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六義園①(新江戸百景めぐり61-1)

六義園①(新江戸百景めぐり61-1

 今日は、『新江戸百景めぐり』で六義園をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、86ページの第36景で紹介されています。

 六義園は、JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。

 駒込駅近くの染井門は、春の桜の季節や秋の紅葉の季節のみ開く門で、通常は閉鎖されているため、南側にある正門に向かう必要があり、染井門から10分程歩く必要があります。下写真が正門です。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254105.jpg

 六義園は、柳沢吉保が作った庭園です。

元禄8年(1695)に柳沢吉保が拝領した下屋敷に、7年間かけて元禄15年に完成した庭園です。

 現在、広さは、約3万坪あります。

 六義園の名前は、中国の古い書物である「詩経」に出てくる「六義」からとった名称です。「六義」という言葉は、詩の分類を表すもので、次の六個を指します。

 賦(ふ)   感想をそのまま述べたもの

 比(ひ)   例をとって感想を述べたもの

 興(きょう) 外の物にふれて感想を述べたもの

 風(ふう)  民間で行われる歌謡

 雅(が)   朝廷でうたわれる雅な歌

 頌(しょう) 祖先を讃える歌

 現在は、音読みで「りくぎえん」と呼ばれていますが、六義園が作られた際には、柳沢吉保は日本風に「むくさのその」と呼んでいたようです。

宝永6年(1709)綱吉がなくなると、柳沢吉保は、長男の吉里に家督を譲って隠居し、隠居後は六義園で過ごしました。

吉保の孫3代の柳沢信鴻(のぶとき)までは、六義園はかなりしっかりと管理されていたようです。特に3代柳沢信鴻(のぶとき)は隠居後、この六義園に住んで、芝居などをよく観に行っていました。

しかし、寛政4年(1792)信鴻が亡くなると、それ以降20年間ほど、ほとんど六義園は利用されず荒廃していました。そこで、文化6年(1809)、4代保光の時に復旧工事が行なわれています。

明治以降は、六義園は三菱家のものになります。

明治11年に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が手に入れました。そして、弥太郎の長男の岩崎久弥の時代には、久弥の本邸として使用されていたこともありました。

そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。

六義園の正面を入り少し歩くと大きな門「内庭大門」が見えてきます。

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内庭大門は、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。

かつては門をくぐった先、しだれ桜のある場所あたり(下写真)あたりに岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようです。

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 六義園を訪ねた時は、冬景色で、しだれ桜は、枝ばかりでした。

しかし、春には下の写真のように見事な花をさかせます。

枝垂桜は、高さ約15m、幅約20mもあります。

3月下旬の満開の時期には、ライトアップもされて大勢の花見客が訪れます。

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 「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の一種で、枝が下に垂れているため「枝垂れ桜」と呼ばれています。

「ソメイヨシノ」より少し早く咲きます。非常に有名な桜ですが、昭和30年代に、東京都によって植えられたもので、樹齢はまだ60~70年だそうです。

 
 赤印が六義園正門です。
 青印がしだれ桜です。







by wheatbaku | 2020-02-27 21:18 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2

縁起の良い初夢としてあげられるもの『一富士、二鷹、三茄子』があります。

この三つが縁起のよいものにあがれるかについては諸説がありますが、  「駒込に一富士、二鷹、三茄子」という川柳があり、駒込の名物を挙げたものだという由来説もあります。

 そこで、今日は、駒込の「一富士、二鷹、三茄子」について書いてみます。

まず、「一富士」は、いうまでもありませんが、前回ご案内した「駒込富士神社」であることは、すぐにおわかりになると思います。

下写真は駒込富士神社入り口です。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294388.jpg

「二鷹」は、駒込に鷹匠屋敷があったことによります。

鷹狩は、徳川家康が大変好きでしたので、家光までの歴代将軍も鷹狩を好んで行ないましたが、4代家綱の時には回数が少なくなりました。そして、5代将軍綱吉は、生類憐みの令との関係で鷹狩を禁止しました。鷹狩が復活したのは、8代将軍吉宗の時です。

吉宗が復活した鷹匠屋敷の一つが現在の都立駒込病院の場所にありました。

これがあったことが「二鷹」の由来です。

昭和49年、駒込病院の外溝工事中に貝塚が確認されたことから、2次にわたる発掘調査が行われ、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見されました。これが動坂遺跡です。下写真は文京区教育員会が設置した説明板です。

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縄文時代の遺跡が貝塚で、江戸時代の遺構が鷹匠屋敷の遺構です。

そのため、都立駒込病院の入口に、動坂貝塚記念碑(下写真)が設置されています。

上写真と下写真は以前訪ねた時に撮った写真です。現在は状況が変わっているかもしれません。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294303.jpg

続いて「三茄子」ですが、江戸時代、駒込はなすの産地で、「駒込なす」は、江戸では大変有名な野菜でした。

 新編武蔵風土記稿の上駒込村に、

  茄子の土地によろしいので世にも駒込茄子と称す

 と書かれています。

 こうしたことから、駒込富士神社にJA東京が設置した説明板があります。下写真がそれです。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294369.jpg

 縁起の良い初夢としてあげられる『一富士、二鷹、三茄子』がどうして縁起がよいとされるのかについては諸説があります。

徳川家康の好物を挙げたという説や駿河にあるもので高いものを挙げたという説もあります。

「甲子夜話」には、「神君駿城に御座ありし時、初茄子の値貴くして、数銭を以て買得ぬ故、其値高きをいはんとして、まず一に高きは富士なり。その次は足高山なり、其次は初茄子なりといひしことなり」と書かれていて、家康が駿河で高い順にあげたものだそうです。

 ちなみにここで言われている足高山は、愛鷹山のことで、駿河では富士山に次いで高い山です。

赤印が動坂遺跡の説明板と動坂貝塚記念碑のある場所です。
青印が駒込富士神社です。







by wheatbaku | 2020-02-24 14:27 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1) 

今日は、『新江戸百景めぐり』で駒込富士神社をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、135ページ第73景で紹介されています。

 駒込富士神社は、山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。途中に六義園がありますので、六義園を見たついでにお参りするのもよいと思います。
 下写真は鳥居正面から写した駒込富士神社です。

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駒込富士神社は、本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学本郷キャンパスの地に駿河の富士浅間社を勧請したのが始まりです。

寛永6年(1629)に、本郷の鎮座地が加賀藩前田家の屋敷となったため、現在地に移ってきました。

社伝によれば、現在地は昔から富士塚と呼ばれ、大きな塚があり、この塚は一説によると前方後円の古墳ともいわれているそうです。

駒込富士神社は、その塚の上に、鎮座していますので、正面の石段は大変急な石段になっています。そして、石段を登りきったうえに駒込富士神社の社殿があります。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314338.jpg

江戸時代は、富士山信仰が盛んで、富士の浅間神社にお参りに行く「富士講」が数多くできました。

そして、次のように詠われるほどになりました。

~江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。~

そして、富士山に見立たてた富士塚が多く作られました。

富士山に見立てた山の上に拝殿を配したこの富士神社も、富士信仰の拠点の一つでした。
 下写真が現在の社殿です。

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毎年の富士山開きの日にあわせ、代表者が富士山に登り、江戸に残った人たちは、近くの富士塚に参拝しました。ここの富士神社も、山開きの日には大勢の参拝客でにぎわいます。

 以前、お参りした時の記事がありますので、ご興味のある方はご覧ください。
 駒込富士神社の麦藁蛇

本郷の富士浅間神社

富士神社が駒込に移転する前は、加賀藩上屋敷(現在の東大本郷キャンパス)に鎮座していました。鎮座していた場所は、赤門東側にある「赤門総合研究棟」のある場所といわれています。(下写真)

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江戸時代の加賀藩邸の地図を見ると赤門東に緑色に塗られた場所があります。そこが「加賀殿再訪」(東京大学出版会刊)では富士権現旧地と注記されていて、「江戸のミクロモス」(新泉社刊)では富士山と注記されています。ここが富士浅間神社が鎮座していた場所と思われます。下写真は現在の赤門です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314365.jpg

駒込富士神社が駒込にできた後も富士浅間神社が祀られていましたが、明治になって、前田侯爵家の屋敷が旧加賀藩邸の一画に設けられると、富士浅間神社も屋敷内に鎮座していました。前田家が昭和3年に駒場に移転して跡地が東大キャンパスとなり、現在は、春日通りに面した場所にお祀りされています。下写真が富士浅間神社の社殿です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314330.jpg

富士浅間神社がある地区の昔の町名は、本富士町といいました。かつて富士山があったことにちなむ名前です。現在も東大のそばにある警察署は、本富士警察署となっています。

〇駒込富士神社の場所

 赤印が駒込富士神社です。青印が六義園です。


〇富士浅間神社の場所

 緑印が富士浅間神社です。オレンジ印が赤門です。ピンクが総合研究棟です。







by wheatbaku | 2020-02-20 12:26 | 新江戸百景めぐり
「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講
「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで「-江戸の豪商列伝Ⅱ-現在も名を残す老舗企業をつくった豪商たち」の2回目講義がありました。

 前回は、住友と白木屋について話をさせていただきましたが、今回は、大丸と松坂屋について話をさせていただきました。

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 大丸は、創業者の初代下村彦右衛門(正啓)が伏見に開業した後、まず大坂に進出し、その後、名古屋、京都へ続けて進出し、寛保3年(1743)についに江戸に進出しました。

 つまり、初代下村彦右衛門(正啓)一代で大丸を豪商にまで大きくしました。そこで、下村彦右衛門(正啓)を中心に大丸の話をしました。

一方、松坂屋は、名古屋で織田信長の小姓をしていた伊藤祐道が創業し、5代目の祐寿の時には、尾張徳川家の呉服御用を承るまでの大きな呉服店にしました。しかし、6代から9代までの当主が若くして亡くなってしまい、松坂屋の危機を迎えます。そうした時に、松坂屋の危機を救い、松坂屋を護ったのが、江戸時代としては稀な女性経営者伊藤宇多です。そこで、その伊藤宇多を中心に話をしました。

 今回も、受講された皆様は熱心に話を聞いていただき、私もつい熱のはいった講義となりました。

 講座終了後には、質問も数多く寄せられるとともに、「大変勉強になりました」という感想もいただきました。

 女性が多かったこともありますが、女性は、特に伊藤宇多について興味深かったようで、伊藤宇多の生き方がすごいという感想もありました。
 受講いただいた皆様ありがとうございました。

 いろいろ話をした中で、このブログでは、大丸の創業者下村彦右衛門と福助人形の関係についてご紹介します。

 福助人形は、幸福を招くといわれる縁起のよい人形です。福助人形のモデルについては、諸説ありますが、百科事典などを見ると、京都伏見の大文字屋の主人という説が載っています。
 大文字屋というのは、下村彦右衛門正啓が開いたお店の名前です。

 つまり初代下村彦右衛門(正啓)がモデルということになります。

 福助人形は、背が低くて、頭が大きく、福耳をしています。

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 正啓は背が低く、頭が大きかったそうです。そのため、人からよくからかわれましたが、子どものころから利発で、何事にも人より優れていて、愛想よくお客様に接したので、誰からも好かれました。そして、一代で、当初大文字屋と呼ばれていた大丸を豪商にまで発展させました。

 こうしたことにあやかろうとして福助人形のモデルとされたようです。

 正啓の木像が、京都伏見の海宝寺の祠堂に残されています。

 海宝寺は、黄檗宗のお寺で、正啓が深く帰依した竺庵禅師が隠居したお寺です。

 そうした縁から大丸とは縁が深く、祠堂(位牌を祀る御堂)も大丸が寄進したものです。

 下写真が祠堂です。

「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講_c0187004_14503415.jpg

 その祠堂の中に、正啓の木像が残されています。

 昨年秋に、海宝寺にお邪魔し、特別に拝観させていただき、許可をえて写真も撮影させてもらいました。その際に撮影したのが下写真です。

「江戸の豪商列伝Ⅱ」2回目開講_c0187004_19001623.jpg
 

 正啓の木像をみると、頭が大きく福耳をしていて、福助人形のモデルといわれるのももっともだと思いました。





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by wheatbaku | 2020-02-16 14:46 | 文京学院大学江戸講座
神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3

 

 神楽坂からは少し離れますが、神楽坂坂上から大久保通りを東に歩いていくと筑土八幡神社があります。神楽坂周辺はには史跡が結構あります。それで、今日は神楽坂からはちょとと離れますが、筑土八幡神社と「寒泉精舎跡」をご案内します。

筑土八幡神社

 筑土八幡神社は、神楽坂上からは徒歩67分、JR飯田橋駅からは徒歩10分です。
 下写真は、大久保通りに面して建っている社標です。

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 筑土八幡神社の御祭神は、八幡神社の名前の通り、応神天皇、神宮皇后、仲哀天皇です。

 筑土八幡神社の御由緒は、一の鳥居近くに設置されている説明板によれば、今から約千二百年前の平安時代の嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいました。

ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、 雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまりました。

翁は神霊の現れたことを知り、このことを里人に語り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀ったそうです。

その後のことついて、説明板には、「伝教大師(※)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀りました。」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」によればここを訪れたのは慈覚大師であり、「江戸名所図会」には、「慈覚大師、東国遊化の頃、伝教大師彫造したまうところの阿弥陀如来を本地仏とし、小祠を経始す」と書いてあります。これらの説明と説明版とは、訪れた人物名が少し違うようです。下写真が社殿です。

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筑土という名前について、説明板には「伝教大師がこの地を訪れた時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」には「築き立てた地の意味である」とも書いてあります。

その後、文明年間に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社殿を造って、この地の産土(うぶすな)神としたそうです。

現在、境内地は約2200平方メートルあり、前の社殿は昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在の社殿は、昭和38年に再建されたものです。

参道の石段の途中には石造りの鳥居があります。この鳥居は、高さは 3.75 メートルあり、享保 11 年(1726 )に建立された鳥居で、新宿区内最古の鳥居で、新宿区の有形文化財に指定されています。(下写真)

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この鳥居の右側の柱の裏側には奉納した人の名前が刻まれています。

それにより常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものであることがわかります。(下写真)

 黒田直邦は、旗本中山直張の三男に生まれ母方の祖父黒田用綱の養子となりました。黒田用綱はのちに5代将軍となる徳川綱吉が藩主であった舘林藩の家老であったことから、徳川綱吉に仕えるようになりました。綱吉が5代将軍となったことから幕臣となり、徳川綱吉に寵愛され、元禄16年(17031月常陸国下館藩15千石の藩主となりました。宝永4年に5千石加増され、2万五千石となっています。そして、享保17年(17323月に上野国沼田藩に3万石で移封され、同年7月、西の丸老中に就任しました。

 享保20326日になくなり、埼玉県飯能市にある能仁寺に眠っています。

 

寒泉精舎跡
 飯田橋駅と筑土八幡神社の中間に「寒泉精舎跡」があります。「寛政の三博士」の一人岡田寒泉の家塾の跡です。

 目印のなるのがJCHO東京新宿メディカルセンターですが、その少し手前の大久保通りの西側に「寒泉精舎跡」 と書かれた新宿区教育委員会が設置した説明板があります。

 よく探さないと見落としてしまいますが、ドラッグストア「くすりの福太郎」が目印となります。下写真

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岡田寒泉は江戸時代後期の儒学者で「寛政の三博士」の一人に数えられています。また、下総国の代官も勤めた幕府の役人でもあります。

岡田寒泉は、江戸牛込に1200石の旗本岡田善富の次男として生まれました。

通称清助といい、寒泉と号しました。寒泉という号は、自宅を寒泉坊といったことによるもので、それは、近くに冷水(ひやみず)の井という井戸があったことにちなむものだそうです。

武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学びました。また、淡斎の子村主玉水(すぐりぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学びました。

寛政元年(1789)に松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じました。50歳の時でした。

松平定信の寛政の改革の中で学政や教育の改革に当たり、共に改革を進めた柴野栗山、尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と呼ばれました。

寛政6年(1784)に下総の代官に転任しました。岡田寒泉が転任したため、その後任の古賀精里が岡田寒泉の代わりに寛政の三博士の一人に数えられるようなりました。

なお、藩の儒官であった頃の古賀精理自身の手紙に、「寛政の三博士」の呼称が使用されているので、岡田寒泉が最初の「寛政の三博士」の一人であることは明らかと「岡田寒泉」(重田定一著)に書かれています。

岡田寒泉が、代官として民政にあたったのは、常陸国内の182カ村でした。

それ以降14年間、代官として、荒廃の進む農村の立て直し,人口回復に尽力しました。

そのため、名代官の一人に挙げられていて、茨城県内には、つくばみらい市の板橋不動院や筑西市寺上野公民館など各地に岡田寒泉を顕彰する石碑が建てられています。

岡田寒泉は、当初父(または兄)の屋敷に同居していましたが、寛政2(1790)819日この地に幕府から屋敷を拝領し、自宅の隣地3286余の土地も与えられ、寒泉精舎(かんせんしょうしゃ)と名付けた家塾を開きました。

自宅部分は、明治以降、道路となりましたが、寒泉精舎のあった部分に新宿教育委員会設置の説明板があります。

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文化12 (1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖して土地を返上しました。

翌文化1389日、岡田寒泉は77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られました。

赤字が筑土八幡神社です。

青印が寒泉精舎跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2020-02-10 17:54 | 新江戸百景めぐり
神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2

 神楽坂では、善非常に寺が有名ですが、その他にも見どころがあります。

 そこで、今日は神楽坂の続編として、光照寺、天文屋敷跡、行願寺跡についてご案内します。

 

 まず、光照寺ですが、光照寺は善國寺の西側にありますが、あまり知られていないように思います。

 善國寺を過ぎて最初の路地を左に曲がります。そこは地蔵坂という登り坂です。

 そこを登りきった左手に光照寺があります。

 下写真は門前の様子です。右手に寺標が建てられています。

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 この光照寺一帯は、戦国時代には牛込城があった場所です。

 当時の資料は残されてないため、詳細は不明ですが、城と言っても大規模なものではなく、住居を主体とした館程度のものであっただろうと推定されています。

 牛込城のあった場所は、牛込台地の南端にあたり、江戸城とは谷一つ隔てた場所です。(下写真は本堂脇に設置されている新宿教育委員会の説明版です)

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 ここの主であった牛込氏は、もともとは、上野国勢多郡大胡の領主大胡氏を祖先とした氏族です。大胡は赤城山の南麓にあります。

戦国時代の天文年間(153255)に大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。重行の子の勝行は姓を牛込氏と改めました。

しかし、北条氏が滅亡した後は、牛込勝重は、徳川家康に従いました。その際、牛込城は取り壊されました。

牛込城は、重行、勝行、勝重の三代の居館で、ここを拠点として、牛込、桜田、日比谷付近を領有していました。 

 牛込城の跡地に現在建っている光照寺は、浄土宗の寺です。下写真は本堂です。

慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開かれました。そして、牛込城の跡に、正保2(1645)に神田から移転してきたものです。

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出羽国松山藩主酒井家の墓所

光照寺境内の墓所の中に、ひときわ大きな墓碑群があります。

出羽国松山藩主酒井家の墓所です。

松山藩は譜代大名の名門であり徳川四天王の一人あった酒井忠次の子孫庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保4年(16472万石で創設された藩です。松山藩は、現在の山形県酒田市にありました。

光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があります。

酒井家の墓域はかなり広いのですが、東日本大震災の際に墓碑が緩んで倒れる危険があるため、一般の人は、入ることができません。

墓域の外からの撮影ですが、入り口正面には、初代の忠恒の立派な墓碑が建っています。下写真

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松山藩酒井家では、江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られました。

天文屋敷跡

 光照寺がある場所は、坂の上にあり、昔は、江戸湾に入ってくる船をみることができたそうです。

そのため、戦国時代に城が築かれたのでしょう。そうした見晴らしのよい地形を利用して、 幕府は、明和2(1765)、牛込藁店に天文屋敷が建てられました。

当時使用されていた宝暦暦は、京都の土御門家が中心になって作成した暦でしたが、不正確であったため、宝暦暦の修正のため、明和元年(1764)に佐々木文次郎を天文方に任命し、翌年、光照寺門前の火除地に「新暦調御用所」を設置しました。

ここでは天体観測も行われましたので、いってみれば天文台です。この天文屋敷があった場所が光照寺の門前です。

天文屋敷のあった場所は、以前は日本出版クラブがありましたが2018年に移転して、現在はマンションの新築工事中で2022年3月に竣工する予定です。

現在の目印は、新宿区の保護樹林となっているイチョウの木です。(下写真)

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ここでの観測を基に宝暦暦の修正が明和6年に終了しましたが、その後も、天体観測が続けられ、ここが最初の幕府天文台となりました。

しかし、光照寺の木立が茂って観測に不便だったため、天明2(1782)に浅草片町裏に移転しました。これが浅草天文台です。

行願寺跡

神楽坂の東には、行元寺という大きなお寺がありましたが、現在、行元寺は目黒に移転して、その跡地は、マンションや戸建て住宅となっています。

その中に、寺内公園があります。(下写真)

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そこにある説明板によると、行元寺が明治40年に移転した後は、その跡地は「寺内」と呼ばれたそうです。

この寺内公園だけが、行元寺の名残りを伝える唯一のものだろうと思われます。

この行元寺境内で、天明3年(1783年)冨吉という百姓が、父の仇を討ったという記録があります。

これが神楽坂の仇討とも行元寺の仇討とも呼ばれる仇討です。

下総国相馬郡早尾村の百姓冨吉が、親の仇である同じ村の百姓甚内を牛込神楽坂の行元寺境内でうったのでした。

この仇討は江戸中の評判となりました。そこで、時の住職は、太田南畝に依頼して、石碑を「念彼観音力 還著於本人」と刻んだ石碑を建てました。

現在、行願寺門は目黒に移転していますが、そこには、大田南畝ゆかりの石碑が、いまも残されています。

以前、このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は下記記事にとんでください。

行元寺の大田南畝の隠語碑

赤印が光照寺です。

青印が天文屋敷跡です。

緑印が寺内公園です。

オレンジ印が善國寺です






by wheatbaku | 2020-02-06 10:49 | 新江戸百景めぐり
文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!

文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝Ⅱ 現在も名を残す老舗企業の豪商たち」のタイトルで、江戸の豪商についてお話してきました。

今回の講座では、住友、白木屋、大丸、松坂屋という、白木屋を除いてすべて現在も老舗企業として営業活動をしている企業の創業者たちのお話です。

昨日は、そのうち、住友と白木屋について話をしました。

 今回も大勢の人に参加いただき、豪商に対する興味を持っている人が多いことに改めて驚きました。

 そして参加者の皆様は非常に熱心に講義を聞いていただきました。

文京学院大学で「江戸の豪商列伝Ⅱ」開講しました!_c0187004_17492694.jpg
 

 昨日は、住友については、「家祖」住友政友、「業祖」蘇我理右衛門から別子銅山が発見された時の当主4代友芳まで、住友の歴史を話しました。

 そして、後半の白木屋では、創業者大村彦太郎の創業時の話をして、その後、江戸の名物であった「白木名水」と「白木観音」についてお話しました。

 終了後には、それぞれの創業期の様子がよくわかったという感想もいただきました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 

今日は、講座の中でも話した皇居外苑にある「楠正成像」と住友との関係について書いてみます。

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皇居外苑の楠木正成の銅像は、東京三大銅像の一つに数えられる有名な銅像です。

 東京三大銅像とは、楠正成像、上野公園の西郷隆盛の銅像、それと靖国神社の大村益次郎の銅像です。

 この銅像を制作したのは、高村光雲を中心とする東京美術学校の先生たちです。高村光雲は楠木正成の頭部を制作し、馬は後藤貞行が制作しました。

 

 高村光雲は、本来彫刻家ですので、楠正成の木型を製作し、それをもとに岡崎雪聲(せっせい)が鋳造し、銅像を造りました。

 そのため、現在も、楠正成の頭部の木型が残されているそうです。

下写真は楠木正成の顔の部分を拡大したものです。

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 この銅像は、別子銅山を開いた住友家が、開坑200年の記念として企画し、明治33年7月に完成し宮内省へ献納されたものです。

銅像の台座には、銅像が造られた経緯などを書く銘鈑が埋め込まれていて、その経緯がわかります。下写真の台座の中央にあるのが銘鈑です。

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なお、一般的に銘鈑がある方が銅像の正面だと思われますので、楠正成像は、銅像としては、後ろ側を見ているということなりそうです。これは、皇居に背中や御尻を見せることが不敬と考えられたためだったと思われます。

台座に埋め込まれている銘鈑は漢文ですので、なかなか読みにくいのですが、次のように書かれています。

自臣 祖先友信開伊予別子山銅坑 子孫継業二百年 亡兄友忠深感國恩 欲用其銅鋳造楠公正成像 献之闕下 蒙允未果 臣継其志 董工事 及功竣、謹献 明治三十年一月  従五位臣住友吉左衛門 謹識

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これを現代語訳すれば、次のようになります。

私の祖先・友信が伊予国別子銅山を開いて以来、子孫は二百年間その事業を継いできました。私の亡くなった兄友忠は、深くその国恩を感じ、その銅(別子銅山産出の銅)を使用して楠木正成公の像を鋳造し、天皇の御前に献上しようと思い、その許可はいただきましたが未だ果たさずにいました。私はその志を継ぎ、工事を取り締まり監督し、竣功に及んだので、ここに謹んで献上します。

明治三十年一月 従五位住友吉左衛門

※「闕下(けっか)」とは、宮城の門の下(もと)。また、天子の前。天皇の前。という意味です。

要約すると「別子銅山は開坑して200年になりました。私たち住友家は、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造して、天皇に献納します」ということです。

銘鈑に書かれている住友吉左衛門とは、住友15代吉左衛門友純(ともいと)です。
 住友は、明治23年(1890)、元禄4年(1691)の開坑以来200年を迎え、記念式典を新居浜や大阪で開催しました。
 その祝賀ムードの中、11月23日に12代住友友親が亡くなり、11月30日に13代住友友忠が19歳で亡くなってしまい、男子の家督相続人がなくなってしまいました。そこで、住友友親の母登久が14代となり、友忠の妹に婿をとり住友家を継いでもらうことにして、西園寺公望の実弟である徳大寺隆麿が婿に選ばれました。

徳大寺隆麿は、明治26年、住友家を継ぎ、友純(ともいと)と名のりました。これが15代住友吉左衛門です。

もともと、楠正成銅像を献納しようと考えたのは、13代友忠でした、200周年の記念の年の前年に、宮内省に願い出ていて、内諾もえていました。しかし、友忠が亡くなってしまい、その志を果たせなかったため、その意思をついだ15代友純が銅像を完成させ献納しました。そのため、銘鈑に「亡兄」という語句が入っています。

住友家が銅像の献納を願い出て内諾がおりたのが明治22年、銅像が完成したのは明治29年、銘文が書かれたのが明治30年、台座ができあがり銅像が完成したのが明治33年と長い年月をかけて完成しました。

銅像の本体の高さは4mあり、台座を加えると約8mになります。また、本体部の重さは、約6.7トンあります。

 この銅像の銅はすべて別子銅山から産出された銅で建設されたということのようですから、別子銅山のすごさがわかります。









by wheatbaku | 2020-02-02 17:47 | 文京学院大学江戸講座
  

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