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蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡(秋葉原散歩④)

 本日は、大晦日です。

 今年1年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。

 いつも熱心にお読みいただきありがとうございます。おかげさまでよい年を迎えられそうです。読者の皆様もよい年をお迎えください。

 今日は、蓬莱園跡-平戸藩上屋敷跡をご案内して、今年の書き納めとさせていただきます。

 現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北スポーツプラザのある一帯に、江戸時代、肥前国平戸藩主松浦(まつら)家の上屋敷があり、そこには蓬莱園という名園がありました。
 柳北公園の北西側の忍岡高等学校との境にある石碑「蓬莱園跡」と台東区教育委員会の説明板がそれを示しています。(下写真)

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平戸藩主松浦(まつら)家は、平安時代の武将渡辺綱までさかのぶる、大変古い出自を誇る家柄です。

初代藩主は松浦鎮信で、3代藩主松浦隆信の代の寛永9(1632)、松浦氏は、幕府からこの地を与えられ、小堀遠州が庭園を築造しました。

寛永18 年(1641)、もともと上屋敷だった元誓願寺前屋敷が焼失したことから、その翌年(1642)、鳥越の地を上屋敷としたと書いてあるものもあります。

上屋敷の面積は約15千坪ありました。上屋敷内の庭園は約2500 坪でその大部分が池泉だったそうです。この庭園が、江戸時代後期に蓬莱園となづけられました。

松浦家の歴代藩主の中で、とりわけ有名な殿様が9代目藩主の松浦静山です。

松浦静山は、随筆集「甲子夜話」を書いたことで大変有名です。

松浦静山は、安永4年(1775)に藩主となりました。そして、文化3年に起きた江戸の三大大火の一つといわれる文化3 年(1806 3 月におきた大火(俗に丙寅の火事・車町火事・牛町火事といわれる)で、松浦家の上屋敷が焼け、庭園も壊滅的な被害を受けたと推測されています。

当時藩主であった松浦静山は本所屋敷に退避し、その年11月にそのまま隠居したため、鳥越屋敷は新藩主松浦熈が居住する屋敷となりました。そして、10代藩主松浦熈の時代に、庭園は「蓬莱園」と命名されました。

明治初期の参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」の地図によると平戸藩上屋敷は「松浦邸」とされていることから、明治以降は、松浦家の邸宅となっていたと思われます。

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柳北公園の北西の歩道脇の台東区教育委員会の説明板(上写真)によると、蓬莱園は明治40年刊行の『東京案内』には「文化文政の頃の築造に係り、東京名園中現存するものの一也」と記されているそうです。

また『浅草区誌』によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は約2600坪に及び、池水は鳥越川から取り入れていたそうです。

しかし、蓬莱園は、関東大震災のために荒廃し、昭和12 年、東京都立忍岡高等学校建造のため、敷地は埋め立てられ、ついに消滅してしまいました。

現在は忍岡高等学校グラウンド東北隅に、「望潮の入江」といわれた池の一部と、都天然記念物指定の大イチョウを残すだけとなっています。(下写真)

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私が訪ねた時には黄葉がかろうじて残っていました。

 大イチョウは忍岡高校内あるため、近くで見るには、忍岡高校の許可が必要になります。上写真は、忍岡高校に許可を得て校内から撮影したものです。2回目にお邪魔した時には断られましたから、必ずしも常に許可されるわけではなさそうですので、ご注意ください。

 それでは改めて、皆様、よいお年をお迎えください。


赤印が「蓬莱園跡」の石碑と台東区教育員会の説明版設置場所です。
青印が忍岡高校内にある大イチョウです。





by wheatbaku | 2019-12-31 09:16 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)

 藤堂家上屋敷の東西は、AKKAP本社から和泉小学校辺りまでありました。

 現在は、その東側に、和泉公園があります。

 その和泉公園の東側に金網(きんつな)稲荷神社がありますが、この金綱稲荷神社に気付く人は少ないのではないでしょうか。

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しかし、金綱稲荷神社はかなり歴史のある神社です。

現在の運輸業界の大手である日本通運㈱の元となったのは、江戸の定飛脚問屋でした。

日本通運は明治4年(1871)に、4つの飛脚問屋が結成した陸運元会社からスタートしています。

その有力飛脚問屋の一つに京屋弥兵衛がありました。金綱稲荷神社は、この京屋弥兵衛が最初にお祀りしたものです。

金綱稲荷神社には、日本通運金綱稲荷神社奉賛会が寄進したご由緒を書いた石碑があります。

江戸の有力飛脚の一軒に当る飛脚問屋京屋弥兵衛が、徳川幕府から免許をうけて、大坂・京都・江戸間の運送事業を開始することになった際、お客様から頼まれた大切な手紙や金銭・貨物などを、安全正確に送り届けられことを願いました。その時、京屋弥兵衛は、京都の出身であり、伏見稲荷が、中世の頃盛んであった熊野参詣の道中を守護した道中安全の神様であること思い出して、伏見稲荷をお店に勧請しました。

 そして、ある夜、夢枕に王冠白衣のご神霊が立って「汝に黄金の綱を授ける」との詫宣がありました。そこで、早速自分の店で奉祀している神様に「金網(きんつな)」の名前をつけ、前にも増して篤く信仰しました。

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 それ以来、京屋の飛脚は、道中における災いが皆無となり、商売繁盛となりました。

これにより、京屋は、明治4年(1871)に陸運元会社になるまでの長い間、江戸時代を通じて商売を継続できました。

前述したように京屋は、ほかの飛脚問屋とともに明治5年に陸運元会社となりました。これ日本通運の源となるわけですが、陸運元会社は、さらに内国通運、国際通運となり、そして、日本通運となりました。

京屋弥兵衛が商売をしていたのは、日本橋の室町2丁目でしたので、金綱稲荷神社も元は、京屋の屋敷内にあったものと思います。それが、和泉町に移った時期や理由ははっきりしていないようですが、隣地に日本通運神田支店があったことと関係がありそうです。

金綱稲荷神社の隣には、現在日通本社ビルが建築中で、2021年には竣工するそうです。

 奉賛会の石碑(下写真)によると、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、奇跡といわれたこともあるそうです。

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また、大正1291日の関東大震災のとき、猛火が殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、霊狐が、突然神田川沿いの屋上に現れ、炎上する火炎に立向い、それを追払う所作をしたといい、その神々しい姿が目に焼き付いているという話が地元に残っているそうです。



by wheatbaku | 2019-12-28 18:28 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

藤堂家上屋敷跡と伊藤伊兵衛(秋葉原散歩②)

前回藤堂家上屋敷跡の話を書きましたが、現在は藤堂家上屋敷跡を感じさせるものはほとんどありません。

そうした中で、藤堂家上屋敷跡の一部に建っているYKKAPの本社ビルの一画に「藤堂和泉守上屋敷を彩った樹々」と書かれた説明板があります。下写真の手前が説明板です。

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説明板には、藤堂家の植木職を代々勤めた伊藤伊兵衛に縁のある樹木を植えたと書かれています。

その説明の通り、本社ビルの歩道脇には、上写真の通りいろいろな品種の樹々が全長約60メートルのコーナーに植えられています。

普通の生活では見かけることのないムラサキシキブなどが植えられていて、さながら小規模な植物見本園のような状態です。(下写真はムラサキシキブの実です。)

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また、「クロモジ」「シロモジ」といった植物もあります。「クロモジ」は楊枝として利用される木であることを知っていましたが、その仲間の「シロモジ」という木もあることは、初めて知りました。(下写真)

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これらすべてが、伊藤伊兵衛に縁のある植物であるかどうか確認できませんでしたが、大変興味深い植物が多く植えられています。植物が好きな人には興味深いコーナーだと思います。

そして、伊藤伊兵衛に関係する植木ももちろん植えられています。

伊藤伊兵衛は、豊島郡染井村の植木職でした。伊藤伊兵衛は代々襲名された名前であり、その三代目が伊藤伊兵衛三之丞、四代目が伊藤伊兵衛政武と考えられています。

藤堂家が染井に下屋敷を与えられたのは明暦4 年 (1658) のことです。明暦の大火後の大名屋敷の移動によるものと考えられています。

藤堂家の下屋敷が染井にあったことから、伊藤伊兵衛が藤堂家に出入りするようになり、三代目の伊藤伊兵衛三之丞は、藤堂家下屋敷の庭掃除などをする「露除(つゆよけ)」、つまり下男のような存在でした。そして、下屋敷で不要になった霧島つつじなど、多くの花木を自らの庭に移植し、多くの花や樹木を栽培し、特に霧島つづじが得意で、三之丞は、自らを「きり嶋屋伊兵衛」と称しました。YKKAPの本社ビルにも霧島つつじが植えられていました。(下写真)

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三代目三之丞は、わが国で最初の総合的な園芸書「花壇地錦抄( かだんじきんしょう)」を出版したことでも有名です。

 また伊藤伊兵衛正武も、父の『花壇地錦抄』をより完成したものにするため、『増補地錦抄』『広益地錦抄』『地錦抄附録』を刊行しました。 下写真は、豊島区郷土資料館に展示されている「地錦抄シリーズつまり上記3種類の地錦抄の続編」です。

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 正武の代には、伊藤伊兵衛の庭には、8代将軍吉宗や将軍世嗣(のちの9代将軍)の徳川家重が御成りになったことや、江戸城にも出入りしたことが記録に残っています。

 伊藤伊兵衛正武が、力を入れたのが、楓です。自ら晩年に「楓葉軒(ふうようけん)」と名乗りました。

正武は、『歌僊楓集』『新歌僊楓集』『追加楓集』を著し、100種類の楓を選び出し品種名をつけました。

 さらに、「三夕楓(さんせきかえで)之図」という楓の図譜も著しています。

 三夕楓というのは、新古今和歌集に載っている三夕(さんせき)の和歌にちなんで名づけられた三種類の楓の品種を言います。

三夕の和歌というのは、新古今和歌集の中の結びの句が「秋の夕暮」となっている優れた三首の和歌をいいます。

それは次の三首です。
 西行法師の
 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」
 藤原定家の
 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
 寂蓮法師の
「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」

 伊藤伊兵衛正武は、この三夕の和歌にちなんで「鴫立沢(しぎたつさわ)」「浦苫屋(うらのとまや)」「槙立山(まきたつやま)」と名付けました。

 これらの三夕の楓のうち、「鴫立沢」だけが現存しています。その貴重な「鴫立沢」の楓が、AKKAP本社脇に植えられていました。(下写真)

 もう紅葉も過ぎて、落ち葉に近い風情ですが、来年は、新緑の頃、紅葉の頃に訪ねてみたいと思いました。

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1226日追記】

 新編武蔵風土記稿巻之18の豊島郡上駒込村の中で「芸家伊兵衛」として、伊藤伊兵衛について詳しく書かれています。

 まず、享保123218代将軍吉宗が御成りになり、その際に霧島つつじなどが御用として買い上げられています。そして、425日に、江戸城内の台所口に呼び出され、小納戸役の松下専助から舶来の樹を見せられ、伊兵衛が見たことがないが「深山楓」に似ていると答えたところ、それを持ってくるように命じられました。 後日、植木盆に植えた深山楓を献上すると、その年の秋に、深山楓に接ぎ木した舶来の楓を下賜され、珍しい樹だから繁殖して広めるように命じられたと書かれています。 

 これが、現在「唐楓(トウカエデ)」と呼ばれている楓で、命名したのも伊藤伊兵衛正武だそうです。

 浜離宮恩賜公園には、大きな唐楓(トウカエデ)があります。下写真は以前撮影したものです。

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浜離宮恩賜公園の説明では、この唐楓(トウカエデ)は、吉宗に清国の船が6株を献上し、1株は小石川御薬園(現・小石川植物園)に、5株は浜離宮に植えられたと伝えられているそうです。近くで葉の形をみると、まさにカエデです。(下写真)

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赤印がAKKAP本社脇にある説明板の設置場所です。












by wheatbaku | 2019-12-25 14:15 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!
合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!

昨日は、今年の江戸検1級に合格した人たちの祝賀会がありました。

今年の8月に開講した「合格虎の巻講座」を受講してくれた35人の中から7人の合格者がでました。

 江戸検1級の合格者は、全体で20名ですので、合格者の三分の一が受講者の中から出たことになりました。
 その合格者の努力を慰労し合格を祝う会が、御茶ノ水で開かれ、皆さんをお祝いしてきました。

 祝賀会の開始が5時からでしたので、その前に神田明神にお参りしました。

 神田明神には、毎年、江戸検受検者の奮闘祈願をしています。今年も、1級合格者が大勢でるようにお願いをしていましたので、その御礼参りに行きました。

 日暮れ時にお参りしたのですが、大勢の参拝者がいました。拝礼するまで少し時間がかかりましたが、しっかりと御礼参りをしてきました。

 日暮れ時でしたので、大黒様もライトアップされていて、いつもとは違う表情の写真が撮れました。

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14340386.jpg

 

今年合格した人の中には複数回合格となる人もいましたが、初めて受検して一発合格した人、昨年70点前半の人あるいは60点台の人も合格していて、すばらしい結果でした。

合格祝賀会では、全員でお互いの合格を祝してまず乾杯です。(下写真)

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14375426.jpg

 乾杯後には、皆さんから自己紹介をかねてこの間の奮闘ぶりが話されました。記述式問題を意識したノートを作って勉強した人、前年60点だけども今回は絶対受けってやるという思いで取り組んだ人、今年が最後だと思って背水の陣を敷いて臨んだという人、などなど、それぞれ苦労話を交えて喜びの声を聞くことができました。
 いずれも、「1級に絶対受けるぞ」という強い決意で臨んでいたことがわかるお話でした。

 喜びの声の発表のあとは歓談に入りましたが、江戸城天守閣再建の話や博物館めぐりの話など江戸に関する話がつきませんでした。2時間の予定でしたが、実際に終了したのは3時間たった後でした。
 最後に合格者一同で記念撮影をして散会しました。

 合格された皆さんおめでとうございます。そして、皆さんの笑顔から来年に向けてのパワーをもらいました。ありがとうございました。

合格祝賀会で江戸検1級合格をお祝い!_c0187004_14273292.jpg

 合格祝賀会で皆さんが異口同音に言っていたのが、「合格虎の巻講座」で聞いた話が非常に参考になったということです。 

 江戸検は来年が最後で1回のチャンスしかありません。

 昨日の合格者の人たちも、来年受検する人たちへの応援は惜しまないといってくれています。
 また、以前に合格している人たちにも、来年受検する人が一人でも多く合格できるように合格のノウハウを提供するよう呼び掛けています。

 江戸楽アカデミーで来年開講するこれで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」では、これまで合格した人たちの英知を結集して講義します。それにより、一人でも多くの人に合格して欲しいと思っています。

 土曜日コースは既に満員ですが、日曜日コースはまだ空きがあるようです。

 来年こそは合格したいと思っている方、ぜひお申込みください。
 講座内容やお申し込み方法は下記ホームページをからお願いします。 『江戸楽アカデミー









by wheatbaku | 2019-12-22 13:25 | 江戸検定
藤堂家和泉守上屋敷跡(秋葉原散歩①)

藤堂家和泉守上屋敷跡(秋葉原散歩①)

 秋葉原駅の東口周辺は江戸の史跡が多いのですが、インターネットで検索してもあまり詳しく説明されたものがないようですので、何回かにわけて、秋葉原駅東口周辺の史跡案内をしようと思います。

 最初に、藤堂和泉守上屋敷跡についてご案内します。

 藤堂家上屋敷は、現在の神田和泉町の西側部分にありました。秋葉原駅東口の目の前に位置します。

〈神田和泉町〉

 神田和泉町は、主に津藩藤堂家の上屋敷であった場所に起立した町です。

藤堂家の藩主が代々和泉守を名乗ったことから、名づけられました。江戸時代は武家地であったことから町名をもっていませんでしたが、明治5年に神田和泉町の名前が正式に誕生しました。

ただ、神田和泉町には、藤堂家上屋敷の東側にあった鶴岡藩酒井家中屋敷や旗本の屋敷も含めた部分も含まれていますので、神田和泉町イコール藤堂家上屋敷ではありません。概ね、現在の和泉小学校までが藤堂家の上屋敷だったと思われます。和泉小学校の東側に和泉公園がありますが、ここは、江戸時代は旗本屋敷でした。

津藩藤堂家の上屋敷の面積は、約1万5千坪あり、広大なものでした。
 下写真は、千代田区が設置した町名由来板です。

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〈藤堂高虎〉

 藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に、郷士であった虎高の子として生まれました。15歳のとき、浅井長政に仕え、姉川の戦などで武功をあげました。その後、織田信澄などに仕えた後、豊臣秀吉の弟豊臣(当時は羽柴)秀長に仕え、賤ケ岳の戦、紀伊雑賀攻め、島津攻めなどに軍功があり、加増を重ねられて、紀州粉川で2万石を拝領しました。

天正15(1587)、佐渡守に叙任しました。(最初は和泉守ではなかったんですね)

豊臣秀長の死後、その子秀保に仕え、文禄の役では秀保の代理として朝鮮に出陣し、水軍の将として武功を挙げました。

秀保の没後、高野山にのぼり剃髪しましたが、豊臣秀吉のたっての願いにより秀吉の直接の家来となり、文禄4年(1595)、伊予国に7万石を拝領し、宇和島城主となりました。慶長の役でも、水軍を率いて朝鮮に渡海し、巨済島の戦いで朝鮮水軍を全滅させ、1万石を加増されました。

豊臣秀吉の死後は家康に接近し、関ケ原の戦では、小早川秀秋を監視し、寝返った秀秋と共に大谷吉継を攻撃しました。その功から関ヶ原の戦いの後、12万石を加増され伊予半国を治めることと伊予今治城を建設しました。

藤堂高虎は城普請の名手として知られ、自分の居城である宇和島城、今治城をはじめとして、近江膳所城、伏見城、丹波篠山城、丹波亀山城などの普請を任せられました。さらに、江戸城の縄張りも担当し、江戸城が落成した際に2万石加増され、和泉守に改めました。

そして、慶長13年(1608)には伊賀1国と伊勢8郡にて移封され、伊勢国津城を拠点としました。この移封の際、伊賀上野城を築きました。下写真は、復元された伊賀上野城に展示されている藤堂高虎の兜です。豊臣秀吉から拝領した「唐冠兜(とうかんなりかぶと)」で三重県の文化財に指定されています。昨年、伊賀上野城を訪ねた際に見てきました。

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藤堂高虎は徳川家康から深く信頼され、家康は臨終の床で、「国家の大事のときには、一の先手は高虎、二の先手は井伊直孝」と言い残したといいます。

家康の死後、2代将軍秀忠からも信任され、加増を重ねて、元和3年(1617)に32万3950石となりました。その後秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走し、大坂城の縄張りも担当しました。

そして、寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。享年75歳でした。

〈藤堂家の上屋敷〉

藤堂高虎が拝領した屋敷は、現在の神田和泉町の屋敷ではないと思います。

角川日本地名大辞典の神田和泉町の説明によれば、藤堂家は明暦の大火後に神田和泉町に土地を拝領したと書いてあります。

ということは、明暦の大火以前には、神田和泉町に屋敷がないことになりますので、藤堂家の上屋敷が明暦の大火以前どこにあるのか調べました。

いろいろ調べた中で、黒木喬著「江戸の火事」によると、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火以後、火災に強い街づくりが計画され、江戸城北の丸にあった4代将軍家綱の弟綱重と綱吉の屋敷を辰の口(現在の大手町)に移し、徳川綱重は加賀藩前田家の上屋敷、徳川綱吉は津藩藤堂家の上屋敷に移ったと書いてあります。

そこで、「寛永江戸庄図」をみると大手門前に「藤堂大学」と書かれた屋敷があります。藤堂高次は、大学頭を名のっていたことがありますので、これは藤堂家の上屋敷で間違いないと思われます。

従って、藤堂家の上屋敷は、明暦の大火以前は辰の口にあり、明暦の大火後に、辰の口から神田和泉町に移転してきたことになります。

 

〈『江戸名所道外尽(どうけづくし) 外神田佐久間町』安藤広景画〉、

藤堂家の上屋敷がどんな様子であったわかる浮世絵があります。

下の浮世絵は安藤広景が描いた「外神田佐久間町」です。

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ここで描かれているのが、藤堂和泉守上屋敷の幕末の正門とそれに続く長屋を描いたものです。

表門は両脇に番所のついた格式の高い門構えとなっています。

また、塀の前には堀があることもわかります。また、門に続く長屋は堅固にできており、二階の窓は武者窓に横木をわたした「曰(いわく)窓」であったことがわかります。

〈森鴎外と東京医学校〉

 明治の文豪森鷗外、明治7年12歳の時、東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)に入学しました。

森鷗外は、医学生時代にこの長屋に寄宿していたことがあります。

こうした経験を踏まえて、代表作の一つ短編小説『雁』のなかにその頃のこの長屋の様子を書いています。

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「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌はめた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論今はあんな窓を見ようと思ったって、僅わずかに丸の内の櫓やぐらに残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきゃしゃに出来ている。」
 これを読むと「曰(いわく)窓」が非常に頑丈にできていたことがよくわかります。

〈種痘所から東京大学医学部へ〉

 さて、森鷗外が入学した東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)ですが、元々は、安政5年 (1858) に江戸市中の蘭医が設立した神田御玉ケ池の種痘所がはじまりです。

種痘所は、神田相生町からの出火により類焼し、伊東玄朴の家に移転した後、万延元年 (1860) 10月 幕府直轄の種痘所となりました。

この種痘所は、これ以降しばしば名前を変更しています。

まず、種痘所から西洋医学所となり、さらに医学所と改称さて明治維新を迎えました。

明治以降は、さらにめまぐるしく名前をかえて、医学校、大学東校、東京医学校などの名称を経て東大医学部となっています。いちいち名前の変遷を覚える必要はありませんが、主なところだけ書いておきます。

明治元年 (1868) 7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所とあわせて大病院となり、さらに明治2年大病院は、医学校兼病院と改称されたあと、大学東校と改称されました。

さらに、明治5年 8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。

明治7年5月には 第一大学区医学校は、東京医学校と改称されました。

森鷗外が入学したのは、この時期にあたります。

そして、東京医学校は、明治9年11月本郷に移転し、明治10年 4月東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なりました。



by wheatbaku | 2019-12-19 14:49 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
柳森神社(新江戸百景めぐり54)
柳森神社(新江戸百景めぐり54


昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、秋葉原駅から浅草橋駅まで散歩してきました。

 昨日は、11月初旬の陽気で、日中はまったく寒さを感じることなく、快晴のもと、楽しく散歩してきました。

 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

 昨日のコースは、次のようなコースでした。

【ルート】秋葉原駅 ⇒ 柳森神社 ⇒ 和泉橋(&柳原の土手) ⇒ 津藩藤堂家上屋敷跡 ⇒ 防火守護地の碑 ⇒ 金綱稲荷神社 ⇒ 和泉公園(休憩) ⇒ 三井記念病院・対馬藩宗家上屋敷 ⇒ 蓬莱園跡 ⇒ 甚内神社 ⇒ 鳥越神社 ⇒ 浅草天文台跡(&蔵前) ⇒ 浅草橋駅 

このコースの中には、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)で紹介されている柳森神社も案内してきましたので、今日は、柳森神社の紹介をします。

下写真は柳森神社の境内で説明を聞く参加者の皆さんです。

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 柳森神社は『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では119ページの第62景で紹介されています。

 柳森神社は、秋葉原の駅からは、神田川に架かる「神田ふれい橋」という歩行者と自転車だけが通れる近道を通れば、3分で着きます。

 柳森神社は、室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社です。

 下写真は本殿前で説明を聞く参加者の皆さん。

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〈富士講関係石碑群〉

 鳥居を下ると境内は道路より低くなっています。

 その石段の脇に「富士講関係石碑群」があります。千代田区教育委員会の説明によると次のようになります。

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柳森神社は、延宝8(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祀されたた富士浅間神社を合祀しました。

『東都歳時記』の六月朔日の項の富士参前日の説明の中で、「富士塚』の例として、柳森神社があげられています、

これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚などが境内に築かれていたようです。

その後、富士塚が明治時代以降何らかの理由で一度廃れてしまい、昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建され、現在残っている石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。

しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この時に、残された富士塚の石を境内に積み上げて小山を築き、その小山の中に4枚の富士講石碑を設置しなおされたものが現在の石碑群です。千代田区の民俗文化財に指定されています。

 

〈御衣黄桜(ぎょいこうざくら)〉

 本殿の前の桜の木は、御衣黄桜(ぎょいこうざくら)と呼ばれる緑色の花を咲かせる珍しい桜です。開花につれてわずかではあるが、緑、黄、ピンクへと色を変えていくそうです。

訪ねた昨日は、当然のことながら花は咲いていませんでしたが、以前訪ねて撮影したものが下写真でした。ソメイヨシノとは違う趣があり、大変すばらしかったです。

柳森神社(新江戸百景めぐり54)_c0187004_16202399.jpg

〈福寿神(おたぬきさん)〉

 本殿の手前右手に福寿社があります。下写真が福寿社の御社です。

福寿社は「お狸さん」とよばれ、5代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。

柳森神社(新江戸百景めぐり54)_c0187004_16202384.jpg

桂昌院は、京都の八百屋の娘として生まれ、江戸に下向し奥女中として大奥に入り、3代将軍家光の目に留まり、側室となり、5代将軍となる徳川綱吉を産みました。 

このように立身出世した桂昌院にあやかり、狸は、「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の御利益があるとして信仰されました。

特に、江戸時代には、桂昌院にあやかりたいと願う大奥の女中たちに崇められました。

当初は江戸城内に祀られていましたが、後に鳥越の甚内橋近くにあったという旗本の瓦林家の屋敷内に移され、さらに、明治2年に柳森神社で祀られるようになったようです。下写真は、説明を聞く参加者の皆さん。右端に御社が写っています。

柳森神社(新江戸百景めぐり54)_c0187004_16202315.jpg
 

〈柳原の土手〉

 現在は、柳原の土手も柳もありませんが、「江戸名所図会」には、「柳原の封彊(どて) 筋違橋より浅草橋へ続く。その間、十町ばかりあり。享保年間、このところの堤にことごとく柳を栽(う)えさせらる。堤の外は神田川なり。」と書いてあります。

柳原の土手は、元和6年(1620)に、幕府の命令により仙台藩が神田川を掘削した際に、その土を利用して江戸の中心部を洪水から守るために築いたと言われています。

和泉橋の南側に千代田区教育委員会の建てた柳原の土手についての説明板があります。下写真が説明板の拡大写真

柳森神社(新江戸百景めぐり54)_c0187004_16202398.jpg

 「『江戸名勝志 』に柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1km)つづけり。柳樹多くありとあり、昔、このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(171635)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。」

 その後、寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てましたが、安政3年(1856)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町屋ができました。

 江戸時代には、土手には、葭簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていて、古着の一大マーケットだったそうです。

 そして、柳原の土手は、明治6年に取り崩されたため、その面影は全くありません。

赤印が柳森神社です。
青印が和泉橋です
オレンジ印が神田ふれあい橋です






by wheatbaku | 2019-12-15 16:18 | 新江戸百景めぐり
「これで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」のご案内

「これで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」のご案内

 まもなく、江戸検を受検された皆さんに結果通知が届く頃になりました。

 その結果通知より、一足先に、江戸楽アカデミーの講座受付がアップされました。(詳細は下記URLをクリックしてください。⇒ 江戸楽アカデミー 

「これで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」のご案内_c0187004_05431414.jpg

そこで、今日は、これで合格!『江戸検1級合格虎の巻』講座」の紹介をさせていただきます。

 今年の8月に『江戸検1級合格虎の巻』講座を開講しましたが、この講座を受講された人のうち8人の方が、自己採点で80点を越えています。つまり1級合格見込み者です。

 ありがたいことに、『江戸検1級合格虎の巻』講座を受講した人の2割の人が1級に合格することとなります。

 今年の合格者を加えると私が教えた人で1級に合格した人が60人以上になります。

 こうした経験から、江戸検1級は、大変難しい検定試験ですが、やる気を持ってしっかりと準備をすれば合格できるというのが、私の考えです。

 そして、今年までは「時間をかければ、誰でも、1級に合格できる」というのが私の持論でしたが、残念なことに、来年で江戸検が終了となります。

来年が最後のチャンスとなりますので、これまで合格できなかった人、または、初めて受検する人は、ここで決めるしかありません。

そのため、これまで頑張ってきた大勢の人や初めて受検する人たちに合格してもらうために、これまで、開講していた『江戸検1級合格虎の巻』講座を、より充実したものにして、開講することにしました。

 これまでの講座は、8月に2時間で、合格するためのノウハウを解説しました。

しかし、来年は、今までのノウハウを全て伝えるため、まず、3月と6月の2回にわたって全体で5時間をかけて6月までにやるべきことを解説します。

具体的には、①心構え、②『江戸博覧強記』の読み方、③過去問への取り組み方、④基礎知識の勉強方法、⑤14回問題解説などを講義する予定です。

さらに 江戸検直前期の取り組みについては、7月以降に開講する秋季に講義しようと思っています。

 こうすることによって、これまで1級合格者60人余りを指導してきたことで得たノウハウを受講される方に、すべて伝えようと思っています。

 昨年は10回受検してようやく合格できた人もいます。今年は、初めて1級を受検した人がめでたく1級に合格したという例もあります。

 このように、これまで、何回も受検したが不合格だった人、あるいは、来年に初めて1級を受検する人、こうした人たちが大勢1級に合格して欲しいというのが私の願いです。 

ですから、できるだけ丁寧に、そしてわかりやすく解説しようと思っています。

 多くの人、特に、初めて1級を受検する人に、ぜひ受講していただきたいと思っています。ご希望される方は本日アップされた下記HPを見てお申込み下さい。

  江戸楽アカデミー 

 今回は、土曜コースと日曜コースと2コース準備しましたが、これまでは、1週間以内に、定員に達していますので、希望される方は、できるだけ早くお申込みください。

 






by wheatbaku | 2019-12-11 05:34 | 江戸検定
神田川(新江戸百景めぐり53)

神田川(新江戸百景めぐり53

 新江戸百景めぐり、今日は、神田川についてご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では45ページの第6景で紹介されています。

 現在、神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、隅田川に合流する延長約25km1級河川を言います。しかし、江戸時代には、神田川の上流は神田上水、中流は江戸川とよばれました。

 そして、江戸川と外堀の合流点(現代の飯田橋付近)から、両国橋近くの隅田川合流点まで神田川と言いました。
下写真は昌平橋からみた神田川です。神田川の上に架かっている橋はJR総武線の橋梁です。

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18231891.jpg

船河原橋

 飯田橋は、JR飯田橋駅東口を出ると目の前に見える橋で、名前は大変有名ですが、明治14年に、外堀に架けられたため、江戸時代には、飯田橋はありませんでした。 江戸時代には、神田川は、飯田橋付近で外堀と合流していましたが、外堀には橋がなくて、神田川にだけ船河原橋がありました。この船河原橋より下流が神田川でした。船河原橋は、どんと橋とも呼ばれました。下写真は現在の船河原橋です。左手奥がJR飯田橋駅です。駅の北東方向から撮った写真です。

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18104700.jpg

 現在の船河原橋は、飯田橋と一体となっていてわかりにくくなっています。下図は、飯田橋付近の地図ですが、写真の左上がJR飯田橋駅です。そして、中央に飯田橋と船河原橋が描かれています。

 つまり飯田橋の下流にかかる橋が船河原橋ですが、さらに正しくは右手の神田川に架かる橋も船河原橋と呼ばれています。

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18100627.jpg

お茶の水

 神田川は、元和2年(1616)に外堀の役割を兼ねて人工的に開削されました。それ以前の川は、平川と呼ばれ、現在の日本橋川の川筋を流れて日比谷入江に注ぎ込んでいました。

 それを隅田川に流すために、神田山とよばれていた御茶の水付近の台地を切り開いて、人工の堀が造られました。
 武江年表の元和2年の項には「10月 神田川掘割ならび堤を築(ちく)せらる。」と書かれています。
 この開削には仙台藩伊達家が、工事にあたったので仙台堀ともよばれました。 

 工事によって開削された御茶ノ水付近は、中国の赤壁に似ていたおとから「小赤壁」とも呼ばれました。

 下写真は、現在の御茶ノ水橋から見た上流側の様子です。

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18124387.jpg

 明暦の大火後の万治3年(1660)に幕府は伊達綱宗に神田川の拡幅を命じました。この工事は万治4年に完成し、この工事により現在の飯田橋まで船が通うことができるようになりました。

 

柳原の土手

お茶の水の溪谷をすぎた神田川の下流には、神田川の南側つまり江戸市中がわに洪水予防のため土手が築かれました。

千代田区教育委員会の説明板によれば、筋違橋から浅草橋までの約10町(約1.1キロ)の間の土手の上に柳が多く植えられていたため「柳原の土手」と呼ばれました。


これは、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えたといわれており、その後、享保年間のはじめに8代将軍徳川吉宗が、柳が枯れて柳原という名前だけがとなっていたため、再び柳を植えさせたとも言われています。

 「江戸名所図会」には、「柳原の封彊(どて) 筋違橋より浅草橋へ続く。その間、十町ばかりあり。享保年間、このところの堤にことごとく柳を栽えさせらる。堤の外は神田川なり。また、この堤の下に、柳森稲荷と称する叢祠あり。ゆえに、この地を稲荷河岸と呼べり」と書かれています。

この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが住んでいましたが、その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う露店が設けられ、古着屋が多く集まっていました。

柳原の土手は、明治6年に崩され、現在は、その名残りはまったくありません。和泉橋の南側に、千代田区教育委員会が建てた説明板が建てられているだけです。(下写真)

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18124321.jpg

柳橋

神田川が隅田川に合流する地点に架かっている橋が柳橋です。

江戸中期当時は神田川河口の下柳原同朋町(現在の中央区)と対岸の下平右衛門町(現在の台東区)の間は渡船で往来していましたが不便なため、柳橋が元禄11年(1698)に建設されました。

明治20年に鋼鉄橋になり、その後の関東大震災にて焼失したため、昭和4年に現在の橋が完成しました。下写真が現在の柳橋です。

神田川(新江戸百景めぐり53)_c0187004_18124368.jpg

神田川が大川にそそぐところにあったことから、柳橋は、当初は「川口出口の橋」(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていましたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになりました。

赤印が船河原橋です。
青印が和泉橋です。
緑印が柳橋です。






by wheatbaku | 2019-12-09 17:32 | 新江戸百景めぐり
神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2

今日は「神田上水」の続編ですが、今日は、大洗堰で取水された水が、どのようにして、江戸市中に供給されたかについて説明していきます。

 

大洗堰で分流した水は、小日向台の下を通って、水戸藩上屋敷の中を流れた後、現在の水道橋駅付近で神田川を越えて、神田や日本橋地区に給水されました。

〈神田上水旧白堀跡〉

水戸藩上屋敷までは、現在の巻石通りを蓋のされていない水路(白堀)で流れて行きました。

巻石通りの途中に文京総合福祉センターがあります。その入口付近に神田上水の白堀跡が残されています。(下写真)

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315754.jpg

文京総合福祉センターの建設工事をする際に、平成23年から24年にかけて発掘調査が行われ、神田上水関連の遺構が発見されました。

この調査で発見された白堀跡は、石積み護岸で、長さは60m以上確認されました。そして、その一部が現地で展示されていて、地上から見えるようになっています。

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315759.jpg

〈小石川後楽園を通る神田上水〉

神田上水は、水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通っていました。その名残りが現在も小石川後楽園に残されています。

小石川後楽園に残された神田上水跡を見ると江戸時代の神田上水がどのようなものであったのかよくわかります。下写真は、小石川後楽園に残された神田上水路で、水路の左手に「神田上水跡」と書かれて杭があります。

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315796.jpg

また、意外と神田上水だと気が付かないのが円月橋の下を流れる水路です。この水路も神田上水跡です。円月橋は、明の儒学者朱舜水が設計したと言われていて、水面に映る形が満月のように見えることから円月橋と名付けられました。

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315867.jpg
 

下の絵が小石川後楽園の園内図ですが、赤字のラインが神田上水の水路です。左側が北になりますので、園内の北側の水路部分が神田上水の流路ということになります。

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315728.jpg

〈御茶ノ水の懸樋(かけひ)〉

 水戸藩上屋敷を流れた神田上水は、石樋を利用して、現在の白山通りの下を流れた後、神田川を越えていきました。

 神田上水が神田川を渡るためにかけられた橋が「懸樋」と呼ばれています。

懸樋の長さは約17間(約56m)あり、銅張の屋根が葺かれていました。

 水道歴史館には、懸樋の模型があります(下写真)

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315727.jpg

写真の左側(現在の文京区)から右側(同・千代田区)に給水されていました。

 また、懸樋が架けられていた場所に「神田上水懸樋(掛樋)跡」と刻まれて石碑が建てられています。 

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315791.jpg

〈神田上水の給水地〉

 神田上水が供給した範囲は、江戸城の東から東北方面にあたる神田・日本橋・京橋地区一帯になります。

 懸樋により、神田川を越えた神田上水は、小川町や神保町に供給しつつ神田橋に向かいます。

 神田橋で、二筋に分れて、一筋は神田橋門内に入り、神田橋門内の大名屋敷に供給します。もう一筋はお堀に沿って流れて行き、龍閑橋(現在はありません)で、内神田一帯と供給する支流を分岐し、本流は常盤橋に向かいます。

本流は、常盤橋に行くまでに、大伝馬町から両国(現在の東日本橋)に供給しました。本流は、一石橋で御堀を越えて京橋地区にまで供給しました。

 下写真は、江戸東京博物館に掲示されている神田上水の供給範囲です。 緑色が神田上水の水路です。なお、青印は玉川上水の水路です。

神田上水②(新江戸百景めぐり52-2)_c0187004_15315800.jpg

 赤印が文京総合福祉センターです。

 青印が「神田上水懸樋(掛樋)跡」石碑の設置場所です。





by wheatbaku | 2019-12-05 15:28 | 新江戸百景めぐり
神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1

 新江戸百景めぐりで、今日は「神田上水」をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では56ページの第14  景で紹介されています。

 神田上水について原稿を書いていたら長くなりましたので、2回に分けて案内します。今日は、神田上水と大洗堰について案内します。

 下写真は、神田上水の大洗堰があった場所付近に架かっている大滝橋と文京区教育委員会が設置した「大洗堰跡」の説明板です。

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)_c0187004_22423363.jpg

〈神田上水とは〉

 神田上水は、井の頭池を水源として、途中で善福寺川と妙正寺川の水を加えて、大洗堰かから取水し江戸市中に水を供給していました。

東京市稿には「神田上水は府下三上水の一つなり、水源は多摩郡吉祥寺村の井ノ頭ノ池より流出するものを本流とす。また、上井草村善福寺の池より流出するもの一条あり。和田村において本流に合し。下井草村妙正寺池より流出する井草川あり。落合村に至りて本流へ合す。(中略)関口に至り別れて両派となり、一つは大洗堰を下りて江戸川となり、一つは水門より目白台下を白堀に入りて、すなわち上水となる」と書いてあります。

 昭和40年に河川法の改正により、井の頭池から隅田川の合流地点まですべてが神田川と呼ばれるようになりましたが、江戸時代は、井の頭池から大洗堰を経て江戸市中までを神田上水といい、大洗堰の余水が流れる川を江戸川、そして現在の飯田橋より下流を神田川と呼びました。

神田上水の開設時期と開設者については二説あります。

一つが、徳川家康の江戸入りの直後、大久保主水が開いたと言われていて、その功績により大久保主水(もんと)の名を拝領したと言われています。その一方で、寛永年間に内田六次郎が開いたという説もあります。

この二説について、どちらが正しいのか、いまだにはっきりしていないようです。

「江戸町人の研究第5巻」(吉川弘文館刊)の「江戸の水道制度」(伊藤好一著)では、大久保主水が開いたという説と神田六次郎が開いたという説を開設したうえで、「神田上水の開鑿(かいさく)については、その開鑿の年時が不明であるとともに、開鑿した者についても不明な点が多い」と書いています。

〈大洗堰〉

 大洗堰は目白台下にありました。現在は、大洗堰は取り払われてすっかり姿を消しましたが、大滝橋の辺りにあったと考えられていて、そこには文京区教育委員会の説明板がたっています。(最上段写真)

先日の毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」でも、大洗堰を案内しました。下写真は、文京区の説明板を見ながら説明を聞く参加者の皆様です。

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)_c0187004_22423326.jpg

 大洗堰は、ここで水位をあげて、関口台へ水を流すために設けられましたが、神田川では、この地点まで海水が遡ることを考慮して大洗堰を設けていました。

大洗堰は、石造りで、増水した際には堰の上を水が乗り越えられるように造られていました。水が堰を洗うように流れるため、大洗堰をいう名がついたといいます。 

 下画像が、「江戸名所図会」に載っている大洗堰です。江戸時代の大洗堰がどのような形をしていたかよくわかります。

 

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)_c0187004_22423321.jpg

 

〈大洗堰由来碑〉

文京区設置の説明板の下流側の歩道脇に「大洗堰由来碑」がありました。

それによると、東京市は、大洗堰の保存のために、大正8年、大洗堰があった周辺の地を江戸川公園として整備しましたが、昭和12年に江戸川が改修され、大洗堰がなくなりました。そこで、翌年、堰の部材を再利用して、由来碑を建てました。しかし、その由来碑もなくなってしまいました。その後、碑文だけが見つかったため、見つかった碑文を改めて江戸川公園に設置したそうです。(下写真の左が碑文です)

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)_c0187004_22423387.jpg

発見された由来碑の碑文の文面は次の通りです。

  神田上水舊蹟碑記

徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初大久保主水忠行命ヲ受ケテ上水開設ノ工ヲ起シ多摩郡井之頭池ノ水ヲ用ヒ此処ニ堰ヲ設ケテ神田ヨリ市中ニ給水ス神田上水即チ是ナリ此処ハ地勢高峻老樹翁尉タル目白臺下ノ景勝ニ位シ亦四季ノ景物ニ富メルヲ以テ古来江戸名所トシテ聞ユル事久シ俳聖芭蕉嘗テ上水道修築ニ従ヒテ此処ニ寓シ遺阯今ニ傳ヘテ風流ノ余韻ヲ慕フモノ尠カラズ

大正八年(1919)附近水道附属地ヲ江戸川公園ト為シ上水史蹟ノ保存ニ努メシガ昭和12年(19373月江戸川改修ノ工成ルニ至ツテ遂ニ舊観ヲ失ヘリ仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ追憶ノ資トナス

 昭和13年(20013月 東京市

〈神田上水取水口の石柱〉

由来碑の近くに神田上水取水口の石柱があり、次のような説明がされています。

「関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下の水道で、神田、日本橋方面に給水した。

 この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落(かくおとし)」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止に寄り撤去されたものを移した。なお、上水にとり入れた余水は、お茶の水の堀から隅田川へ流された。」

 石柱をよくみると溝がきられていて、そこに板を落として水量を調整したと思われます。(下写真)

神田上水①(新江戸百景めぐり52-1)_c0187004_22423348.jpg

 赤印が大滝橋です。




by wheatbaku | 2019-12-01 22:40 | 新江戸百景めぐり
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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