てられて、そこに鎮座しています。

 奥のコンクリートの台の上が不動堂です。

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丸橋忠弥の墓(金乗院)

 由井正雪とともにいわゆる「慶安事件」を起こした丸橋忠弥は、鈴ヶ森で処刑された後、一族が密かに遺骸を貰い受け、紀州に埋葬しますが、一族の後裔である秦武郷(はたたけのり)が金乗院に移し墓碑を建てました。 

忠弥の本姓は長曽我部秦氏でしたので、忠弥のお墓の裏側をよく見ると、墓の裏面には「長曾我部秦盛澄」と刻まれています。

下写真は忠弥のお墓の前で説明を聞く参加者の皆さん

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甘 泉 園

甘泉園は、江戸時代は徳川御三卿のうちの清水家の下屋敷で、南側にある水稲荷神社境内や公務員アパートをふくむ広いものでした。

甘泉園という名は、庭園の中央に湧き水があり、その清水がお茶に合うところに由来しています。

庭園では、結婚式を挙げるカップルが前撮りをしたりする姿が見えることもあり、絶好のビューポイントです。

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肥後細川庭園

肥後細川庭園は、以前は新江戸川公園と言っていた公園で、平成293月から肥後細川庭園に名称を変更しました。

ここは幕末に肥後熊本藩細川家の下屋敷となりました。

庭園入口にある建物は松聲閣と呼ばれ、大正時代の建物です。もと細川家の学問所だった建物で、一時期は細川家の住まいでした。

下写真は松聲閣前で説明を聞く参加者の皆さん

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庭園の中央に大きな池がある池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、湧水から流れ出した細流が池に流れ込んでいて、変化に富んだ景観をつくり出しています。

下写真は庭園内の土橋近くで説明を聞く皆さん

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芭蕉庵

松尾芭蕉は、延宝5年(1677)年から3年間、昔仕えていた藤堂家が神田上水の改修工事にたずさわり、関口に住んだといわれています。後にそこに芭蕉庵が造られました。庭園内には池があり、芭蕉の真筆を模刻した芭蕉句碑「古池や蛙とびこむ水の音」などがあります。下写真は、その門前で説明を聞く参加者の皆さん

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大洗堰跡

神田上水は、井の頭池を水源として、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加えて、関口の大洗堰かから取水し江戸市中に水を供給していました。

江戸川公園に大洗堰跡の説明板が建っていますが、神田川は改修されて、すっかり面影はなくなっています。

下写真は説明板の前で説明を聞く参加者の皆さん。

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by wheatbaku | 2019-11-10 17:09 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1)

池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1

 江戸検が終わりましたが、新江戸百景めぐりは、まだ途中ですので、引き続き「新江戸百景めぐり」(小学館刊)で紹介されている寺社等をご案内していきます。

 再開の初めに、前回の記事で、総門の扁額の筆跡で江戸検受検者を悩ませた池上本門寺をご案内します。

 池上本門寺は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、145ページの第82景で紹介されています。

 池上本門寺は、非常に見どころの多いお寺ですので、訪ねるときには、十分余裕を持っていくとよいと思います。私は2時間かけて回りましたが、見どころすべてを見ることができませんでした。

 そんなに見どころの多い池上本門寺ですので、2回に分けてご案内します。初回は、建造物をご案内していきます。
 下写真は本堂です。

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 池上本門寺は、東急池上線の池上駅から徒歩10分の場所にあります。池上駅からは一本道ではありませんので、池上駅を下りたら道順をよく確認してから出発することをお勧めします。

池上本門寺は、正式には長栄山本門寺といいます。その山号の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けたものです。

池上本門寺は、日蓮聖人が今から鎌倉時代後期の弘安5年(1282)10月13日に亡くなった場所に建てられた寺院です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かう途中、武蔵国池上の豪族池上宗仲の館で亡くなりました。

そして大檀越の池上宗仲が、日蓮聖人が亡くなった後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し、それ以来「池上本門寺」と呼ばれています。

池上本門寺は、昭和20年4月15日の空襲で多くの建物が焼失していますが、奇跡的に総門・経堂・五重塔・多宝塔などが炎上を免れて、現在も昔の姿を留めています。下写真は総門です。

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総門

総門は、池上本門寺にお参りする際に最初に通る門で、元禄年間に建立されたと伝えられていて、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない建物です。

 総門の扁額「本門寺」は、前回書いたように寛永の御三筆の一人である本阿弥光悦の筆によるものです。ちなみに、この扁額は門が建てられた時期より古く、寛永4年(1627)に書かれたものだそうです。

現在本物は、霊宝殿に所蔵されていて、総門に掲げれられているものは複製です。(下写真が現在の扁額です)

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 本阿弥光悦の扁額は、下記池上本門寺のホームページの境内案内のうちの総門をクリックするとみることができます。
 池上本門寺 ウェブサイト
 上記をクリックすると池上本門寺のトップページにとびます。トップページの最上段の「知る」の中に境内案内の項目があります。
 総門の柱等がきれいですが、平成30年9月に建造当初の姿に復刻・改修されたものです。

此経難持坂 (しきょうなんじざか)

 総門を入ると正面に急な坂が見えてきます。この坂が此経難持坂(しきょうなんじざか)です。 

この坂は、加藤清正が寄進したものです。加藤清正は、熱心な法華信者でした。加藤清正は、母の第7回忌にあたる慶長11年(1606)、追善供養のため、祖師堂を建立寄進していることから、その時に築造されたものと考えられています。

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仁王門

 仁王門は、昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、仁王門は昭和52年に再建されました。

旧仁王門は、慶長13年(1608)に2代将軍秀忠が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。

旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦が書いたもので関東三額の一つであった、そうです。

現在の扁額「長栄山」の「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてあるそうです。

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大堂(だいどう)

 大堂は、日蓮聖人をお祀りする建物です。旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい、昭和39年に再建されたもので鉄筋コンクリート造りの建物です。

旧大堂は、慶長11年(1606)、熱心な法華信者として有名な加藤清正が、母の七回忌追善供養のために建立したもので、間口25間の堂々たる建築で、加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝わっています。

その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して、上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだといいます。

また、旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆であったそうです。

その祖師堂は、宝永7年(1710)に焼失し、享保8年(1723)、8代将軍吉宗の用材寄進で、大岡越前守を普請奉行として、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されましたが、旧祖師堂は、昭和20年4月15日の戦災で焼失しました。

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経蔵

 大堂の左手(西側)に経堂があります。

 現在の経堂は、天明4年(1784)に建立されましたが、それ以前に2回建立されていたようです。

この経堂は、昭和20年4月15日の空襲の際に焼失を免れました。

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本殿

本殿は、大堂の北側にあります。

昭和20年4月15日の空襲で焼失した釈迦堂を再建したのが本殿です。元々、祖師堂の左隣にありましたが、再建にあたって境内の奥の方へ移されました。

 正面内陣にある釈迦仏の胎内には、インドのガンジー伝来で故ネール首相より寄贈された釈尊の真舎利2粒が奉安されているそうです。

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日蓮聖人御廟所

境内の最も奥にあるのが日蓮聖人御廟所です。日蓮聖人の遺灰と御骨を奉安しているお堂です。かつては昭和6年に建てられた御真骨堂がありましたが、昭和20年4月15日の空襲で焼失し、昭和54年に再建されました。

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多宝塔

 大堂から西に下る大坊坂と下る途中に北側に大きく見えてくるのが多宝塔です。

 この多宝塔は、日蓮聖人の尊骸を荼毘に付した蹟に建つ供養塔です。

日蓮聖人の550遠忌を期に、文政11年(1828)に上棟、文政13年(天保元年)に開堂供養されています。

石造りの基壇の上に木造宝塔が建っています。総高17・5メートルあり、漆や彩色によって華やかな装飾が施されている堂々たる多宝塔です。

国の重要文化財に登録されています。

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五重塔

五重塔は、仁王門をくぐると右手に見えますので、すぐわかります。
 関東には、幕末以前の五重塔が4基ありますが、この塔は、慶長12年(1607)に建立された一番古い塔です。

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文禄2年(1593)に、徳川秀忠が疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。その時、熱心な法華信者であった乳母岡部局(のち正心院)が、大奥より池上本門寺に日参し、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」とひたすら祈った甲斐あって、秀忠は快癒しました。

秀忠が将軍となった後、慶長12年(1607)に、その御礼と武運長久を祈って、五重塔が建立されました。

当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられましたが、建立直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉の命で現在地へ移築、修復されたといいます



by wheatbaku | 2019-11-07 20:59 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4は、16問から20問まで解説します。

これまでの問題は、すべてお題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下お題テキストといいます。)から正解がわかる問題でしたが、今日解説する18問だけはお題テキストを読んだだけではわかりませんので、苦労された方も多いだろうと思います。

16】次にあげるのは、徳川将軍家ゆかりの寺とその説明です。正しいものはどれでしょう?

 い)寛永寺には、秀忠ら6人の将軍が葬られている

 ろ)護国寺には、家光が寄進した惣門が現存している

 は)伝通院には。家康の生母・於大の方の墓所がある

 に)鵬祥院は、秀忠の娘・千姫の発願で創建された

これらは、すべて、お題テキストに関連することが書かれています。

い)お題テキストの96ページは寛永寺についてですが、寛永寺には6人の将軍が埋葬されていますが、秀忠は増上寺に埋葬されていますので、これは間違いです。

 ろ)お題テキストの95ページは護国寺について書いてあります。 この中で、護国寺の惣門は、綱吉と母桂昌院の御成りのためにつくられた門だと書かれています。従って、ろ)は間違っています。

は)お題テキストの94ページに伝通院について書いてあり、問題文は正しいので、これが正解です。

に)お題テキストの94ページに麟祥院について書いてありますが、麟祥院は春日局が創建したお寺ですので、これも間違いです。

 

17】徳川家の祈願所だった穴八幡宮で行なわれる行事で、8代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のために奉納したことに始まるものは何でしょう? 現在は、近くの戸山公園に場所を移して行なわれています。

 い)獅子舞    ろ)薪能  
 は)梯子乗り   に)流鏑馬

 これもお題テキストの90ページに書かれています。に)の流鏑馬が正解です。

18】池上本門寺は日蓮聖人終鷲の地に建てられた日蓮宗の名刹です。江戸時代には、庶民の信仰を集めるとともに、幕府や諸大名の寄進も多く、格式を誇りました。元禄期(16881704)の建立と伝えられる総門の扁報は、著名な文化人の筆跡ですが、それは誰でしょう?

 い)狩野探幽   ろ)松花堂昭乗 
 は)本阿弥光悦  に)三井親和

 この問題は、お題テキストを読んでいただけでは正解が分らないので難しかっただろうと思います。

 この正解は、は)の本阿弥光悦です。

 池上本門寺の公式ホームページに書かれていますし、扁額の写真も載っていますので、ホームページで確認してください。

 下写真が、現在の本門寺の惣門ですが、本阿弥光悦の扁額は、霊宝殿に所蔵されていて、惣門に掲げられているものは複製です。

c0187004_13184705.jpg

 このことを知らなくて、どう正解を導くかですが、そのヒントを書いておきます。

 まず、い)狩野探幽 は、絵師ですので、これはないだろうということになります。次いで、に)三井親和は、元禄年間に生まれ、江戸時代中期に活躍した人ですので、この人もないだろうということになります。ここまでは、『江戸博覧強記』に書いてあるレベルの知識でわかると思います。

 そこで、残るのは二つです。松花堂昭乗も本阿弥光悦も寛永の三筆の一人で、この二人が候補となります。

そこで、どちらかということになりますが、これからは、松花堂昭乗と本阿弥光悦に関する知識がどれだけあるかによります。

松花堂昭乗は、男山石清水八幡宮の社僧であったことや真言密教を修業したことを知っていれば、この人が日蓮宗の本門寺の額を書くことはないだろうという推測がたちます。

また、本阿弥光悦が熱心な日蓮宗信者であったことを知っていれば正解はわかります。また、そこまで知らなくても日蓮宗が京都の町衆の多くに信仰されたことを知っていれば、本阿弥光悦は日蓮宗の信者だろうという推測がたち、そこから、正解を導き出すこともできます。

いずれにしても、お題テキストに書かれていること以外の知識が必要ですので、難しい問題だったと思います。

       

【19】下の4枚の絵は、いずれも「江戸名所図会」のものです。では、神田明神の祭礼を描いたものはどれでしょう?

c0187004_13185403.jpg

 これらの絵はすべてお題テキストに掲載されている絵です。
 従って、丹念にお題テキストをよく読んでおけば、正解がわかる問題です。

い)は、お題テキスト115ページの神田明神の中に載っています。従って、これが正解です。

ろ)は、お題テキスト132ページの日枝神社の中、は)は、お題テキスト136ページの芝神明宮の中に載っています。 に)は、お題テキスト141ページの品川宿の中に載っている「品川牛頭天王神輿洗の図」です。

 また、神田祭が、江戸時代には9月15日に行われていたことを知っていれば、い)の挿絵の右上に9月15日と書いてあるので、それから、い)が正解だとわかります。

20】品川宿一帯には、多くの寺社がありました。では、次の寺社についての説明で、間違っているものはどれでしょう?

 い)海晏寺一紅葉の名所として知られた

 ろ)品川神社一境内の鯨塚が有名だった

 は)品川寺一江戸六地蔵の第1番だった

 に)寄木神社一伊豆長八の鏝絵が現存する

 これらの選択肢は、すべてお題テキストの140ページ~141ページに載っています。ここを読んでいれば、正解は簡単に分かったと思います。

 鯨塚があるのは、品川神社ではなく利田(かがだ)神社ですので ろ)が間違っています。

以上で、江戸文化歴史検定の「今年のお題」関連の問題についての解説を終わりにしますが、お題テキストを読み込んでいれば、正解がわかる問題が大半であったということがお分かりいただけたことと思います。


by wheatbaku | 2019-11-05 13:08 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その3(新江戸百景めぐり番外③)

江戸検お題問題解説その3(新江戸百景めぐり番外③)

江戸検お題問題解説その3は、11問から15問まで解説します。これらの問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下お題テキストといいます。)から正解がわかります。


11】江戸に入った徳川家康が隅田川に初めて架けた橋が、千住大橋です。この橋の杭には、伊達政宗が寄進した水に強く腐食しにくい材木が用いられ、明治時代まで長持ちしたといいます。その橋杭に使われた木は何でしょう?

 い)榎   ろ)黒松  は)高野槙   に)檜

 お題テキストの62ページに、千住大橋の橋杭には高野槇が用いられたと書いてありますので、正解は 4) です。

 千住大橋には現在も3本の高野槇が残されているとのことで、隅田川の水位が下がる時には姿を現すと千住大橋に設置されている説明板(下写真)に書いてあります。

c0187004_17412067.jpg

説明板のタイトルは「水面に浮かぶ三個のブイの謎」と書かれていて。丁寧に説明されています。

下写真のブイがある場所が高野槇がある場所だそうです。

c0187004_17412638.jpg

 また、京成線千住大橋駅の駅前には、高野槇が植えられています。(下写真)

c0187004_17413153.jpg

12】家康が開削させた小名木川は、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河です。その後、本所・深川では、小名木川と直行する運河も整備され、大きく発展していきます。では次のうち、小名木川と直交するのはどれでしょう?

 い)大横川  ろ)仙台堀川  は)竪川  に)平川

お題テキストの55ページに「南北方向の横十間川および大横川と直交している」と書いてあります。
 従って、正解は い) です。

 念のため、お題テキストの20~21ページに載っている深川の地図を見ておいてください。大横川と横十間川が南北に流れて小名木川と直交し、仙台掘川が小名木川と並行して東西に流れていることがわかると思います。

13】江戸の橋は、陸路と海路の結節点であり、人が集まる名所にもなっていました。では、『江戸名所図会』に〈此所は諸国への廻船輻輳の要津たる故に橋上至て高し〉と記されている橋は、どれでしょう?

 い)永代橋  ろ)千住大橋  は)日本橋  に)両国橋

 選択肢となっている橋は、それぞれ、お題テキストで、次のページで説明されています。

 い)永代橋 67ページ   ろ)千住大橋  62ページ 

 は)日本橋 60~61ページ 
 に)両国橋 64~65ページ

 しかし、どのページにも、江戸名所図会の説明はされていません。
 そこで、江戸名所図会に書いてある文章とお題テキストのそれぞれの説明を比較してみます。

 江戸名所図会で強調しているのは、「橋上至て高し」と書いてある通り橋が高いということです。そこで、高い橋がどの橋かを探すと、67ページの永代橋の説明に、「永代橋は、橋の下を船が余裕をもって通れる高さが必要で、橋脚が高い永代橋は見晴らしが良かった」と書いてあります。

 この説明から、正解は い) ということがわかります。

 ちなみに、ちくま文庫「新訂江戸名所図会Ⅰ」の188ページにある永代橋の中で問題文に採用された文章が書かれています。

14】新大橋を描いた歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』は、ゴッホが模写したことでも知られる作品です。面題にある「あたけ」とは新大橋の東側にあった地名ですが、その由来はどれでしょう?

 い)この地にあった船番所の通称

 ろ)この地の名産だった野菜の通称

 は)ここに砦を築いた太田道灌の家臣の名前

 に)ここに係留されていた幕府の軍船の名前

これも正解がお題テキスト66ページに書いてあります。  

お題テキスト66ページには、「幕府の木造大型軍船(安宅丸)がこの地の船蔵に係留されていたことから、その名でよばれる」と書いてあります。そこで、 正解は に) です。

15】隅田川には多くの渡しがありましたが、山谷堀と三囲神社を結ぶ渡しは、何と呼ぱれたでしょう? 山谷堀にあった料亭の名前に由来する名称です。

 い)有明の渡し   ろ)亀屋の渡し

 は)竹屋の渡し   に)平清の渡し

 これも正解がお題テキスト125ページに書いてあります。正解は は)竹屋の渡し です。

 お題テキストには、竹屋の渡しについては、ほとんど説明されていませんので、ここで少し説明をしておきます。

 竹屋の渡しは、山谷堀と三囲神社を結ぶ渡しで、渡しの下流に言問橋が架かった昭和4年まで営業していました。

現在は、隅田公園山谷堀広場に竹屋の渡し跡の石碑が建てられています。(下写真)

c0187004_17413499.jpg

山谷堀に竹屋という船宿があったことから、その名前がついたとされています。隅田川の渡しで地名がついていない渡しは珍しいそうです。渡しがいつ設けられたかは不詳です。

向島から渡し舟に乗るには、土手下から川向うの渡し舟を、大声で呼ばねばなければならす、『たけや!』と呼ぶ声は、多くの人に知られていたようです。
 次のように長唄の文句にもとり入れられています。

「はるか向ふを竹屋と呼ぶ声に、山谷の堀を乗り出す」(長唄『船揃』)

「土手の錦も花の空、竹屋、竹屋と呼ぶ舟に乗合せたる猿廻し」(長唄『籾猿』)

また、三囲神社側には 「都鳥」という茶屋があって、そこのお美代という女将がいて、「たけや~」といって渡し舟を呼ぶ声が美しいと評判だったという話も伝えられています。



by wheatbaku | 2019-11-02 17:24 | 新江戸百景めぐり
  

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