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秋山真之、正岡子規を見舞う(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑪)

秋山真之、正岡子規を見舞う(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑪)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回で、秋山真之が正岡子規を見舞う場面が2回描かれていました。最初は、松山に帰って愚陀仏庵で療養している子規を訪ねていました。2回目は、真之が米国に留学することになりしばしの別れになるため、根岸の子規庵を訪ねていました。

 秋山真之、正岡子規のそれぞれの評伝類で調べましたが、評伝類には2度にわたるお見舞いについて書いてあるものはありませんでした。

 しかし、明治3871日発行の『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』に、高浜虚子が書いた「正岡子規と秋山参謀」という一文があり、それに次のように書かれていました。(*ただし、文中の①②③は、原文にはありません。(**『ホトトギス 臨時増刊(第8巻第10号)』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。)

「①日清戦争のすんだ時分、子規君の話に、秋山がこないだ来たが、威海衛攻撃の時幾人かの決死隊を組織して防材を乗りこえてどうとかする事になって居ったが、或事情の為め決行が出来なかった。残念をした、と〔真之が〕話して居った、と〔子規が〕いわれた。(中略) その後、②アメリカに留学せられた事、あちらから毛の這入った軽い絹布団を子規君に送られた事、(この布団は子規君の臨終迄着用せられたもの)大分ハイカラにうつって居る写真を送って来られた事、留学中大尉から少佐になられた事などを飛び飛びに記憶して居る。③も一つその留学前に、ある席上で正岡はどうして居るぞな、と聞かれ、この頃は俳句を専門にやって居るのよと、というと、そうかな、はじめはたしか小説家になるようにいうととったが、そんなに俳句の方でえらくなっとるのかな、兎に角えらいわい、といわれた事を記憶して居る。」

 この中で、①に書かれている威海衛の戦いでの決死隊の話は、松山の愚陀仏庵へ見舞いに行った時の話と思われます。原作「坂の上の雲」でも、決死隊=白襷隊の話が触れられています。

②の真之が米国から毛布を送ったことは、次回予告編の場面に出ていましたので次回に描かれることと思います。

そして➂の部分は、真之が渡米する際に開催された県人会の送別会でのできごとだと思います。ドラマでは、真之が子規に別れを言う場面で「県人会での送別会」の話が出てきていました。

 さて、松山で療養中の子規を真之が見舞いに行ったことは、評伝類では確認とれませんでしたが、インタネットで検索してみると、「松山市公式観光WEBサイト」の中の「きどや旅館跡」の紹介の中で、真之が子規を見舞いに行った際に泊まった「きどや」という旅館が紹介してあります。この「きどや」は夏目漱石も松山着任の際に宿泊した旅館とのことです。下記リンクを参照してください。

真之がアメリカに留学する前、いつ子規を見舞ったかについて評伝類には書かれていませんでした。しかし、子規は、「送秋山真之米国行(あきやまさねゆきの米国行くを送る)」という前書をつけて次の句を詠んでいますので、真之が子規を訪ねたのは事実だと思います。

君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く

この句について、原作『坂の上の雲』では、「真之はしばらくこの句があたまのすみにこびりついて離れなかった。思ふことありとはなんだろう。(自分の身にちがいない)とおもった。(中略)あの自負心のつよい男「は、真之のはなやかさをおもうにつけ、おそらくあの日、真之が去ったあと、おそらく『蚊帳に泣』いたのかもしれない。真之は、そうおもった。」と書かれています。

また、ホトトギス 昭和1912月号で高浜虚子は次のように解釈しています。

「その人(秋山真之のこと)はだんだん出世して海軍士官として米国へ行くことになり、子規は望を抱きながら、病の為に動くことも出来ない體(からだ)である。思えば感慨無量である。何気なく談笑して別れたのであるが、後ち一人蚊帳の中にあって泣くという句である。(後略)」

 司馬遼太郎も高浜虚子も同じように感じたようです。



# by wheatbaku | 2024-11-16 21:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
正岡子規、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を詠む(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑩)

正岡子規、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を詠む(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑩)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第9回の冒頭部分で正岡子規が喀血後、松山で療養したことが描かれていました。

 正岡子規は、明治285月に日本に帰国しました。そして、23日に神戸に上陸しましたが、結核が悪化して、上陸すると同時に神戸病院に入院し、一時は命も危ぶまれました。

 京都から急遽やってきた高浜虚子、東京からやってきた母八重と河東碧梧桐の看病があって、7月には病状が良くなったので、723日に神戸病院を退院し須磨保養院に移り、そこで療養を続けました。

 その結果、だいぶ病状もよくなったので、8月下旬に故郷松山に帰りました。この里帰りが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」の中で妹律のセリフにあったように子規にとって最後の松山となりました。

 子規は、既に明治25年に母と妹を東京に呼び寄せていたため、松山には自宅は残っていませんでした。そこで、明治284月に松山中学に英語の教師として赴任していた大学時代の友人夏目漱石の下宿にころがりこみました。

 夏目漱石は、自分の下宿を「愚陀仏庵」と名づけていました。ドラマの中で、秋山真之が子規の住いを訪ねた最初の場面に、「愚陀仏庵」と書いた札が映されていました。こうしたところもNHKの芸の細かさが表れていると思いました。 ちなみに「愚陀仏」とは夏目漱石が自分につけた俳号です。漱石の俳句に「愚陀仏は主人の名あり冬籠(ふゆごもり)」という一句があります。

 漱石は、もともと「愚陀仏庵」の1階に住んでいたようですが、子規が来ると自分は2階に1階をあけて子規が住めるようにしたそうです。ここで子規は起居しましたが、そのころ、松山では俳句の気運が盛り上がり、俳句好きな人々が、「愚陀仏庵」に集まり、大変にぎやかだったようです。漱石も、その仲間の中に加わって俳句を詠んでいました。

 なお、「愚陀仏庵」は、松山に復元されていましたが、2010712日の豪雨による大規模な土砂崩れにより全壊してしまいました。その後、復元の話もあるようですが、未だ復元されていないようです。

 子規は、松山で2ヶ月余り過ごした後、東京に帰ることとなり、1019日に松山を発ちました。そして、須磨まで来たところ、腰が痛みだし、ついに大阪でしばらく滞在することにしました。子規は、当初は、あまり重大視しせず、リウマチ程度と考えていたようです。しかし、これが晩年の子規を苦しめた脊椎カリエスの発症でした。子規を苦しめたカリエスは、結核菌が脊椎(背骨)に運ばれて発症する病気です。この間の事情を河東碧梧桐への手紙で次のように書いています。

「小生も大分よろしくなり候故、あづまの秋もこひしく、須磨迄出稼(でかけ)候処、リウマチにや、左の腰骨いたんで歩行困難に相成候。当地にては全く動けぬ程なりしを、服薬の効によりて今日は大分よく相成候。明日は少しはあるき得(え)べきかと楽(たのし)み居(をり)候。今度は是非奈良見物と心掛候故、あるけねば汽車にて外形だけでも見るつもり。故に明日、明後日の中(うち)には奈良へ行き、それより帰京可致(いたすべく)候。」

 そして、数日、留まっていると、腰の痛みも和らいだため、奈良に向かいました。

 そして、この旅行の中であの有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだと言われています。

 みんなが知っている有名な俳句を挙げろと言われたら、多くの人がこの俳句を挙げるでしょう。そして、多くの人は、子規は、この俳句を法隆寺で詠んだと思っていると思います。しかし、「この句は法隆寺で詠んだ句ではない」という説がかなり有力なようです。

 子規は、1026日(松井利彦著『正岡子規』桜楓社刊による)から3日間ほど奈良の対山楼(角定)という老舗の旅館に泊まりました。

 そこで、柿を見つけて下女に柿を所望しました。その時の様子を子規は『くだもの』という作品の中に詳細に書いています。(詳細は後記参照)

 下女は早速大量の柿を持ってきて皮をむいてくれました。その柿を食べていると鐘が一つ鳴りました。そこで、子規がどこの鐘かと尋ねると東大寺の大釣鐘の初夜(午後8時頃)の鐘とのことでした。

 子規自身が、このように書いていることもあって、子規が聞いたのは法隆寺の鐘ではなく東大寺の鐘であるという説が、次のように多くの書物に書かれています。

「子規はそこ(奈良の宿屋対山楼)で名物の御所柿を食べながら東大寺の鐘をきいた。柿と鐘の組合せはその時子規の心を支配し、翌日、人力車で法隆寺に赴き、東大寺よりも法隆寺の方がふさわしいと感じてこの句を成した。」松井利彦著「正岡子規」p135

 「この句は東大寺でもよかったが、あえて当時は東大寺よりはるかに無名であった、法隆寺とされたのである。」井上泰至著ミネルヴァ日本評伝選『正岡子規』p102

 こうした説を受けたのだと思いますが、末延芳晴氏は『正岡子規、従軍す』p1112で「(この句は)法隆寺を訪れたさいに読んだとされている。しかし、事実は、どうもちがうようで、法隆寺というより東大寺で鐘の音を聞いたというのが正しいらしい。(中略)それ(東大寺の鐘が聞こえてきたこと)を『鐘が鳴るなり法隆寺』としたのは、その時聞いた鐘の音と、そのあと法隆寺を訪れたときの印象(もしかしたら鐘の音も聞いたかもしれない)が、子規の頭の中でうまく交響しあったので、この句が詠まれたということらしい。」と書いています。

 なお、坪内稔典氏は「正岡子規 言葉と生きる」p122に「『柿くえば』は『法隆寺の茶店に憩びて』と前書きをつけて松山の新聞『海南新聞』(明治28118)に載せたが、話題になることはほとんどなかった。ちなみに、この新聞の96日号には漱石の句、『鐘つけば銀杏ちるなり建長寺』が載っている。私見では、嗽石のこの句が子規の頭のどこかにあり、この句が媒介になって『柿くえば』が出来たと思われる。」と書いています。

 

 ところで、子規は柿が大変好きだったようです。

 夏目漱石は『三四郎』の中で、三四郎が上京する汽車に乗り合わせた人物に「子規は果物が大変好きだった。且いくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似(まね)はできない。」と語らせています。

 子規自身、明治30年に「我死にし後は」と前書きをつけて、「柿食ヒの 俳句好みしと 伝ふべし」という俳句を作っています。(坪内稔典著『正岡子規 言葉と生きる』より) 

また、子規が亡くなる前年には、「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」という俳句を作っています。子規が亡くなったのは、柿の出回る時季より早い9月19日でしたので、本当に最後の柿となりました。(藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より)

 そのため、有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」のほかにも多くの柿の俳句を作っているようです。その中からいくつか紹介します。

〈藤田真一編『正岡子規と近代俳句』より〉

 三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ

 樽柿を 握るところを 写生かな

〈松井利彦著「正岡子規」より〉

 つりかねという柿をもらひて 

 つり鐘の 蔕(へた)のところが 渋かりき

 愚案より柿をおくられて 

 御仏に 供へあまりの 柿十五

 三千の 俳句を閲(かみ)し 柿二つ

 風呂敷を ほどけば柿の ころげけり


*参考*

『くだもの』(「国立国会図書館デジタルコレクション『正岡子規全集 第2巻』改造社刊p129」より転載。)

○御所柿を食いし事 明治28年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病をおして出掛けて行た。3日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢(どんぶりばち)に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は16.7位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというて尚柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐそこですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、そこの中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったかそこらの荒れたる木立の上を淋さびしそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのあそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。(明治343月)



# by wheatbaku | 2024-11-12 22:15 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
正岡子規、日清戦争に従軍する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑨)

正岡子規、日清戦争に従軍する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑨)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第8回は、正岡子規が日清戦争に従軍した様子、日清戦争に従軍した秋山真之の様子、秋山真之と東郷平八郎の再会が主な内容でした。その中で、今日は、正岡子規の従軍についてかいてみます。

かねて、従軍を希望していた子規は、明治282月、その望みが叶います。子規は、その喜びを次のように書いています。

「皆にとめられ候へども、雄飛の心難抑終に出発と定まり候。生来希有の快事にござ候。小生今までにて最も嬉しきもの

  初めて東京へ出発と定まりし時

  初めて従軍と定まりし時

の二度に候。」(同僚で出征中の五百木瓢亭あてた手紙、復本一郎著『正岡子規伝』より)

 これは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。

 ちなみに、その後は次のように続いています。

「此上に尚望むべき二事あり候。洋行と定まりし時、意中の人を得し時の喜びいかならむ。前者或は望むべし、後者は全く望みなし、遺憾々々、非風をして聞かしめば之れを何とか云はん呵々」(柴田宵曲著:岩波文庫『評伝正岡子規』p129より

 これを読むと、子規は海外渡航を希望していたし、結婚することも願っていたようです。しかし、残念ながら二つともかないませんでした。

子規は、33日、東京を発ち、6日に広島に着きました。しかし、広島では、軍から従軍許可が出るまで2週間ほど待たされました。

 子規は、小説『我が病』の中で、この間の出来事を箇条書きで13件の出来事をあげています。その中には「郷里伊予に行き二泊して帰り事」や「某伯のもとにて刀を賜りし事」などが挙げられています。

許可がおりるまでに、「郷里伊予に行き二泊して帰りし事」の通り、15日に松山に帰省し、父のお墓にお参りし、2泊してから17日に広島に帰りました。

 321日になって、待望の従軍許可がおりました。それから20日後の410日、子規は近衛師団付として宇品港を出発しました。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、子規が「大阪師団と一緒に行く」と言っていましたが、実際は近衛師団と一緒に従軍しています。

 近衛師団の師団長は、北白川宮能久親王でした。また、師団の副官として旧松山藩主の久松定謨(さだこと)が従軍していました。

 近衛師団長であった北白川宮能久親王は、最後の輪王寺宮で、戊辰戦争の際には、会津・米沢・仙台へと移り、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された人物です。そして、日清戦争終結後、北白川宮親王は、台湾割譲に反対する勢力を討伐するため、台湾に渡り、マラリヤに懸かり、戦病死すると悲劇的な最期を迎えます。

 子規は、「某伯のもとにて刀を賜りし事」と書いているように、従軍するにあたり旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領しました。そして、従軍中は、その刀を背中に背負って歩く姿がしばしば見られたようです。

 旧松山藩士は大勢いたのですが、従軍するにあたって旧藩主から刀を拝領できた旧藩士は数少なかったようです。こうした中で、子規が旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領できたのは、子規が近衛師団付で渡海することや子規の叔父加藤恒忠が久松定謨(さだこと)が渡仏中の御学友であったことなどが考慮された結果ではないかと思います。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を子規たちが兵隊とともに歩いている場面がありましたが、その時の子規が手にした鞄の上に刀らしきものがありました。それが旧藩主から拝領した刀という設定だったのではないでしょうか。もし、そうだとすれば、「さすがNHK!」ということになります。

413日は、遼東半島が見える所まで近づいてきましたが、翌々日まで上陸を許されず、ようやく15日に大連湾に面した柳樹屯に上陸しています。 

上陸後、スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を通過する際に住民への対応で曹長と衝突する場面があり、その後、子規が森林太郎(鷗外:以下森鷗外)から声をかけられ、森鷗外と親しく話をする場面がありました。

子規は日清戦争中に遼東半島南部の金州で森鷗外を訪問していますので、森鴎外との出会いは史実に沿った描写です。

森鷗外の「徂征日記」には54日と10日に子規の訪問があったことが記されているようです。一方、子規の「病床日誌」(結核が悪化して帰国早々神戸病院に入院した当時の記録)では、子規は毎日森鷗外を訪問したと書いています(*63日の記録)ので、子規は鷗外をしばしば訪問していたようです。森鷗外は、当時、第2軍(司令官大山巌大将)の兵站部軍医部長という要職でした。下写真は、明治32年当時の陸軍軍医姿の森鷗外です。

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         出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

なお、森鷗外は、明治25年に現在の「文京区立森鴎外記念館」の場所にあった屋敷『観潮楼』に転居していますので、日清戦争には、この屋敷から出征したことになります。

 あれほど熱望していた従軍ですが、1ヶ月もたたないうちに、子規は、帰国を決意します。『正岡子規、従軍す』(末延芳晴著)によれば、近衛師団の従軍記者に対する待遇があまりにも悪いので帰国を決意したようです。

 そして、帰国するため、514日、佐渡国丸に乗船し、柳樹屯を出発しました。2日間は何事もなく過ぎ、517日に、甲板にあがって(ふか)が泳いでいるのを見ようとした時、突然喀血しました。子規は『病』という作品の中で、次のように書いています。

「明治285月大連湾より帰りの船の中で、何だか労(つか)れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶(ふか)が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰(たん)が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子(はしご)を下りて来て、自分の行李(こうり)から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套(がいとう)のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。」

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、甲板で海に向かって大量の喀血をするように描かれていましたが、『病』を読むと、ドラマほど大量の血を吐いたようではなさそうです。

しかし、輸送船内での喀血であり、輸送船に医師がいるものの、薬はコレラ用の薬しかないため、子規は、窮屈な船内で横になって寝ているだけでした。まったく治療も受けられずにいたため、病状はますます悪化していきました。

 『病』のなかに次のように書いています。

「咯血(かっけつ)の度は一層烈(はげし)くなった。固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血は尽(ことごと)く呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。」

 そして、神戸について上陸した後、人力車で病院へ行こうとして歩き始めたものの、一歩も歩くことができず、同行の従軍記者に頼んで担架を手配してもらい、ようやく県立神戸病院に入院しました。そして、2か月ほど入院することになりました。一時は、命も危ぶまれましたが、京都から駆け付けた高浜虚子や東京から駆け付けた母八重と河東碧梧桐の看病の甲斐があって幸運にも一命をとりとめました。




# by wheatbaku | 2024-11-05 22:25 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
尾張藩中興の祖9代藩主徳川宗睦の墓(尾張徳川家④)

尾張藩中興の祖9代藩主徳川宗睦の墓(尾張徳川家④)

 名古屋の建中寺が尾張徳川家の菩提寺であることは再三このブログに書きました。その建中寺には、現在は、2代藩主徳川光友の墓碑だけが残されていること、そして、8代藩主徳川宗春の墓碑が名古屋市内の平和公園にあることを、これまで紹介してきました。

 実は、尾張藩藩主の墓碑がもう一つ現存しています。それが今日紹介する9代藩主徳川宗睦(むねちか)の墓碑です。宗睦の墓碑が残されているのは愛知県小牧市の小牧山です。

小牧山は、織田信長が築いた小牧山城があり、小牧長久手の戦いの際には徳川家康が本陣をおいた場所です。昨年、小牧長久手の古戦場を訪ねた際に、徳川宗睦のお墓をお参りしてきてありますので、今回、紹介します。下写真は小牧山山頂の小牧山歴史館です。

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徳川宗睦のお墓は小牧山歴史館に向かう大手道の途上にありました。下写真が公園内にあった地図ですが、その中心に徳川源明公墓碑と書いてあるのが、徳川宗睦のお墓です。

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下写真が徳川宗睦の墓碑ですが、墓碑には「亞相二品天祥院殿鋻譽峻徳源明公尊儀」と刻まれています。(下写真)

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小牧市教育委員会が設置した説明板には、菩提寺である建中寺にあったが昭和28年に行われた区画整理のため、移転を余儀なくされ、小牧山に移設されたと書いてあるだけで、徳川宗睦の墓碑が小牧山にある経緯については詳しく書かれていませんでした。

そこで、いろいろ調べたところ、インターネットで見ることのできる「『象山文庫』(小牧市立図書館所蔵)の伝写資料について」(著者山田久)の中に、愛知県小牧市の郷土史家津田応助が、名古屋市内の墓地を平和公園へ移転する際に、小牧山に徳川家の墓碑を保存したいと願い出たことにより、徳川宗睦の墓碑が小牧山にあるという故水谷盛光氏の話が紹介されています。

次に9代宗睦について紹介しますが、宗睦は、8代宗勝の次男として生まれ、宝暦11(1761)に家督を相続しましたので、まず父の8代宗勝について説明します。  

宗勝は、尾張徳川家のご連枝(分家)である川田久保家松平友著(ともあき) の長男として名古屋に生まれました。松平友著(ともあき)は尾張徳川家2代藩主光友の十一男として生まれ、川田久保家を起こしました。川田久保家は、牛込村川田久保(現在の新宿区河田町)に屋敷があったため、そう呼ばれました。

宗勝は、享保17年(1732)、一族の美濃国高須藩主松平義孝(よしたか)の養嗣子となり家督を相続し、義淳(よしあつ)となのりました。しかし、元文4年(17391月、宗家の尾張藩の7代藩主である従兄宗春が隠居謹慎を命ぜられたため宗家を相続し、8代藩主となりました。

襲封すると、宗春の寵臣星野織部たちを処罰し隠居減禄等とし、また、宗春が廃止した死刑を復活させる等幕府から処罰された「宗春色」を消すための施策を実施し、さらに、襲封後間もなくの元文43月に七カ年間の倹約令を発し、財政再建に注力し、治政後半には財政に余裕がでるまでになりました。そして、宝暦11(1761)622日、57歳で亡くなりました。

9代宗睦(むねちか)は享保18(1733)920日、宗勝の次男として江戸四谷藩邸に生まれました。寛保2(1742)に元服し、8代将軍吉宗から一字を賜り宗睦と名乗り、 宝暦11 (1761)に父宗勝が亡くなったため家督を相続しました。襲封後、先代を引き継いで藩政改革を行ない、農政改革、殖産興業を推進し、財政の窮乏回復のため藩札である米切手を発し、世禄制を復活させたりしました。さらに、儒学者細井平洲を起用し、天明3年(1783)、藩校明倫堂を創設し、細井平洲を初代総裁としました。こうした善政を敷いたことから、宗睦は「尾張藩中興の祖」といわれました。その治政は38年間という長いものでしたが、 寛政11 (1799)1220日、67歳で亡くなりました。しかし、既に世子治休が21歳で亡くなっており、その他の跡継候補も早世したため、11代将軍徳川家斉の弟一橋治国(一橋家)の長男斉朝を10代藩主として迎えました。

ところで、建中寺にあった藩主等の墓碑は全く残されていないものと思っていましたが、御住職のお話では、建中寺には藩主等の墓碑のうち3つの墓碑が残されているとのことでした。

それは、建中寺惣門脇の寺号標、三門脇の寺号標、本堂西側の「南無阿弥陀仏」標の三つです。

建中寺惣門脇の寺号標は惣門の左手に設置されています。「徳興山建中寺」と刻まれています。(下写真)

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三門脇の寺号標は「尾州家菩提所 徳興山崇仁院建中寺 尾州家二十代徳川義知書之」と刻まれています。(下写真)

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設置場所は三門の右手です。下写真の右手の大きな石碑が寺号標です。

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本堂西側の元墓碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれています。

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 これらの墓碑は、一旦、墓碑に刻まれていた法名をすべて削り取ったものを再利用しているため、誰の墓碑であったのかは不明とのことでした。




# by wheatbaku | 2024-11-02 22:30
7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③))

7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③)

 先月、名古屋に行った際に、尾張徳川家の菩提寺建中寺を訪ねたことは、以前、ブログに書きました。(下記ブログご参照)

 その時、名古屋市東区にある平和公園内に尾張藩7代藩主の徳川宗春のお墓がありますので、お参りしてきました。そこで、今日は、尾張藩7代藩主徳川宗春について書いてみます。 

 下写真が宗春の墓碑です。墓碑には贈亞相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士尊儀と刻まれています。

7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③))_c0187004_21582929.jpg

 まず、徳川宗春のお墓が建中寺でなく平和公園にある事情は次のような事情があります。 

徳川宗春は、亡くなった後、菩提寺の建中寺に埋葬されましたが、昭和20年に名古屋市が大空襲を受けた際、建中寺も、大きな被害を受け、歴代の霊廟の多くが焼失しました。宗春の墓石も焼夷弾の直撃を受けて墓石の一部が損傷しました。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が千種区の平和公園に移転することになりました。一方、建中寺の歴代藩主のお墓も改葬されることとなり、遺骸が火葬され、愛知県瀬戸市にある定光寺脇の徳川家納骨堂に納められました。この時に歴代藩主の墓碑も処分されましたが、宗春の墓碑は、例外的に平和公園内の建中寺墓地に移されることになりました。その結果、歴代藩主の墓碑のうち、宗春の墓碑だけが平和公園にあります。

 徳川宗春の墓碑の隣の説明板には次のような説明が書かれていました。

7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③))_c0187004_21582948.jpg

「尾張藩七代藩主 徳川宗春公 元禄九年~明和元年(16961764

八代将軍徳川吉宗公と同じ時代を行きた人物です。当時の徳川幕府が掲げた『質素倹約』という政策は必要としながらも、規制緩和により縮小されていた祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に努め、農民の収入を増やすなどして現在の名古屋の発展の礎を築きました。

『温知政要』(おんちせいよう)という書物に基本政策理念二十一箇条を著し、どの時代でも立派に通用する政策を唱えて実行した、先見の明のある殿様です。

その宗春公のお墓が第二次世界大戦のおり、名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け一部が損壊してしまいましたが、2010年7月8日、多くの市民のご協力により墓碑修復が完了しました。当時から月日を重ねた現代に至るまで、市民から大変愛される殿様だったことがうかがわれます。

文:南山大学教授 安田文吉」

 墓碑脇の説明板ではコンパクトに徳川宗春について解説してありますが、もう少し詳しく書いてみます。

 徳川宗春は、元禄9年(1696)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠(つななり)の二十男として名古屋で生まれ、幼名万五郎と呼ばれました。

父綱誠(つななり)は、尾張藩初代藩主徳川義直の嫡男光友と3代将軍徳川家光の長女千代姫の間に生れ、実際は次男でしたが、母が正室であり将軍の娘でしたので、綱誠(つななり)が尾張徳川家を継ぎました。 

なお、綱誠(つななり)は子だくさんで「名古屋市史 人物編」では二十二男、十八女の子供がいたとされています。宗春は、二十男ですので、晩年の子供ということになります。

宝永5年(1708)、兄で4代藩主の吉通から偏諱を受け、通春となのりました。吉道は、綱誠(つななり)の十男(九男とも)として元禄2年(1689)に生まれましたので、7歳年上ということになります。

正徳3年(17137月には兄吉通が亡くなります。さらに同じ年の10月には、吉通の跡を継ぎ5代藩主となった吉通の長男五郎太がわずか3歳でなくなっため、通春の兄通顕が継友と改名して6代藩主となりました。

享保14年(17295月に、尾張藩御連枝で梁川藩3代藩主の松平義真が亡くなり、梁川藩が無嗣断絶となりました。なお御連枝とは尾張藩宗家が断絶した時のために尾張藩2代藩主光友が分家独立させたもので、梁川藩松平家、高須藩松平家、川田窪松平家の三家がありました。

梁川藩松平家が無嗣断絶となったため、享保148月に、通春が徳川吉宗から改めて梁川藩3万石を与えられました。柳川藩松平家が再興されたことになります。なお、梁川藩主は江戸定府とされていましたので、通春は梁川に入ったことはなかったと思われます。

享保15年(173011月に兄継友が亡くなりました。39歳でしたが子供がいませんでした。そこで、梁川藩主松平通春が尾張藩を相続し7代当主徳川通春となりました。継友が亡くった際には、通春には兄二人(通温と義孝)がいましたが、2人とも健康でなかったため通春が7代藩主となったといいます。享保16年(1731)正月、家督御礼を言上した際に将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春と名乗るようになりました。

同じ年の3月、『温知政要』を著しました。『温知政要』は、藩主として初めて名古屋に入るにあたってまとめた政治理念などを全21ヵ条にまとめたもので、宗春の考えが具体的に語られています。『温知政要』の巻頭と巻末には、宗春の治政の根本を表す「慈」と「忍」の文字が大きく書かれています。

そして、4月、藩主として初めて名古屋に入りました。名古屋入府の際の宗春は、『ゆめのあと』によれば、浅黄の頭巾をかぶり、唐人笠風の鼈甲の丸笠で、黒い衣服と黒い足袋という奇抜な服装をして、馬に乗って入国したといいます。

名古屋東照宮の例祭は、継友の時代は規制された簡素なものでしたが、宗春が入国した年に開催された例祭は規制を緩和され元の華やかなものとなりました。さらに、芝居小屋が許可され、藩士の芝居見物も許可され、遊郭も許可されました。 

当時、将軍吉宗は享保の改革を推進し質素倹約・規制強化が徹底されており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていましたが、宗春は、それと全く逆を行く規制緩和政策を推進し、芝居小屋や遊郭等を許可するなどしたため、名古屋の町は大いに賑わいました。

しかし、宗春の規制緩和政策は、幕府の方針に真っ向から反対する政策であったため、幕府から厳しい目を向けられるようにようになり、ついに元文4年(1739年)正月12日に吉宗からの隠居謹慎を申し渡され、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に謹慎することになりました。そして、7ヶ月間中屋敷で謹慎した後、9227に江戸を発ち、103日に名古屋に入り、三の丸の屋敷に幽閉されました。

その後、宝暦4年(1754)に名古屋城下の下屋敷に移されましたが、宝暦11年に尾張徳川家の菩提寺建中寺の父母の霊廟への参拝が許可されるまで外出は許されませんでした。そして、謹慎して25年後の明和元年(1764108日、69歳で亡くなり、建中寺に埋葬されました。

しかし、死んでも宗春は幕府から赦免されることはありませんでした。建中寺の宗春の墓石には金網が掛けられたといいます。宗春が許されたのは没後75年の天保10年(1839)のことでした.

 下地図が、平和公園内の徳川宗春のお墓です。平和公園は広大な墓地ですので、いきなり訪問しても徳川宗春のお墓は見つかりませんので、事前によく調べてから訪問したほうがよいと思います。



# by wheatbaku | 2024-10-26 22:30
  

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