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秋山真之の少年時代(スペシャルドラマ「坂の上の雲」①)

秋山真之の少年時代(スペシャルドラマ「坂の上の雲」①)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」の放映が202498日より開始されました。このドラマは司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」をドラマ化したもので、2009年から2011年までの3年間、毎年年末に放映されたものの再放送です。当時の大河ドラマは、11月末で終了し、12月には「坂の上の雲」が放映されました。90分ものが全13回でしたので、大河ドラマ半分に見合う大規模なテレビドラマでした。

 私も毎年、毎回、楽しみにみていました。今回、再放送されることになったので、可能な限りコメントしていこうと思います。

「坂の上の雲」の主人公は伊予松山出身の3人の青年です。その三人とは、秋山真之、秋山好古、正岡子規です。秋山真之は、成人して海軍に入り、日本海海戦では東郷平八郎大将のもとで参謀としてT字戦法を考案し、世界最強と呼ばれたバルチック艦隊を破りました。また真之の兄秋山好古は、陸軍に入り騎兵隊司令官となり、日露戦争で、勇猛さを謳われたロシアのコサック騎兵隊を打ち破る軍功を挙げました。正岡子規は、いうまでもありませんが、明治の俳壇・歌壇に革新を起こしました。正岡子規は、秋山真之の同級生でした。

この三人を中心に日本を近代化し欧米に伍していける強国に作り上げる人々が描かれる非常に壮大なドラマです。

秋山兄弟を主人公としたことについて司馬遼太郎自身が原作の中で語っていますので、少し長くなりますが引用しておきます。

「余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。

その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。

その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。

その代表者を、顕官のなかからはえらばなかった。

一組の兄弟にえらんだ。

すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古と秋山真之である。この兄弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい。」

原作は、文春文庫8冊にもなる長編ですが、原作を読むと、テレビドラマがより楽しくなると思います。お時間のある方には原作をお読みになるようお勧めします。

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さて、98日放映の第1回は、真之の誕生から正岡子規の上京までが描かれていました。

 まず、秋山真之・好古兄弟の両親について書いてみます。

二人の父親は、秋山平五郎久敬といって江戸時代には松山藩の歩行(かち)目付でした。寛容で衆望の厚い人だったようで、はじめは普通の歩行(かち)でしたが、知恵者でもあったので歩行(かち)目付にまでなったようです。久敬は晩年になると室内でも頭巾をかぶっていたようです。写真でも頭巾をかぶっていますし、『坂の上の雲』でも頭巾をかぶっています。久敬は「親があまり偉くなると子供が偉くならないからなぁ」と言っていたようで、これが秋山兄弟に対する教育方針であったそうです。

母貞は旧松山藩士山口正貞に二女として生まれ、五男一女の子供をもうけました。好古は三男、真之は五男でした。母は男子には自ら四書五経の素読をさせ、女子には炊事から裁縫までを教えたそうです。

 秋山真之にとっては、母貞は厳しい母だったようです。

 少年時代の真之は、ドラマで描かれていたように、ガキ大将でよく喧嘩をして相手の子供を泣かし、その都度相手の子供の親たちから抗議が持ち込まれ、貞がお詫びをしていました。ある時、貞は真之を招いていきなり短刀を突き付け、「お母さんもこれで死ぬからお前もお死に」と諭したといいます。この話はドラマでも描かれていましたが実話のようです。しかし、真之は、この母を非常に大切にして、自身の結婚相手について、貞の気に入ることが条件だったそうです。下写真は海軍大佐時代の秋山真之です。

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                                         「国立国会図書館所蔵」

 真之の兄の秋山好古は安政6年(1859)に生れました。秋山家の三男として生まれています。真之が生まれた際、父と母が生活が苦しいから寺に出そうと話をしていると隣の部屋でこれを聞いていた好古が「お父さん、待ってくれ。今に私が大きくなったら豆腐ほどの儲けをしてやるから」と両親にお願いし、この健気な言葉が真之が寺にやることを押しとどめたと言います。豆腐ほどというのは豆腐ほどの厚みの紙幣という意味だそうです。

 松山での好古の少年時代は、ドラマで描かれていたように、風呂屋の手伝いなどをして家計をたすけていましたが、大坂に学費無料の大阪師範学校ができると聞いて明治8(1875)18歳の時に大阪に出て大阪師範学校に入学しました。それ以降の好古については、真之が10歳の時には士官学校に入った好古が帰郷して、真之を中学校に行かせてくれと頼む場面のみが描かれているだけでしたが、原作には丁寧に書かれています。好古は、明治9年大阪師範学校を卒業し大阪の小学校の教員となりましたが、明治10年(1877)に教職を辞し、陸軍士官学校に入校し、明治12年(1879)陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉に任官し、明治16年に陸軍大学校に入校しています。下写真が将軍(おそらく大将)時代の秋山好古です。

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                                      「国立国会図書館所蔵」

 

 以上、長くなりましたので、第1回についてはこの辺にして、第2回については次回書こうと思います。

この記事を読んでドラマ『坂の上の雲』に興味を持たれた方、9月8日第1回の見逃し配信は終わってしまいましたが、915日放映の第2回はまだNHK+で見ることができますのでそちらでご覧ください。





# by wheatbaku | 2024-09-18 15:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
徳川慶勝のお墓がある西光庵(尾張徳川家①)

徳川慶勝のお墓がある西光庵(尾張徳川家①)

 しばらく、ブログの更新できませんでしたが、昨日、新宿にある西光庵(さいこうあん)を訪ねてきましたので、その記事を書いて、久しぶりの更新とします。

西光庵を訪ねたのは、「青松葉事件」の当事者である尾張藩主徳川慶勝のお墓があるからです。西光庵で徳川慶勝のお墓参りをしてきました。

 西光庵は浄土宗のお寺で、大江戸線東新宿駅から徒歩おおよそ10分のところにあります。住宅街の一画にあるため、初めての方は事前によく調べて訪ねたほうがよいと思います。

 西光庵は「庵」という名前がついていることから「草庵」のイメージがありますが、りっぱなお寺です。(下写真は門から写した全景です。正面が庫裏で、その左手が本堂です。)

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 西光庵のパンフレットには「寺名の中では珍しい西光庵の『庵』は僧尼あるいは隠遁者の侘び住まいを意味しており、後世になると尼寺を指すようになりました。」と書いてあります。また「『庵』と号する浄土宗寺院は都内で西光庵一ヶ寺のみとなっています」とのことです。 

 ここに書いてある通り、西光庵は尼寺です。御住職も当然のことながら女性でした。

 西光庵は、江戸時代後期の文化12年(1815)に小石川伝通院の実興上人によって開山され、蓮忍法尼が初代庵主として入庵した寺院だそうです。開山当初から尾張藩徳川家の庇護があったようです。 

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墓地は本堂に向かって左手にあります。上写真が本堂です。

尾張徳川家のお墓は、その墓地の一番奥まった西の端にありました。尾張家徳川家の墓域には、徳川慶勝、正室、徳川義宜(よしのり)、そして徳川家分家のお墓が並んでいます。尾張徳川家の地元の菩提寺は名古屋の建中寺で、歴代藩主のお墓はそこにありました。(※現在は、尾張徳川家の歴代当主は愛知県瀬戸市の定光寺の徳川家納骨堂に葬られているようです)

西光庵が尾張徳川家の東京の菩提寺となったのは、お参りした際に頂戴した『西光庵開山に百年史』によれば、明治8年だったようです。

 徳川慶勝のお墓は一番奥まったところにあります。墓碑には「従一位勲二等徳川慶勝卿墓」と刻まれています。

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 徳川慶勝のお墓の左隣(南側)には正室矩姫(かねひめ)のお墓です。墓碑には「貞徳院殿恭蓮社寛誉和厚大禅定尼」と刻まれています。矩姫は二本松藩主丹羽長富の三女として生まれ、19歳で慶勝に輿入れし、明治35年に71歳で亡くなっています。

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 矩姫の墓の左隣には、16代藩主徳川義宜(よしのり)のお墓があります。義宜(よしのり)は、慶勝の三男として生まれましたが、兄たちが夭逝していたため6歳で家督を継ぎましたが、明治8年(1875)、18歳の若さでなくなりました。

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 なお、徳川慶勝の遺骨は、昭和28年に愛知県瀬戸市の定光寺の初代徳川義直霊廟脇に造られた徳川家納骨堂に改葬されていますが、墓碑等は原形のまま残されたものだそうです。おそらく、正室矩姫と徳川義宜(よしのり)お二人も改葬されているもと思います。 

 徳川慶勝は、子だくさんでした。しかし、男の子の多くが幼くして亡くなっています。15代藩主となった義宜(よしのり)も明治8年に18歳で亡くなってしまったため、高松松平家の義礼(よしあきら)を養子としました。その後、十一男義恕(よしくみ)が産まれました。そこで、 義恕(よしくみ)は分家を創設し男爵となりました。その徳川分家のお墓が尾張徳川家の南側にあります。(下写真)墓碑には「徳川氏之墓」と刻まれています。

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 墓碑の右手にある墓誌を見ると、昭和11年から昭和天皇の侍従をつとめ、昭和60年から昭和~63年に侍従長をつとめた徳川義寛の名前もありました。徳川義寛は徳川義恕(よしくみ)の長男です。


 墓地の入り口左手に高須松平家の墓域があります。高須松平家は徳川慶勝の生家です。

 ひときわ目出つ大きなお墓が13代藩主松平義勇(よしたけ)のお墓です。

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松平義勇(よしたけ)は、10代藩主松平義建の十男で、徳川慶勝の異母弟です。高須松平家は、10代の義建の後、11代松平義比(よしちか)12代松平義端(よしまさ)13代松平義勇(よしたけ)と続きます。11代松平義比(よしちか)は兄で尾張藩主であった慶勝が安政の大獄で隠居を命じられたため、尾張藩主となり徳川茂徳(もちなが)と改名します。そして義比(よしちか)の子供が高須藩主となります。それが12代義端(よしまさ)です。しかし、義端(よしまさ)は万延元年(1860)に3歳で亡くなったため、。松平義勇(よしたけ)13代藩主となりました。義勇(よしたけ)は、明治2年に病により家督を養嗣子の義生(よしなり)に譲り、明治24年、31歳で亡くなりました。墓碑には「従五位松平義勇之墓」と刻まれています。

 松平義勇(よしたけ)の墓の手前には合祀墓があります。

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 その手前に建てられている墓誌をみると初代から12代までの歴代高須松平家の当主の戒名が刻まれ、14代以降は当主および令室の戒名が刻まれています。

 高須松平家は、高須(岐阜県海津市)に行基寺という菩提寺があるので、西光庵は東京(江戸)の菩提寺ということです。西光庵は文化12年(1815)に創建されていて、高須松平家初代の松平義行は正徳5年(1715)に亡くなっているので、その頃の菩提寺は、西光庵でなかったと思います。当時の菩提寺がどこであるか調べましたが、確かなことはわかりませんでした。ただし、私自身は、港区虎ノ門にある天徳寺がもともと江戸の菩提寺であったのではないかと推測しています。 

 下地図の中央が西光庵です。



# by wheatbaku | 2024-09-16 20:00 | 江戸の大名
青松葉事件を描いた『冬の派閥』を読む。(名古屋城本丸御殿⑦)

青松葉事件を描いた『冬の派閥』を読む。(名古屋城本丸御殿⑦)

 青松葉事件について書いた本はあまりないと前回書きましたが、その中で城山三郎が描いた『冬の派閥』は、徳川慶勝を取り上げる中で青松葉事件について触れている小説です。本日は、この『冬の派閥』の紹介およびそれを読んで感じたことを書いてみたいと思います。長くなりますがご容赦下さい。

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 この本の紹介文には「御三家筆頭として幕末政治に絶大な影響力を持つ尾張藩の勤王・佐幕の対立は、ついに藩士十四人を粛清する〈青松葉事件〉へと発展し、やがて明治新政府下、藩士の北海道移住という苦難の歴史へと続く。尾張藩の運命と不可分の、藩主・徳川慶勝の「熟察」を旨とする生き方を、いとこ一橋慶喜の変り身の早い生き方と対比させつつ、転換期における指導者のありかたを問う雄大な歴史小説。」と書かれています。

 この紹介文を読むと徳川慶勝と徳川慶喜が主人公のように書かれています。しかし、慶勝は重要人物として登場しますが、慶喜は作品中にはほとんど登場していません。青松葉事件については描かれていますが、渡辺新左衛門ら青松葉事件で処罰された人たちはほとんど登場しません。一方、青松葉事件で処罰する側にたった「金鉄党」の人々は、いろいろな場面で登場します。

慶勝が尾張藩主になり亡くなるまでが小説全体の三分の二となります。そして、明治になってから、「金鉄組」の人々の多くは北海道に移住しますが、この開拓の苦労が終盤で描かれていて、北海道移住・開拓の部分が小説全体の三分の一を占めています。

 前半の青葉事件に至る部分では、淡々と書かれているように感じました。しかし、後半の北海道移住編は、描写もビビットに書かれていて、小説としては、後半のほうがおもしろいと感じました。

 『冬の派閥』は青松葉事件について触れているとはいいながら、詳細に書かれているわけではありません。しかし、青松葉事件について書いてある唯一の小説ですので、青松葉事件を知るには良い小説だと思います。徳川慶勝の生き方や青松葉事件に興味のある方はお読みいただくとよいと思います。

 

『冬の派閥』のなかで、城山三郎が青松葉事件についてどう描いているかは後で書くことにして、その前に徳川慶勝が藩主となった頃の尾張藩がどのような状況であったのかが『冬の派閥』に書かれていますので、それまず見ておきたいと思います。

徳川慶勝は、尾張藩の支藩である高須藩の藩主松平義建(よしたつ)の次男として生まれ、早い時期から尾張藩主になることを期待されていました。徳川慶勝は、幼いころは秀之助、元服後は義恕(よしくみ)と名乗り、尾張藩主となってからは、当初、慶恕(よしくみ)、後に慶勝と名乗りますが、ここでは慶勝で統一します。

尾張藩は、それまで10代藩主斉朝(なりとも:一橋家出身)、11代藩主斉温(なりはる:家斉の十九男)、12代藩主斉荘(なりたか:家斉の十二男)、13代藩主慶臧(よしつぐ:田安家出身)と4代にわたり11代将軍徳川家斉の子供や御三卿の子供が藩主となっていました。そのため、藩内には支藩高須藩の慶勝を藩主に擁しようとするグループができ「金鉄組」と呼ばれました。その「金鉄組」のリーダー格が田宮如雲(じょうん)でした。

慶勝が晴れて14代藩主になると、田宮如雲(じょうん)を順次昇進させ側用人にまで登用します。

しかし、慶勝は将軍継嗣問題で徳川慶喜を押したため、安政の大獄で、隠居・謹慎を命じられてしまいます。そして、実家の高須藩主であった慶勝の実弟茂徳(もちなが)が15代藩主となります。この時、幕府と良好な関係にあった付家老の竹腰兵部(正富)を中心とした人たちが復活し、慶勝の側用人田宮も失脚し、竹腰と対抗していたもう一人の付家老成瀬隼人正(正肥:まさみつ)や金鉄組は冷遇されます。

その後、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、慶勝の処分が解除され、慶勝は復権します。慶勝の復権により、「金鉄組」も復活します。しかし、「金鉄組」のことをこころよく思わない藩士たちは、「ふいご党」を呼ばれるようになります。(※「ふいご党」とは「金鉄をとかすふいごの火」という冗談から名づけられた呼び方だと文中に書かれています。)

慶勝の処分が解除されたとしても、あくまでも尾張藩の藩主は茂徳(もちなが)であり、慶勝は隠居の身でした。こうして、尾張藩内には、慶勝・成瀬隼人正・金鉄組というグループと茂徳(もちなが)・竹腰兵部・ふいご党というグループが存在することになりました。そして、乱暴な分け方をあえてすれば、金鉄組は攘夷・勤皇派で、ふいご党は佐幕派ということになっていました。

こうした状況が、大政奉還・王政復古の大号令が発せられる直前の尾張藩内の状況です。

前述の二つのグループが存在する状況下で、尾張藩は、幕末・明治の激動に巻き込まれることになり、青松葉事件が勃発します。『冬の派閥』では青葉事件発生までの経緯について概ね次のように書かれています。

 慶応31015日、徳川慶喜が大政奉還をします。これを受けて慶勝は京都に来るよう命じられ、上洛します。これにあわせて田宮如雲をはじめとする「金鉄組」も上京します。そして、129日に王政復古の大号令が発せられました。この時、慶勝は議定となり、田宮如雲は参与を命じられます。そして、13日に鳥羽伏見の戦いが起こり、旧幕府軍は敗北し、慶喜を征伐する東征軍の発向が決まります。

 そうした中、名古屋から「金鉄組」のメンバーである監察吉田知行が上京して、ふいご党の一派が幼君義宜(よしのり:慶勝の子供で16代藩主)を擁して江戸へ走り、幕府軍に加わろうとしているという情報をもたらしました。

 この情報は、慶勝だけでなく、既に岩倉具視にも届いているとの連絡を受けて、慶勝は、成瀬隼人正、田宮如雲らを岩倉具視のもとに派遣し協議を命じます。彼らが持ち帰ったものは「尾張は軍事上の要地であるのに、藩内に不良な姦徒が隙をうかがっている。早々帰国して処刑せよ」という御沙汰書でした。御沙汰書には「姦徒(かんと)誅戮(ちゅうりく)」と書かれていました。

 朝命(朝廷の命令のこと)を受けた慶勝は驚いたものの、朝命に逆らうことができず、115日、尾張に急ぎ帰国することにします。この時、側用人の田宮如雲にも同行するよう命じますが、田宮如雲は、この命令を固辞します。また、付家老成瀬隼人正は慶勝に同行して帰国するものの慶勝より1日遅れの日程で帰ります。そのため、慶勝は名古屋城に入るのを一日遅らせ、19日に名古屋の手前の清須に一泊して成瀬隼人正が到着するのを待つほどでした。

 そして、20日に名古屋城に帰ると、即日、渡辺新左衛門、榊原勘解由、石川内蔵丞の三人を呼び出し、彼らの弁明を聞く機会も与えず、成瀬隼人正が、朝命の名のもとに斬首を申し渡しました。討手は「金鉄組」のメンバーでした。それ以降、「ふいご党」と思われる多くの藩士が処罰されました。

 以上が、『冬の派閥』が描く青松葉事件の顛末です。

『冬の派閥』を読むかぎりでは、ふいご党が幼主を奉じて幕府に味方しようとした事実があったようには書かれていません。それどころか、文中には、三人の斬首が実行された翌日、「義宜をかついで幕府に走るという企みが、果たしてあったのかどうか、いよいよ疑わしくなった。」と慶勝が疑問に感じる場面があります。

また、「冬の派閥」では、監察の報告が慶勝のもとへ届けられるのと同時に岩倉具視にも届けられ、朝命が発せられたとしてあります。

 こうしたことから、どうも、城山三郎は「青松葉事件は田宮如雲と岩倉具視が画策して尾張藩を新政府側につかせるために起こした事件である」ととらえているように感じました。小説の中で各所にそれを匂わす文章がありますが、岩倉具視が亡くなった時の慶勝の感慨として「明治16720日、療養中の岩倉具視が死んだ。慶勝より一歳年少の59歳であった。(中略)岩倉の死の報せを、慶勝は病床で聞いた。慶勝にとって、岩倉とは、権謀術数の人、そして、青松葉事件を引き起こした朝命の発令者である。『姦徒を誅戮(ちゅうりく)せよ』とのきびしい文言は、熱のあるいまも、慶勝の瞼(まぶた)から去らない。慶勝の後半生は、あの文言からはじまり、そして終わった。」と書かれているのが、最もそれを表していると感じました。

ところで、『冬の派閥』後半三分の一は、金鉄組の人々が、北海道に移住して原野を開拓していく姿を描いています。金鉄組の人々が北海道移住を計画したのは、名古屋での住みずらさがあったようです。青松葉事件で処罰された人々を介錯したのは、金鉄組の人々でした。この人たちの亡くなり方が尋常ではなく、名古屋の人たちは「たたり」だと噂したと書いてありました。金鉄組の人にとってはつらいものだったと思われます。北海道移住計画の先頭にたったのが、監察として「ふいご党の策謀がある」と京都に知らせた吉田知行であったこともそれを表しているように思います。彼らは、厳しい自然環境の中で予想を超える苦労をします。しかし、多くの移住者たちは脱落することなく、開拓を成し遂げます。(※この「金鉄組」を中心とした尾張徳川家の家臣団により開拓された町が現在の北海道八雲町です。)

この開拓に際して、徳川家は、毎年、開拓にあたる藩士たちに扶持を与えていました。当初は2年間という約束でしたが、その期限をすぎても現地から「今年は凶作で作物がとれない」という報告があれば、そのまま受け入れて、援助しつづけたそうです。これは、青松葉事件を防ぐことができなかった慶勝の贖罪(しょくざい)のようにも私は思われました。

最後に、青松葉という名称について、城山三郎は「渡辺新左衛門には、『青松葉』という妙な呼び名もあった。鉄砲を鋳造するのに、青松葉をくべたからでもあり、また、知行地から年貢米を納めさせるとき、他家のものと識別するため、青松葉を俵にささせ、検収するにあたっては、その松葉を抜いて数えたりしたからでもある。」と書いていることを記しておきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。




# by wheatbaku | 2024-07-26 22:00
訪問者300万達成


訪問者300万達成!!


 日頃、熱心にこのブログをお読みいただきありがとうございます。

 お陰様で、昨日、ブログ訪問者が300万人に達しました。 

 このブログを書き始めたのは20081219日でした。

 当初は、注目されることのなかったブログですが、最近では毎日多くの人に読んでいただいて、昨年8月からの1年間では50万人の方に読んでいただけるまでになりました。

 300万を達成できたのも熱心に読んでいただいている皆様のお陰と本当に感謝しております。

 本当にありがとうございました。




# by wheatbaku | 2024-07-25 00:05
尾張藩の青松葉事件の真相は不明。(名古屋城本丸御殿⑥)

尾張藩の青松葉事件の真相は不明。(名古屋城本丸御殿⑥)

 名古屋城の東門から本丸御殿に行く途中の二の丸跡に「尾藩勤皇 青松葉事件之遺跡」と刻まれた石碑があります。これは、慶応4年に尾張藩でおきた青松葉事件があったことを示す石碑です。(下写真)

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 隣の説明板には「慶応4年(18681月、前藩主で、藩の実権を握っていた徳川慶勝が、佐幕(江戸幕府存続)派の藩士14人を処刑した。慶勝は勤王(倒幕)派で、家中の佐幕派を一掃したとされる。これが青松葉事件である。事件は箝口令(かんこうれい)が敷かれ、不可解な部分も多い。処刑された人々が、本当の意味で佐幕派であったかも疑わしいと考えられている。」と書かれています。(下写真)

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 今日は、青松葉事件とはどんな事件であったのか書いてみます。

 青松葉事件とは、慶応4年(1868120日から25日にかけて、尾張藩内の佐幕派とされた渡辺新左衛門在綱(ありつな)、榊原勘解由正帰ら14名が処刑された事件です。

 前年の慶応3129日に王政復古の大号令が発せられました。この時、摂政・関白、そして幕府の廃止が決まり、総裁・議定・参与が新たに設置されました。ここで、徳川慶勝は新政府で重要なポストである議定となり、松平春嶽ともに徳川慶喜に対して辞官・納地をするよう通告しました。その後、一旦、大坂城に退いた旧幕府軍は、慶応411日に大坂城を出発し京都に向かい、13日には旧幕府軍と新政府軍との間で戦いが勃発しました。いわゆる「鳥羽・伏見の戦い」です。「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が勝利し、17日には慶喜追討令が出されました。

この当時、尾張は重要な地と認識されていました。『新修名古屋市史』には次のように書かれています。「尾張の地は、中部・北陸諸藩を背後にひかえ、また、木曽・長良・揖斐の三大河川が横たわり、大藩である尾張藩の向背は天下の動向を左右するものであった」

このような情勢下で、115日、朝廷は、尾張藩の実力者徳川慶勝に対し「姦徒誅戮(かんとちゅうりく)、近国ノ諸侯ヲ慫慂(しょうよう)シ勤王ノ志ヲ奮発セシメ」るようにとの勅語を発し、尾張に帰国するよう命じました。

急遽準備を整え、15日に京都を出発した徳川慶勝は、20日に名古屋に帰城しました。そして、即日、年寄列渡辺新左衛門在綱(2500石)、大番頭榊原勘解由正帰(1500石)、大番頭格石川内蔵丞照英(1000石)の3人の重臣は、取り調べもなく、二ノ丸向屋敷の馬場で斬罪に処せられました。

その後25日にかけて粛清が断行され、合計14名が斬罪となり、家名断絶、揚屋人り、永蟄居などの処分を受けた藩士は20名に及びました。

これが青松葉事件と呼ばれる事件です。青松葉とは、この時に処罰された渡辺新左衛門家の異名だそうです(『国史大辞典』より)。

なお、渡辺新左衛門家は徳川家康の幕府創業を助けた徳川十六神将の一人に数えられる「槍の半蔵」こと渡辺守綱の弟渡辺政綱から始まりました。渡辺守綱は、徳川家康から尾張藩主徳川義直の付家老となるよう命じられ、子孫(渡辺半蔵家と呼ばれる)は代々尾張藩の家老として仕えました。

青松葉事件は、「事件に関する証拠書類などが抹消されたことや、箝口令(かんこうれい)がしかれたこともあっていまだ不明な点も多い」(『新修名古屋市史』)ようで、なぜ、このような事件が起きたのかもわかっていないようです。

「名古屋市史」でも、「当時の事状を子細に観察するに、是等佐幕派が果たして幼主義宜(よしのり)を擁して事を挙げんとするの計画ありしや否やも詳ならざりしのみならず、年来姦曲の処置と云うもの、未だ事実の徴すべきなし。当時の風評たりし佐幕派の連判状又は盟約書という如きものも、また遂に果たしてこれありしや否や明らかならず」としています。

青松葉事件がどのような事件であったのか評価するのは私にはできませんが、『国史大辞典』と『図説愛知県の歴史』には次のように書かれていことを紹介しておきます。

『国史大辞典』で小島広次氏は「名古屋藩では反幕的な『金鉄党』と親幕的な『ふいご党』の藩内対立抗争はあったが、他藩にみられるような門閥上士層と有能下士層の抗争というほどの際立ちは少なく、反幕は反幕閣であっても反将軍家ではなく、親藩意識は両者ともにあった。この上に成立した尊王にして敬幕の政治路線も討幕路線がひかれ、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬が慶勝の実弟であってみれば、名古屋藩自身の存立も危うくなる新事態であった。これに対応する転進を藩の内外に示すための犠牲事件である。」と書いています。

『図説愛知県の歴史』 で林英夫氏は「こうして右顧左眄(うこさべん)の日和見主義で通すことのできない切迫した段階で、藩内に『佐幕派』を作りあげ、『朝命』による断罪なるものを強行して、天皇・薩長軍への忠誠の見せ場を設定し、藩論が『勤王』の方向に帰結したことを外に向かって示したのである。これが青松葉事件であり、でっちあげ政治暗転のからくりであった。」と書いています。

青松葉事件については、詳しく書いたものが余りありません。『名古屋市史』『新修名古屋市史』のほかでは、郷土史家水谷盛光氏が書いた『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説 : 青松葉事件資料集成』(発行1971年)や『実説名古屋城青松葉騒動 : 尾張徳川家明治維新内紛秘話』(発行1972年)に詳しく書かれていることですので、機会をみて読んでみたいと思います。

下地図の中央が「青松葉事件之遺跡」碑です。


# by wheatbaku | 2024-07-21 22:30 | 城下町
  

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