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ブログ更新休止のお知らせ

ブログ更新休止のお知らせ

 いつも当ブログをご愛読いただきありがとうございます。

 このブログを書き始めたのは20081219日ですので、ちょうど16年が経ちました。

 長い間ご愛読いただきありがとうございました。

 この間にご訪問いただいた方は300万人を超え、現在も毎日増加しています。

 このようにご訪問いただく方が大勢いらっしゃるなかで、大変心苦しいのですが、満16年になったのを期に、このお知らせを最後として、ブログの更新を休止させていただきます。

 なお、ブログ自体は閉鎖せずに、このまま残しておきますので、過去の記事でご興味が沸いたものがありましたら、改めてお読みください。

 最後に、長い間ご愛読いただいたことに、重ねて御礼申し上げます。

 本当にありがとうございました。

 20241221


# by wheatbaku | 2024-12-21 17:00
虚子「子規逝くや十七日の月明に」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑯) 

虚子「子規逝くや十七日の月明に」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑯) 

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第14回では、子規が亡くなった際に高浜虚子が「子規逝くや十七日の月明に」という句を詠んだと紹介されました。しかし前回紹介した、子規が亡くなった時の状況を虚子が書いた『君が終焉』では、この俳句のことは書かれていません。これは、『君が終焉』は子規が亡くなった919日の様子をメモ書き的に書いたものであるためだろうと思います。

虚子は『子規居士と余』という作品の中でも、子規が亡くなった日のことを詳しく書いています。こちらはメモ書きではなく散文的に書かれています。そこで、今回は、虚子の『子規居士と余』から、子規が亡くなった際の様子を紹介します。なお、『子規居士と余』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、そこからの転載です。

「その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展のべて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。余は黙ってその月を仰いだまま不思議な心持に鎖(とざ)されて暫く突立っていた。

 やがてまた座敷に戻って病床の居士(子規のこと、以下同じ)を覗いて見るとよく眠っていた。

『さあ清さんお休み下さい。また代ってもらいますから。』と母堂が言われた。母堂は少し前まで臥せっていられたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に這入った。

 眠ったか眠らぬかと思ううちに、「清さん清さん。」という声が聞こえた。その声は狼狽した声であった。余が蹶起(けっき)して病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。

 その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味の事を言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽(よとぎ)をして居られたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いて見ると、もう呼吸(いき)はなかったというのであった。

 妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足(はだし)のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。

 余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨(そこつ)二君に知らせようと思って門かどを出た。

 その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処そこに流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰のぼりつつあるのではないかというような心持がした。

子規逝くや 十七日の 月明(げつめい)に

 そういう語呂が口のうちに呟つぶやかれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。

 両君を起こして帰って来て見ると母堂と鷹見夫人とはなお枕頭に坐っておられた。妹君は次の間に泣いておられた。殆ど居士の介抱のために生きて居られたような妹君だもの、たとい今日あることは数年前から予期されていたことにせよ、今更別離の情の堪え難いのは当然の事である。(以下略)」

 『子規居士と余』を読んでみて、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれたのは、まさに赤字部分の情景だと思いました。




# by wheatbaku | 2024-12-20 13:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
子規、逝く(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑮)

子規、逝く(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑮)

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第14回は「子規逝く」のタイトルの通り、正岡子規が亡くなることが描かれていました。

正岡子規が亡くなったのは明治35919日です。

子規は明治359月になると体調が大変悪くなりました。914日に「914日のこと」という記事を書きましたが、これが子規の最後の作品となりました。

そして、918日になると非常に病状が悪くなりました。そうした状況の中で「絶筆三句」と呼ばれている次の俳句を詠みます。

糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな
   痰(たん)一斗(いっと)糸瓜の水も間に合はず
   おとといのへちまの水も取らざりき

 『絶筆三句』では糸瓜(へちま)のことが詠まれていますので、子規の命日は「糸瓜忌(へちまき)」と呼ばれています。

この句が詠まれた状況は、『正岡子規言行録』の中の「君が絶筆」で河東碧梧桐が書いています。

 それによると、妹律が紙を貼りつけた書板を子規に渡し、碧梧桐が筆を渡すと子規は最後の力を振り絞るかのような感じで、まず「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」と書くと子規は筆を投げ出し、痰がでて、それを切るのに苦労したあとに「痰(たん)一斗(いっと)糸瓜(へちま)の水も間に合はず」と書き、その後、苦しそうにしながら「おとといのへちまの水も取らざりき」と書いています。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描写されたのは誇張ではないようです。「君が絶筆」には、子規が「絶筆三句」をどのような状況で書いたかが詳しく書かれています。

*『正岡子規言行録』は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますので、そこから転載したものを、最後に付記しておきます。

 「絶筆三句」を書板に書いた日の夜(正確には日が変わって919日の深夜)、子規は亡くなります。子規が亡くなった時の様子は、高浜虚子が『子規言行録』の中の「君が終焉」の中に書いています。

 それによると、18日午前11時頃、河東碧梧桐から呼ばれて虚子が子規庵に行った時には子規は昏睡状況でした。そして、その後、時々、眼をさまして水を求めたりしていました。午後6時過ぎ碧梧桐は帰りました。そして、夜が更けて、虚子と律は仮眠します。以下国立国会図書館デジタルコレクションの「君が終焉」から転載します。

○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。

○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。

○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。

○妹君は直ちに陸(くが)氏に赴き電話にて医師に報ず。

○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。」

 虚子が碧梧桐を呼びに行くために戸外に出た際に詠んだのが「子規逝くや 十七日の 月明(げつめい)に」です。これはドラマでも描かれていましたね。

続いて、碧梧桐に呼びに行った後帰ってきた虚子が続いて書いています。

「碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。

○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄(にわか)に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。

○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。」

そして、子規が亡くなったことを最初に気づいた母八重の話が次のように書かれていますが、子規は付き添いの母も気が付かないうちに息を引き取っていたようです。

「○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。 (後略)」

 

 子規の葬式は、921日に行われました。ドラマで子規の葬列に遭遇した秋山真之が棺を拝礼する場面がありましたが、これは事実のようです。

国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『秋山真之』(秋山真之会編)に収録されている『正岡子規と秋山参謀』(高浜虚子著)には「子規の葬式の時であった、棺が家を出て間もなく、袴を裾短に穿いて大きなステッキを握られた秋山君が向こうからスタスタ徒歩して来られて、路傍に立どまって棺に一礼された。それから葬式はお寺に行ってしまったが、後で聞くと秋山君は正岡の宅へ行かれて香を捻って帰られたそうだ」とあります。

子規庵には、母八重が留守番をしていたそうですので、八重に挨拶し焼香して帰ったのでしょう。


《追記》 「君が絶筆」(国立国会図書館デジタルコレクション『子規言行録』より)

「十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ

 糸瓜咲て

とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて

 痰のつまりし

までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに

 佛かな

と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ

 痰一斗糸瓜の水も

と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ

 間に合わず

と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに

 をとひのへちまの

と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ

 水の

と書いて

 取らざりき

はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。」





# by wheatbaku | 2024-12-18 22:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
「律(子規の妹)は強情なり」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑭)

「律(子規の妹)は強情なり」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑭)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第13回では、正岡子規の妹律について渡辺謙の「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。律は強情なり…」というナレーションがありました。

 これは、子規が「仰臥漫録」に書いているものをそのままナレーションとしたものです。

『仰臥漫録』は子規が明治3492日から書き始めた私的な手記です。公表を意図していたわけではないので、妹律への不満がそのまま書かれています。

 『仰臥漫録』の中で、子規は律について、いろいろな所で書いています。「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。」は920日の項に書かれていて、「律は強情なり…」の部分は921日の項に書いてあります。『仰臥漫録』は国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集第八巻』で読むことができます。原文はカタカナ交じり文ですが、カタカナを平仮名にかえて句読点もいれて引用します。下の赤字部分がスペシャルドラマ「坂の上の雲」で朗読された部分です。

まず20日の部分ですが、「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし。病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分らず。例えば『団子が食いたいな』と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜず。病人が食いたいといえば、もし同情のある者ならばすぐに買ってきて食わしむべし。律に限って、そんなことはかつてなし。故にもし食いたいと思うときは『団子買って来い』と直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし。その理屈っぽいこと言語同断なり。彼(律のこと:以下同じ)の同情なきは誰に対して同じことなれども、ただカナリヤに対してのみは真の同情あががごとし。彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にてもニ時間にてもただ何もやらずに眺めておるなり。しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭う宇なり。時々同情といふことを説いて聞かすれども同情の無い者に同情の分るはずもなければ何の役にも立たず。不愉快なれどもあきらめるより外に致し方もなきことなり。」と書かれています。

続いて21日の分ですが、「律は強情なり、人間に向って冷淡なり。特に男に向ってshy(シャイ)なり。彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり。しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となり了(おわ)れり。」と書いています。

 このように律を非難しているものの、律の大切さは子規も認識していて、続いて次のように書いています。

「もし余が病後彼なかりせば余は今頃如何にしてあるべきか。看護婦を長く雇うが如きは我能(よ)くなすところにあらず。よし雇い得たりとも律に勝るところの看護婦すなわち律がなすだけのことをなしうる看護婦あるべきにあらず。律は看護婦であると同時に「おさんどん(台所仕事をする下女)」なり。「おさんどん」であると同時に一家の整理役なり。一家の整理役であると同時に余の秘書なり。書籍の出納・原稿の浄書も不完全ながらなしおるなり。しかしして、彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり。野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり。肉や肴を買うて自己の食料となさんなどとは夢にも思わざるがごとし。」

 ですから「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめる同時に余はほとんど生きておらざるなり。故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わず。ただ彼に病なきことを祈れり。彼あり余の病は如何ともすべし。もし彼病まんか彼も余も一家もにっちもさっちも行かぬこととなるなり。故に余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり。彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として世にたつこと能わざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持氏為にやあらし禍福錯綜人智の予知すべきにあらず。」と書いています。

 その後で、一転して子規は律を口汚くののしっています。「彼は癇癪持なり強情なり気が利かぬなり。人に物問ふことが嫌ひなり指さきの仕事は極めて不器用なり。一度きまった事を改良することが出来ぬなり。彼の欠点は枚挙に遑あらず 余は時として彼を殺さんと思ふ程に腹立つことあり。」

 病人の子規としては体調の悪いときには律にぶつけるしかないのでしょう。

 こうした子規も、律や母八重が自分の楽しみを捨てて看病してくれることは気にしていたようです。『病床苦語』の中で次のように書いています。

「去年の夏以来病勢が頓(とん)と進んで来て、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬようになった。殊にこの頃では伊藤、河東、高浜その他の諸子を煩らわして一日替りに看病に来てもらうような始末になったので、病人の苦しいことは今更いうまでもないが、看病人の苦しさは一通りでないということを想像すればするほど気の毒で堪たまらなくなる。勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである。」

 そうした中で、河東碧梧桐一家が律を赤羽に土筆(つくし)取りに誘い、母八重を花見に誘ってくれたことがあり、子規はそれを大変喜んでいます。『病床苦語』は次のように続きます。

「それだからというて別に彼らを慰めてやる方法もないので困って居た所が、この正月に碧梧桐が近所へ転居して来たので、その妻君や姉君が時々見舞われるのは、内の女どもにとりてはこの上もない慰みになるようになった。殊に三月の末であったか、碧梧桐一家の人が赤羽へ土筆(つくし)取りに行くので、妹も一所に行くことになった時には予まで嬉しい心持がした。この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、(妹は初めて飛鳥山を見たのである)それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとして居る習慣がある。この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜(よめな)摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山みつからない。ところが東京の近辺ではこれを採るものが極めて少ないためでもあるか、赤羽の土手には十間ほどの間にとても採り尽せないほどの土筆が林立して居ったそうな。妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷(ふろしき)に溢(あふれ)るほどの土筆は、わが目の前に出し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに一人で何事かしゃべって居る。かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多きことにおいて、その茎の長きことにおいて、彼は頻りに誇って居る。この短い土筆は、始めのうち取ったので秉(へい)さん(*碧梧桐のこと)に笑われたのである、この長い土筆は帰りがけに急いで取ったので、まだそこにはいくらでも残って居た、この土筆は少し延び過ぎて居る、土筆取りには籠を持って行くがよい、残った土筆は誰か取りに行けばよい、こんなに節の長い土筆なら、袴を取るというても誠に世話がない、などとかつ袴をむぎかつ独りごちながら、何となく愉快そうな調子で居る彼を見ると、平生の不愛嬌には似もつかぬ如何にも嬉しそうに見えるので、それを病床から見て居る予は更に嬉しく感じた。

家を出でて土筆摘むのも何年目

病床を三里離れて土筆取

 それから更に嬉しかったことは、その次の日曜日にまた碧梧桐が家族と共に向島むこうじまの花見に行くというので、母が共に行かれたことである。花盛りの休日、向島の雑鬧ざっとうは思いやられるので、母の上は考えて見ると心配にならんでもなかったが、夕刻には恙つつがなく帰られたので、予は嬉しくて堪らなかった。

たらちねの花見の留守や時計見る

 内の者の遊山(ゆさん)も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは即ち予の楽みである。」

 また、子規は明治34917日の『仰臥漫録』には律が四谷に転居した叔父加藤恒忠(拓川)の新居にお使いに行った際に次のような俳句も詠んだことが書かれています。

 いもうとの帰りおそさよ五日月

母と二人いもうとの帰りを待つ夜寒かな

律の帰りが予想外に遅かったのでしょう。帰りの遅い妹を心配している子規の心情がよくわかる俳句だと思います。ちなみに律はお土産としてパイナップルの缶詰とそうめんを貰ってきたことも書かれています。

律は、子規が亡くなった後、正岡家の戸主となり、35歳で神田の共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を卒業後、事務職を経て、裁縫科の教員となりました。(子規庵の説明板より)

大正3年には、叔父の加藤恒忠(拓川)の三男忠三郎を養子に迎えました。そして、大正122月母八重の看護のため共立女子職業学校を退職した後は、子規庵に暮らしながら子規庵を守っていました。そして、昭和16524日に71歳でなくなりました。

律の養子忠三郎の子孫は今も健在だそうです。律がいたからこそ、子規庵も存続しているし、正岡家も存続しているということになりそうです。

律の「強情さ」が正岡家を守ったともいえるのではないでしょうか.

追記:国立国会図書館デジタルコレクションで読める『子規言行録』の中で子規の主治医であった宮本仲(なかつ)が、『子規と病気』の中で律の献身ぶりを高く評価していますので、紹介しておきます。

「子規の看病に一身を捧げて、人手もない内で、何や彼やと切って廻した妹の律子さんの心尽しといふものも、亦た実に見上げたものであった。いつも私は感心してゐたが、女中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩迄一刻の休みもなく、来客のある中でメに立働かれた。それも短日月の間のことなら格別の話でもないが、何分長い正岡の看護なのだから、実際なまやさしいことではなかった。又た御母堂も、老いの身で好く子規の面倒を見られた。彼は一り子だから、母堂には可愛くってたまらなかったのだらうが、その慈愛は実に深いものであった。子規も偉い人間には相違ないが、御母堂、御令妹の彼に対する奉仕と愛とも亦た偉いものだった。我々医家として、毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところは、さう々、見当るものではない。御母堂、特に御令妹は、十分表彰されて好い方だと思う。」





# by wheatbaku | 2024-12-11 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)

 正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は私にとっては耳慣れた句です。確か高校の教科書または大学受験参考書で覚えたと記憶しています。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回や第11回でも鶏頭が大きく描写されていて私にとっては大変印象的でした。

 下写真は、第9回で秋山真之がアメリカに留学するため子規庵を訪ねた際の場面です。右側に鶏頭が描かれていました。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_18450522.jpg

 下の写真は、第11回の場面ですが、秋山真之が英国から帰国して子規庵を訪ねた際、子規が包帯を取り換える間、それを真之が庭で待っている場面です。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_18450650.jpg

 こうしたことから「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は、子規の代表的な名句として評価が定まっているものと思っていました。

 しかし、『正岡子規』(松井利彦著)の鑑賞編を読むと次のように書いてありました。

 「『鶏頭の十四五本もありねべし』の句は最初、長塚節によって名句として取りあげられ、次いで斎藤茂吉によって賞賛された。これに反し、虚子はこの句を句会席上でも、子規句集を編むに際しても入選させることなく、佳句としての扱いを見せていない。」

 確かに高浜虚子が編纂した岩波文庫『子規句集』(昭和16年刊)には、この句は載っていません。

 この句は、明治3399日に開かれた句会の第2回運座「鶏頭」の題で次の句を子規が詠んでいます。なお、運座とは、句会で、多数の人が集まり一定の題によって句を作り、互選する会のことをいいます。なお、この句会の全体の句は「国立国会図書館デジタルコレクション『子規全集』(講談社刊)第十五巻「俳句会稿」で読むことができます。

塀低き田舎の家や葉鶏頭

葉鶏頭の錦を照す夕日哉

 誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や 

 萩刈て鶏頭の庭となりにけり

 鶏頭の十四五本もありぬべし 

 鶏頭の花にとまりしばつたかな

 朝皃の枯れし垣根や葉鶏頭 

 鶏頭に車引入るゝごみや哉

 鶏頭や二度の野分に恙なし

 これらの句の中で最も評価がたかったのは「鶏頭や二度の野分に恙なし」が四票で、 「鶏頭の十四五本もありぬべし」は2票だけでした。

 その後、高浜虚子・河東碧梧桐が編集した「子規句集」にも採用されませんでした。

 この句を評価したのは、子規の愛弟子である長塚節(たかし)、そしてアララギ派歌人の斎藤茂吉だったようです。長塚節が評価したということは斎藤茂吉が書いた「長塚節氏を憶ふ」の中で次のように書かれています。「(前略)予等が歌の批評などの場合に 『尊い』などと云ふと、長塚さんは非常に不平であった。正岡先生の晩年の句の『鶏頭の十四五本もありぬべし』が分かる俳人は今は居まいなどと云った。それから芭蕉の『行く春を近江の人と惜しみけり』や曾良の『夜もすがら秋風きくや裏の山』などの感想は幾度となく聴いた。(後略)」(国立国会図書館デジタルコレクション『斎藤茂吉全集第7巻(第1)」より)

 こうした長塚節の評価を踏まえて、斎藤茂吉も、「童馬漫語」の中で次のように書いています。

「『五月雨や上野の山も見飽きたり子規』これは子規の晩年の句だ、そして子規自身でも棄て去るべき句ではないと思っていただろう。

門間春雄君所藏の五月雨十句の軸の書きぶりを見ると、それがようく分かる。僕の獨斷言によると此は佳句であって棄つべきものではない。

そして、『雞頭の十四五本もありぬべし』などと同じく、これから子規の進むべき純熟の句がはじまったのである。もう寸毫も芭蕉でも蕪村でもないのである。そして、『夕顏の棚つくらむと思へども秋まちがてぬわが命かも』などの晩年の和歌に比すべく、かうなれば俳句も和歌も一如だと僕は思ふ。然るに此句は碧梧桐虛子選の子規句集に收錄されてないばかりでなく、俳壇にゐるほかの人も眞に此句を論じたことはない。子規を祖述すると云つても何を祖述するのか。僕にはどうも變に思はれる。また『子規なんかもう古いよ」などといつて妙な風な日本語でないやうな日本語を竝べて納まつてゐるのは僕にはどうも變に思はれる。(大正五年十一月廿九日夜。石楠のために) 』(国立国会図書館デジタルコレクション『童馬漫語新版 (アララギ叢書 ; 7)』より)

このように斎藤茂吉が大正5年には、この句を高く評価しているのにもかかわらず、前述したように高浜虚子は昭和16年発行の岩波文庫『子規句集』に「鶏頭の十四五本もありぬべし」を採用しませんでした。

これについて、山本健吉は『現代俳句上』(角川書店刊)の中で「頑迷な拒否である」と書いています。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_20444086.jpg

 この中では、この俳句についての評価の経緯も書いてあります。そこで、少し長くなりますが、その部分も含めて紹介します。

「 鶏頭の十四五本もありぬべし

およそ子規の俳句でこの句ぐらい論議の対象となった作品はほかにないのである。これは明治三十三年、子規庵における病床の句であって、当時の俳人たちには簡単に見過ごされていたのであった。虚子・碧梧桐など弟子たちによって編へん纂さんされた当時の子規句集にも、この句は除外されていた。

おそらく作者の子規にすらこの句が秀句であるという意識はなかったので、勢い彼の病床を訪れる俳句仲間の間で話題にのぼることもなかった句なのであろう。

この句の真価の最初の発見者は、子規門の中でも繊細の精神の所有者である歌人長塚節である。『この句がわかる俳人は今はいまい』などと茂吉に言ったという。そしてこの句の真価を世人に認識せしめたのは茂吉の『童馬漫語』であった。一方、虚子が新たに編纂した岩波文庫版『子規句集』(昭和十六年刊)には、ニ千三百六句も選んだ中に、相変わらずこの句がはいっていない。驚くべき頑迷(がんめい)な拒否である。」

山本健吉の『現代俳句』を読むと「今日にいたるまで、この句ほど評価の一定しない句も珍しい。」そうで、この句は、子規の代表句だとばかり思っていたので意外な感じがしました。 

さらに、この句の評価をめぐる「鶏頭論争」と呼ばれる論争もあるそうです。ご興味のある方はお調べください。


なお、鶏頭がどうして子規庵に植えられたかについて子規自身は「松蘿玉液」の中の「朝顔(明治29921日)」の中で次のように語っています。

「某の女の童のたはむれに鶏頭植えてんとて夏の頃苗を持ち来りてかたばかりに土かぶせたるが、今は痩せながら高くのびて小枝多く出たるもものうしや。」(国立国会図書館デジタルコレクション「正岡子規全集第1巻」より)

 これによれば、女の子が鶏頭の苗を持ってきて遊び半分で植えたのが始りだったようです。鶏頭は一年草ですが、種子がこぼれて、翌年また鶏頭が生えてきたのかもしれません。それを繰り返して子規庵の鶏頭も増えていたのかもしれません。



# by wheatbaku | 2024-12-08 18:50 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
  

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