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お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

「お七の井戸」と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)

 行人坂を下っていくと、八百屋お七の恋人西運に関係する史跡として「お七の井戸」と『太鼓橋』があります。 今日は、その二つを紹介します。

《お七の井戸》

 目黒雅叙園のエントランスに向かう歩道脇に「お七の井戸」があります。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11085906.jpg

雅叙園のエントランスから庭園にかけて明治18年頃まで、明王院というお寺がありましました。

幕末の切絵図をみると、明王院は大円寺より大きなお寺として描かれています。

 明王院は、八百屋お七の恋人吉三が出家した後の西運がいたお寺です。

 西運は、目黒不動と浅草観音に、隔夜一万回の日参念仏行を行ったと言われています。

 雅叙園の駐車場入り口にある井戸は、西運が念仏行に出かける際に水垢離とったといわれている井戸です。

《夕日の岡》

 下写真は、お七の井戸を遠くから撮った写真ですが、お七の井戸の後ろ側にある斜面一帯は、江戸時代は、夕日の岡と呼ばれ、紅葉の名所でした。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11085290.jpg

 江戸の紅葉の名所としては、品川の海晏寺が有名でしたが、海晏寺と並ぶ名所だったようです。

 しかしながら、「江戸名所図会」には、「いまは楓樹少なく、ただ名のみ存せり」と書かれていますので、江戸時代後期の天保の頃には、紅葉はほとんど見られなくなったようです。

《太鼓橋》
 太鼓橋は、目黒川にかかる橋で、現在の橋は平成3年に完成したものです。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11101845.jpg
 

江戸時代の橋は、太鼓の胴の形をしていたため「太鼓橋」と呼ばれました。(下段の広重の浮世をご参照ください。)

江戸で最初に架橋された唐式の石拱橋(せっこうきょう:石造のアーチ橋)で、建設された当時としては珍しく目黒の名物でした。 

太鼓橋を造った人物は、八百屋お七の恋人西運である説があります。

それによれば、西運は、目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中、江戸の市民から寄進を集めて太鼓橋を造ったといわれています。

また、諸国を回遊する木喰上人が架けたとも、八丁堀の町人が資金を出し合い完成させたという説もあります。

『江戸名所図会』には、「柱を用ひず、両岸より石を畳み出して橋とす。故に横面よりこれを望めば、太鼓の胴に髣髴たり。故に世俗、しか号く。享保の末、木食上人これを制するとなり」と木食上人が造ったと書いてあります。

太鼓橋を描いた浮世絵として有名なものが、歌川広重の名所江戸百景のうちの「目黒太鼓橋夕日の岡」(下写真)です。橋の欄干にもそのレリーフがはめ込まれています。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11083711.jpg

「目黒太鼓橋夕日の岡」で描かれた風景は、すっかり変わっていますが、一つだけ変わらないものがあります。それが、目黒雅叙園側の橋のたもとにある椎の木です。

 下写真は、椎の木を近くで写した写真です。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11084799.jpg

広重が描いた太鼓橋は、大正9年の豪雨で流されてしまい、昭和7年になって先代の鉄橋が架けられ、そして、平成3年に現在のものになりました。

今は、桜の季節には、花見客でごったがえす桜の名所となりました。下写真は今年(平成30年)3月14日の太鼓橋です。桜が満開でした。

お七の井戸と太鼓橋(目黒史跡散歩⑤)_c0187004_11082635.jpg



# by wheatbaku | 2018-04-20 11:06 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)


大円寺は、八百屋お七の恋人吉三ゆかりの寺でもあります。

八百屋お七は、愛しい恋人に会うために火をつけ、その罪により処刑されたヒロインとして大変有名ですが、お七が避難したお寺や恋人の名前については、書物によって様々です。

そのなかで、井原西鶴が書いた「好色五人女」では、吉祥寺に避難しそこの寺小姓の吉三が恋人とされています。

その恋人吉三と大円寺は縁があるお寺であると寺伝で伝えられています。

そのため、西運ゆかりの建物として本堂西側の阿弥陀堂(下写真)があり、阿弥陀堂には、西運上人像やお七地蔵がお祀りされています。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13181108.jpg

《八百屋お七の恋人西運》

 八百屋お七の恋人吉三は、お七が処刑された後、出家して西運を名乗りました。

下写真は阿弥陀堂内にお祀りされている西運上人像です。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13223563.jpg

そして、出家後、お七の菩提を弔うため、念仏を唱えながら諸国を巡りました。

その後、江戸に戻った西運は、大円寺の下(今の雅叙園の一部)にあった明王院に身を寄せたといいます。

そして、西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提を弔うために目黒不動尊と浅草観音に隔夜1万日日参の悲願を立て、往復10里の道を、雨の日も風の日も首から下げた鉦をたたき、念仏を唱えながら日参しました。こうして27年5ヶ月後に満願となりました。

 この修行の中で、寄進が集まり、集まった浄財で、行人坂を石畳に修繕し、目黒川に架かる橋を石の橋に造り替え、明王院境内に念仏堂を建立しました。

しかし、明王院は明治初めごろ廃寺となってしまい大円寺に統合されました。

明王院にあった仏像などは大円寺に移され、西運の木像やお七地蔵などが現在の阿弥陀堂にお祀りされています。

阿弥陀堂は、西運に深い関心を持っていた大円寺住職によって、昭和18年、再建されました。

阿弥陀堂の御本尊は阿弥陀三尊像(下写真)です。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13175478.jpg

大円寺の阿弥陀如来像は、半跏像です。半跏というのは右足を曲げ左足を下に垂れた姿です。そして、印相は中品下生です。

半跏の阿弥陀如来像や中品下生の阿弥陀如来像は大変珍しいそうです。

阿弥陀如来像の前に、お七地蔵(下写真)がお祀りされています。満願の日に、西運の夢に出てきたお七の姿を刻んだものだそうです。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13222751.jpg


阿弥陀堂前には、西運の姿を刻んだ碑が建てられています。(下写真)

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13173899.jpg

その碑には大円寺の福田実衍(じつえん)師が、昭和18年、阿弥陀堂を再建した際に描いてもらった「お七吉三縁起絵巻」の一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿が刻まれています。また、上部に書かれている賛は「吉三発心 只たのむ かねの音きけよ 秋の暮」と書かれているそうです。



 さらに、境内には、元禄16年に西運が建てた「行人坂敷石造道供養碑」(下写真)があります。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13170254.jpg

 それには、行人坂を利用する念仏行者たちが、目黒不動尊と浅草観音に参詣し、人々から喜捨を受け、行人坂に敷石の道を造るため、この成功と往来の安全を供養祈願したことが書かれているようです。

【4月20日追記】

 大円寺の本堂手前の五百羅漢像側に、西運が造ったとされる太鼓橋の石材がベンチとして残されています。

 写真の左手のベンチ風に設置されている石が、太鼓橋として使用されていたものです。

 写真右手には、そのことを説明した石柱が写っています。

八百屋お七の恋人吉三〔大円寺③〕(目黒史跡散歩④)_c0187004_13155161.jpg



# by wheatbaku | 2018-04-19 13:01 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)

大円寺は、振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられる目黒行人坂の火事の火元といわれています。  

そのため、それに関連する五百羅漢像(下写真)が残されています。

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)_c0187004_13410114.jpg

《目黒行人坂の火事》

振袖火事、車町の火事と並んで江戸三大火のひとつに挙げられるのが明和9年(1772年)におきた行人坂の火事です。この行人坂の火事は、大円寺が火元といわれています。

大円寺から出火した火事がどんどん延焼していって、上野浅草まで燃えつくし千住でようやく消し止まり、死者は『天下大変 江戸の災害と復興』によれば約15千人という大火事になりました。

当時、目黒は江戸から離れた田舎で、人家もそれほど多くなかったと思われます。その目黒で起きた火事が江戸市中まで延焼していったのは、南西の強風のせいだと思われます。

この火事の原因は放火といわれています。『目黒区史』にも大円寺に住んでいた悪僧眞秀が住職に怨みをもち火をつけたのがもとであるといわれていると書いてあります。

その放火犯を捕まえたのが火付盗賊改の長谷川平蔵宣雄つまり長谷川平蔵宣以(鬼平)の父でした。

この火事では、江戸城の櫓も焼失しました。このことから大円寺は以後76年間も再建を許されませんでした。

「江戸名所図会」では、大円寺は、行人坂の項目のなかで、「この寺。いま亡びたり」と触れられているだけです。また、行人坂を描いた絵図にも五百羅漢像が描かれているだけです。これにより、天保の頃には、お寺としては残されていなかったことが明らかです。

その間、御本尊(目黒区史では大日如来)や過去帳は隣の明王院に預けられていました。

そして、幕末の嘉永元年(1848)になって薩摩藩主島津家の帰依を得て、その祈祷所としてようやく再建されました。

嘉永元年の薩摩藩主は島津斉興ですので、大円寺の再興は島津斉興の尽力によるものと思われますが、大円寺には、その記録は残されていないとのことです。

《五百羅漢像》

大円寺には、この火事の犠牲者を供養するための石仏群があります。

山門を入った左手にずら~っと並ぶ石仏群は、中央に釈迦如来像そして左右に文殊・普賢像を配した釈迦三尊像が祀られています。(下写真が釈迦如来像です。)

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)_c0187004_12170942.jpg

釈迦三尊像の周りを十六羅漢像・十大弟子像が取り巻き、背後に491基の羅漢像が並んでいます。

釈迦如来像に天明元年(1781)の刻銘があることから、多くの像はこれ以降につくられたと考えられています。

石仏群は、多くの人からの浄財で石工が50年という歳月をかけて完成したといわれています。昭和45年、都有形文化財に指定されています。

通常の五百羅漢像は男性ですが、大円寺の五百羅漢像の中には女性と思われるものも安置されています。

《とろけ地蔵》

石仏群の手前、釈迦三尊像の横の向かって右手に顔や手が溶けたような異様なお地蔵様が立っています。(下写真)

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)_c0187004_12170406.jpg

このお地蔵様は「とろけ地蔵」と呼ばれています。江戸時代に漁師が品川の海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたそうです。

先日お邪魔した大円寺でのお話(下写真参照)では、この「とろけ地蔵」という名前は大円寺がなづけた名前ではなく、檀家の人たちの間に自然と広まった名前とのことです。

目黒行人坂の火事〔大円寺②〕(目黒史跡散歩③)_c0187004_12165624.jpg




# by wheatbaku | 2018-04-18 12:14 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
大円寺①(目黒史跡散歩②)

大円寺①(目黒史跡散歩②)

 目黒史跡散歩の2回目、今日は、大円寺についてお話します。

大円寺は行人坂の中腹にあるお寺です。

山門も近年再建され、行人坂から大変目立つお寺になりました。

大円寺①(目黒史跡散歩②)_c0187004_13002343.jpg

大円寺は、江戸の初期の元和年間(16151624)に湯殿山の修験僧(行人)大海法印が大日如来を奉じて祈願道場を建てたのが始まりと伝えられています。

《大黒天》

山門を入ると正面に本堂があります。(下写真)

大円寺①(目黒史跡散歩②)_c0187004_12581602.jpg

この本堂は、芝白金のお寺の本道を譲り受けて移築し嘉永元年に再建されたものです。

本堂の中には、正面に大黒天がお祀りされています。

この大黒天は、徳川家康をモデルにして天海上人が彫ったものともいわれていて、薩摩藩島津家から寄進されたものです。

大円寺①(目黒史跡散歩②)_c0187004_13010890.jpg

さらに、大円寺には、江戸城の裏鬼門鎮護のため、比叡山から伝教大師作と伝わる大黒天を勧請してお祀りした大黒天もあります。この大黒天は、上野護国院、小石川福聚院の大黒とならんで江戸三大大黒の一つでもあります。

上野護国院は、東叡山寛永寺の塔頭ですが、上野護国院は、江戸城から表鬼門の方向にあります。一方、大円寺は裏鬼門の方向にあり、裏鬼門守護としてお祀りされているそうです。

この大黒天は、秘仏として、釈迦堂にお祀りされていて、一般には公開されていないそうです。

《十一面観音像》

 大黒天の後ろに、十一面観音像がお祀りされています。

 この観音像は、藤原期に製作されたものと考えられていて、髙さ約168センチの仏様です。こちらは、明治になって廃寺となった明王院にお祀りされていた観音様で、目黒区の文化財に指定されています。

 木の肌の保存状態があまり良くないことから、露天にお祀りされている時期があったのではないかとの大円寺では推測しているようです。

大円寺①(目黒史跡散歩②)_c0187004_12561868.jpg

《釈迦如来像》

大円寺のご本尊は、釈迦如来像で、昭和32年に国の重要文化財に指定されています。

この釈迦如来像をお祀りしてあるのが釈迦堂です。(下写真)

大円寺①(目黒史跡散歩②)_c0187004_12595256.jpg

釈迦如来像は、通常は非公開で、通常は非公開で、花祭り、大黒様の縁日、大晦日から正月七日までなど限られた時にしか拝観できません。そのため、釈迦堂は、上記写真のように、閉堂されています。

大円寺の釈迦如来像は、京都の清凉寺の釈迦如来立像を模したものです。

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清凉寺の釈迦如来像には、胎内に人間の体内にある五臓が絹や錦の布で作られ、文書や経巻・宝玉などと一緒に納められているそうです。

清涼寺の釈迦像は美しいため盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されているそうです。

大円寺の釈迦如来像の体内には鏡や女性の毛髪や紙片が納められていて、解体修理の際に、それらが見つかったそうです。

 


# by wheatbaku | 2018-04-17 12:52 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
行人坂(目黒史跡散歩①)

行人坂(目黒史跡散歩①)

 今日から、目黒不動尊周辺の史跡をご案内していきます。

 今日は、まず、行人坂についてご案内します。

 目黒駅西口を出て、南側の交差点の南西方向に向かいます。そこから、急な下り坂がありますが、それが行人坂です。

《行人坂》

行人坂の中ほどに、石造の勢至菩薩がお祀りされています。

その勢至菩薩についての案内板の下に行人坂について説明されています。(下写真)

行人坂(目黒史跡散歩①)_c0187004_09095675.jpg

それによれば、行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現大円寺)を建てて修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったので行人坂となづけられたといいます。

ちなみに行人とは、仏の道を修行する人をいい、行者ともいいます。

行人坂は、江戸時代には、江戸と目黒を結ぶ重要な道路で、目黒のお不動様へ参詣するための道としてにぎわった道でもあります。

行人坂が大変急な坂であるのは、この辺りの地形によるものです。

 目黒区史には、目黒川を挟んで北側が急斜面で、南側が緩やかになっているのは、氷河期の気候の影響によるものと書かれています。

《目黒側架橋供勢至菩薩石像》

 行人坂の途中の大円寺の入り口前に「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」という52センチの像が祀られています。

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勢至菩薩像は下から台座、蓮座、頭上に宝瓶(ほうびょう)のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺座(はんかふざ)の勢至菩薩像の3段になっています。

行人坂(目黒史跡散歩①)_c0187004_09054689.jpg

その台座の全面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを述べた銘文が刻まれているとのことですが、実際に読むのはなかなか困難です。

銘文には、宝永元年(1704)に西運という僧が、目黒不動と浅草観音を1万回一日おきに参詣し、往復の途中江戸市民の寄進をうけ、目黒川の両岸に石壁を築いて橋を架けたと刻まれているそうです。

西運というお坊さんは、お七火事で有名な八百屋お七の恋人であった吉三が、お七の処刑後に出家した姿と言われています。

《富士見茶屋》

行人坂の上は、江戸時代は、大変風向が明媚な場所で、西側を見ると富士山がよく見えたそうです。

下の浮世絵は「江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士」という歌川豊国の浮世絵ですが、これを見ると、富士山が非常によく見えたことがわかります。

行人坂(目黒史跡散歩①)_c0187004_09100143.jpg

そうした富士山が眺めれる風光明媚なところであったため、ここの茶屋は富士見茶屋と呼ばれていました。

それを説明した説明板が行人坂の途中にあります。(下写真)

行人坂(目黒史跡散歩①)_c0187004_09054117.jpg

その説明板の場所から西を見るとホリプロダクションの本社が正面に見えます。(最下段写真)

行人坂(目黒史跡散歩①)_c0187004_09051930.jpg


# by wheatbaku | 2018-04-16 09:01 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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