「律(子規の妹)は強情なり」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑭)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第13回では、正岡子規の妹律について渡辺謙の「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。律は強情なり…」というナレーションがありました。
これは、子規が「仰臥漫録」に書いているものをそのままナレーションとしたものです。
『仰臥漫録』は子規が明治34年9月2日から書き始めた私的な手記です。公表を意図していたわけではないので、妹律への不満がそのまま書かれています。
『仰臥漫録』の中で、子規は律について、いろいろな所で書いています。「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。」は9月20日の項に書かれていて、「律は強情なり…」の部分は9月21日の項に書いてあります。『仰臥漫録』は国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集第八巻』で読むことができます。原文はカタカナ交じり文ですが、カタカナを平仮名にかえて句読点もいれて引用します。下の赤字部分がスペシャルドラマ「坂の上の雲」で朗読された部分です。
まず20日の部分ですが、「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし。病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分らず。例えば『団子が食いたいな』と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜず。病人が食いたいといえば、もし同情のある者ならばすぐに買ってきて食わしむべし。律に限って、そんなことはかつてなし。故にもし食いたいと思うときは『団子買って来い』と直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし。その理屈っぽいこと言語同断なり。彼(律のこと:以下同じ)の同情なきは誰に対して同じことなれども、ただカナリヤに対してのみは真の同情あががごとし。彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にてもニ時間にてもただ何もやらずに眺めておるなり。しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭う宇なり。時々同情といふことを説いて聞かすれども同情の無い者に同情の分るはずもなければ何の役にも立たず。不愉快なれどもあきらめるより外に致し方もなきことなり。」と書かれています。
続いて21日の分ですが、「律は強情なり、人間に向って冷淡なり。特に男に向ってshy(シャイ)なり。彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり。しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となり了(おわ)れり。」と書いています。
このように律を非難しているものの、律の大切さは子規も認識していて、続いて次のように書いています。
「もし余が病後彼なかりせば余は今頃如何にしてあるべきか。看護婦を長く雇うが如きは我能(よ)くなすところにあらず。よし雇い得たりとも律に勝るところの看護婦すなわち律がなすだけのことをなしうる看護婦あるべきにあらず。律は看護婦であると同時に「おさんどん(台所仕事をする下女)」なり。「おさんどん」であると同時に一家の整理役なり。一家の整理役であると同時に余の秘書なり。書籍の出納・原稿の浄書も不完全ながらなしおるなり。しかしして、彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり。野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり。肉や肴を買うて自己の食料となさんなどとは夢にも思わざるがごとし。」
ですから「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめる同時に余はほとんど生きておらざるなり。故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わず。ただ彼に病なきことを祈れり。彼あり余の病は如何ともすべし。もし彼病まんか彼も余も一家もにっちもさっちも行かぬこととなるなり。故に余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり。彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として世にたつこと能わざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持氏為にやあらし禍福錯綜人智の予知すべきにあらず。」と書いています。
その後で、一転して子規は律を口汚くののしっています。「彼は癇癪持なり強情なり気が利かぬなり。人に物問ふことが嫌ひなり指さきの仕事は極めて不器用なり。一度きまった事を改良することが出来ぬなり。彼の欠点は枚挙に遑あらず 余は時として彼を殺さんと思ふ程に腹立つことあり。」
病人の子規としては体調の悪いときには律にぶつけるしかないのでしょう。
こうした子規も、律や母八重が自分の楽しみを捨てて看病してくれることは気にしていたようです。『病床苦語』の中で次のように書いています。
「去年の夏以来病勢が頓(とん)と進んで来て、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬようになった。殊にこの頃では伊藤、河東、高浜その他の諸子を煩らわして一日替りに看病に来てもらうような始末になったので、病人の苦しいことは今更いうまでもないが、看病人の苦しさは一通りでないということを想像すればするほど気の毒で堪たまらなくなる。勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである。」
そうした中で、河東碧梧桐一家が律を赤羽に土筆(つくし)取りに誘い、母八重を花見に誘ってくれたことがあり、子規はそれを大変喜んでいます。『病床苦語』は次のように続きます。
「それだからというて別に彼らを慰めてやる方法もないので困って居た所が、この正月に碧梧桐が近所へ転居して来たので、その妻君や姉君が時々見舞われるのは、内の女どもにとりてはこの上もない慰みになるようになった。殊に三月の末であったか、碧梧桐一家の人が赤羽へ土筆(つくし)取りに行くので、妹も一所に行くことになった時には予まで嬉しい心持がした。この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、(妹は初めて飛鳥山を見たのである)それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとして居る習慣がある。この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜(よめな)摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山みつからない。ところが東京の近辺ではこれを採るものが極めて少ないためでもあるか、赤羽の土手には十間ほどの間にとても採り尽せないほどの土筆が林立して居ったそうな。妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷(ふろしき)に溢(あふれ)るほどの土筆は、わが目の前に出し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに一人で何事かしゃべって居る。かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多きことにおいて、その茎の長きことにおいて、彼は頻りに誇って居る。この短い土筆は、始めのうち取ったので秉(へい)さん(*碧梧桐のこと)に笑われたのである、この長い土筆は帰りがけに急いで取ったので、まだそこにはいくらでも残って居た、この土筆は少し延び過ぎて居る、土筆取りには籠を持って行くがよい、残った土筆は誰か取りに行けばよい、こんなに節の長い土筆なら、袴を取るというても誠に世話がない、などとかつ袴をむぎかつ独りごちながら、何となく愉快そうな調子で居る彼を見ると、平生の不愛嬌には似もつかぬ如何にも嬉しそうに見えるので、それを病床から見て居る予は更に嬉しく感じた。
家を出でて土筆摘むのも何年目
病床を三里離れて土筆取
それから更に嬉しかったことは、その次の日曜日にまた碧梧桐が家族と共に向島むこうじまの花見に行くというので、母が共に行かれたことである。花盛りの休日、向島の雑鬧ざっとうは思いやられるので、母の上は考えて見ると心配にならんでもなかったが、夕刻には恙つつがなく帰られたので、予は嬉しくて堪らなかった。
たらちねの花見の留守や時計見る
内の者の遊山(ゆさん)も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは即ち予の楽みである。」
また、子規は明治34年9月17日の『仰臥漫録』には律が四谷に転居した叔父加藤恒忠(拓川)の新居にお使いに行った際に次のような俳句も詠んだことが書かれています。
いもうとの帰りおそさよ五日月
母と二人いもうとの帰りを待つ夜寒かな
律の帰りが予想外に遅かったのでしょう。帰りの遅い妹を心配している子規の心情がよくわかる俳句だと思います。ちなみに律はお土産としてパイナップルの缶詰とそうめんを貰ってきたことも書かれています。
律は、子規が亡くなった後、正岡家の戸主となり、35歳で神田の共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を卒業後、事務職を経て、裁縫科の教員となりました。(子規庵の説明板より)
大正3年には、叔父の加藤恒忠(拓川)の三男忠三郎を養子に迎えました。そして、大正12年2月母八重の看護のため共立女子職業学校を退職した後は、子規庵に暮らしながら子規庵を守っていました。そして、昭和16年5月24日に71歳でなくなりました。
律の養子忠三郎の子孫は今も健在だそうです。律がいたからこそ、子規庵も存続しているし、正岡家も存続しているということになりそうです。
律の「強情さ」が正岡家を守ったともいえるのではないでしょうか.
追記:国立国会図書館デジタルコレクションで読める『子規言行録』の中で子規の主治医であった宮本仲(なかつ)が、『子規と病気』の中で律の献身ぶりを高く評価していますので、紹介しておきます。
「子規の看病に一身を捧げて、人手もない内で、何や彼やと切って廻した妹の律子さんの心尽しといふものも、亦た実に見上げたものであった。いつも私は感心してゐたが、女中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩迄一刻の休みもなく、来客のある中でメに立働かれた。それも短日月の間のことなら格別の話でもないが、何分長い正岡の看護なのだから、実際なまやさしいことではなかった。又た御母堂も、老いの身で好く子規の面倒を見られた。彼は一り子だから、母堂には可愛くってたまらなかったのだらうが、その慈愛は実に深いものであった。子規も偉い人間には相違ないが、御母堂、御令妹の彼に対する奉仕と愛とも亦た偉いものだった。我々医家として、毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところは、さう々、見当るものではない。御母堂、特に御令妹は、十分表彰されて好い方だと思う。」







