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「律(子規の妹)は強情なり」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑭)

「律(子規の妹)は強情なり」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑭)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第13回では、正岡子規の妹律について渡辺謙の「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。律は強情なり…」というナレーションがありました。

 これは、子規が「仰臥漫録」に書いているものをそのままナレーションとしたものです。

『仰臥漫録』は子規が明治3492日から書き始めた私的な手記です。公表を意図していたわけではないので、妹律への不満がそのまま書かれています。

 『仰臥漫録』の中で、子規は律について、いろいろな所で書いています。「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。」は920日の項に書かれていて、「律は強情なり…」の部分は921日の項に書いてあります。『仰臥漫録』は国立国会図書館デジタルコレクションの改造社刊『正岡子規全集第八巻』で読むことができます。原文はカタカナ交じり文ですが、カタカナを平仮名にかえて句読点もいれて引用します。下の赤字部分がスペシャルドラマ「坂の上の雲」で朗読された部分です。

まず20日の部分ですが、「律は理屈づめの女なり。同感同情のなき木石の如き女なり。義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むることなし。病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しも分らず。例えば『団子が食いたいな』と病人は連呼すれども彼はそれを聞きながら何とも感ぜず。病人が食いたいといえば、もし同情のある者ならばすぐに買ってきて食わしむべし。律に限って、そんなことはかつてなし。故にもし食いたいと思うときは『団子買って来い』と直接に命令すれば彼は決してこの命令に違背することなかるべし。その理屈っぽいこと言語同断なり。彼(律のこと:以下同じ)の同情なきは誰に対して同じことなれども、ただカナリヤに対してのみは真の同情あががごとし。彼はカナリヤの籠の前にならば一時間にてもニ時間にてもただ何もやらずに眺めておるなり。しかし病人の側には少しにても永く留まるを厭う宇なり。時々同情といふことを説いて聞かすれども同情の無い者に同情の分るはずもなければ何の役にも立たず。不愉快なれどもあきらめるより外に致し方もなきことなり。」と書かれています。

続いて21日の分ですが、「律は強情なり、人間に向って冷淡なり。特に男に向ってshy(シャイ)なり。彼は到底配偶者として世に立つ能はざるなり。しかもその事が原因となりて彼は終(つい)に兄の看病人となり了(おわ)れり。」と書いています。

 このように律を非難しているものの、律の大切さは子規も認識していて、続いて次のように書いています。

「もし余が病後彼なかりせば余は今頃如何にしてあるべきか。看護婦を長く雇うが如きは我能(よ)くなすところにあらず。よし雇い得たりとも律に勝るところの看護婦すなわち律がなすだけのことをなしうる看護婦あるべきにあらず。律は看護婦であると同時に「おさんどん(台所仕事をする下女)」なり。「おさんどん」であると同時に一家の整理役なり。一家の整理役であると同時に余の秘書なり。書籍の出納・原稿の浄書も不完全ながらなしおるなり。しかしして、彼は看護婦が請求するだけの看護料の十分の一だも費さざるなり。野菜にても香の物にても何にても一品あらば彼の食事は了るなり。肉や肴を買うて自己の食料となさんなどとは夢にも思わざるがごとし。」

 ですから「もし一日にても彼なくば一家の車はその運転をとめる同時に余はほとんど生きておらざるなり。故に余は自分の病気が如何ように募るとも厭わず。ただ彼に病なきことを祈れり。彼あり余の病は如何ともすべし。もし彼病まんか彼も余も一家もにっちもさっちも行かぬこととなるなり。故に余は常に彼に病あらんよりは余に死あらんことを望めり。彼が再び嫁して再び戻りその配偶者として世にたつこと能わざるを証明せしは暗に兄の看病人となるべき運命を持氏為にやあらし禍福錯綜人智の予知すべきにあらず。」と書いています。

 その後で、一転して子規は律を口汚くののしっています。「彼は癇癪持なり強情なり気が利かぬなり。人に物問ふことが嫌ひなり指さきの仕事は極めて不器用なり。一度きまった事を改良することが出来ぬなり。彼の欠点は枚挙に遑あらず 余は時として彼を殺さんと思ふ程に腹立つことあり。」

 病人の子規としては体調の悪いときには律にぶつけるしかないのでしょう。

 こうした子規も、律や母八重が自分の楽しみを捨てて看病してくれることは気にしていたようです。『病床苦語』の中で次のように書いています。

「去年の夏以来病勢が頓(とん)と進んで来て、家内の者は一刻も自分の側を離れる事が出来ぬようになった。殊にこの頃では伊藤、河東、高浜その他の諸子を煩らわして一日替りに看病に来てもらうような始末になったので、病人の苦しいことは今更いうまでもないが、看病人の苦しさは一通りでないということを想像すればするほど気の毒で堪たまらなくなる。勿論看病のしかたは自分の気にくわぬので、口論もしたり喧嘩もしたり、それがために自分は病床に煩悶して生きても死んでも居られんというような場合が少くはないが、それは看病の巧拙のことで、いずれにした所で家族の者の苦しさは察するに余りがあるのである。」

 そうした中で、河東碧梧桐一家が律を赤羽に土筆(つくし)取りに誘い、母八重を花見に誘ってくれたことがあり、子規はそれを大変喜んでいます。『病床苦語』は次のように続きます。

「それだからというて別に彼らを慰めてやる方法もないので困って居た所が、この正月に碧梧桐が近所へ転居して来たので、その妻君や姉君が時々見舞われるのは、内の女どもにとりてはこの上もない慰みになるようになった。殊に三月の末であったか、碧梧桐一家の人が赤羽へ土筆(つくし)取りに行くので、妹も一所に行くことになった時には予まで嬉しい心持がした。この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、(妹は初めて飛鳥山を見たのである)それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとして居る習慣がある。この土筆は勿論煮てくうのであるから、東京辺の嫁菜(よめな)摘みも同じような趣きではあるが、実際はそれにもまして、土筆を摘むという事その事が非常に愉快を感ずることになって居る。それで人々が争うて土筆を取りに出掛けるので郊外一、二里の所には土筆は余り沢山みつからない。ところが東京の近辺ではこれを採るものが極めて少ないためでもあるか、赤羽の土手には十間ほどの間にとても採り尽せないほどの土筆が林立して居ったそうな。妹が帰ったのはまだ日の高いうちであったが、大きな布呂敷(ふろしき)に溢(あふれ)るほどの土筆は、わが目の前に出し広げられた。彼はその土筆の袴をむきながら頻りに一人で何事かしゃべって居る。かような獲物はとてもわが郷里などでは得られる者ではないので、その分量の多きことにおいて、その茎の長きことにおいて、彼は頻りに誇って居る。この短い土筆は、始めのうち取ったので秉(へい)さん(*碧梧桐のこと)に笑われたのである、この長い土筆は帰りがけに急いで取ったので、まだそこにはいくらでも残って居た、この土筆は少し延び過ぎて居る、土筆取りには籠を持って行くがよい、残った土筆は誰か取りに行けばよい、こんなに節の長い土筆なら、袴を取るというても誠に世話がない、などとかつ袴をむぎかつ独りごちながら、何となく愉快そうな調子で居る彼を見ると、平生の不愛嬌には似もつかぬ如何にも嬉しそうに見えるので、それを病床から見て居る予は更に嬉しく感じた。

家を出でて土筆摘むのも何年目

病床を三里離れて土筆取

 それから更に嬉しかったことは、その次の日曜日にまた碧梧桐が家族と共に向島むこうじまの花見に行くというので、母が共に行かれたことである。花盛りの休日、向島の雑鬧ざっとうは思いやられるので、母の上は考えて見ると心配にならんでもなかったが、夕刻には恙つつがなく帰られたので、予は嬉しくて堪らなかった。

たらちねの花見の留守や時計見る

 内の者の遊山(ゆさん)も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼らの楽みは即ち予の楽みである。」

 また、子規は明治34917日の『仰臥漫録』には律が四谷に転居した叔父加藤恒忠(拓川)の新居にお使いに行った際に次のような俳句も詠んだことが書かれています。

 いもうとの帰りおそさよ五日月

母と二人いもうとの帰りを待つ夜寒かな

律の帰りが予想外に遅かったのでしょう。帰りの遅い妹を心配している子規の心情がよくわかる俳句だと思います。ちなみに律はお土産としてパイナップルの缶詰とそうめんを貰ってきたことも書かれています。

律は、子規が亡くなった後、正岡家の戸主となり、35歳で神田の共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を卒業後、事務職を経て、裁縫科の教員となりました。(子規庵の説明板より)

大正3年には、叔父の加藤恒忠(拓川)の三男忠三郎を養子に迎えました。そして、大正122月母八重の看護のため共立女子職業学校を退職した後は、子規庵に暮らしながら子規庵を守っていました。そして、昭和16524日に71歳でなくなりました。

律の養子忠三郎の子孫は今も健在だそうです。律がいたからこそ、子規庵も存続しているし、正岡家も存続しているということになりそうです。

律の「強情さ」が正岡家を守ったともいえるのではないでしょうか.

追記:国立国会図書館デジタルコレクションで読める『子規言行録』の中で子規の主治医であった宮本仲(なかつ)が、『子規と病気』の中で律の献身ぶりを高く評価していますので、紹介しておきます。

「子規の看病に一身を捧げて、人手もない内で、何や彼やと切って廻した妹の律子さんの心尽しといふものも、亦た実に見上げたものであった。いつも私は感心してゐたが、女中の役、細君の役、看護婦の役と、朝から晩迄一刻の休みもなく、来客のある中でメに立働かれた。それも短日月の間のことなら格別の話でもないが、何分長い正岡の看護なのだから、実際なまやさしいことではなかった。又た御母堂も、老いの身で好く子規の面倒を見られた。彼は一り子だから、母堂には可愛くってたまらなかったのだらうが、その慈愛は実に深いものであった。子規も偉い人間には相違ないが、御母堂、御令妹の彼に対する奉仕と愛とも亦た偉いものだった。我々医家として、毎日多数の病家に出入するが、子規の家の如きところは、さう々、見当るものではない。御母堂、特に御令妹は、十分表彰されて好い方だと思う。」





# by wheatbaku | 2024-12-11 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)

 正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は私にとっては耳慣れた句です。確か高校の教科書または大学受験参考書で覚えたと記憶しています。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回や第11回でも鶏頭が大きく描写されていて私にとっては大変印象的でした。

 下写真は、第9回で秋山真之がアメリカに留学するため子規庵を訪ねた際の場面です。右側に鶏頭が描かれていました。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_18450522.jpg

 下の写真は、第11回の場面ですが、秋山真之が英国から帰国して子規庵を訪ねた際、子規が包帯を取り換える間、それを真之が庭で待っている場面です。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_18450650.jpg

 こうしたことから「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句は、子規の代表的な名句として評価が定まっているものと思っていました。

 しかし、『正岡子規』(松井利彦著)の鑑賞編を読むと次のように書いてありました。

 「『鶏頭の十四五本もありねべし』の句は最初、長塚節によって名句として取りあげられ、次いで斎藤茂吉によって賞賛された。これに反し、虚子はこの句を句会席上でも、子規句集を編むに際しても入選させることなく、佳句としての扱いを見せていない。」

 確かに高浜虚子が編纂した岩波文庫『子規句集』(昭和16年刊)には、この句は載っていません。

 この句は、明治3399日に開かれた句会の第2回運座「鶏頭」の題で次の句を子規が詠んでいます。なお、運座とは、句会で、多数の人が集まり一定の題によって句を作り、互選する会のことをいいます。なお、この句会の全体の句は「国立国会図書館デジタルコレクション『子規全集』(講談社刊)第十五巻「俳句会稿」で読むことができます。

塀低き田舎の家や葉鶏頭

葉鶏頭の錦を照す夕日哉

 誰が植ゑしともなき路次の鶏頭や 

 萩刈て鶏頭の庭となりにけり

 鶏頭の十四五本もありぬべし 

 鶏頭の花にとまりしばつたかな

 朝皃の枯れし垣根や葉鶏頭 

 鶏頭に車引入るゝごみや哉

 鶏頭や二度の野分に恙なし

 これらの句の中で最も評価がたかったのは「鶏頭や二度の野分に恙なし」が四票で、 「鶏頭の十四五本もありぬべし」は2票だけでした。

 その後、高浜虚子・河東碧梧桐が編集した「子規句集」にも採用されませんでした。

 この句を評価したのは、子規の愛弟子である長塚節(たかし)、そしてアララギ派歌人の斎藤茂吉だったようです。長塚節が評価したということは斎藤茂吉が書いた「長塚節氏を憶ふ」の中で次のように書かれています。「(前略)予等が歌の批評などの場合に 『尊い』などと云ふと、長塚さんは非常に不平であった。正岡先生の晩年の句の『鶏頭の十四五本もありぬべし』が分かる俳人は今は居まいなどと云った。それから芭蕉の『行く春を近江の人と惜しみけり』や曾良の『夜もすがら秋風きくや裏の山』などの感想は幾度となく聴いた。(後略)」(国立国会図書館デジタルコレクション『斎藤茂吉全集第7巻(第1)」より)

 こうした長塚節の評価を踏まえて、斎藤茂吉も、「童馬漫語」の中で次のように書いています。

「『五月雨や上野の山も見飽きたり子規』これは子規の晩年の句だ、そして子規自身でも棄て去るべき句ではないと思っていただろう。

門間春雄君所藏の五月雨十句の軸の書きぶりを見ると、それがようく分かる。僕の獨斷言によると此は佳句であって棄つべきものではない。

そして、『雞頭の十四五本もありぬべし』などと同じく、これから子規の進むべき純熟の句がはじまったのである。もう寸毫も芭蕉でも蕪村でもないのである。そして、『夕顏の棚つくらむと思へども秋まちがてぬわが命かも』などの晩年の和歌に比すべく、かうなれば俳句も和歌も一如だと僕は思ふ。然るに此句は碧梧桐虛子選の子規句集に收錄されてないばかりでなく、俳壇にゐるほかの人も眞に此句を論じたことはない。子規を祖述すると云つても何を祖述するのか。僕にはどうも變に思はれる。また『子規なんかもう古いよ」などといつて妙な風な日本語でないやうな日本語を竝べて納まつてゐるのは僕にはどうも變に思はれる。(大正五年十一月廿九日夜。石楠のために) 』(国立国会図書館デジタルコレクション『童馬漫語新版 (アララギ叢書 ; 7)』より)

このように斎藤茂吉が大正5年には、この句を高く評価しているのにもかかわらず、前述したように高浜虚子は昭和16年発行の岩波文庫『子規句集』に「鶏頭の十四五本もありぬべし」を採用しませんでした。

これについて、山本健吉は『現代俳句上』(角川書店刊)の中で「頑迷な拒否である」と書いています。

「鶏頭の十四五本もありぬべし」(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑬)_c0187004_20444086.jpg

 この中では、この俳句についての評価の経緯も書いてあります。そこで、少し長くなりますが、その部分も含めて紹介します。

「 鶏頭の十四五本もありぬべし

およそ子規の俳句でこの句ぐらい論議の対象となった作品はほかにないのである。これは明治三十三年、子規庵における病床の句であって、当時の俳人たちには簡単に見過ごされていたのであった。虚子・碧梧桐など弟子たちによって編へん纂さんされた当時の子規句集にも、この句は除外されていた。

おそらく作者の子規にすらこの句が秀句であるという意識はなかったので、勢い彼の病床を訪れる俳句仲間の間で話題にのぼることもなかった句なのであろう。

この句の真価の最初の発見者は、子規門の中でも繊細の精神の所有者である歌人長塚節である。『この句がわかる俳人は今はいまい』などと茂吉に言ったという。そしてこの句の真価を世人に認識せしめたのは茂吉の『童馬漫語』であった。一方、虚子が新たに編纂した岩波文庫版『子規句集』(昭和十六年刊)には、ニ千三百六句も選んだ中に、相変わらずこの句がはいっていない。驚くべき頑迷(がんめい)な拒否である。」

山本健吉の『現代俳句』を読むと「今日にいたるまで、この句ほど評価の一定しない句も珍しい。」そうで、この句は、子規の代表句だとばかり思っていたので意外な感じがしました。 

さらに、この句の評価をめぐる「鶏頭論争」と呼ばれる論争もあるそうです。ご興味のある方はお調べください。


なお、鶏頭がどうして子規庵に植えられたかについて子規自身は「松蘿玉液」の中の「朝顔(明治29921日)」の中で次のように語っています。

「某の女の童のたはむれに鶏頭植えてんとて夏の頃苗を持ち来りてかたばかりに土かぶせたるが、今は痩せながら高くのびて小枝多く出たるもものうしや。」(国立国会図書館デジタルコレクション「正岡子規全集第1巻」より)

 これによれば、女の子が鶏頭の苗を持ってきて遊び半分で植えたのが始りだったようです。鶏頭は一年草ですが、種子がこぼれて、翌年また鶏頭が生えてきたのかもしれません。それを繰り返して子規庵の鶏頭も増えていたのかもしれません。



# by wheatbaku | 2024-12-08 18:50 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
子規庵のガラス障子(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑫)

子規庵のガラス障子(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑫)

最近、多忙のため、スペシャルドラマ「坂の上の雲」10回以降を視ることができず、今週まとめて3回分をようやくを視ることができました。

この3回では、秋山真之がアメリカに、そして、広瀬武夫がロシアに留学した話でした。そして、正岡子規は子規庵で近づいてくる死の恐怖と戦いながら俳句と短歌の革新に精力を注ぐ様子が描かれていました。

 連続して見ていたため、正岡子規の住まい「子規庵」に変化があるのがわかりました。10回では部屋が障子でしたが、11回ではガラス障子となっていました。

 下写真は第10回で子規が秋山真之から送られた毛布を肩に巻いて母八重と会話をしている場面ですが、うしろが障子です。

子規庵のガラス障子(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑫)_c0187004_22424238.jpg

11回の真之が帰国して子規を訪ねてきた場面ですが、後ろがガラス障子となっています。

子規庵のガラス障子(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑫)_c0187004_22424396.jpg

 子規の病室がガラス障子になったことについては、岩波文庫『評伝正岡子規』(柴田宵曲著)と『正岡子規伝-わが心世にし残らば』(復本一郎著)に書かれていました。

 これによれば、子規庵がガラス障子になったのは明治32年のことです。ガラス障子にしてくれたのは、高浜虚子でした。

 明治321211日付けの高浜虚子宛の子規の封書で次のように書かれています。

「硝子窓のききめ已(すで)に昨夜よりあらはれ非常に暖く候。今日は、終日自らガラスを拭くなど大機嫌に御座候。菅笠を被って机に向うなど、近来になき活発さにて、為に昼の内に原稿を書き申し候。十二月十一日 」(国立国会図書館デジタルコレクション『正岡子規全集』第五巻P186より)

 子規は、自分でガラスを拭いたり、菅笠をかぶって机に向かうなどしてガラス窓になったことを非常に喜んでいます。

 また、子規はガラス障子が入れられたことを、ロンドンに留学中の夏目漱石にも1217日付の手紙の中で知らせています。

「暖炉の事ありがたく候。 先日、 ホトトギスにて燈炉(石油コンロ)というを買てもらい、 かつ病室の南側をガラス障子に致しもらい候。 これにて暖気は非常に違い申し候。 殊に昼間日光をあびるのが何よりの愉快に御坐候。こんな訳ならば二、三年も前にやったらよかったと存候。 併シ何事も時機が来ねば出来ぬ事と相見え候。」(国立国会図書館デジタルコレクション『正岡子規全集』第五巻P187より)

なお、燈炉とは石油ストーブのことで、明治32年当時の子規庵に石油ストーブがあったことに驚きました。

さらに子規は、明治33110日の「ホトトギス」に掲載された『新年雑記』には日常の大きな変化としてガラス障子のことを書いています。

「〇去年の正月と今年の正月と自分に格別違うたことも無いが、少し違うたのは、からだの余計に弱ったと思うことと、元日の蜜柑の喰いようが少かったことと、年賀のはがきが意外にたくさん来たことと、病室の南側をガラス障子にしたことと、くらいである。ガラス障子にしたのは寒気を防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果してあたたかい。果して見える。見えるも、見えるも、庭の松の木も見える、杉垣も見える、物干竿も見える、物干竿に足袋のぶらさげてあるのも見える、その下の枯菊、水仙、小松菜の二葉に霜の置いているのも見える、庭に出してある鳥籠も見える、籠の鳥が餌を喰うのも見える、そうして一寸尻をあげて糞するのも見える、雀が松の木をあちこちするのも見える、鶸(ヒワ)が四五羽つれだって枯木へ来たと思うと直にまたはらはらと飛んでしまうのも見える、鶯が一羽黙って垣根をあさりながらふいふいと飛びまわるのも見える、裏戸あけて水汲みに行くのも見える、向いの屋根も見える、上野の森も見える、凍ったような雲も見える、鳶の舞うているのも見える、四角な紙鳶と奴紙鳶と二つ揚っているのも見える、四角な紙鳶がめんくらって屋根の上に落ちたのも見える、それを下から引張るので紙鳶が鬼瓦に掛ってうなづいているのも見える。殊に雲の景色は今年つくづくと見た。山吹の枝に雪の積んだのが面白いということも今年知った。しかしこれらはガラス障子につきて畧予想したことであったが、その外に予想しない第三の利益があった。それは日光を浴びることである。真昼近き冬の日は六畳の室の奥までさしこむので、その中に寝ているのが暖いばかりでなく、非常に愉快になって終には起きて坐ってみるようになる。この時は病気という感じが全く消えてしまう。枕もとを見ると寒暖計は九十度(華氏)近くまで上って福寿草の蕾は一点の黄をあらわして来た。」

 これによると、ガラス障子の利点は、第一に寒さをしのげることであり、第二に外がよく見えることです。子規によれば、これらのことはガラス障子にする前に予想されたことですが、事前に予想していなかった日光浴ができるという第三の利点があるとしています。

 こうした利点のあるガラス障子を踏まえて、次のような句が詠まれています。

鳶見えて冬あたたかやガラス窓(明治32

   ガラス越に冬の日あたる病間哉(明治32

   ガラス窓に上野も見えて冬籠(明治32

 このガラス障子を贈ったのは高浜虚子です。高浜虚子は、『柿二つ』の「第十一回 ガラス障子」の中で、次のように書いています。ここに出て来る「K」とは高浜虚子のことで、「彼」とは正岡子規です。

「今年の冬の寒さが新に問題になった時、Kは、庭に面した南の障子をガラス障子に替へたら暖かだらうと言った。天気さへよければ一日日が当ってをるのであるから成程ガラス障子にしたら暖かだらうと彼(子規のこと)も考へた。

 此病室の凡ての物に不似合な手荒な物音をさせて居た建具屋が四枚の新しいガラス障子を嵌めて帰って行ったのは十二月の初めであった。

今迄障子を開けねば見えなかった上野の山の枯木立も、草花の枯れて突立ってゐる冬枯の小庭も手に取るやうに見えた。暖かい日光は予想以上に深く射し込んで来て、病床に横はつたままで日光浴が出来た。

 彼は蒲団をガラス障子の近処迄引張らせて、其蒲団の上に起上って、ガラスの汚れたのを拭き始めた。

『そんな事をおして又熱でも出ると大変ぞな。』と老いたる母親は心配した。

 彼はかまはずガラスを拭いた。余り日がよく当るので彼は少し上気せて来た。壮健な時の楽しかつた旅行の記念に何年か病室の柱に吊して置いた菅笠を取らせて被った。此珍らしい機嫌はいつも曇ってゐる此一家内の空気を晴々とした。親子三人揃った笑声が暫くの問聞えた。(中略)ガラス障子が病室に出来て、今迄に覚えない暖さを覚えるにつけて、彼は只此愉快を快喫して居るに忍びなかった。彼は遂に菅笠を被った儘で机に凭(もた)れたのであった。」

 高浜虚子の『柿二つ』は小説ということとなっていますが、子規の感情部分を除いて、ほぼ事実なのでしょう。

 なお、秋山真之が、アメリカに留学した後英国駐在を命じられ、その英国から帰国したのが、明治33年8月ですので、真之が子規庵を訪ねた時には、ガラス障子になっていました。

下写真は、復元された現在の子規庵の子規の部屋です。当然のことながらガラス障子になっていました。

子規庵のガラス障子(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑫)_c0187004_23060214.jpg



# by wheatbaku | 2024-12-05 23:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
秋山真之、正岡子規を見舞う(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑪)

秋山真之、正岡子規を見舞う(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑪)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回で、秋山真之が正岡子規を見舞う場面が2回描かれていました。最初は、松山に帰って愚陀仏庵で療養している子規を訪ねていました。2回目は、真之が米国に留学することになりしばしの別れになるため、根岸の子規庵を訪ねていました。

 秋山真之、正岡子規のそれぞれの評伝類で調べましたが、評伝類には2度にわたるお見舞いについて書いてあるものはありませんでした。

 しかし、明治3871日発行の『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』に、高浜虚子が書いた「正岡子規と秋山参謀」という一文があり、それに次のように書かれていました。(*ただし、文中の①②③は、原文にはありません。(**『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。)

「①日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、威海衛攻撃の時幾人かの決死隊を組織して防材を乗りこえてどうとかする事になって居ったが、或事情の為め決行が出来なかった。残念をした、と〔真之が〕話して居った、と〔子規が〕いわれた。(中略) その後、②アメリカに留学せられた事、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られた事、(この布団は子規君の臨終迄着用せられたもの)大分ハイカラにうつって居る写真を送って来られた事、留学中大尉から少佐になられた事などを飛び飛びに記憶して居る。③も一つその留学前に、ある席上で正岡はどうして居るぞな、と聞かれ、この頃は俳句を専門にやって居るのよと、というと、そうかな、はじめはたしか小説家になるようにいうととったが、そんなに俳句の方でえらくなっとるのかな、兎に角えらいわい、といわれた事を記憶して居る。」

 この中で、①に書かれている威海衛の戦いでの決死隊の話は、松山の愚陀仏庵へ見舞いに行った時の話と思われます。原作「坂の上の雲」でも、決死隊=白襷隊の話が触れられています。

②の真之が米国から毛布を送ったことは、次回予告編の場面に出ていましたので次回に描かれることと思います。

そして➂の部分は、真之が渡米する際に開催された県人会の送別会でのできごとだと思います。ドラマでは、真之が子規に別れを言う場面で「県人会での送別会」の話が出てきていました。

 さて、松山で療養中の子規を真之が見舞いに行ったことは、評伝類では確認とれませんでしたが、インタネットで検索してみると、「松山市公式観光WEBサイト」の中の「きどや旅館跡」の紹介の中で、真之が子規を見舞いに行った際に泊まった「きどや」という旅館が紹介してあります。この「きどや」は夏目漱石も松山着任の際に宿泊した旅館とのことです。下記リンクを参照してください。

真之がアメリカに留学する前、いつ子規を見舞ったかについて評伝類には書かれていませんでした。しかし、子規は、「送秋山真之米国行(あきやまさねゆきの米国行くを送る)」という前書をつけて次の句を詠んでいますので、真之が子規を訪ねたのは事実だと思います。

君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く

この句について、原作『坂の上の雲』では、「真之はしばらくこの句があたまのすみにこびりついて離れなかった。思ふことありとはなんだろう。(自分の身にちがいない)とおもった。(中略)あの自負心のつよい男「は、真之のはなやかさをおもうにつけ、おそらくあの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。真之は、そうおもった。」と書かれています。

また、ホトトギス 昭和1912月号で高浜虚子は次のように解釈しています。

「その人(秋山真之のこと)はだんだん出世して海軍士官として米国へ行くことになり、子規は望を抱きながら、病の為に動くことも出来ない體(からだ)である。思えば感慨無量である。何気なく談笑して別れたのであるが、後ち一人蚊帳の中にあって泣くという句である。(後略)」

 司馬遼太郎も高浜虚子も同じように感じたようです。



# by wheatbaku | 2024-11-16 21:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
正岡子規、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を詠む(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑩)

正岡子規、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を詠む(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑩)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回の冒頭部分で正岡子規が喀血後、松山で療養したことが描かれていました。

 正岡子規は、明治285月に日本に帰国しました。そして、23日に神戸に上陸しましたが、結核が悪化して、上陸すると同時に神戸病院に入院し、一時は命も危ぶまれました。

 京都から急遽やってきた高浜虚子、東京からやってきた母八重と河東碧梧桐の看病があって、7月には病状が良くなったので、723日に神戸病院を退院し須磨保養院に移り、そこで療養を続けました。

 その結果、だいぶ病状もよくなったので、8月下旬に故郷松山に帰りました。この里帰りが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」の中で妹律のセリフにあったように子規にとって最後の松山となりました。

 子規は、既に明治25年に母と妹を東京に呼び寄せていたため、松山には自宅は残っていませんでした。そこで、明治284月に松山中学に英語の教師として赴任していた大学時代の友人夏目漱石の下宿にころがりこみました。

 夏目漱石は、自分の下宿を「愚陀仏庵」と名づけていました。ドラマの中で、秋山真之が子規の住いを訪ねた最初の場面に、「愚陀仏庵」と書いた札が映されていました。こうしたところもNHKの芸の細かさが表れていると思いました。 ちなみに「愚陀仏」とは夏目漱石が自分につけた俳号です。漱石の俳句に「愚陀仏は主人の名あり冬籠(ふゆごもり)」という一句があります。

 漱石は、もともと「愚陀仏庵」の1階に住んでいたようですが、子規が来ると自分は2階に1階をあけて子規が住めるようにしたそうです。ここで子規は起居しましたが、そのころ、松山では俳句の気運が盛り上がり、俳句好きな人々が、「愚陀仏庵」に集まり、大変にぎやかだったようです。漱石も、その仲間の中に加わって俳句を詠んでいました。

 なお、「愚陀仏庵」は、松山に復元されていましたが、2010712日の豪雨による大規模な土砂崩れにより全壊してしまいました。その後、復元の話もあるようですが、未だ復元されていないようです。

 子規は、松山で2ヶ月余り過ごした後、東京に帰ることとなり、1019日に松山を発ちました。そして、須磨まで来たところ、腰が痛みだし、ついに大阪でしばらく滞在することにしました。子規は、当初は、あまり重大視しせず、リウマチ程度と考えていたようです。しかし、これが晩年の子規を苦しめた脊椎カリエスの発症でした。子規を苦しめたカリエスは、結核菌が脊椎(背骨)に運ばれて発症する病気です。この間の事情を河東碧梧桐への手紙で次のように書いています。

「小生も大分よろしくなり候故、あづまの秋もこひしく、須磨迄出稼(でかけ)候処、リウマチにや、左の腰骨いたんで歩行困難に相成候。当地にては全く動けぬ程なりしを、服薬の効によりて今日は大分よく相成候。明日は少しはあるき得(え)べきかと楽(たのし)み居(をり)候。今度は是非奈良見物と心掛候故、あるけねば汽車にて外形だけでも見るつもり。故に明日、明後日の中(うち)には奈良へ行き、それより帰京可致(いたすべく)候。」

 そして、数日、留まっていると、腰の痛みも和らいだため、奈良に向かいました。

 そして、この旅行の中であの有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだと言われています。

 みんなが知っている有名な俳句を挙げろと言われたら、多くの人がこの俳句を挙げるでしょう。そして、多くの人は、子規は、この俳句を法隆寺で詠んだと思っていると思います。しかし、「この句は法隆寺で詠んだ句ではない」という説がかなり有力なようです。

 子規は、1026日(松井利彦著『正岡子規』桜楓社刊による)から3日間ほど奈良の対山楼(角定)という老舗の旅館に泊まりました。

 そこで、柿を見つけて下女に柿を所望しました。その時の様子を子規は『くだもの』という作品の中に詳細に書いています。(詳細は後記参照)

 下女は早速大量の柿を持ってきて皮をむいてくれました。その柿を食べていると鐘が一つ鳴りました。そこで、子規がどこの鐘かと尋ねると東大寺の大釣鐘の初夜(午後8時頃)の鐘とのことでした。

 子規自身が、このように書いていることもあって、子規が聞いたのは法隆寺の鐘ではなく東大寺の鐘であるという説が、次のように多くの書物に書かれています。

「子規はそこ(奈良の宿屋対山楼)で名物の御所柿を食べながら東大寺の鐘をきいた。柿と鐘の組合せはその時子規の心を支配し、翌日、人力車で法隆寺に赴き、東大寺よりも法隆寺の方がふさわしいと感じてこの句を成した。」松井利彦著「正岡子規」p135

 「この句は東大寺でもよかったが、あえて当時は東大寺よりはるかに無名であった、法隆寺とされたのである。」井上泰至著ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規』p102

 こうした説を受けたのだと思いますが、末延芳晴氏は『正岡子規、従軍す』p1112で「(この句は)法隆寺を訪れたさいに読んだとされている。しかし、事実は、どうもちがうようで、法隆寺というより東大寺で鐘の音を聞いたというのが正しいらしい。(中略)それ(東大寺の鐘が聞こえてきたこと)を『鐘が鳴るなり法隆寺』としたのは、その時聞いた鐘の音と、そのあと法隆寺を訪れたときの印象(もしかしたら鐘の音も聞いたかもしれない)が、子規の頭の中でうまく交響しあったので、この句が詠まれたということらしい。」と書いています。

 なお、坪内稔典氏は「正岡子規 言葉と生きる」p122に「『柿くえば』は『法隆寺の茶店に憩びて』と前書きをつけて松山の新聞『海南新聞』(明治28118)に載せたが、話題になることはほとんどなかった。ちなみに、この新聞の96日号には漱石の句、『鐘つけば銀杏ちるなり建長寺』が載っている。私見では、嗽石のこの句が子規の頭のどこかにあり、この句が媒介になって『柿くえば』が出来たと思われる。」と書いています。

 

 ところで、子規は柿が大変好きだったようです。

 夏目漱石は『三四郎』の中で、三四郎が上京する汽車に乗り合わせた人物に「子規は果物が大変好きだった。且いくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似(まね)はできない。」と語らせています。

 子規自身、明治30年に「我死にし後は」と前書きをつけて、「柿食ヒの 俳句好みしと 伝ふべし」という俳句を作っています。(坪内稔典著『正岡子規 言葉と生きる』より) 

また、子規が亡くなる前年には、「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」という俳句を作っています。子規が亡くなったのは、柿の出回る時季より早い9月19日でしたので、本当に最後の柿となりました。(藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より)

 そのため、有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」のほかにも多くの柿の俳句を作っているようです。その中からいくつか紹介します。

〈藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より〉

 三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ

 樽柿を 握るところを 写生かな

〈松井利彦著「正岡子規」より〉

 つりかねという柿をもらひて 

 つり鐘の 蔕(へた)のところが 渋かりき

 愚案より柿をおくられて 

 御仏に 供へあまりの 柿十五

 三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ

 風呂敷を ほどけば柿の ころげけり


*参考*

『くだもの』(「国立国会図書館デジタルコレクション『正岡子規全集 第2巻』改造社刊p129」より転載。)

○御所柿を食いし事 明治28年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病をおして出掛けて行た。3日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢(どんぶりばち)に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は16.7位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというて尚柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋さびしそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。(明治343月)



# by wheatbaku | 2024-11-12 22:15 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
  

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