子規、逝く(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑮)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第14回は「子規逝く」のタイトルの通り、正岡子規が亡くなることが描かれていました。
正岡子規が亡くなったのは明治35年9月19日です。
子規は明治35年9月になると体調が大変悪くなりました。9月14日に「9月14日のこと」という記事を書きましたが、これが子規の最後の作品となりました。
そして、9月18日になると非常に病状が悪くなりました。そうした状況の中で「絶筆三句」と呼ばれている次の俳句を詠みます。
糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな
痰(たん)一斗(いっと)糸瓜の水も間に合はず
おとといのへちまの水も取らざりき
『絶筆三句』では糸瓜(へちま)のことが詠まれていますので、子規の命日は「糸瓜忌(へちまき)」と呼ばれています。
この句が詠まれた状況は、『正岡子規言行録』の中の「君が絶筆」で河東碧梧桐が書いています。
それによると、妹律が紙を貼りつけた書板を子規に渡し、碧梧桐が筆を渡すと子規は最後の力を振り絞るかのような感じで、まず「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」と書くと子規は筆を投げ出し、痰がでて、それを切るのに苦労したあとに「痰(たん)一斗(いっと)糸瓜(へちま)の水も間に合はず」と書き、その後、苦しそうにしながら「おとといのへちまの水も取らざりき」と書いています。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描写されたのは誇張ではないようです。「君が絶筆」には、子規が「絶筆三句」をどのような状況で書いたかが詳しく書かれています。
*『正岡子規言行録』は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますので、そこから転載したものを、最後に付記しておきます。
「絶筆三句」を書板に書いた日の夜(正確には日が変わって9月19日の深夜)、子規は亡くなります。子規が亡くなった時の様子は、高浜虚子が『子規言行録』の中の「君が終焉」の中に書いています。
それによると、18日午前11時頃、河東碧梧桐から呼ばれて虚子が子規庵に行った時には子規は昏睡状況でした。そして、その後、時々、眼をさまして水を求めたりしていました。午後6時過ぎ碧梧桐は帰りました。そして、夜が更けて、虚子と律は仮眠します。以下国立国会図書館デジタルコレクションの「君が終焉」から転載します。
「○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。
○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。
○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。
○妹君は直ちに陸(くが)氏に赴き電話にて医師に報ず。
○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。」
虚子が碧梧桐を呼びに行くために戸外に出た際に詠んだのが「子規逝くや 十七日の 月明(げつめい)に」です。これはドラマでも描かれていましたね。
続いて、碧梧桐に呼びに行った後帰ってきた虚子が続いて書いています。
「碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。
○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄(にわか)に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。
○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。」
そして、子規が亡くなったことを最初に気づいた母八重の話が次のように書かれていますが、子規は付き添いの母も気が付かないうちに息を引き取っていたようです。
「○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。 (後略)」
子規の葬式は、9月21日に行われました。ドラマで子規の葬列に遭遇した秋山真之が棺を拝礼する場面がありましたが、これは事実のようです。
国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『秋山真之』(秋山真之会編)に収録されている『正岡子規と秋山参謀』(高浜虚子著)には「子規の葬式の時であった、棺が家を出て間もなく、袴を裾短に穿いて大きなステッキを握られた秋山君が向こうからスタスタ徒歩して来られて、路傍に立どまって棺に一礼された。それから葬式はお寺に行ってしまったが、後で聞くと秋山君は正岡の宅へ行かれて香を捻って帰られたそうだ」とあります。
子規庵には、母八重が留守番をしていたそうですので、八重に挨拶し焼香して帰ったのでしょう。
《追記》 「君が絶筆」(国立国会図書館デジタルコレクション『子規言行録』より)
「十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ
糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
痰のつまりし
までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ
痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ
間に合わず
と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに
をとひのへちまの
と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ
水の
と書いて
取らざりき
はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。」
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