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名古屋城本丸御殿は様々な格式の天井を見ることができる(名古屋城本丸御殿⑤)

名古屋城本丸御殿は様々な格式の天井を見ることができる(名古屋城本丸御殿⑤)

名古屋城本丸御殿は、主に表書院、対面所、上洛殿で構成されていますが、それぞれの部屋に格式があります。それが明確にわかるのが天井です。名古屋城本丸御殿では、さまざまな格式の天井を一堂に見ることができて、天井の博物館といっていいほどです。ぜひ、各部屋では天井を見上げてみてください。

天井の様式には、大きくわけて「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」と「格天井(ごうてんじょう)」がありますので、まず、その違いを説明します。

「竿縁天井(さおぶちてんじょう)」

竿という細い横木を30センチから60センチ間隔で渡し、その上に天井板を乗せる日本建築の様式で、現在でも住宅で広く使われている方法です。名古屋城本丸御殿では、玄関や大廊下で使用されています。(下写真は玄関の二之間の天井です。)

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「格天井(ごうてんじょう)」

格天井(ごうてんじょう)とは、木を45㎝~90㎝程度の升目に組んでそれに板が張られた天井のことを言います。竿縁天井(さおぶちてんじょう)りも格が重んじられる部屋に用いられます。

升目を作る部材のことを格縁(ごうぶち)と呼び、中に張られる板のことを鏡板(かがみいた)と言います。

格天井には、様々な種類があります。

格天井は格縁と呼ばれる太い格子を組んだものをいい、格縁の間にさらに小さい格子を組み入れたものは「小組格天井(こぐみごうてんじょう)」と呼ばれます。

天井の中央部分を周辺よりも高く仕上げたものは「折上(おりあげ)格天井」と呼ばれ、さらにもう一段上げたものは「二重折上(おりあげ)格天井」と呼ばれます。

さらに格が上がると、格縁に漆を塗ったり、金具をつけたりするなどの細工が追加されていきます。 名古屋城本丸御殿で一番格が高いとされる上洛殿の上段之間は、二重折上のうえ、漆、天井板絵、さらに蒔絵で仕上げられていて、工芸品のような天井となっています。


名古屋城本丸御殿では、様々な「格天井(ごうてんじょう)」が見られますので順に紹介します。

「小組格天井(こぐみごうてんじょう)」

格縁の間にさらに小さい格子を組み入れたものが「小組格天井(こぐみこうてんじょう)」と呼ばれます。名古屋城本丸御殿では表書院の一之間が小組格天井になっています。(下写真)

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「折上(おりあげ)小組格天井」

「折上(おりあげ)天井」とは、天井の中央を上方へ凹ませた様式で、「折上(おりあげ)小組格天井」は、小組格天井の中央を天井回り縁よりも高く、丸形に湾曲させて仕上げたもので、名古屋城本丸御殿では表書院の上段之間が折上げ小組格天井になっています。表書院上段之間の天井写真は取り忘れましたので下写真は名古屋城本丸御殿から借用しました。

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「黒漆塗折上小組格天井」

黒漆塗折上小組格天井は、天井の縁が高く丸形に湾曲させた折上小組格天井に漆塗りを施したものです。名古屋城本丸御殿では対面所の次の間が黒漆折上げ小組格天井になっています。(下写真)

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「黒漆塗二重折上小組格天井」

小組格天井の折上部分が二段高く仕上げられ、漆塗りが施された天井で、名古屋城本丸御殿では対面所の上段之間が黒漆折上小組格天井になっています。(下写真)

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私が撮った上段之間の写真では二重折上になっていることがわかりにくいかもしれませんので名古屋城本丸御殿から借用した写真をアップしておきます。

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対面所の上段之間と次之間は隣どうしで、天井を比較すると折上天井と二重折上天井との違いがよくわかりますので、現地に行ったら確認してみて下さい。


「黒漆塗金具付格天井」

黒漆塗金具付格天井は、格天井に黒漆を塗った上に飾金具がついている天井です。名古屋城本丸御殿では上洛殿三之間が黒漆塗金具付格天井になっていて、格子のひとつひとつに天板絵が嵌められています。(下写真)

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「黒漆塗折上金具付格天井」
 下写真は上洛殿の一之間の写真です。この天井の様式の名前は正式には確認できていませんが、上洛殿上段之間と比較すると一重の折上格天井であることと板絵が描かれていない点が異なります。そのため、「漆塗折上格天井」もしくは「漆塗折上金具付格天井」とでもいう洋式なのだろうと私なりに推測しています。
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「黒漆塗二重折上蒔絵付格天井」

本丸御殿内で一番格式の高い上洛殿の上段之間は、二重折上で漆、天井板絵、さらに蒔絵で仕上げられ工芸品のような天井となっていますが、上洛殿の上段之間の天井が「黒漆塗二重折上蒔絵付格天井」と呼ばれています。

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 名古屋城本丸御殿のそれぞれの部屋の天井の様式については「本丸御殿音声ガイド」の中で詳しく説明されています。音声ガイドを借りて聞くとよくわかりますのでお勧めです。100円で借りることができます。




# by wheatbaku | 2024-07-07 11:00 | 城下町
本丸御殿上洛殿は家光上洛のために増築された(名古屋城本丸御殿④)

本丸御殿上洛殿は家光上洛のために増築された(名古屋城本丸御殿④)

 本丸御殿の最奥部にあるのが上洛殿です。この建物は、3代将軍徳川家光が上洛する際の宿泊施設として増築されました。徳川家光は、3回上洛しています。最初は、元和9年(1623)、将軍宣下を受けるため上洛しました。次いで寛永3年(16267月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛します。そして、寛永11(1634)に上洛しました。これ以降、  14代将軍家茂が上洛するまで将軍の上洛はありませんでした、この三度目の上洛の際、増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」です。家光は74日に名古屋に到着し名古屋城に2泊し、その後は大垣(岐阜)から中山道経由で京に向かっています。

 上洛殿は、上段之間、一之間、二之間、松之間、納戸之間の六部屋からなっていて、上段之間は15畳、一之間は18畳、二之間は22畳、松之間は20畳、納戸之間は10畳で、合計85畳の広さがあります。

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上洛殿は、家光の上洛の際の宿泊所として増築された建物ですので、室内の装飾は細部まで贅の限りが尽くされています。

 見学順路は、松之間から始まりますが、松之間は戸が閉められていて見学できませんでした。上洛殿の廊下は対面通行となっていて、三之間、二之間を眺めつつ上段之間まで進み、そこから、上段之間⇒一之間⇒三之間と見学するようになっています。納戸は公開されていませんでした。

 ここでは、見学順路に沿ってご案内します。

 上段之間は、家光が対面した部屋です。床の間・違い棚・帳台構(ちょうだいがまえ)・付書院が設けられた書院造りの部屋となっています。下写真は「名古屋城本丸御殿」から借用したものです。

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 この部屋に描かれている絵は狩野探幽によって描かれた「帝鑑図(ていかんず)」です。帝鑑図は、東側は帝鑑図(不用利口)、西側は帝鑑図(高士渡橋)、南側は帝鑑図(露台惜費)と呼ばれています。床の間に描かれているのは帝鑑図(遺倖謝相)つまり「まじめな家臣の意見を聞き入れ怠惰な寵臣を罰する話」が描かれています。

 本丸御殿には、帳台構が三つあります。表書院、対面所、上洛殿にそれぞれありますが、表書院、対面所の帳台構は扉があきませんが、上洛殿の帳台構は中央の二つの襖が開いて、その奥にある納戸とつながっています。家光が上洛して本丸御殿に宿泊した際には上洛殿の納戸が家光の寝所になったそうです。この帳台構に描かれている絵は帝鑑図(不用利口)と呼ばれています。(下写真)。「不用利口図」は,饒舌な者を重用しようとした漢の文帝を家臣が諫めたという話だそうです。

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一之間も帝鑑図で飾られています。北側(上段之間との境)の絵は帝鑑図(明弁詐書)と呼ばれていて、東側の絵は帝鑑図(褒奨守令)、南側は帝鑑図(高士)、西側は帝鑑図(蒲輪徴賢)と呼ばれています。下写真は東側の襖絵で帝鑑図(褒奨守令)です。「褒奨守令」は優れた地方官を惜しみなく厚遇する話だそうです。

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二之間は、「琴棋書画図(きんきしょがず)」の襖絵により飾られています。(下写真)琴棋書画図とは、中国で、文人が身につけるべきものとされた琴と碁と書と画の四芸を描いたもので、室町時代以後、掛け物・襖絵・屏風絵などに盛んに描かれました。

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三之間の四方には、春夏秋冬を表す花鳥図が描かれています。北側には春を表す「雪中梅竹鳥図」、西側には夏を表す「芦鷺瀑辺松樹図」、南側には秋を表す「柳鷺図」、東側には冬を表す「雪中竹林鳩雀図」が描かれています。下写真正面が「雪中梅竹鳥図」です。

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 この中で、「雪中梅竹鳥図」は狩野探幽の傑作とされています。下写真は拡大したものです。

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# by wheatbaku | 2024-06-29 21:58 | 城下町
本丸御殿の対面所では徳川義直の婚儀が行われた(名古屋城本丸御殿➂)

本丸御殿の対面所では徳川義直の婚儀が行われた(名古屋城本丸御殿➂)

名古屋城本丸御殿のご案内の3回目は「対面所」です。「対面所」は藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席のために利用された建物です。

対面所は、上段之間、次之間、納戸、納戸二之間の四部屋からなっています。それぞれの部屋の広さは上段之間が18畳、次之間が18畳、納戸一之間が24畳、納戸二之間が24畳あり、合計で84畳あります。

下写真が対面所の各部屋の配置図ですが、見学順路は、納戸二之間⇒次之間⇒上段之間⇒鷺之廊下となっていて、納戸一之間は納戸二之間から遠くに見るようになっています。

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 見学順路の最初に見ることができるのが納戸二之間です。納戸は、現代の住宅では、あまり使わない物を収納しておくための部屋つまり物置を納戸と呼んでいますが、江戸時代には、対面のために上段之間に出る前の控えの間でした。藩主が控えていた部屋が納戸一之間で、身内や親しい家臣が控える部屋を納戸二之間でした。

 下写真は納戸二之間から撮った写真ですが、手前側が二之間です。奥に見える部屋が一之間です。描かれているのは「山水花鳥図」です。

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 次之間には風景が描かれていますが、その風景は藩主徳川義直の正室春姫の故郷である和歌山の風景です。

 尾張藩主徳川義直は、和歌山藩前藩主浅野幸長の次女春姫を正室に迎えましたが、慶長20年(1615412日に、二人の婚儀が本丸御殿の対面所で催されました。

 ところで、和歌山藩というと紀州徳川家を思い浮かべる人が多いと思いますが、慶長20年(1615)当時は、浅野長晟(ながあきら)が藩主でした。浅野幸長(よしなが)は、浅野長政の嫡男で、関ケ原の戦いで徳川家康に味方した功績により和歌山に封じられましたが慶長18年に亡くなり、弟の長晟(ながあきら)が跡を継いでいました。元和5年(1619)に福島正則が改易された際に、浅野長晟が広島に移封され、その後に駿府藩主徳川頼宣(家康の十男)が和歌山に移封され、紀州徳川家と呼ばれました。

 慶長20年の5月には大坂夏の陣が起こり、豊臣家は滅亡しますが、『駿府記』によれば、徳川家康は4月10日は名古屋に到着しています。そして、徳川家康は、二人の婚儀の後も駿府に戻らず、15日に名古屋を出発し京都に向かいました。なお、二人の婚儀には豊臣秀頼から刀や小袖が贈られ、その際の書状が徳川美術館に残されています。

 現在、名古屋市では、この義直と春姫の婚儀にちなんで、春に「尾張徳川春姫まつり」が開催されています。

 下写真が次之間です。正面に船が描かれていますが、これは和歌山の名勝和歌の浦を描いたものだそうです。なお、写真の左手が一之間です。

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 上段之間には床の間、違い棚、帳台構(ちょうだいがまえ)がある書院造りの部屋となっています。上段之間に描かれている絵は京都の風景とのことで、床の間に描かれているのは京都の愛宕山とのことです。

 下写真の右手が床の間、その奥に違い棚、正面が帳台構です。

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 下写真が違い棚です。

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 下写真が帳台構の写真です。描かれているのは『加茂競馬(かものくらべうま)』とのことです。帳台構の裏側が納戸一之間となっています。

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 対面所を見終わると鷺之廊下(さぎのろうか)となります。鷺之廊下(さぎのろうか)は、対面所と上洛殿を結ぶ廊下で、寛永11年(1634)に上洛殿とともに増築されました。下写真が鷺之廊下ですが、鷺之廊下という名前の通り、廊下の壁には鷺の絵が描かれています。

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# by wheatbaku | 2024-06-22 22:07 | 城下町
本丸御殿の表書院は藩主が客と対面する場所(名古屋城本丸御殿②)

本丸御殿の表書院は藩主が客と対面する場所(名古屋城本丸御殿②)

 今回は名古屋城本丸御殿のご案内の2回目です。本丸御殿で配布されていた「名古屋城本丸御殿」のリーフレットに記載されていたの内部の平面図は次のようになっています。

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これを見ると「中之口部屋」、「玄関」、「表御殿」、「対面所」、「上洛殿」、「湯殿書院」、「黒木書院」などがあります。このうち、「湯殿書院」と「黒木書院」は本丸御殿内部から行くことはできなくて、一旦外から回って「湯殿書院」の南入口にから入ることなっています。今回、私は時間がなかったため「湯殿書院」と「黒木書院」は見学しませんでした。

「中之口部屋」は、来場者の受け入れ場所で、靴箱やコインロッカーなどがあるスペースで見るべきものはありません。下写真が「中之口部屋」の部分に設けられた御殿の入り口です。

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「中之口部屋」で見学の準備を整えた後、「玄関」⇒「表書院」⇒「鷺之廊下」⇒「上洛殿」⇒「梅之間」⇒「上御膳所」⇒「下御膳所」の順で見学することとなっています。

本丸御殿見学のメインは、「玄関」「表書院」「対面所」「上洛殿」です。「玄関」は、本丸御殿を訪れた人がまず通され、対面を待つ場所でした。「表書院」は、正式な謁見に用いられた本丸御殿内で一番大きな一画です。「対面所」は、藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられた部分です。「上洛殿」は、寛永11(1634)3代将軍家光の上洛に合わせて増築された建物です。

 これらすべてを1回で紹介すると長くなるので、今回は、「玄関」と「表御殿」だけをご案内します。

 玄関は、普通の屋敷の玄関と異なり、18畳ある一之間と28畳ある二之間の2部屋からなっている広いスペースです。四周の壁や襖には、竹林と勇猛な虎や豹などが描かれているため通称「虎之間」と呼ばれました。江戸時代には、豹は雌の虎だと考えられていたそうですので、「竹林豹虎図」は竹林で遊ぶ夫婦の虎を描いたようです。

 下写真は一之間です。正面の床の間に虎と豹が描かれていて、その右隣りには違棚もついています。

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 下写真は廊下からみた二之間です。上の写真の右手につながっています(つまり下写真の左手が一之間です)が、二之間には床や違い棚はありません。

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表書院は、上段之間 (15)・一之間(24畳半)・二之間(24畳半)・三之間(39)・納戸之間(24)の五部屋からなっています。江戸時代には大広間と呼ばれていたようです。

 上段之間は徳川義直が着座した部屋で最も奥にあります。順路としては三之間⇒二之間⇒一之間の順となっています。

 下写真が三之間です。正面の壁に描かれている動物は麝香猫(じゃこうねこ)だそうです。そこから「麝香猫の間」と呼ばれていました。

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 二之間には花鳥図が描かれています。下写真は、一之間側の襖絵で、「槙楓椿図」と呼ばれています。

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 下写真が一之間です。一之間に描かれている絵は、満開の桜の木の下に雉が描かれていて「桜花雉子図(おうかきじず)」と言われています。奥に写っている部屋は上段之間です。

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 上段之間は、藩主が対面する部屋ですので豪華に造られています。上段之間は、床之間、付書院、帳台構(ちょうだいがまえ)が造られた典型的な書院造りとなっていいます。下写真、手前が付書院、中央が床の間、奥が帳台構となっています。床の間には大きな松が描かれています。

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 下写真が帳台構(ちょうだいがまえ)です。帳台構(ちょうだいがまえ)とは、辞書によると「書院造りの上段の間にあり、多くは床の間の向かって右側に設けるもの。敷居を一段高く、鴨居を低くし、襖は中央から左右に引きわけるようにし、その引き手には大きな緋総(ひぶさ)を下げる。寝殿造りの寝所の入り口が装飾化したもの。」と書かれています。帳台構には、時には武者を隠しておき、主人を護る機能もあったため、「武者隠し」とも呼ばれています。

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# by wheatbaku | 2024-06-16 13:30 | 城下町
名古屋城本丸御殿は寛永期の姿を鮮やかに復元したもの(名護屋城本丸御殿①)

名古屋城本丸御殿は寛永期の姿を鮮やかに復元したもの(名護屋城本丸御殿①)

 先月、所用があって名古屋に行ってきました。その際に、名古屋城を訪ねてきました。名古屋城は、もう何回も行ったことがありますが、今回は、名古屋城本丸御殿をじっくり見るためです。(下写真は本丸御殿脇から写した名古屋城天守)

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 名古屋城本丸御殿の歴史は、後で詳述しますが、江戸時代初期の寛永期に建築された本丸御殿は、昭和20年の戦災により焼失していました。しかし、焼失直前に襖絵の多くが避難されており、さらに戦前の資料が残されていました。そうした資料ももとにした復元計画が立てられ、工事の完成に応じて、2013年から2018年にかけて3期にわけて公開され、2018年に完全公開されました。そうして、四百年前の姿が鮮やかに復元されました。私は公開1年後の2019年に訪ねたことがありましたが、その時には時間がなく、じっくり見ることができず、残念に思い、いつかゆっくり見たいと思っていました。そこで、今回は、2時間ほど時間をかけてじっくりと見てきました。下写真は、本丸御殿玄関です。建物の奥に名古屋城天守が見えています。

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 名古屋城本丸御殿は、拝観料は無料です。そして、御殿内の写真はフリーですので、ここはと思う部分は思う存分写真をとることができます。

 本丸御殿は、まだ完成して間もないために、現時点では文化財としての価値はあまり高くないと思いますが、江戸時代の御殿建築がどのようなものかを知る点では、非常に貴重な建築物だと思います。

 本丸御殿では音声ガイドを100円で貸し出してくれます。私もこれを借りてみました。所要時間70分程度で非常に丁寧に解説してくれています。お陰でじっくり本丸御殿を堪能することができました。

これから御殿内を紹介していきますが、今回は写真を一杯撮ってきましたので一回では説明しきれません。そこで、これから34回にわたって紹介していこうと思います。第1回は、本丸御殿の歴史と本丸御殿迄の道順を紹介します。

《名古屋城本丸御殿の歴史》

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は四男の松平忠吉を清須城主とする尾張を治めさせました。しかし、慶長12年(1607)松平忠吉が病死したため、代わって家康九男の徳川義利(義直)が清須城主となりました。

慶長15年(1610)閏23月に、新たに名古屋城の築城に着手し、8月天守台石垣完成しました。

慶長17年(1612)天守閣や諸門、櫓などの作事が完成し、この頃、本丸御殿の建築が始まり、慶長20年(16152月、本丸御殿が完成しました。

元和2年(1616)名占屋城に入った義直が居住することになりました。しかし、元和6年(1620)には本丸御殿は将軍用とするため、名古屋城主徳川義直とその家族は本丸御殿から二之丸御殿に移住しました。それ以降、本丸御殿は将軍の宿舎と使用され、寛永3年(16262代将軍饉川秀忠が上洛に際し宿泊しました。

寛永10年(1633)には、3代将軍家光の上洛に備え、上洛殿などの建設に着手し、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が上済に際して宿泊しています。

 しかし、その後、将軍の上洛は途絶え、本丸御殿は使用されることはありませんでした。

 明治になって名古屋城は陸軍省が所管するところとなり、本丸御殿は司令部として使用されたこともありました。明治26年に名古屋離宮となり宮内省が管理することとなりました。そして、昭和6年に名古屋市に下賜されました。この間も本丸御殿は維持されていましたが、昭和20514日の名古屋空襲で焼失してしまいました。その後、長い間、本丸御殿跡として空間が広がっているだけでした。それが現在は見事に復元されています。

《本丸御殿までの道筋》

 名古屋駅から本丸御殿まで地下鉄を利用する場合、市営地下鉄名城線 「名古屋城駅」下車 7番出口より徒歩 5分です。

 名古屋城駅7番出口が最も近いです。下写真は7番出口の写真ですが、外観が城門の形となっています。

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 7番出口を出て名古屋城に向かうと地下鉄出口の前が「金シャチ通り」の東門エリア宗春ゾーンとなって飲食店が並んでいます。下写真

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 東門が入場券販売所となっています。本丸御殿は拝観料無料ですが、名古屋城内に入場するために500円が必要です。下写真が東門です。9時開門でした。開門前に到着したので、まだ門も閉まっています。

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 東門から本丸御殿まで5分弱の距離、城内を歩きます。途中には、史跡がありますので、私が注目したものを順に紹介しておきます。

『尾張勤王青葉松事件之遺跡碑』

 青葉松事件とは、明治維新の際に、尾張藩の佐幕派とみられた人々が、処罰された事件です。尾張藩の重臣渡辺新左衛門ら3名は佐幕派とみられ、慶応4年(1868)正月30日に、当時二之丸のうちの藩公御殿の南側の「向屋敷」に引き出され斬首されました。そして翌日21日は4名、23日には2名、25日には5名と次々に評定所に引き出され斬首されました。この事件は尾張藩内の勤王派による佐幕派の弾圧事件とされていますが、真相はハッキリしていないようです。

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『名古屋城東南隅櫓』

本丸の南東隅に位置し、1612(慶長17)頃に建造されたもので重要文化財に指定されています。別名、辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)とも呼ばれます。外観は二重櫓に見えますが、内部は3階になっているそうです。2階東面と南面には、三角形の小型の屋根である千鳥破風(ちどりはふ)と石落としがあり、三階東側の屋根は、弓なりになった軒唐破風(のきからはふ)となっています。

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『清正公石曳きの像』

東南隅櫓が見える場所に加藤清正の像が建てられています。築城の名人とされる加藤清正は、名古屋城の築造にあたって最も重要な天守台の石垣を担当し、熊本から約2万人の人足を連れてやってきて、3ヶ月ほどで工事を終えてしまったと伝えられているそうです。

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『本丸表二之門(南二之門)』

本丸に入る際に見えてくる高麗門は本丸表二之門です。本丸表二之門は昔は南二之門と呼ばれていました。当時の本丸大手の外門で、内門である表一之門と対になって桝形門をなっていました。

名古屋城本丸御殿は寛永期の姿を鮮やかに復元したもの(名護屋城本丸御殿①)_c0187004_21321080.jpg

本丸表一之門跡』

本丸表一之門は、外門である表二之門とともに枡形を形成していました。昔は南一之門と呼ばれていて、門は入母屋造・本瓦葺の二階建てだったようですが、昭和20年空襲により焼失したため、跡として残っているだけです。下写真は本丸御殿の玄関前から振り返って写した表一之門跡です。

名古屋城本丸御殿は寛永期の姿を鮮やかに復元したもの(名護屋城本丸御殿①)_c0187004_21322586.jpg

そして、表一之門跡をすぎると本丸御殿が見えてきます。下写真が本丸御殿玄関です。

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# by wheatbaku | 2024-06-08 21:25 | 城下町
  

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