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新宿御苑で起きた名門大名の不祥事(新宿御苑②)

新宿御苑で起きた名門大名の不祥事(新宿御苑②)

 江戸時代、高遠藩内藤家下屋敷(または中屋敷)と呼ばれた新宿御苑(以下、新宿御苑とします)で、文化年間に譜代の名門大名による不祥事が起きました。そこで今日は、そのお話をします。

 不祥事を起こした大名は、浜松藩主井上正甫(まさとも)です。井上家は、母が2代将軍秀忠の乳母であった井上正就(まさなり)を初代とする名門譜代大名で、正甫の祖父井上正経は9代将軍家重の時代に老中を勤めました。

 井上正甫は、文化13年(1816)に、同じ奏者番をつとめていた内藤頼以(よりもち)の招待で、新宿御苑を訪ねました。その際に、井上正甫は、新宿御苑の広大な屋敷内(もしくはその近隣)にあったある農家に立ち寄り、そこにたまたまいた農婦に性的暴行を加えるという事件を起こしました。当初。井上家は事を内密に処理しようとしましたが、やがて、これが巷のうわさとなり、井上正甫は「密夫大名」と罵声をあびるようになったといいます。

 この事件については、身近に読める本としては、八幡和郎氏が光文社新書『江戸三〇〇藩バカ殿と名君』の中で簡略に触れています。

 江戸時代の文献としては『文化秘筆』や『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』に書かれています。『文化秘筆』は巷間のうわさばなしをまとめたものですが、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』の幕府の公式記録です。そこで、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』を私なりに現代文に書き改めて引用します。なお、『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。 

 『続徳川実紀(文恭院殿御実紀)』の文化14年(1817914日の項に浜松藩主井上正甫が棚倉藩に転封されたことが次のように書かれています。

「(9月)14日 陸奥国棚倉城小笠原主殿頭長昌は肥前国唐津城へ、肥前国唐津城主水野左近将監忠邦は遠江国浜松城へ、遠江国浜松城主井上河内守正甫は陸奥国棚倉城へ転封を命じられた。(そして注意書きとして)世に広まっている話では、今日の転封は、はじめ井上河内守正甫が奏者番をつとめしていた折、内藤大和守頼以の四谷別荘で酒盛りをして遊びましたが、殿様一人である農家に至って、たまたまそこに居合わせた農婦を可愛がったところ、農婦の夫が帰ってきて、非常に怒って井上正甫をなぐりつけた。そのとき、井上正甫の家来がやってきて、この様子をみて、甘い言葉で農夫をなだめ、たくさんの黄金を与えるなどして、ようやく内々にして事を済ませた。(中略)しかし、世間の評判はよくなてく、ある日、江戸城に登城した際に、大下馬先(*大手門前のこと)にて、ほかの大名家の下僕たちが声高に罵って、「密夫大名」と呼んで恥辱を与えた。またある日に四谷辺りを馬に乗って通行した際に、町人が葬送していたが、それを怒って馬で駈け抜けたので、町人たちは棺を捨て逃げさっていった。これらのこともまた世間の評判を落とした。そして、ついに奏者番を罷免されていたが、こうして、本日、痩地(やせた土地のこと)に移封されたという。)

新宿御苑で井上正甫の不祥事が起きたのが、文化13年(1816)の秋の事と言われています。そして、井上正甫は、文化131223日に、奏者番を罷免されています。

そのうえで、『徳川実紀(文恭院殿御実紀)』に書かれているように、井上正甫は、文化14年(1817914日に陸奥棚倉藩への転封を命じられました。その頃、棚倉藩への転封は懲罰的な処置とされていました。(『徳川実紀』でも「瘦地」と記しています。) 幕府は、井上正甫の行為を問題ありとして処罰したのだろうと思います。

幕府の正史である『徳川実紀』に記録されるほどですから、幕閣は井上正甫の不祥事を重大な事件とみなしていたと思います。

この浜松藩主井上正甫の転封により、棚倉藩主小笠原長昌は肥前国唐津藩に転封となり、唐津藩主水野忠邦が浜松藩主となる三方領知替えとなりました。

この時、唐津藩から浜松藩に転封となった水野忠邦は、のちに老中となって天保の改革を実行した水野忠邦その人です。水野忠邦は、かねて、江戸周辺への転封を願っていましたので、この転封命令を大喜びしたことと思います。




# by wheatbaku | 2025-04-28 22:30
新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)

久しぶりのブログ更新です。

来月、江戸の仲間が新宿御苑を探訪します。その案内を私がするわけではないのですが、現在、新宿御苑について調べています。そこで、新宿御苑についての話題をいくつか書いてみます。

新宿御苑について、ネット等で調べると多くの記事が高遠藩内藤家の下屋敷であったと書いてあります。私も、そうだと思っていました。私が下屋敷と思っていたのは、幕末の江戸切絵図で下屋敷を意味する●がついていたからです。(下図の右中央の内藤駿河守の左に●がついています。)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20544235.jpg

    『国立国会図書館デジタルコレクション』より転載


しかし、新宿歴史博物館は、高遠藩内藤家の下屋敷というのは通称であり、正確には中屋敷であったという見解です。

ちなみに、ネットで見ることのできる新宿歴史博物館の常設展示解説シート⑲「江戸のくらしと内藤新宿(内藤家)」の中の「信州高遠藩内藤家の四谷下屋敷」の冒頭部分に「現在の新宿御苑が江戸時代において高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)の江戸下屋敷(「四谷下屋敷」と通称。正確には中屋敷)だった・・・・」と書いてあります。

新宿歴史博物館では、内藤家15代当主の内藤頼博氏の証言等から、新宿御苑は正確には中屋敷であったとしたようです。

江戸時代の大名武鑑には、大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷の所在地についても記載されていました。そこで、私の手元にある『文化武鑑』(文化元年~四年・大名編)を見てみると、「内藤大和守頼以」の項(つまり高遠藩内藤家)は、上屋敷が小川町、中屋敷が四谷内藤宿、下屋敷が「しぶや」と書かれています。

これを見ると、新宿歴史博物館の見解のように見ることもできると思います。

一方で『諸向諸向地面取調書』という史料があります。これは、幕府の役職である「屋敷改」が編集した「諸屋敷帳」を元に安政3(1856)に一覧にしたものですが、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。

この『諸向地面取調書』を見ると、下屋敷は、「四谷内藤新宿」と「下渋谷」と書かれています。つまり、新宿御苑は下屋敷となっています。(下図の赤字部分)

新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20583988.png
            『国立公文書館デジタルアーカイブ』より転載

幕府の公式文書『諸向諸向地面取調書』では新宿御苑を下屋敷としている一方、高遠藩では中屋敷と認識しています。また、江戸市中の本屋須原屋が発行していた「武鑑」では中屋敷としている一方、尾張屋が発行した「切絵図」では下屋敷としています。

このように江戸時代でも様々な捉え方をしています。従って、新宿御苑が江戸時代に下屋敷であったか中屋敷であったかは一概に断定できませんので、下屋敷としても間違いでないし、中屋敷としても間違いではないと私は考えます。


ところで、『文化武鑑』によれば、上屋敷は小川町にあるとのことなので、尾張屋の切絵図で確認したところ、文久3年(1863)の切絵図に内藤大和守の上屋敷が確認できました。(下図の赤印) 現在、駿河台下の交差点の西側に三省堂書店神保町本店がありますが、駿河台下交差点の南側一帯が上屋敷でした。なお、下記切絵図は南が上になっています。

  
新宿御苑は、高遠藩内藤家の下屋敷だったか?中屋敷であったか?(新宿御苑①)_c0187004_20544244.jpg
『国立国会図書館デジタルコレクション』より転載

 また、下屋敷は「しぶや」にあるということなので、こちらも切絵図で探しましたが、下屋敷は切絵図からは確認できませんでした。しかし、新宿歴史博物館刊行の『内藤清成と高遠内藤家展』の図録を見ると、元禄11年に四谷屋敷を上地(返納)した代地として下渋谷に4500坪余りの土地を拝領していて、嘉永元年(1848)に上地(返納)しているようです。私がみた切絵図は安政4年(1857)のものですので、切絵図に記載されていないのと思われます。
そこで、下渋谷の下屋敷がどこにあったか調べた結果、現在の恵比寿ガーデンプレイスの東側にあったようです。




# by wheatbaku | 2025-04-26 10:33 | 江戸の庭園
ブログ更新休止のお知らせ

ブログ更新休止のお知らせ

 いつも当ブログをご愛読いただきありがとうございます。

 このブログを書き始めたのは20081219日ですので、ちょうど16年が経ちました。

 長い間ご愛読いただきありがとうございました。

 この間にご訪問いただいた方は300万人を超え、現在も毎日増加しています。

 このようにご訪問いただく方が大勢いらっしゃるなかで、大変心苦しいのですが、満16年になったのを期に、このお知らせを最後として、ブログの更新を休止させていただきます。

 なお、ブログ自体は閉鎖せずに、このまま残しておきますので、過去の記事でご興味が沸いたものがありましたら、改めてお読みください。

 最後に、長い間ご愛読いただいたことに、重ねて御礼申し上げます。

 本当にありがとうございました。

 20241221


# by wheatbaku | 2024-12-21 17:00
虚子「子規逝くや十七日の月明に」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑯) 

虚子「子規逝くや十七日の月明に」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑯) 

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第14回では、子規が亡くなった際に高浜虚子が「子規逝くや十七日の月明に」という句を詠んだと紹介されました。しかし前回紹介した、子規が亡くなった時の状況を虚子が書いた『君が終焉』では、この俳句のことは書かれていません。これは、『君が終焉』は子規が亡くなった919日の様子をメモ書き的に書いたものであるためだろうと思います。

虚子は『子規居士と余』という作品の中でも、子規が亡くなった日のことを詳しく書いています。こちらはメモ書きではなく散文的に書かれています。そこで、今回は、虚子の『子規居士と余』から、子規が亡くなった際の様子を紹介します。なお、『子規居士と余』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、そこからの転載です。

「その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展のべて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。余は黙ってその月を仰いだまま不思議な心持に鎖(とざ)されて暫く突立っていた。

 やがてまた座敷に戻って病床の居士(子規のこと、以下同じ)を覗いて見るとよく眠っていた。

『さあ清さんお休み下さい。また代ってもらいますから。』と母堂が言われた。母堂は少し前まで臥せっていられたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に這入った。

 眠ったか眠らぬかと思ううちに、「清さん清さん。」という声が聞こえた。その声は狼狽した声であった。余が蹶起(けっき)して病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。

 その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味の事を言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽(よとぎ)をして居られたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いて見ると、もう呼吸(いき)はなかったというのであった。

 妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足(はだし)のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。

 余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨(そこつ)二君に知らせようと思って門かどを出た。

 その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処そこに流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰のぼりつつあるのではないかというような心持がした。

子規逝くや 十七日の 月明(げつめい)に

 そういう語呂が口のうちに呟つぶやかれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。

 両君を起こして帰って来て見ると母堂と鷹見夫人とはなお枕頭に坐っておられた。妹君は次の間に泣いておられた。殆ど居士の介抱のために生きて居られたような妹君だもの、たとい今日あることは数年前から予期されていたことにせよ、今更別離の情の堪え難いのは当然の事である。(以下略)」

 『子規居士と余』を読んでみて、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれたのは、まさに赤字部分の情景だと思いました。




# by wheatbaku | 2024-12-20 13:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
子規、逝く(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑮)

子規、逝く(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑮)

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第14回は「子規逝く」のタイトルの通り、正岡子規が亡くなることが描かれていました。

正岡子規が亡くなったのは明治35919日です。

子規は明治359月になると体調が大変悪くなりました。914日に「914日のこと」という記事を書きましたが、これが子規の最後の作品となりました。

そして、918日になると非常に病状が悪くなりました。そうした状況の中で「絶筆三句」と呼ばれている次の俳句を詠みます。

糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな
   痰(たん)一斗(いっと)糸瓜の水も間に合はず
   おとといのへちまの水も取らざりき

 『絶筆三句』では糸瓜(へちま)のことが詠まれていますので、子規の命日は「糸瓜忌(へちまき)」と呼ばれています。

この句が詠まれた状況は、『正岡子規言行録』の中の「君が絶筆」で河東碧梧桐が書いています。

 それによると、妹律が紙を貼りつけた書板を子規に渡し、碧梧桐が筆を渡すと子規は最後の力を振り絞るかのような感じで、まず「糸瓜(へちま)咲て痰(たん)のつまりし仏かな」と書くと子規は筆を投げ出し、痰がでて、それを切るのに苦労したあとに「痰(たん)一斗(いっと)糸瓜(へちま)の水も間に合はず」と書き、その後、苦しそうにしながら「おとといのへちまの水も取らざりき」と書いています。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描写されたのは誇張ではないようです。「君が絶筆」には、子規が「絶筆三句」をどのような状況で書いたかが詳しく書かれています。

*『正岡子規言行録』は国立国会図書館デジタルコレクションで読めますので、そこから転載したものを、最後に付記しておきます。

 「絶筆三句」を書板に書いた日の夜(正確には日が変わって919日の深夜)、子規は亡くなります。子規が亡くなった時の様子は、高浜虚子が『子規言行録』の中の「君が終焉」の中に書いています。

 それによると、18日午前11時頃、河東碧梧桐から呼ばれて虚子が子規庵に行った時には子規は昏睡状況でした。そして、その後、時々、眼をさまして水を求めたりしていました。午後6時過ぎ碧梧桐は帰りました。そして、夜が更けて、虚子と律は仮眠します。以下国立国会図書館デジタルコレクションの「君が終焉」から転載します。

○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。

○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。

○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。

○妹君は直ちに陸(くが)氏に赴き電話にて医師に報ず。

○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。」

 虚子が碧梧桐を呼びに行くために戸外に出た際に詠んだのが「子規逝くや 十七日の 月明(げつめい)に」です。これはドラマでも描かれていましたね。

続いて、碧梧桐に呼びに行った後帰ってきた虚子が続いて書いています。

「碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。

○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄(にわか)に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。

○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。」

そして、子規が亡くなったことを最初に気づいた母八重の話が次のように書かれていますが、子規は付き添いの母も気が付かないうちに息を引き取っていたようです。

「○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。 (後略)」

 

 子規の葬式は、921日に行われました。ドラマで子規の葬列に遭遇した秋山真之が棺を拝礼する場面がありましたが、これは事実のようです。

国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『秋山真之』(秋山真之会編)に収録されている『正岡子規と秋山参謀』(高浜虚子著)には「子規の葬式の時であった、棺が家を出て間もなく、袴を裾短に穿いて大きなステッキを握られた秋山君が向こうからスタスタ徒歩して来られて、路傍に立どまって棺に一礼された。それから葬式はお寺に行ってしまったが、後で聞くと秋山君は正岡の宅へ行かれて香を捻って帰られたそうだ」とあります。

子規庵には、母八重が留守番をしていたそうですので、八重に挨拶し焼香して帰ったのでしょう。


《追記》 「君が絶筆」(国立国会図書館デジタルコレクション『子規言行録』より)

「十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。軈《やがて》例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審ながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ

 糸瓜咲て

とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて

 痰のつまりし

までまた一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに

 佛かな

と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ

 痰一斗糸瓜の水も

と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ

 間に合わず

と書いて、矢張り投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに

 をとひのへちまの

と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「と」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ

 水の

と書いて

 取らざりき

はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。」





# by wheatbaku | 2024-12-18 22:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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