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小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》

小栗信由・小栗信友の墓〔大宮普門院②〕 《小栗上野介ゆかりの地2》

 大宮の普門院の小栗忠政一族の墓の中には忠政の二男小栗信由(のぶよし)と三男信友の墓の墓もあります。今日は、この二人について書いてみます。

小栗信由の墓(下写真が忠政の二男信由の墓です)

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信由は、『寛政重修諸家譜』によれば、徳川家康に仕え、大坂冬の陣・夏の陣で功績をあげており、元和2年に父の采地のうち武蔵国足立郡で550石を拝領し、後に200石を加増され、都合750石となったと書いてあります。

信由が大成(おおなり)を治めたことから、信由の系統は代々普門院を菩提寺としており、普門院には、二代信政、三代信行、四代信倚(のぶより)、五代信霽(のぶはる)、六代信崇(のぶたか)、八代信任の墓が現存しています。

下写真が小栗一族のお墓群です。写真の最左端の笠塔婆形の墓石が小栗信由のお墓です。 その右隣の板碑型の墓石が信友のお墓で、さらにその右手に続く笠塔婆型の墓石が信由家の歴代当主のお墓です。

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ところで、小栗信由の通称は仁右衛門ですが、インターネットで小栗仁右衛門を検索すると『講談社デジタル版日本人名大辞典+Plus』 に次のように書かれています。

「小栗仁右衛門おぐりにえもん 15891661 江戸時代前期の武士,武術家。

天正17年生まれ。徳川家康・秀忠につかえて小姓組番士となる。柳生門下で,『鞠身(きくしん)』といわれる秘術で知られる小栗流和(やわら)術の祖。門人に山鹿素行、朝比奈可長(よしなが)がいる。寛文元年66日死去。73歳。三河(愛知県)出身。名は正信(一説に信由)。」

 小栗流とは、坂本龍馬が高知で習っていた武術・剣術としてよく知られています。

 また『ウィキペディア(Wikipedia)』の「小栗正信」の項で、「通称は仁右衛門。諱は信由(のぶよし)とも」として、同様な内容が書かれています。

 これらによれば、小栗信由は、通称が仁右衛門で、本名は小栗正信とも呼び、小栗和(やわら)術の創始者とだされています。本当であれば、小栗信由は坂本龍馬とも縁があることとなり、興味深いことになります。

 しかし、『寛政重修諸家譜』では、小栗信由の通称は仁右衛門ですが、その別名が正信とは書かれていませんし、武道家だったとは一言も書いてありません。『寛政重修諸家譜』は小栗家が幕府に提出した由緒書に従って書かれているものです。その『寛政重修諸家譜』に書かれていないので、この件については、私自身は現時点では確証がありません。また機会があったら調べてみようと思います。


小栗信友の墓(下写真が忠政の三男信友の墓です)

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 上記の小栗一族のお墓群の写真の説明の中で、最左端の笠塔婆方のお墓が小栗信由のお墓で、その右隣の板碑型のお墓が小栗信友のお墓だと説明しましたが、小栗信友のお墓は板碑型で、信由系の当主のお墓が笠塔婆型であるのと比べて、少し違和感があり、板碑型のお墓が信友のお墓なのか疑問に思いました。そこで少し調べてみました。

『寛政重修諸家譜』で確認してみると信友が亡くなったのが「天和元年六月八日」、法名は「夢成」と書かれています。

 墓石の表面もかなり薄れていますが、よく見てみると延宝九辛酉月八〇と読めました。(※延宝9929日に「天和」に改元されています。そのため、信友が亡くなった時点での元号は『延宝』です。『寛政重修諸家譜』には天和元年とされていますが、改元の日にちまで厳密に考えなかったことから延宝9年を天和元年としたものと思います。) さらに法名の「夢成」も墓石に刻まれているように思われました。 

 そうしたことから、信由の右隣のお墓が信友のお墓だと判断しました。〔万が一間違いでしたらお許し下さい。〕

 さて、信友は忠政の三男として生まれ、『寛政重修諸家譜』によれば、2代将軍徳川秀忠に仕え、大坂冬の陣・夏の陣に小姓組の番士として出陣し、戦後三百三十石を拝領して、のちに五百五十石に加増されています。信友の系統も代々続きますが、子孫のお墓は普門院ではなく、麹町福寿院にありました。福寿院は、現在は杉並区高円寺南2丁目に移転しています。

 千代田区の水道橋駅近くに「小栗坂」という坂があります。 江戸時代の「切絵図」にも「小栗坂」と書かれていますので、江戸時代から「小栗坂」と呼ばれていたようです。下図の上部の緑色の部分が神田川で左端が水道橋です。その右が神田川に架かっていた神田上水掛樋(かけひ)です。その中間の南側に「小栗坂」があります。下地図の赤で囲った部分です。

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 千代田区が設置した標示板には「千代田区内に多く存在する人名にちなんで名付けられた坂道の一つで、江戸時代の初めに、坂下の路地を入ったところに七百三十石取りの旗本小栗家の屋敷があったことから名付けられました。」と書かれています。(下写真)

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 しかし、以前の説明板には、現在のものより詳しく説明がされていて、小栗坂という名前は江戸時代の初期に小栗信友の屋敷があったことにより命名されたようです。
「この坂を小栗坂といいます。『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂、鷹匠町にあり、水道橋へ上る坂なり、ゆえしらず」とあり、『新撰東京名所図会』には「三崎町1丁目と猿楽町3丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。もと此ところに小栗某の邸ありしに因る」とかかれています。明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には、坂下から路地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。この小栗家は『寛政重修諸家譜』から、七百三十石取りの知行取りの旗本で、小栗信友という人物から始まる家と考えられます。 昭和50年(19753月 千代田区」

 


[補足】〈『寛政重修諸家譜』に載っている小栗一族〉

 『寛政重修諸家譜』を読んでみると多くの小栗家が記載されています。そこで、小栗一族がどのような関係なのか調べてみました。

数えてみると後記の9家の小栗家が記載されていました。ただし、そのうちの後記の最下段❾の小栗吉次家は、江戸時代前期の天和年間に改易されていますので、『寛政重修諸家譜』を編纂した時代には小栗一族は8家あったということになります。

 [ ]に書かれた名前が、『寛政重修諸家譜』の筆頭に載っている人物名です。

 ❶ 1[吉忠-忠政] 小栗一族の本家。

        小栗上野介忠順は小栗本家の12代当主です。

 ❷ 2[信由]忠政の二男 通称二右衛門 

 ❸ 2-1[信則(のぶのり)]信由の二男 通称源之助・又左衛門 

 ➍ 3[信友]忠政の三男 通称又兵衛

 ❺ 3-1[信常] 信友の三男 半蔵 甚兵衛

 ❻ 3-2[信盛] 信友の四男

 ❼ 3-2-1[信伊(のぶただ)] 信盛の二男

 ❽ 4[忠次] 忠政の四男 半右衛門

 ❾ 1-1[吉次] 小栗仁右衛門吉忠の二男 長男は忠政


                       以  上




# by wheatbaku | 2026-06-12 20:30 | 小栗上野介
小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》

小栗忠政の墓〔大宮普門院①〕《小栗上野介ゆかりの地1》


 2027年のNHK大河ドラマは小栗上野介忠順(ただまさ)を主人公とした『逆賊の幕臣』です。そこで、少しずつですが、小栗上野介忠順に関する事柄について書いてみます。

 最初は、小栗上野介忠順のゆかりの地の一つである大宮の普門院について書いてみます。

普門院は、さいたま市大宮区大成(おおなり)町にある曹洞宗のお寺です。JR大宮駅西口から徒歩で20分の距離にあります。下写真は寺院入口の写真です。

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普門院は、室町幕府三代将軍足利義満の時代の応永33年(1426)に創立された古いお寺です。 

ここには、小栗上野介忠順の先祖にあたる小栗忠政のお墓があります。

普門院の入口には「大宮市特定文化財 大成領主 小栗忠政一族の墓」と書かれた標柱が建てられています。下写真の左端の白っぽい標柱です。

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 普門院について、『大宮市史』には次のように書かれています。「寺伝によれば、普門院の開基の金子駿河守家光は、大成(おおなり)および植田谷領佐知川村(現西区佐知川)をながく領知した武士である。家光は金子十郎家忠の後裔で五代の末孫と伝えられ、大成に居館を構えていたという。

たまたま応永三十三年(1426*室町幕府三代将軍足利義満の時代、曹洞宗の巨匠月江正文禅師が東国巡錫(じゅんしゅく)のおり、大宮氷川神社の社頭に仮泊したが、その夜霊夢に感応し、このことを知った神主の案内で、金子駿河守の大成館を訪れた。駿河守は禅師の高徳に帰依し、剃髪し幻公庵主と称し、その居館を寺として山号を大成山、寺号を普門院と称したと伝えられている。」

普門院は、金子駿河守が構えた大成館(おおなりやかた)に創建された寺院であるため、上写真の石製の標柱には、「大宮市指定史跡 大成館跡」と書いてあります。

 下写真が普門院の本堂です。

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 本堂の裏側に、小栗忠政一族のお墓があります。小栗忠政のほか、大成領を受け継いだ忠政の次男小栗信由(のぶよし)をはじめ信由家の歴代当主の墓、さらに忠政の三男信友の墓もあり、すべてで30基の墓があります。

 下写真は小栗忠政一族の墓全体写真です。

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 墓の入口脇に下記の内容の説明を刻んだ石製の説明板(写真は下記)が普門院によって設置されています。

大成領主小栗忠政一族の墓  さいたま市指定文化財(史跡)

 小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦いで、敵が家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠政がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした、一番槍にも等しいとその槍を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたので又(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(一六一六)に亡くなると普門院に葬られた。

 忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。代々又ーと称し葬地は牛込保善寺である。大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加贈され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(一六六一)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。

 [以下、小栗上野介忠順について書かれているがここでは省略する]

下写真が石製の説明板です。

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小栗忠政の墓は小栗一族の墓所の最奥部にあります。

 小栗家は、徳川家康の先祖である松平家から別れた一族との伝承があり、小栗忠政は、その四代目とされています。小栗忠政とその二男信由、三男信友について、大宮市史第五巻民俗文化財編(昭和44920日発行)には次のように書かれています。

「小栗一族は松平氏の後裔で、徳川将軍家とは関係深い由緒ある家柄である。同家四代忠政は姉川の戦いに功あって家康から「又々一番の功名」とのことから又一の名と、信国の名槍をもらい、その後の歴戦に活躍、二千五百五十石を与えられた高名の旗本である。信由は忠政の二男で、大坂夏の陣に功あって別に一家をおこし、父の采地大成村五百五十石を分知され、さらに寛永2年(1625)上総国で二百石を加増され、七百五十石の旗本となっている。

 采地大成村は信由の息子二代信政、三代信行と襲封、途中信行の代、すなわち延宝元年(1673)に天領となり、明和五年(1768)五代信霽の時、再び小栗家の采地に復し、以後六代信崇、七代信厚、八代信任、九代信将とこれを襲封、明治元年武蔵知事管轄となっている。

 信友は忠政の三男で別に一家をおこし、下総国で五百三十石を知行した旗本である。(後略)」

小栗忠政の墓は下写真です。墓には、右側に「元和二年丙辰 施主」中央に「為 源室宗本大禅定門」左側に「九月十八日 敬白」と、法名や命日が刻まれていたようですが、法名等の多くは崩れていて読み取ることが困難ですが、かろうじて「為 源室○○〇〇定門」「元和」「九月十八」等が読めます。

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 「寛政重修諸家譜」では小栗忠政についてかなり詳しく書かれています。次はその一部です。原文を私なりに現代語訳して記します。

「永禄10年東照宮につかえて、御小姓をつとめた。時に13歳であった。元年姉川の戦いの際、忠政は16歳であった。敵兵が家康のすわっている床几のすぐそばまで攻めてくるのをみて、家康のそばにあった信国の槍をとってわたりあううちに、ありあう人々が集まってきて、その邸を討ち取った。家康は忠政が若年でありながら心きいた働きに感心して、一番槍に等しい働きであるとして先ほどの槍を賜った。この後もまた随一の働きをしたので、感心のあまり、これからは、又一と改めるようにと言われた。(後略)」(※『東照宮御実紀付録巻二』にも、このことが書かれている。)

 小栗忠政は、小栗家を中興し、上野国邑楽(おうら)郡(現在の群馬県館林市周辺)、多胡(たこ)郡(現在の群馬県高崎市周辺)、武蔵国足立郡(現在のさいたま市周辺)および下総国矢作領(現在の千葉県香取市周辺)に2550石の領地を拝領していました。小栗忠政が死んだあとは、2000石を長男政信が襲封し、大成村は次男信由が襲封しました。そのため、普門院には、大成を襲封した信由系の歴代当主の墓はありますが、小栗家宗家である長男小栗政信は江戸の保善寺に埋葬され、以降政信系の歴代当主は保善寺に埋葬されることとなりました。なお、保善寺は、江戸時代には、牛込にありましたが、現在は、中野区上高田に移転しています。


 小栗忠政の二男信由と三男信友の墓については次回書きます。


 下記地図の赤印が普門院です。右下がJR大宮駅です。







# by wheatbaku | 2026-06-05 20:45 | 小栗上野介
「鏡子悪妻説」について考える。

「鏡子悪妻説」について考える。

夏目漱石の妻鏡子は悪妻だという説が広く流布しています。さすが鏡子自身は自分が悪妻だといっていませんが、漱石・鏡子夫妻の三男伸六は『父・夏目漱石』のなかの「母のこと」で「恐らく、読者の大半は、すでに、御承知のことと思うけれども、私の母ほど、天下の悪妻として、喧伝されている女も珍しいのである」(p254)と書いていますから、鏡子悪妻説は漱石の身内の耳にも届くほど有名だったようです。

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 しかし、実際に漱石の『道草』や鏡子の『漱石の思い出』を読んでみると、悪妻と言われるほど漱石と鏡子の夫婦仲が本当に悪かったのか、少し疑問に思いました。そこで、鏡子悪妻説について調べてみました。

 夏目鏡子が悪妻だと広く流布しているため、そのことを書いた人は大勢いるのだろうと思って、どんな人が悪妻説を書いているのかと思って探しました。すると、意外にも、悪妻説を書いた人物がなかなか見つかりませんでした。

 そうした中で、夏目伸六が、『父・夏目漱石』の中で、「この悪妻説を振回す大部分の連中が、小宮さん(小宮豊隆のこと)を除いて、ほとんど、母とは、面識のない人間ばかりであって、それでは、何で、彼等が、そうそうこの母を中傷するのかというと、父の日記、あるいは書簡のところどころに、母の悪口が書いてある。それと小宮さんの著書などを読んで、さぞかし、漱石は、この細君に、苦しめ、悩まされたのでなかろうかと思い込んでしまったに違いない。が実を云うと、そう思い込んだ筆頭は、小宮豊隆さん自身なのであった、他はすべてその亜流であるといった方が、適当であるかもしれない。」と書いています。これからすると鏡子悪妻説の主唱者は小宮豊隆だということになります。

小宮豊隆は漱石の直弟子で、鏡子の『漱石の思い出』にもしばしば登場しますが、その小宮豊隆が『夏目漱石』の中の「再び神経衰弱」で「鏡子が悪妻であった」という趣旨の事を書いています。これが鏡子悪妻説の元凶のようです。

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 「再び神経衰弱」は19ページにわたる文章ですので全文を引用するわけにはいきませんが、『漱石の思い出』に書かれていることをかなり引用したうえで、最後に次のように書いています。

「私から言わせれば、漱石の当時の肝癪(かんしゃく)の根本は、鏡子の無理解と無反省と無神経から来ているのである。もともこれはあながち鏡子のみではなく、誰が漱石の妻になっていても、漱石はその無理解と無反省と無神経に悩まなければならなかったのかも知れない。漱石は自分に最も近いものを最も憎んだと言われるが、正しい漱石は、自分が最も愛する者、自分が最もよく知っている者、自分に最も近い者の中に、最も醜いものを発見する場合、愛し、知り、近いという理由だけで、見て見ぬふりをするというような、そんなだらしのない真似はできなかったのである。そのうえ人は、自分に近い者でなければ、真正の意味で、愛しも憎みもするわけに行かない。最も近いが故に最も憎まれるということは、その人に救いようのない『悪』が巣喰(すく)っているためである。」(『夏目漱石(上)』p185

少し分かりにくい文章ですが、要は鏡子が漱石を理解しない悪妻であり、漱石が最も憎んでいたと小宮豊隆は語っていると私は解釈しました。

 なお、小宮豊隆以外の人が鏡子悪妻説を書いているかどうか可能な限り探してみましたが、夏目伸六らが書いている通り小宮豊隆以外の人物が書いた文章はみつかりませんでした。念のため新宿区の「漱石山房記念館」に問い合わせてみましたが「小宮豊隆以外の人が書いているかどうかわからない」という回答でした。

 前述の小宮豊隆の鏡子悪妻説に対して、漱石と鏡子の様子を身近で見ていた漱石・鏡子の子供や孫たちは、ちがう意見をもっていますので、いつか紹介します。

 漱石の長女松岡筆子は『夏目漱石の「猫」の娘』(半藤末利子著『漱石の長襦袢』所収)で、漱石と鏡子の思い出を書いた後で、次のように書いています。

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「後になって母は、多くの方々に悪妻呼ばわりされ、漱石はあの悪妻を持ったればこそ、傑作を生めたとか、母が悪妻でなかったら作風も変ったろう等と、ずい分無責任な事を云われて参りましたが、私からみますと、あの母だからこそあの父とどうやらやっていけたのだと、むしろ褒めて上げたい位な節が数多くあるのです。父の神経衰弱の為、実際、身の毛がよだつような危機が何度もあったのです。

それにしても、母の人柄の良さや気ッ風の良さを利用していらした方々までが、平然として、母を悪妻呼ばわりしているのをみると、ちょっとあきれる感じがいたしてまいります。」(『漱石の長襦袢』p244

 また、漱石の次男夏目伸六は『父・夏目漱石』の中で、次のように書いています。

「(小宮豊隆は)たしかに、あまり男性的な性格であったとは思えないのだが、そのせいか、自分より目下の者の言論が、意に満たぬ場合には、あくまでこれを論難しようとする反面、尊敬する相手の言葉には、ただただ無条件に、頭を下げるといった傾向も、多分にあって、一名『漱石神社の神主』などとかげ口をきかれる理由も、こんなところにあるのだけれども、それだけに、彼にとって、父の言葉は、片言隻句といえども、絶対なのである。尤も、小宮さん自身にしたところで、若い学生の頃は勿論のこと、父の死後もずっと、私の母とは親しくもし、随分と世話にもなった関係上、個人的には、別に、この母に、それほどの悪感情を抱いているという訳でもないのだろうが、ただ、絶対の父と俗物の母とを一対にして、おのが祭壇に安置してみて、始めて、異質に悩まされる御神体が、何ともいとおしくてならなくなったのに違いない。

勿論、小宮さんの、自分の学問的な研究には、いっさい、私情をさしはさまぬと厳しい態度のうちには、まじめな、学者としての良い一面を、充分に現わしているとは思うけれども、そうかといって、母が父にとって、それほどの悪妻であったかということになると、話はまた、おのずから、別問題になって来る。」(『父・夏目漱石』p285286

 さらに、漱石の孫(長女筆子の三女)の半藤末利子は『漱石の思い出』の解説の中で次のように書いています。

「鏡子ほど歯に衣着せず直戴に物を言う人を私は知らない。しかも、年寄にありがちな繰り言としての愚痴や手柄話の類や、漱石に関しての悪口を、祖母の口から私は一度たりと聞いたことがない。祖母はお世辞を言たり、自分を良く見せるために言葉を弄したり蔭で人の悪口を言うこともなかった。あれほど悪妻呼ばわりされても、自己弁護をしたり折をみて反論を試みようなどとはしない人であった。堂々と自分の人生を生きた人である。

いつか二人で交わした世間話が、漱石の門下生や、鏡子の弟や二人の息子や甥達に及んだ時、

『いろんな男の人をみてきたけど、あたしやお父様が一番いいねえ』

と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。

また別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、『あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ』

と言ったこともある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう。」(『漱石の思い出』p461462

 これらのように鏡子の子供や孫たちは鏡子は悪妻ではなく漱石を非常に愛していたと語っています。

 いずれが、正しいのかひとそれぞれの受け止め方だとは思いますが、最近は、鏡子悪妻説に異論を唱える研究者の発信もありますので、紹介しておきます。

『夏目漱石から読み解く「家族心理学」読論』の「おわりに」で亀口憲治東京大学名誉教授は次のように書いています。

「本書で取り上げた夏目漱石も、一世紀以上前にこの問題(*家族の心理状態を安定的に保つための知恵が求められるという課題を指すと思われる。)に直面し、苦闘したのではなかったでしようか。同時に、縁あって妻となった鏡子夫人の功績も見直されるべきだと考えます。少なくとも、『悪妻』のレッテルのみが貼られたままで済まされるとは思われません。そのような私の判断は、従来の漱石研究が漱石個人に傾きがちであったのと異なり、本書が家族の関係性を重視する「家族心理学」の視点に立っていたことからすれば、当然のことといえます。漱石夫妻の子ども世代のみならず、孫世代の証言を重視したことも、家族の多世代関係を重要視する観点からは、自然な成り行きとして理解していただけたのではないでしようか。漱石の子孫の方々は、まぎれもなくわれわれと同じ時代を生きています。その連綿たる命の流れに、畏敬の念を抱かずにはいられません。」

 また、『漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人』で児童文学作家三田村信行氏は次のように書いています。

「漱石夫人鏡子は、世間に悪妻として通っている。小宮豊隆をはじめとする門下生たちによれば、「先生がもっといい奥さんをもらっていたら、もっとすごい傑作を書いていたかもしれない」ということになるようだが、果たしてどうだろうか書いたかもしれないし、書かなかったかもしれないというほかはない。要するに門下生たちの不満は、鏡子が漱石の偉大さを理解していなかったということになるらしい ある意味ではこれは無理な注文というものだろう。門下生たちにとっては漱石は神のような存在だったかもしれないが、鏡子にとっては作家であるまえに、夫であり、子どもたちの父親であった。もし鏡子が家庭内で門下生たちと同じように漱石を神のような存在として敬っていたとしたら、漱石はいたたまれなかったにちがいない。」(『漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人』P217

 以上、鏡子悪妻説について書いてある文献を紹介しましたが、鏡子悪妻説は有名なわりには思いのほか詳しく究明したものがあまりありません。

 紹介した本を読んだかぎりでは、鏡子が悪妻であったと述べているのは漱石の弟子たちであり、彼らが信仰している漱石の偉大さが否定されることを怖れるあまり鏡子を悪妻に仕立て上げたという気がしないではありません。

 また、弟子たちが生きていた時代で理想とされていた良妻賢母の姿が、現在では通用しなくなっていることを考えると、弟子たちが唱えた鏡子悪妻説が否定される趨勢にあるように思います。

 今回紹介した本以外にも鏡子悪妻説について書いた本が他にあるかもしれません。これからも関係書物を探して、鏡子悪妻説について考えていきたいと思います。




# by wheatbaku | 2025-07-12 19:00
夏目鏡子『漱石の思い出』を読む

夏目鏡子『漱石の思い出』を読む

夏目漱石は幼少の頃に内藤新宿に住んでいたことを調べているうちに『漱石の思い出』を読むたくなり、この間『漱石の思い出』を読んでいましたが、ようやく読了しましたので、気づいたこと等を書きます。

『漱石の思い出』は、漱石の妻夏目鏡子が語った話を漱石の娘婿(長女筆子の夫であり漱石晩年の弟子)である松岡譲が書き留めたものです。

 『漱石の思い出』は、400ページを超える分量(その構成は最下段目次参照)がありますが、漱石の生い立ちから死ぬまでの二人の様子、さら日常の漱石の様子が詳しく書かれています。

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これを読むことにより、明治の文豪夏目漱石が、隣にいる身近な人に感じられるようになりました。

 『漱石の思い出』を読んでみて、「そうか!」と初めて知ったことや気が付いたことが多々ありました。そこで、私なりに気がついたこと等を目次に沿ってアットランダムに書いてみます。なお、全体の目次は、後記しておきましたので、ご参照下さい。

 『漱石の思い出』は冒頭が「松山行」で、漱石が松山中学校に赴任した事情について書いていますが、まず「二 お見合い」の中で初めて知ったことから書いてみます。

 ◆漱石の妻鏡子は、当時貴族院書記官長であった中根重一の長女で、漱石と鏡子のお見合いは、明治281228日、松山から上京してきた漱石が、当時虎ノ門の官舎に住んでいた中根家を訪ねて行われた。 「二 お見合い」p22

 ◆結婚式は、熊本で行われたが、新郎新婦のほかは、鏡子の父中根重一が出席しただけで、鏡子と重一についてきた中根家の女中が三々九度の盃をまわした。「三 結婚式」p32

鏡子は、昔から朝寝坊で、早起きをしようと努力するが、非常につらく、朝ご飯を食べさせずに学校に出すことも時々あった。「三 結婚式」p35

漱石が養子に行った養母の塩原やすから金を工面してほしいと長い手紙が届き、漱石の養子の頃の話を聞いた。「七 養子に行った話」p62

漱石は、鏡子と結婚した翌年の正月には五高の友人山川信次郎と一緒に熊本の西北にある小天(おあま)温泉で過ごした。この小旅行が『草枕』の題材となっている。「八 『草枕』の素材」p69

長女は筆子というが、これは鏡子が字が下手であったため、娘は字が上手になるようにという願いを込めて「筆」となづけた。「十 長女誕生」p86

漱石はロンドンに出発する際に「秋風の一人を吹くや海の上」という句を残していった。鏡子は、これを床の間の横に架けておいた。しかし、漱石は帰朝した際にびりびりに裂いて捨ててしまった。「十三 洋行」p100

ロンドンに留学中に漱石はしばしば手紙を留守宅に出したが、返事を催促されても筆不精の鏡子は返事を書くことができなかったので、一工夫して長女筆子の日記という形で近況を知らせたら漱石は非常に喜んだ。「十四 筆の日記」p102

子規が亡くなる前に一度だけ、鏡子は子規のお見舞いのため、子規庵を訪ねている。「十七 帰朝」p118

留学から帰って3日目か4日目に、理由なく長女の筆子が殴られるという事件が起きた。 この部分は、そのまま引用しておきます。

「長女の筆子が火鉢の向こう側にすわておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。へつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうかと思うと、いきなりびしやりとなぐったものです。何が何やらさっばりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと、ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨か一枚便所の窓にのってるというではありませんか。小癪な真似をする、常々下宿の主婦さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思っていたら、やっばり推定どおり自分の行動は細大洩らさす見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところにのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実にけしからんやつだと憤慨したことがあったのだそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です。」「十七 帰朝」 p120

 ◆漱石は熊本第五高等学校から留学したので、帰朝したら五高に戻らなければならなかったが、漱石は東京に止まりたいと希望したため、紆余曲折があったもののともかく東京に止まることができた。「十七 帰朝」p121

 ◆『吾輩は猫である』の猫は、夏目家にどこからともなく入り込んだ猫であった。捕まえるたびに外につまみだしていたが、いつのまにか家の中に入ってきた。ある日、やってきたあんまに足の爪まで黒いこの猫は福猫だいわれて飼いだした。「二十四 『猫』の話」p153

漱石が小説を書き始めた初期は、小説を書くのが楽しそうで、書くのも短時間で書いていた。『坊ちゃん』『草枕』は書き始めて5日か1週間で書いていたように思う。「二十四 『猫』の話」p159

『吾輩は猫である』の重要人物の「苦沙弥先生(くしゃみせんせい)」と「迷亭(めいてい)」は漱石自身が持っている性格を二人に分けて書いたようである。「二十四 『猫』の話」p167

四女愛子が生れた時は産婆が間に合わず、漱石が取り上げた。「二十七 生と死」p178

夏目は涙もろい性(たち)で、人の気の毒な話などにはすぐ同情してしまうほうだったし、また頼まれれば欲得を離れて、かなり骨折って何かとめんどうを見る質の人であった。「二十九 朝日入社」p192

『虞美人草』を書いている頃、総理大臣西園寺公望から西園寺主催の文士の会合への招待があったが、ハガキにお断りの俳句を書いて謝絶してしまったことがあった。「二十九 朝日入社」p196

漱石は長年胃の具合が悪く、長与胃腸病院で胃潰瘍と診断され、入院したが、まもなく退院し、療養のため伊豆の修善寺の菊屋旅館に転地療養した。しかし、体調が悪化し大量の血を吐き、脈が止まるという危篤状態に陥いった。付き添いの森成麟造医師らの懸命の治療により一命をとりとめた。漱石が吐血した際には鏡子の着物の胸から下が真っ赤に染まるほどだったと書いてある。「三十七 修善寺の大患」p228

修善寺大患の時に、親友である満鉄総裁の中村是公(よしこと:通称ぜこう)が、療養していた宿の宿泊代などの支援をしてもらった。中村是公は、漱石の大学以来の親友「四十一 病院生活」p263

文部省が文学博士号を贈るといってきたのに対して断固として受け付けなかった。「四十二 博士号辞退」p274

漱石はお金には恬淡でのんきであった。鏡子が紙入れにいくらか入れておいても、それがいくら入っているか知らない様子であった。誰かが来て泣きついて金を借りていったり、自分で好きな書画骨董を買う程度であった。「四十三 良寛の書など」286

娘たちに小説を読ませるのは大嫌いで、ほどんど厳禁であった。「四十九 私の迷信」p318

 岩波書店は当初は微々たる出版社で、時々お金を融通していた。岩波書店で最初に出版したが『こころ』であるが、その費用は岩波で用立てできなかったため、漱石が自費で出版した。「五十三 自費出版」p341

漱石が亡くなる前の1年間の木曜会には午前中から中央公論の名編集者でもあった滝田樗陰(ちょいん)がやってきて、盛んに書画を描かせた。漱石は頼まれればよく書画を書いたが、鏡子自身が書いてもらったものはほとんどない。「五十八 晩年の書画」p378

 漱石が亡くなった際に、鏡子から遺体の解剖を願い出た。これは五女雛子が幼くして亡くなった後に、死因を明らかにするには解剖したほうが良かったと後悔しいたからだという。「六十一 臨終」p410

 漱石のデスマスクを残そうと言い出したのは森田草平である。「六十一 臨終」p411

 漱石が亡くなった際に、雑司ヶ谷霊園に埋葬した。これは、五女雛子が亡くなった際に雑司ヶ谷にお墓を建てていたことによる。その後、雑司ヶ谷霊園が拡大され、新墓地が出来た際に、現在地に移転した。安楽椅子型のお墓は、鏡子の妹婿の鈴木禎次(ていじ)が設計した。「六十四 その後のことども」p437


《参照》『漱石の思い出』 目次

一 松山行  二 見合い  三 結婚式  四 新家庭  五 父の死 六 上京  七 養子に行った話  八 「草枕」の素材  九 書生さん  長女誕生  十一 姉さん  十二 犬の話 十三 洋行 十四 筆の日記 十五 留守中の生活 十六 白紙の報告書 十七 帰朝 十八 黒板の似顔 十九 別居 二十 小刀細工 二十一 離縁の手紙 二十二 小康 二十三 「猫」の家 二十四 「猫」の話 二十五 ありがたい泥棒 二十六 「猫」の出版 二十七 生と死 二十八 木曜会 二十九 朝日入社 三十 長男誕生 三十一 最後の転居 三十二 坑夫 三十三 謡の稽古 三十四 いわゆる「煤煙」事件 三十五 猫の墓 三十六 満韓旅行 三十七 修善寺の大患 三十八 病床日記 三十九 経過 四十 帰京入院 四十一 病院生活 四十二 博士号辞退 四十三 良寛の書など 四十四 善光寺行 四十五 二つの縁談 四十六 朝日講演 四十七 破れ障子 四十八 雛子の死 四十九 私の迷信 五十 のんきな旅 五十一 二度めの危機 五十二 酔漢と女客 五十三 自費出版 五十四 芝居と角力 五十五 京都行 五十六 子供の教育 五十七 糖尿病 五十八 晩年の書画 五十九 二人の雲水 六十 死の床 六十一 臨終 六十二 解剖 六十三 葬儀の前後 六十四 その後のことども 



# by wheatbaku | 2025-06-19 20:00
夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!

夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!

 この間、夏目漱石は幼少期を内藤新宿で過ごしたことがあったことを調べてきましたが、その過程で、夏目漱石は樋口一葉と義理の姉弟になったかもしれなかったということを知りました。樋口一葉は、2024年までは五千円札の表面も飾っていたので、皆さんはよくご存じだと思います。夏目漱石も千円札の肖像でした。そのことを考えるとますます不思議な縁ですね。そこで、本日は、その事について書きます。

 夏目漱石の父直克には五男三女の子供がいました。先妻との間に二女、後妻である千枝との間に五男一女がいました。夏目漱石こと夏目金之助は五男の末っ子でした。

直克と先妻との間に生まれた二人の姉は、長女佐和(さわ)、次女房(ふさ)と言いました。前回、里子に出された漱石がかわいそうだと思って姉が生家に連れ帰った話を書きましたが、この姉が次女の房だとされています。なお、房は、従兄である筑土の名主高田家の長男庄吉と結婚しました。『道草』に庄三の姉夫婦として比田とその妻お夏が登場しますが、そのモデルが高田庄吉と房だとされています。

そして、後妻千枝との間には五男一女が生まれました。長男大一(大助)、次男栄之助(直則)、三男和三郎(直矩)、四男久吉、三女ちか、そして、末っ子の五男金之助です。( )内は元服後の名前

 長男大一は元服して大助と名乗ります。開成学校(現在の東京大学)在学中に中退し、警視庁の翻訳係をしていましたが、明治20年3月21日に、肺結核でこの世を去りました。31歳の若さでした。

 この長男大助と樋口一葉との間で、縁談話があったと『漱石とその時代』(江藤淳著)に書いてあります。

夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!_c0187004_13550117.jpg

「彼(大助のこと)とのちに一葉女史として知られた樋口夏子とのあいだには縁談が持ちあがったことがある。夏子の父樋口則義は警視庁で夏目小兵衛の下僚であり、父親の引きで翻訳係に採用されて一時山下町の官舎に住んでいた大助とも面識があった。則義もまた同じ官舎に住んでいたから、娘を行く行くは大助の嫁にという話がはじまりかけたのである。このとき夏子はまだ十四、五歳の少女であった。しかしこの縁談は、樋口家に財産がないことを知った小兵衛直克の反対でつぶれた。」

 樋口一葉 明治5年(1872)年325日生まれですので、14.5歳の時の話とすれば、明治19年(1886.20年(1887)の頃の話だと思われます。

 夏目大助は、安政3年(1856218日生まれですので、大助は30歳もしくは31歳で、漱石は19.20歳の頃の話だったと思われます。

 この部分を読んだ際に、あまりにも予想外のエピソードなので驚きました。しかし、その典拠は特に書いてありませんでしたので、この話の出所がどこなのか調べたました。すると、この話は、江藤淳氏独自の見解ではなく、もともとは漱石の妻鏡子が述べた『漱石の思い出』に書かれているものでした。『漱石の思い出』の「五 父の死」の中で鏡子は次のように語っています。

 「一番上の大一さんという兄さんは、大学にもはいり、学問もあり、また男前も立派な方だったそうですが、惜しいことに肺が悪くて病身だったので、大学も途中でやめたような按排(あんばい)です。そのころ父は府庁から警視庁に回ってそこで勤めていたのだそうですが、その下役に樋口一葉女史のお父さんが勤めておられまして、父は歳も歳でしたし、それに名主のいい顔で腕利きだといっても学問はなし、小うるさく働くのも億劫(おっくう)だったのでしょうが、樋口さんのほうは学問もあり、それに誠にこまめに立働くので、父はたいそう調法がって使っておりまして、時々は金を貸してやったものだと申します。一葉女史の貧乏は有名な話ですが、お父さんが生きていられる時から楽ではなかったらしいのです。しかし何しろよく働いてくれるし、いわば大事な片腕といったぐあいで、いいなりに金を用立てていたものの、なかなか返してくれるということがありません。

樋口さんはその頃山下町の官舎におられ、大一兄さんもやはり父の引きで、そこの翻訳をやる役についていて、同じ山下町の官舎に住んでいました、父だけは牛込から通っていたものと見えます。大一兄さんも勤めているくらいだからまだ丈夫でしたでしょうし、年頃ではあり、男前はよし、それに名主の長男ではありあり、まずまず申し分のないところから、樋口の娘に(*「は」の間違いかも)字も立派だし歌もつくるし、第一大層な才援がある、あれをもらっちゃどうかという話が持ち上がりました。ところが考えたのはお父さん、ただの下役でさえこれくらい金を借りられるのに、娘を貰ったりなどしたら、それこそどうなることかとこう算盤(そろばん)を弾(はじ)いたものと見えまして、この話はそれなりきりで、あたら一葉女史を夏目の家に貰いそこねたという話がございます。」

漱石の妻鏡子が語っていることですので、嘘はないと思います。

 樋口一葉は、明治5年に山下町(現在の千代田区内幸町)に生れました。当時は、江戸時代の大和郡山藩柳沢家の上屋敷を利用していた東京府庁構内の武家長屋に生れました。その地は、現在は「内幸町ホール」となっていますが、その前に「樋口一葉生誕地」の説明板が設置されています。(下記写真)

夏目漱石と樋口一葉は、義理の姉弟になっていたかもしれない!_c0187004_13493137.jpg

そこには次のように書かれています。

「樋口一葉、名は奈津、なつ、夏子とも自署した。明治5325日、内幸町にて、東京府庁に勤める樋口則義と母たきの次女に生まれる。14歳で中島歌子の歌塾萩の舎に学ぶ。本が好きで親孝行だった。身長五尺足らず、髪はうすく、美人ではないが目に輝きがあった。

 士族の誇りを胸に、つつましく見えてときに大胆。心根はやさしくときに辛辣。女であることを嘆きつつ、ときに国を憂えた。

 文学を志し、明治27年より「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「われから」と次々に発表、奇跡の14か月と評される。

 明治291123日、本郷丸山福山町四番地で死去。享年満24歳。(森まゆみ「一葉の四季」より)」




# by wheatbaku | 2025-05-13 13:59
  

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