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神楽坂(新江戸百景めぐり59)

神楽坂(新江戸百景めぐり59

新江戸百景めぐり、今日は、神楽坂をご案内します。

 JR飯田橋駅西口を出て牛込見付を見て北に直進すると外堀通りと交差しますが、そのまま直進する坂が神楽坂です。

 坂の入口には、神楽坂の標柱が建っています。

 それには、次のように神楽坂の地名の由来が書かれています。
 「坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。」

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 神楽坂を登っていくと西側に善國寺があります。

善國寺が創設されたのは、桃山時代末の文禄4年(1595)です。

初代住職は仏乗院日惺上人で、池上本門寺12代貫首を勤めました。日惺上人は、関白二条昭実の実子であり、以前から徳川家康と親交を持っていました。 

天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府した際、 上人が祖父伝来の毘沙門天像を前に天下泰平のご祈祷をしたことを伝え聞き、人に日本橋馬喰町馬場北の先に寺地を与えさらに鎮護国家の意を込めて、「鎮護山・善国寺」の山号・寺号の額を贈りました。

水戸藩主徳川光圀も善国寺の毘沙門天様に信仰し、寛文10年(1670)に焼失した際には、善国寺を麹町に移転し再建したといいます。その後、寛政4年(1792)の火事により、神楽坂へ移転してきました。

下写真が本堂です。

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善國寺の御本尊は、毘沙門天で、日惺上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条昭実からいただいたものと言われています。

毘沙門天は、インド出身の神様で、仏様や仏法を守る役目を担い、四天王の一つとして北方守護を司ります。また、多聞天とも称します。

毘沙門天様への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなりました。

善國寺は、神楽坂毘沙門天として江戸の三毘沙門の随一として江戸っ子の篤い信仰を集めていました。

 本堂の前に虎の石像があります。右が阿形、左が吽形です。下写真は阿形の像です。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、台石を含めた総高は2メートルを越えます。

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大久保通りを横切り神楽坂を登っていき、東京メトロ神楽坂駅近くに、赤城神社があります。

 赤城神社は、正安2年(1300)に、上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡)の豪族大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、鎮守であった赤城神社の御分霊を牛込早稲田田島村(現・早稲田鶴巻町、元赤城神社の社地)に奉斎したのが創祀であるとされています。

 戦国時代の寛正元年(1480)に太田道潅により牛込に遷され、さらに弘治元年に(1555)には大胡氏の子孫である牛込氏によって現在地に再遷座されたといいます。下写真はメトロ出口から見える鳥居です。

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そして、天和3年(1683)江戸幕府は赤城明神社を江戸大社に列し牛込の総鎮守としました。

江戸時代まで赤城大明神と称されていましたが、明治に入り赤垣神社に社号に替えました。

 赤城神社は、すごく近代的な社殿になっています。

 これは、2020年東京五輪の主会場となる『新国立競技場』をデザインした事でも有名な隈研吾さんが設計したものです。下写真は御社殿です。

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 本殿の手前西側には天神様が鎮座しています。こちらの天神様は『蛍雪天神(けいせつじんじゃ)』と呼ばれています。

 天神様としては珍しい名前だなと思いましたが、こちらの神社は、2005年に『旺文社』の寄付により再興されたです。そういえば、『旺文社』の発行した雑誌に「蛍雪時代」という本がありましたね。

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by wheatbaku | 2020-01-28 16:07 | 新江戸百景めぐり
牛込見付(新江戸百景めぐり58)

牛込見付(新江戸百景めぐり58

 

今日の新江戸百景めぐりは、前回の小石川後楽園の近くの牛込見付のご案内をします。
 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では44ページの第5景で紹介されています。

私は、牛込門と呼んでいましたが、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では「牛込見付」と呼んでいるので、ここでも「牛込見付」としておきます。

 現在は、牛込見付といっても、江戸好きの人はピンとくるかもしれませんが、一般の人はピンとくる人はあまり多くはないのでないかと思います。

 牛込見付は、江戸時代は、三十六見附の一つであり、上州方面への出口であるため、「上州口」とも言われました。

 牛込見付は、現在のJR飯田橋駅西口にありました。

 現在も、JR飯田橋駅西口に牛込見付の石垣が残されています。(下写真)

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ちなみに現在の飯田橋は、江戸時代にはありませんでした。当時は、外堀を越えるには牛込見付から渡っていました。

 牛込見付は田安台から牛込方面にでる門で、牛込門や牛込口とも呼ばれていました。

 牛込御門から市ヶ谷門にかけては、江戸時代には、堀の幅が100mもありましたが、現在では大分狭くなっています。

 別名で楓門とも言われますが、秋の紅葉は素晴らしかったそうです。

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駅西口にある飯田橋駅前交番の北側脇にも巨石が残されています。(上写真)

 牛込門は、寛永13年(1636)に枡形石塁が、そして寛永15年(1638)に門が、阿波徳島藩藩主蜂須賀忠英によって築かれています。 

 交番脇の巨石の左下隅に「阿波乃國」の刻印がされていて、阿波藩で築いたことを物語っています。下写真は刻印の部分を拡大したものです。巨石の一番下に左から右に「阿波乃國」と刻まれています。

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 外堀は、高低差があり、市ヶ谷寄りと小石川寄りで水位差があるため、土橋(土で作られた橋)で市ヶ谷方面の水を支え、小滝を設けて小石川方面に水を落としていました。


 土橋となっているため、牛込見付まで、船は入ってくることができましたが、これから先には上れませんでした。

【1月24日追記】浄瑠璃坂の仇討

牛込見付の土橋近くで起きた大事件が浄瑠璃坂の仇討です。

浄瑠璃坂の仇討ちは、江戸三大仇討ちの一つに数えられる仇討で寛文12年(167223日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、奥平源八が父を殺害した奥平隼人を討ち果たした事件です。

事件の発端は、寛文8年(166832日、宇都宮の興禅寺で宇都宮藩前藩主奥平忠昌の二七日法要が行われ、法要後、奥平内蔵允と奥平隼人の2人の重臣が、諍(いさか)いを起し、激怒した奥平内蔵允が奥平隼人に向かって斬りかかりました。この時、奥平隼人は軽い傷ですみましたが、奥平内蔵允は奥平隼人から反撃され、大怪我をしました。奥平内蔵允の受けた傷は深手で、その傷がもとで亡くなりました。

2人の喧嘩に対して藩の処分が下され、奥平源八も奥平隼人も追放となりました。2人は、それぞれ宇都宮を離れ、奥平源八とそれを支持する人たちは、藩の処分に納得せず奥平隼人を討ち果たして仇を討とうということになりました。

宇都宮藩を追放された奥平隼人は、各地を転々として江戸に入り、最終的には市ヶ谷浄瑠璃坂上の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠しました。

そこに、寛文12年(167223日午前4時ごろ、身支度をととのえた奥平源八とその一党42名が奥平隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入りました。

討入った時、奥平隼人は不在でしたが、激闘が展開されました。この戦いの中で多くの隼人の助太刀も討ち取られましたが、肝心な隼人が見つかりませんでした。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて浄瑠璃坂を下り、牛込土橋に近づいたところ、奥平隼人が、手勢を率いて追ってきました。そこで、奥平源八は、隼人と対決し、ついに隼人を討ち取りました。

この際に、奥平隼人は外堀に逃げこみ、それを追った奥平源八は、 堀の中で隼人を討ち取ったともいわれています。


赤印が牛込見付の石垣です。

青印が交番脇の巨石です。
緑印がJR飯田橋駅の西口です。





by wheatbaku | 2020-01-23 17:17 | 新江戸百景めぐり
小石川後楽園②(新江戸百景めぐり57-2)

小石川後楽園②(新江戸百景めぐり57-2

 今日は、小石川後楽園の2回目です。今日は、小石川後楽園の中の中国趣味の風景、そして藤田東湖と造兵廠の石碑についてご案内します。

 小石川後楽園に中国趣味があるのは、小石川後楽園を造営した水戸藩2代藩主徳川光圀が招聘した中国の明の遺臣朱舜水の影響があります。

そこで、まず朱舜水について書いていきます。

朱舜水は、中国の儒学者です。

 中国の明に時代に活躍していましたが、明朝が滅亡し清朝が成立すると、朱舜水は明朝再興のための運動に参加し、鎖国政策下の日本へ救援を求める使節として派遣されていました。

しかし、明朝復興のための戦いが思うように進まないため、復興を諦めて長崎へ亡命しました。

そして、水戸藩藩主の徳川光圀が朱舜水を招聘し、朱舜水は江戸に移住しました。

朱舜水が住んでいたのは、本郷の水戸藩中屋敷でした。

水戸藩中屋敷跡は、現在東京大学農学部となっていますが、東大農学部の正門近くには“朱舜水先生終焉之地”と記された碑が建てられています。

徳川光圀は、朱舜水から大きな影響を受けています。

後楽園と名付けたのも朱舜水であると言われています。

また、日本で初めてラーメンを食べたのは、徳川光圀であると有名な話がありますが、そのラーメンを献上したのは、朱舜水だったと言われています。

西湖の堤 
 西湖の堤は、前回紹介した渡月橋の近くにあります。この石堤は、中国の西湖(せいこ)の蘇堤を模したものです。

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西湖は、中国の名勝地で、当時の日本人のあこがれの的で、詩歌や絵画の題材とされていました。
 この西湖の堤は、光圀が朱瞬水の設計を取り入れて造ったものと言われています。
 円月橋とともに中国趣味の風景で、これ以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなったものです。現在、芝離宮恩賜庭園にも西湖の堤があます。

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円月橋 
 円月橋は、朱舜水の指図により、駒橋という石工が造ったものです。
 この橋は、中国の山水画にある橋柱のない橋です。

 橋柱がないため、橋が水に写った様が、満月のようであるので、円月橋と名づけられています。

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長さが約11メートル、幅約2メートル、中央部の高さが4メートルあります。アーチの半径は2.42メートルです。
 8代将軍吉宗が吹上御苑にこのような橋を作らせようとして、石工を後楽園に派遣させて研究させましたが、難しいと伝えたのであきらめたとの逸話もあるそうです。
 

「藤田東湖先生護母致命之処」の石碑

小石川後楽園の北東の隅に「藤田東湖先生護母致命之処」の碑が建っています。(下写真)

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 藤田東湖は、斉昭の側用人を勤めた人物で、戸田忠太夫とともに、徳川斉昭の腹心として、幕末の水戸藩を支え、水戸の両田と称されました。

号の「東湖」は生家が千波湖の東にあったことにちなむといいます。

父は水戸学者・藤田幽谷です。

徳川斉昭の藩主就任運動を進め、斉昭が藩主になると、側用人として藩政改革にあたり、斉昭の絶大な信用を得ました。しかし、斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚しました。

 その後、ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、再び斉昭を補佐することになり、安政元年(1854年)には側用人に復帰しました。

 しかし、翌年の安政2102日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去しまた。享年50歳でした。その亡くなった場所を示す石碑です、

  

東湖は地震発生時に一度は脱出したものの、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追って邸内に入りました。邸内に入ると梁が落下してきて、その梁から母親を守るために自らの肩で受け止めました。

東湖の母親は、東湖が受け止めたため、何とか母親は無事でしたが、東湖は下敷きとなって圧死したといわれています。

下写真は全体写真、正面の高い石碑が「藤田東湖先生護母致命之処」の碑です。

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藤田東湖が圧死した場所は、東京ドームの東側です。

この石碑は、もともと、昭和17年に建てられ、白山通りが拡幅された際に移転されたものです。

石碑の脇には、昭和54年に石碑を移した経緯を書いた石碑があります。(下写真)

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その石碑には次のように書いてあります。

安政2年(1855102日江戸を襲った大地震の際、水戸藩の碩学者藤田東湖は母を救わんとして臣死した。後世有志相謀り、文京区後楽1-3-40(旧水戸藩武家屋敷跡)東湖在住跡地へこの碑を建立したが、周辺は今や企業の所有に帰したるを以って特に碑を此処へ移して永久に東湖の譲母致命の所以を伝えんと欲するものである。

 昭和54年(19793月吉日 茨城県人会連合会

陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑

 小石川後楽園は、庭園のイメージが強いのですが、明治から昭和初期には、軍需工場でもありました。
 そのため、入口からは最奥部になる内庭に、「陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑」と刻まれた石碑があります。

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 水戸藩上屋敷には、明治4年に小銃などの兵器を造る造兵司が移されました。そして、明治12年、東京砲兵工廠と改称されました。

大正12年に造兵廠と改称された直後の関東大震災で甚大は被害を受けました。そして、昭和8年、小倉に移転され、その役目を終わりました。

この碑は、移転後2年の昭和10年に建立されたもので、碑の形は造兵廠の敷地の形状です

造兵廠の広さは13万坪あったそうです。
 東京ドームも、造兵廠の跡地に経っています。







by wheatbaku | 2020-01-20 18:39 | 新江戸百景めぐり
小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1)

小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1

 昨年の秋に、神田上水のなごりの地を探して小石川後楽園に行き、神田上水の跡をこのブログでも紹介しました。

 小石川後楽園は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)でも84ページの第36景で出紹介されていますので、新江戸百景めぐりの一つとしてご案内します。

 

小石川後楽園の概要

小石川後楽園は、水戸藩徳川家の初代藩主の徳川頼房が、寛永6年(1629)に作り、2代藩主の徳川光圀が完成させた江戸期の代表的な大名庭園です。

 関東では、後楽園とは、この小石川後楽園を指しますが、岡山にも後楽園があることから、正しくは小石川後楽園と呼びます。

 もともと後楽園といっていたのは、ここの後楽園で、岡山の後楽園は、明治4年までは「御後園」と呼ばれていて、後楽園と呼ばれていなかったそうです。しかし、岡山の後楽園が、大正11年に、国の名勝に指定された時に「後楽園」とされました。小石川後楽園が名勝に指定されたのは大正12年でしたので、後楽園という名称を使えなかったため「小石川後楽園」と称したという経緯があります。

 後楽園という名前ですが、四文字熟語に「先憂後楽」という言葉ありますが、この「先憂後楽」から採られた名前です。

 「先憂後楽」というのは《范仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」に由来する言葉で、政治を行う者は、常に民衆に先立って国のことを心配し、民衆が楽しんだ後に自分が楽しむという国家に対する心がけを述べた言葉です。

 小石川後楽園は、池泉回遊式庭園で広さが約2万1千坪(70,847.17平方メートル)ですが、いくつかの特徴がありますが、「名所写し」と「中国趣味」も特徴の一つです。

名所写しというのは、日本各地の名所を取り入れていることです。

小石川後楽園には、滋賀の琵琶湖、京都の大堰川、渡月橋、清水寺、音羽の滝、木曾の寝覚めの床などが取りいれられています。

と中国様式の取り入れが行われていることです。

 また、2代光圀は朱舜水の意見を聞いて、中国の要素を取り入れられています。西湖(せいこ)の堤や円月橋がそれです。

 小石川後楽園は、見所がたくさんありますが、今日は、この名所写しの景色をご案内します。次回、『中国趣味』の景色をご案内します。


小廬山 
 庭園の入口の左手に「小廬山」があります。 

京都の清水寺一帯は、中国の名勝地「廬山」にちなみ小廬山と言われています。
 園内にある大堰川上流の景色が、京都の清水寺に似ていることから、寛永17年に林羅山が「小廬山」と名づけました。現在は、オカメザサに覆われている丘が小廬山と呼ばれています。

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渡月橋 
 渡月橋は園内の川の景の入口にあたる部分にあります。
 京都と同じように大堰川にかかっています。
 この写真の右手が大堰川で、左手前方には西湖があります。

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大堰川 
 大堰川の川幅はかなりあり、川の景の中心を占めています。
 京都の嵐山を模したものです。
 大堰川は、3代将軍家光の好みでつくられたとされています。家光自身が指揮をとったとも言われています。
 大堰川の上流は通天橋につながり、下流には渡月橋がかかっています。
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屏風岩 
 屏風のようにまっすぐ屹立していることから屏風岩と呼ばれている岩で、大堰川の川原に作られています。

この石組は、三尊石組といわれる工法で組まれたものです。

三尊石組とは、阿弥陀三尊や釈迦三尊を石組で表したもので、中央の大きな石が阿弥陀様やお釈迦様を表し、両脇の石が脇侍を表しています。

3代将軍家光は頼房とは年齢も近いこともあり、後楽園作庭中から何度も水戸家を訪ねて、徳大寺左兵衛に指示もしていたそうです。その際に、腰を掛けたといわれる御腰掛石も残されています。

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清水観音堂跡 
 京都の清水寺を模して造ったもので、崖下から柱を組み上げせり出していてすばらしい見晴らしだったと言われています。
 堂内には、室町時代の作と言われる如意輪観音が安置されていましたが、関東大震災により観音堂が焼失する直前に持ち出されて、現在東京都が管理しています。

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通天橋 
 清水観音堂跡を過ぎた場所で大堰川の上流部に架けられた橋が通天橋です。

京都の東福寺の「通天橋」は、紅葉の名所として有名ですが、この通天橋は、その京都の東福寺の「通天橋」にならって、大堰川に朱塗りの橋をかけたものです。
 紅葉の時は大変見事です。

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音羽の滝 
 通天橋のすぐ下にある石組みが音羽の滝です。

これも清水寺の音羽の滝を模したものです。

写真右手に「音羽の滝」の説明板です。

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愛宕山 
 小石川後楽園には愛宕山の写しもあります。山といっても石段です。 
 その石段は、京都の愛宕山の坂を模してつくられた石段ですので愛宕山と名づけられています。石段は47段もの石段となっていて、あまりにも勾配が急で昇り降りが危険ですので、通行できないようになっています。
 石段の上に八卦堂跡があります。

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一つ松 
 後楽園の中央に広がった大きな泉水は琵琶湖に見立てられています。

一つ松も近江の唐崎の一つ松を模したものと言われています。光圀はこの松を非常に大切にしたそうですが、この松はその時代のものではなく、何度か植え替えられた後の松です。

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蓬莱島 
 琵琶湖に見立てられた大泉水の中央にある島は蓬莱島と呼ばれています。
 蓬莱島は中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、大名庭園には必ずといっていいほど出てきます。
 蓬莱島は亀の形をしているといわれていて、後楽園の蓬莱島も亀の形をしています。
 徳大寺石は、亀の頭の位置に据えられています。

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徳大寺石 
 蓬莱島の正面にある大きな石が、徳大寺石と呼ばれる有名な石です。
 水面上の高さが約3.5mあるそうです。
 頼房が満足する石組みにならなかったので、京都から徳大寺左兵衛を呼んで組ませたので、徳大寺石という名がついたと言われます。

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竹生島 
 大泉水は、琵琶湖を模したと言われていますので、大泉水の奥には竹生島の名所写しがあります。写真に写っている岩の数個の塊が竹生島と呼ばれています。
 小さな岩が大泉水の中に置かれていますので、注意していないと、気がつかずに見落とされてしまうかもしれません。

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寝覚の滝
 大泉水の南側奥の樹林の中に瀧があります。それが寝覚の滝です。

 木曾に目覚の床という名勝地がありますが、それを写した風景です。

 寝覚の滝を流れ落ちる水は内庭の泉水の水が流れでたものです。

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木曾山

寝覚めの滝を流れ落ちた川は木曽川とされています。

そして、木曽川に見立てられて川の周辺の林が木曽山です。

当初は棕櫚の木が多かったので棕櫚の林と呼ばれていたようです。

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竜田川

大泉水の南側に、細流が流れています。これが竜田川です。

大和の竜田川を写したものです。竜田川は紅葉の名所として有名です。そこで竜田川の脇には、楓の木が植えられています。下写真の右手が竜田川、左手が楓の林です。

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下写真が小石川後楽園全体の地図です。小石川後楽園で配布してくれます。


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by wheatbaku | 2020-01-16 15:19 | 新江戸百景めぐり
護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)

護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2

 今日は、新江戸百景めぐりの護国寺の2回目で、護国寺に眠る有名人をご案内します。護国寺には、大勢の有名人が眠っていますが、江戸時代の有名人はほとんど眠っていなくて、明治以降の有名人が眠っています。今日は、そうした有名人の中で特に有名な人のお墓をご案内します。


 護国寺でのお墓参りは、護国寺の本堂(観音堂)の中にある寺務所にお願いするとお墓の地図を無料で配布してくれますので、それを見ながらお参りするといいと思います。

 お墓は、本堂の東側と北側そして北西側に大きく広がっています。今日は南東側から北西側に順にご案内します。

安田善次郎

 安田善次郎は、安田財閥の創設者です。安田財閥は、現在は多くの企業が合併して名称が変わっていますが、昔の富士銀行、安田生命、安田火災などが主要企業です。

 安田善次郎の墓所は、本堂の南東側にあります。前回ご案内した鐘楼の東側にあります。

 周囲は塀で囲まれています。正面は下写真のように立派な門があります。 

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 周辺が塀で囲まれているため、中には入れません。
 下写真は、前面の扉の隙間から写したものです。
護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)_c0187004_15225577.jpg

 安田善次郎は富山県富山市の出身ですが、江戸に出て両替商で奉公しました。

 このころに、後で紹介する大倉財閥の創設者大倉喜八郎と知り合っています。

その後、独立し安田商店(のちの安田銀行)を開業し、金融業を中心に、業務を拡大し、安田財閥を育てあげました。

 ところで、安田善次郎がどのようになくなったか、ご存知ですか。

 実は、大磯の別荘で、右翼の人物に刺殺されているのです。安田善次郎は、世間的な寄付を好まなかったので誤解され殺されたといわれています。

しかし、実は多くの寄付を行う意向がありました。安田善次郎は、暗殺される前、東大の安田講堂の寄付を約束していました。また、日比谷公会堂も、安田善次郎が寄付すると生前約束していたものです。

この二つとも安田善次郎の死後に完成しました。

大隈重信

 大隈重信のお墓は本堂の北東に広い墓域を占めています。 

 墓所の前に鳥居があるので、よく目立ちます。 

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大隈重信は、早稲田大学の創設者として、あるいは総理大臣経験者として有名です。

 大隈重信は、肥前国の出身者です。肥前藩は、明治維新後は薩長土肥として有力な藩閥を形成しましたが、幕末の倒幕運動にはあまり大きな力を発揮しなかったようです。

 大隈重信も、倒幕運動の中では目立った実績はありませんが、明治新政府になってから頭角を発揮し、参議や大蔵卿を兼任し活躍しました。
 大久保利通が暗殺された後は、明治政府の中心人物となりました。しかし、明治14年、即時議会開設を主張したこともあって、薩長藩閥勢力に排斥され、10月参議を辞任しました。これはが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。

政変後、政党結成を実行に移し、立憲改進党を結成してその総理となり、また東京専門学校(1902年早稲田大学と改称)を創立しました。

その後、第一次伊藤博文内閣で外務大臣に復帰し、条約改正に努力しましたが、そのさなか、爆弾を投げつけられました。幸い命は取りとめましたが右足を切断する重傷を負いました。

その後、2回、総理大臣を経験しています。

大隈重信は、早稲田大学を創立したように教育にも熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立も支援をしています。

大正11110日胆石症で死去し、日比谷公園で国民葬が行われました。

 この時、早稲田の私邸から日比谷公園に向かう行列には早稲田大学関係者2万人が参加したといわれています。また、国民葬には10万人が参列し、行列は神田橋まで続いたそうです。そして、葬儀の後、葬列は護国寺に向かい、埋葬されました。

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松平治郷(はるさと) 

 大隈重信の墓所の北側に、出雲国松江藩主松平家の墓所があります。松江藩の幕末の石高は18万6千石ですが、18万石の墓所としてはあまり広くはありません。その松平家の墓所の入り口にの第7代藩主松平治郷の墓があります。

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 松平治郷は不昧(ふまい)と号したので、松平不昧のほうが有名かもしれません。松平治郷は、17歳で松江藩藩主となりました。それは、家老朝日丹波を中心とした御立派(おたては)の改革の中で擁立されました。改革は勧農抑商を基調として藩財政の立て直しをすすめ成功しましたが、朝日丹波が隠居した後に財政状況はふたたび悪化し、寛政8年(1796)からは治郷自身が親政した後、56歳で隠退しました。その後は、江戸品川の別邸大崎園に数々の茶室を営み風流三昧の生活を送りました。

 松平治郷は、お茶を将軍御数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)にまなび、石州流不昧派を起こしました。藩財政の好転に伴い道具収集に乗り出し、江戸後期最大の収集者となり、収集した名物道具を分類整理して『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)18巻を著しています。

三条実美

 三条実美の墓所は、本堂の北側にあります。三条実美のお墓の前にも鳥居があります。

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三条実美は、幕末には、攘夷派の若手公卿として活躍しましたが、8月18日の政変で京都を追われて長州に下ったのち、長州征伐で大宰府に移りました。
 王政復古により京都に戻ることが許され、明治新政府では、太政大臣となり明治政府の最高官となりました。
 その後、明治18年内閣制度が発足した際に内大臣となりました。

最初の総理大臣は伊藤博文ですが、この際、三条実美も有力候補者でした。

しかし、総理大臣を選ぶ会議で、英語がわかる人物ということから、伊藤博文が総理大臣ときまった逸話があるそうです。

明治24年(1891年)に55歳でなくなり、護国寺に埋葬されました。

三条実美の墓所の入り口には大きな神道碑があります。この神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

三条実美のほかに、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

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山県有朋

 本堂の北側には多くの人が眠っています。その中に山県有朋の墓所もあります。

 山県有朋の墓所も塀で囲まれていて、入口は鍵がかかっているため中に入ることができません。また、お墓が入口の正面にないため、お墓を正面から撮ることはできません。下写真は墓所の脇から撮影したものです。奥が山県有朋のお墓です。

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山県有朋は、長州出身の政治家・軍人です。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作がつくった奇兵隊軍監として活躍しました。

 明治新政府では、徴兵制を実現し参謀本部を設置し初代参謀本部長になるなど近代軍制の基礎を築きました。

 政治家として、2回総理大臣を務め、伊藤博文が暗殺された後は、政界・軍部・官界に絶大な影響力を発揮しました。

 しかし、最晩年は宮中某重大事件を引き起こし、大正1121日失意のうちに没し、国葬が行われました。

 この直前に行われた大隈重信の葬儀には多くの国民が参列しましたが、山県有朋の国葬には、軍人中心に1000人程度が参列するという状況だったそうです。

築庭・造園に趣味をもち、目白の椿山荘は、山県有朋の別荘でした。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園も山県有朋に関係する庭園です。


大倉喜八郎

大倉喜八郎は大倉財閥の創設者です。大倉喜八郎の墓所は、山県有朋の墓所に行く手前にあります。下写真の東側が大倉喜八郎のお墓です。右は夫人のお墓です。

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大倉喜八郎は、新潟県新発田の名主の家に生まれ、江戸に出て、かつお節店の店員となった後、独立し銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大しました。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は新政府軍、幕府軍の双方から注文がありました。新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行されましたが、「官軍は現金払いなので売った」と説明し解放されたというエピソードがあります。

明治維新後は欧米視察のうえ、明治6年、大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥となりました。

とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かいものがありました。
 ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅後に建てられたものです。

ホテルオークラに隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。また、東京経済大学は大倉喜八郎が作った大倉高等商業学校が発展したものです。

 昭和3年に大腸がんのため永眠しました。享年92歳でした。

山田顕義
 本堂の西北に大きな墓所があります。山田顕義の墓所です。
 きれいに整備されている明るい墓所です。

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 山田顕義は、長州藩士の長男として生まれ、吉田松陰)の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加し、、蛤御門の戦いや四国連合艦隊との戦いに参加しています。戊辰戦争の箱館五稜郭の戦いでは、海軍参謀として榎本武揚軍と戦いました。
 明治維新後、陸軍少将となり、岩倉具視の遣欧使節に随行しフランスはじめ各国の兵制を調査し、帰国して東京鎮台司令長官となりました。佐賀の乱征圧のため九州に出征し、西南戦争には別働第二旅団長として出征し、戦後、陸軍中将に昇進しました。
 第一次伊藤博文内閣に司法大臣として入閣し、以後第一次松方正義内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂にあたりました。
 山田顕義は、日本大学の創設者でもあります。日本大学は、山田顕義が司法大臣の時に開設した日本法律学校を起源とした大学です。
 神道の擁護にも熱心で、有栖川宮幟仁(たかひと)親王を初代総裁とする皇典講究所の初代所長に就任し、国学院(國學院大学の前身)を創設しました。
 なお、1891年に起きた大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけたことでも有名です。
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 護国寺には、このほか、島津家、南部家、ジョサイア・コンドル、益田鈍翁、団琢磨などのお墓があり、それぞれお参りしましたが、長くなるので、このあたりで一区切りさせてもらいます。




by wheatbaku | 2020-01-13 14:50 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)

 2020年のお正月も松飾りもとれてビジネスマンも仕事を本格的に始める時期です。

 このブログでも、昨年からシリーズで書いている「新江戸百景めぐり」を順に書いていきたいと思います。

 今日は、護国寺について書いていきます。護国寺は昨秋に訪ねていますが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では95ページの第47景で紹介されています。

 下写真は、正面からみた観音堂(本堂)です。

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護国寺の歴史

護国寺は、奈良の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。

天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

 桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に深く帰依しました。

亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。

そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。

この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。

護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

 天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(1690)11月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、将軍綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらを中心に重要な建物を順にご紹介します。

仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。

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惣門

 仁王門は地下鉄の出口のそばにあるため、護国寺の門というと仁王門のほうが目立ってしまいますが、仁王門の東側に立派な門があります。これが惣門です。

 惣門は、将軍綱吉あるいは桂昌院の御成のために造られた御成門です。5万石以上の大名の格式で造られたものです。大名屋敷の門で現存しているものは、大部分が江戸時代後期のものなので、元禄年間のものは非常に貴重なものとして文京区の有形文化財に指定されています。

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不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆です。

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石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

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元禄年間奉納の銅灯籠

 不老門をくぐり、本堂に向かう石段を登ると両側に銅灯籠があります。

 下写真は右側の銅灯籠です。

 よくみると谷村藩主秋元喬朝が元禄10年に寄進したと刻まれています。

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大師堂

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。

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鐘楼

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。

袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

 鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけ

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てください。

月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭日光院の客殿を移築したもので、国指定重要文化財です。

桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。

桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

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観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。

当初の観音堂は、天和2年(1682)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。

元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

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☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。

そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。

今回、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

☆『悉地院 (しっちいん)』の篇額

本堂内陣の上に、徳川綱吉直筆の『悉地院(しっちいん)』の篇額が掲げられています。これは、観音堂造営の記念として奉納された横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、以前に護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で写真撮影させていただいた時の写真を掲載させていただきました。

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赤印が護国寺の仁王門です。
青印が護国寺の惣門です。仁王門の東側にあります。
緑印が本堂(観音堂)です。









by wheatbaku | 2020-01-09 18:40 | 新江戸百景めぐり
日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

日本橋七福神めぐり(~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩 神田駅編)

昨日は、毎日文化センターの~「山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」で、神田駅からスタートして、日本橋七福神めぐりをしてきました。

 昨日は晴天に恵まれましたが、風が強くて、寒さが厳しかったので、七福神めぐりの後のお酒が一段とおいしかったです。

ご参加いただいた皆様、寒い中おつきあいいただきありがとうございました。

 昨日のコースは次の通りです。

神田駅 ⇒ 今川橋 ⇒ 時の鐘跡 ⇒ 長崎屋跡 於竹大日如来井戸跡 ⇒ 宝田恵比寿神社 ⇒ 椙森神社 ⇒  元吉原跡 ⇒ 富沢稲荷神社 ⇒ 笠間稲荷神社 ⇒ 末廣神社 ⇒ 〈甘酒横丁〉 ⇒ 松島神社 ⇒ 水天宮 ⇒ 茶の木神社 ⇒ 牡蠣殻銀座跡 ⇒  西郷隆盛邸跡 ⇒ 小網神社 ⇒人形町駅

 昨日の散歩は、元吉原がどの辺りにあったのかも詳しく説明しましたが、日本橋七福神めぐりがメインでしたので、その写真を中心にご案内します。

 

〈椙森神社〉

 椙森神社は、平将門が朝廷に反乱を起こした天慶の乱の時に藤原秀郷が戦勝を祈願した所とも言われます。また太田道灌が雨乞い祈願のため、伏見稲荷神社の神様を勧請して信仰したとも伝えられています。

 江戸時代には、神田にある柳森神社、新橋にある鳥森神社とともに江戸城下の三森の一つに数えられ、椙森稲荷として庶民の信仰を集めました。 

 椙森神社にお祀りされている七福神は恵比寿様です。

 七福神巡りの札所の多くでは、お正月の7日までは、七福神を開帳しているのですが、椙森神社では、恵比寿様は、10月19日20日の恵比寿祭りの時にだけ開帳されるそうで、お正月も開帳しないそうです。 

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〈笠間稲荷神社〉

江戸時代、人形町に笠間藩牧野家(藩祖は牧野成貞)の下屋敷がありました。

そして幕末の安政6年(1859)に、笠間藩8代藩主牧野貞直が常陸の笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられたのがこの笠間稲荷神社です。

笠間稲荷神社は別名紋三郎稲荷と言われます。

それを題材にした落語に「紋三郎稲荷」というお話があります。この落語の冒頭に、ここの笠間稲荷神社が紹介されています。 

 笠間稲荷神社には、七福神のうちの寿老人が祀られています。

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〈末廣神社〉

 江戸幕府が開かれる直前の慶長元年(1596)に既にお稲荷様が鎮座していたそうです。

末廣の名は、延宝3年(1675)に 社殿を修復した際、本殿から末廣の扇が出たことに因むそうです。

この末廣神社は、ここに吉原があるころは、その氏神様として、大変信仰されました。吉原が移転した後は、幕府に仕える役人が多く住むようになり、その武家から篤く信仰されたといいます。

末廣神社にお祀りされている七福神は毘沙門天です。 

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〈松島神社〉

 松島神社の由緒は、鎌倉時代末期の元亨年間以前の創建と伝えられているそうです。

 当時、この辺りは入り江の小島であり、下総からここに移住してきた柴田家が自分のお屋敷の中に祀ったとされています。島内に松が生い茂っていたことから松島稲荷大明神と呼ばれたといいます。

松島神社でお祀りされている七福神は、大国様です。

大黒様は、一般的には大黒と書くことが多いのですが、松島神社では、大国と書いています。それは、出雲の神様の大国主神(おおくにぬしのかみ)をお祀りしているからです。

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〈水天宮〉

水天宮は、安産の神様としても有名な神社ですので、参拝客が大勢いました。

水天宮の総本宮は九州の久留米にあります。

 江戸の水天宮は、久留米藩第9代藩主有馬頼徳(ありまよりのり)が、久留米から分霊を勧請して、文政元年(1818)、現在の港区にあった久留米藩の上屋 

その後、明治維新を迎えて、水天宮は明治4年に青山の中屋敷に移り、さらに翌年、日本橋蛎殻町の下屋敷すなわち現在の場所に移転しました。

水天宮にお祀りされている七福神は宝生弁財天です。 久留米藩9代藩主有馬頼徳(よりのり)が加賀藩11代藩主前田成広(なりなが)と宝生流能楽を競われた際に、弁才天に願掛けして、勝利をおさめたことから宝生弁才天と呼ばれています。 弁財天は、琵琶を抱く色白の美女の姿で表されることが一般的になりました。

 下写真の正面が水天宮で左の御社が宝生弁財天の社殿です。

 最近改築したので、両方の社殿とも非常にきれいです。

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〈茶ノ木神社〉

茶ノ木神社は地元ではお茶ノ木様と呼ばれて親しまれています。

 お祀りしてあるのはお稲荷様です。

 江戸時代、この土地は、約3000坪もある下総佐倉藩堀田家の中屋敷でした。茶ノ木神社は、その守護神として祀られたものです。

 神社のまわりに丸く刈り込まれた茶の木が植えられていて、それが大変素晴らしかったので茶ノ木神社と呼ばれようになったそうです。

 数年前までは、茶ノ木神社は町家の中の目立たない神社でしたが、再開発ビルのリガーレ日本橋人形町が建設されるに伴って平成19年に建て替えられ、様変わりしました。

 茶ノ木神社にお祀りされている七福神は布袋様です。

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〈小網神社〉

 日本橋七福神の中で、参拝客が多かったのが水天宮と小網神社でした。

 参拝する人の列が長く続いていました。

 小網神社は、室町時代中期京都で応仁の乱がおころうとしている頃の文正元年(1466)に創建された神社です。創建以来550年がたつ神社です。

もともとは、稲荷神社が起源で、「小網稲荷神社」といっていたそうです。

明治の初めに現在の「小網神社」と名前をかえました。

 小網神社では、七福神は、福禄寿と弁財天が祀られています。

 弁財天は、この境内にあった万福寿寺というお寺に安置されていたものだそうです。

明治2年に、そのお寺が廃止されたため、小網神社にお祀りされるようになったものです。それにちなんで、万福舟乗弁財天といいます。別名東京銭洗い弁天と呼ばれています。

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七福神めぐりでは、次のような地図を配布してくれました。


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by wheatbaku | 2020-01-06 18:29 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
日枝神社(新江戸百景めぐり55)

日枝神社(新江戸百景めぐり55)

今日は、日枝神社に初詣に行ってきました。 

 日枝神社には、赤坂側と永田町側からお参りできますが、今日は永田町側の山王男坂から向かいました。

日枝神社にお参りする際に気がつくのが鳥居です。 

日枝神社の鳥居はよく見かける鳥居と違った特徴のある鳥居です。この鳥居は「山王鳥居」と呼ばれています。(下写真)

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鳥居の形は、大きく分けて「神明鳥居」と「明神鳥居」があります。神明鳥居」というのは伊勢神宮の形式で東京では「靖国神社」の鳥居が有名です。「明神鳥居」というのは「神田明神」の鳥居です。

この山王鳥居は、明神鳥居の一種で、明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしています。

山王鳥居の上の三角形の上の2辺を開くと山という字になり、その2辺を上にあげると王という字になります。あわせて山王となります。山王鳥居にはこんな意味があるようです。

山王男坂は、非常に急な階段で、石段の標柱には五十三段の石段があると書いてあります。

今日は、その石段の途中からもう初詣客が並んでいるのでびっくりしました。(下写真)

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 男坂を登ると目の前にあるのが神門です。この神門は、「随身門」です。

 神道において、祭神を守る者として安置される像のことを「随身」といい、随神とも書かれます。また、門守神(かどもりのかみ)とも言う。

神社の門のうち、門の左右に随身像を安置した門は「随身門」と呼ばれます。

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神門を潜ると正面に本殿が見えてきます。

正面にある本殿は昭和33年造営されたものです。

戦前までは、万治2年御造営の社殿があり、国宝に指定されていましたが、昭和205月、空襲により、末社山王稲荷神社を残し全て焼失してしまいました。

現在の本殿は鉄筋コンクリート製です。
 今日は、神門から本殿までの間に参拝客が一杯でした。

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日枝神社は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)132ページの第71景でも紹介されているので、ここで日枝神社の歴史をお話しておきます。

日枝神社は江戸時代には山王権現といわれていました。

江戸を開いた江戸氏は、江戸の守護神として山王宮を祀ったと社伝では書いてあります。
 そして、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を江戸城内の梅林坂に勧請したされています。

今日は、日枝神社の中に神酒所が設けられていて、お神酒がふるまわれていました。

その銘柄が太田酒造の「道灌」でした。こんな所にも太田道灌との縁が感じられます。
 ところで太田酒造の「道灌」はどこの酒か調べてみました。すると滋賀県草津市の酒造メーカーで、製造元の太田家は太田道灌を先祖にもっているそうです。

日枝神社(新江戸百景めぐり55)_c0187004_18451274.jpg

徳川家康が江戸に入府し江戸城を居城とするに至って、江戸城内に山王権現が鎮座していることから「将軍家の産土神」とされました。

2代将軍秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を半蔵門外に定め、社殿を新築して遷祀されました。

 この地は元山王と称されていて、現在の半蔵門近くの国立劇場附近です。

 しかし、この社殿は、明暦3年(1657)の大火で炎上してしまいました。

その時の4代将軍家綱は直ちに赤坂の溜池を望む福知山藩松平忠房の屋敷地を収容して社地に充て、社殿を造営して遷座しました。これが現在の日枝神社です。
 この地は、江戸城の南西の方角つまり裏鬼門にあたり、裏鬼門を守護していました。
 江戸時代には、山王権現、山王社とも呼ばれ、江戸っ子からは山王様と親しまれていました。

明治元年には神仏分離令が発令され、社名も山王権現から日枝神社に変更し現在に至っています。

日枝神社の日枝は、京都にある比叡山の比叡を同じ意味です。
 比叡山は、昔は「日枝山」と書いた書物もあるそうです。

 日枝神社は、将軍家の産土神でした。そのため、その名の通り、将軍の初宮詣が山王権現で行われました。

 初めて初宮詣でした将軍は、3代将軍家光です。その後、4代将軍家綱、5代将軍綱吉が初宮詣でが行われました。その後は、将軍の実子が江戸城内で生まれていないため、しばらくの間、間があいて、10代将軍家治、11代将軍家斉の初宮詣でがされ、13代将軍家定の初宮詣でがされています。12代将軍家慶は江戸城内で生まれているのですが、なぜが日枝神社の社史には初宮詣でをしたとはのっていません。

 初宮詣をしているくらいですので、将軍の社参もしばしばされています。

 記録としては、5代将軍綱吉の社参が初めてのようです。

 綱吉が12回、6代家宣が2回、8代吉宗が2回、9代家重、10代家治、12代家慶が1回社参しています。

 さらに、毎年、年初めには、将軍家の初詣として 老中などによる代参が行われました。

 将軍家の産土神であった赤坂日枝神社ですが、今日は、お正月らしく、巫女による神楽舞も行なわれていました。(下写真)

 破魔矢の短冊に願意と名前を書いて巫女に渡すと巫女が神楽舞で諸願成就をお祈りした後、破魔矢を戻してくれていました。

日枝神社(新江戸百景めぐり55)_c0187004_18451125.jpg

赤印が日枝神社です。












by wheatbaku | 2020-01-03 18:36 | 新江戸百景めぐり
謹賀新年

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 新年明けましておめでとうございます。 

 このブログも書き始めてから本年で12年目に入りました。
 我ながらよく続いているなぁと感心しておりますが、こんなに長く続いている源は、なんといっても多くの読者の皆様が熱心にお読みいただいていることです。

 おかげさまで、累計の訪問者数は既に125万人を超えていて、日々の訪問者数も上位にランクされております。

 日々の皆様のご愛顧に本当に感謝しております。

 こうした読者の皆様のご期待に沿えるよう引き続き頑張ります。本年の最初の記事は3日以降に書こうと思っておりますので、本年もどうぞよろしくお願いいたします。




by wheatbaku | 2020-01-01 07:00
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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