神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)
今日は「神田上水」の続編ですが、今日は、大洗堰で取水された水が、どのようにして、江戸市中に供給されたかについて説明していきます。
大洗堰で分流した水は、小日向台の下を通って、水戸藩上屋敷の中を流れた後、現在の水道橋駅付近で神田川を越えて、神田や日本橋地区に給水されました。
〈神田上水旧白堀跡〉
水戸藩上屋敷までは、現在の巻石通りを蓋のされていない水路(白堀)で流れて行きました。
巻石通りの途中に文京総合福祉センターがあります。その入口付近に神田上水の白堀跡が残されています。(下写真)

文京総合福祉センターの建設工事をする際に、平成23年から24年にかけて発掘調査が行われ、神田上水関連の遺構が発見されました。
この調査で発見された白堀跡は、石積み護岸で、長さは60m以上確認されました。そして、その一部が現地で展示されていて、地上から見えるようになっています。

〈小石川後楽園を通る神田上水〉
神田上水は、水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通っていました。その名残りが現在も小石川後楽園に残されています。
小石川後楽園に残された神田上水跡を見ると江戸時代の神田上水がどのようなものであったのかよくわかります。下写真は、小石川後楽園に残された神田上水路で、水路の左手に「神田上水跡」と書かれて杭があります。

また、意外と神田上水だと気が付かないのが円月橋の下を流れる水路です。この水路も神田上水跡です。円月橋は、明の儒学者朱舜水が設計したと言われていて、水面に映る形が満月のように見えることから円月橋と名付けられました。

下の絵が小石川後楽園の園内図ですが、赤字のラインが神田上水の水路です。左側が北になりますので、園内の北側の水路部分が神田上水の流路ということになります。

〈御茶ノ水の懸樋(かけひ)〉
水戸藩上屋敷を流れた神田上水は、石樋を利用して、現在の白山通りの下を流れた後、神田川を越えていきました。
神田上水が神田川を渡るためにかけられた橋が「懸樋」と呼ばれています。
懸樋の長さは約17間(約56m)あり、銅張の屋根が葺かれていました。
水道歴史館には、懸樋の模型があります(下写真)

写真の左側(現在の文京区)から右側(同・千代田区)に給水されていました。
また、懸樋が架けられていた場所に「神田上水懸樋(掛樋)跡」と刻まれて石碑が建てられています。

〈神田上水の給水地〉
神田上水が供給した範囲は、江戸城の東から東北方面にあたる神田・日本橋・京橋地区一帯になります。
懸樋により、神田川を越えた神田上水は、小川町や神保町に供給しつつ神田橋に向かいます。
神田橋で、二筋に分れて、一筋は神田橋門内に入り、神田橋門内の大名屋敷に供給します。もう一筋はお堀に沿って流れて行き、龍閑橋(現在はありません)で、内神田一帯と供給する支流を分岐し、本流は常盤橋に向かいます。
本流は、常盤橋に行くまでに、大伝馬町から両国(現在の東日本橋)に供給しました。本流は、一石橋で御堀を越えて京橋地区にまで供給しました。
下写真は、江戸東京博物館に掲示されている神田上水の供給範囲です。 緑色が神田上水の水路です。なお、青印は玉川上水の水路です。

赤印が文京総合福祉センターです。
青印が「神田上水懸樋(掛樋)跡」石碑の設置場所です。