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織田信忠も二条新御所で亡くなる(「どうする家康」105)

織田信忠も二条新御所で亡くなる(「どうする家康」105

昨日紹介した『信長公記』では、信長が明智光秀に襲撃され自害したと書かれた後に、信忠も自害したことが書かれています。信忠は、既に信長から家督を相続しており、武田領国侵攻の際には総大将として信濃から甲斐に攻め入っていています。「歴史にもしはない」とよく言われますが、信長が暗殺されたとしても、もし信忠が生き残っていたならば、織田政権は存続し、豊臣秀吉の天下統一、さらには徳川家康の征夷大将軍就任もなかったかもしれません。それだけ、信長の死とともに信忠の死は重大な事でした。そこで、「どうする家康」では信忠のことはまったく触れられていませんでしたが、今日は『信長公記』に書かれた織田信忠の最期について書いてみます。

 信忠は、信長とともに中国の毛利攻めのため上洛し、京都の妙覚寺に宿泊していました。信長が明智光秀に襲撃されたとの連絡を受け、信長を救うため本能寺に向かおうとしましたが、京都所司代の村井貞勝から、本能寺がもう焼け落ちているとの報告をうけて、妙覚寺より防御の堅い二条新御所に入り、防戦しましたが、多勢に無勢で、明智勢の攻撃を防ぐことができず、ついに自害しました。

この間の信忠の動きが『信長公記』に詳細に書かれています。『信長公記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことできますので、私なりに現代語訳して紹介します。

「織田信忠は明智光秀により本能寺が襲撃されたことを聞いて、信長と一緒になろうと思って、妙覚寺を出たところへ、(京都所司代の)村井貞勝父子三人が駆け付けて、信忠に『本能寺はもはや陥落し、御殿も焼け落ちました。敵はきっとここへも攻めてくるでしようから、二条新御所(※二条新御所は正親町天皇の第一皇子誠仁親王の御所、詳細は下記注参照)は構えがよく出来ています。そこへ立てこもるべきでしょう』と申し上げた。これによって直ちに二条新御所へ駆け込んだ。(誠仁親王に)信忠が言うには、『ここは戦場となりますので、親王様(誠仁親王のこと)、若宮様(和仁親王のこと、のちの後陽成天皇)は禁裏へ御成になるのがよろしいです』と申し上げて、不本意ながらもお別れの挨拶をして、(親王と若宮を)内裏へお入れした。

そして、ここで評議を行ない様々な意見が出た。一旦この二条新御所から撤退したほうがよいと申し上げる者もいた。信忠が言うには、このような謀叛を決行するからには、よもや逃れさせはしないだろう。雑兵の手に掛かって、あとになってそしりを受けるのが無念である。ここで腹を切った方が良いと言った。神妙な振る舞い、哀れである。そのような最中に、程なくして明智光秀の軍勢が到着し攻撃を仕掛けてきて、(この後に明智勢と戦った家臣の名前が挙げられているがそれは略す)それぞれが切って出て、斬り殺し、斬り殺されして、我れ劣らじとそれぞれ戦い、お互いに知り知られる間柄の戦いであるので、刀の切っ先から火焔を降らすほどの戦いであった。(中略)

そのようなところへ、敵は近衛前久の御殿へ上がり、二条新御所を見下ろし、弓鉄砲を撃ち込んだので、手負いの人や死者が大勢出て、だんだんと人が少なくなっていった。ついに敵は二条新御所内へ攻め入って火を掛けた。信忠が言うには、腹を切った後、縁の板を引き離し、このなかに入れて屍を隠すようにと命じた。介錯は鎌田新介に命じた。織田家一門、お歴々、家子郎党、枕を並べて討死、算を乱した様子を見て信忠は不憫に思った。御殿も焼けてきたので、この時、遂に信君は腹を切った。鎌田新介が介錯をした。信忠の命令どおり、遺骸を隠したが、無常の煙となって、哀れな風情には目もあてられなかった。」

二条新御所:信長は天正4年(1576)、信長が自らの京都の屋敷とするため、押小路室町にあった二条晴良の屋敷を譲り受け、所司代村井貞勝に普請を命じ築造し、天正711月に正親町天皇の第一皇子誠仁(さねひと)親王に献上しました。そこで、この屋敷は「二条新御所」と呼ばれました。現在の京都市営地下鉄の御池駅の北西部にありました。(下地図中央の二条殿跡と書かれている場所が京都新御所跡です)



# by wheatbaku | 2023-07-24 22:10 | 大河ドラマ「どうする家康」
織田信長、本能寺で死す《本能寺の変》(「どうする家康」104)

織田信長、本能寺で死す《本能寺の変》(「どうする家康」104

「どうする家康」第28回は有名な本能寺の変でした。本能寺の変はこれまでも小説やTVドラマ・映画に数多く描かれてきました。その描き方はいろいろありますが、基本的なストーリーは、信長の伝記として信用性の高いとされている『信長公記』に書かれているものがベースとなっているようです。そこで、今日は『信長公記』にどのように本能寺の変が書かれているか紹介します。『信長公記』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができますので、明智光秀が自分の居城坂本城を出発する天正10年(1582526日から本能寺の変が起きた62日(下記『信長公記』では61日となっている)までの部分を、原文に沿って私なりに現代語訳して書いていきます。

526日、明智光秀は、中国方面へ出陣するために坂本を出発し、丹波の亀山の居城に到着した。

次の日、27日に亀山から愛宕山へお参りし一晩参籠した。光秀は何か思うところがあったのであろうか神前へ参り、太郎坊の御前で二度三度とくじを引いたという。

28日、西坊において連歌会を興行した。

発句 明智光秀

ときは今あめが下知る五月哉 明智光秀 (以下、西坊行祐や里村紹巴の連歌が書かれているが略す。)

528日、(明智光秀は)丹波国亀山へ帰城した。

529日、信長は上洛した。(以下、留守番衆が列挙されているが省略する)これらの者に留守居役を仰せ付け、小姓衆2.30人を召し連れて上洛した。すぐに中国へ出発しなければならないので、出陣の用意を整えて、 一報有り次第出動するべきとの旨のお触れが出ていたので、今度は大勢の御供はなかった。こうした中で予期せぬ事態が起きた。61日、夜に入って、丹波国亀山で明智光秀が逆心を企て、明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤利三、これらの者と相談して、信長を討ち果たし、天下の主となる計画をたて、亀山から中国方面へは三草越えすべきところであったが、その進路を引き返し、東向きに馬の首を揃えて、老の山へ上り、 山崎に出てから摂津の国内に出勢すべき旨を諸卒に伝達し、謀反について相談した者たちに先陣を申し付けた。

61日、夜に入って、 明智光秀の軍勢は老の山へ上り、右へ行く道は山崎、 天神馬場、摂津国への街道であり、左を下れば京へ出る道であるが、ここを左へ下り、桂川を越えたところで、ようやく夜も明けてきた(※従って、本能寺の変が起きたのは62日)。既に信長の御座所本能寺を取り巻く軍勢は四方から乱入した。信長も小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者がやったと思っていたところ、まったくそうではなく、鬨(とき)の声を上げて、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。これは謀叛か、いかなる者の企てかと信長が聞くと、森乱(森成利)が「明智の者と見られます」と言上すれば、信長は「是非に及ばす」と答えた。敵は透き間無く御殿へ乗り入れてきたので、表御堂の番衆も御殿の者と一団となった。 厩(うまや)からも家来たちが討って討死した。また御殿の中で討死した者も大勢いて小姓衆も討死している(討死した人の名前が記載されているが省略する)

信長は、初めのうち弓を取って二つ三つ矢を射ると寿命が尽きたようで弓の絃が切れてしまった。そのあとは鎗で戦ったが、肘に鎗疵(やりきず)を受けて引き退(の)いた。それまで傍に女房たちが付き従っていたが、女たちは差し支えないから急いで逃げろと言って追い出した。そうするうちに御殿に火が掛けられ、火が迫ってきた。信長は最期の姿を見せまいと思ったのであろうか、殿中の奥深く入り、内側から納戸の口を閉めて無情にも腹を召された。

 以上が『信長公記』に書かれている本能寺の変です。これと比較すると「どうする家康」で描かれた本能寺の変は独自の描き方のように私には感じられました。




# by wheatbaku | 2023-07-23 22:30 | 大河ドラマ「どうする家康」
武田勝頼に最後まで連れ添った北条氏政の妹=北条夫人(「どうする家康」103)

武田勝頼に最後まで連れ添った北条氏政の妹=北条夫人(「どうする家康」103

 『改正三河後風土記』を読むと、徳川家の記録であるにもかかわらず、武田家の滅亡時のエピソードがいくつか記録されています。その中に「勝頼妻室貞烈」という勝頼の継室北条夫人(北条氏政の妹)について書いたものがあります。

 「どうする家康」で描かれたわけではありませんが、興味深い話でしたので、今日はこの北条夫人について書いてみます。

北条夫人は、永禄7年(1564)北条氏康の六女として生まれました。長篠の戦いで敗北した勝頼の北条家との同盟の強化を図る一環として、天正5年(1577)1月に北条夫人が勝頼の継室として輿入れしました。輿入れの時、勝頼32歳、北条夫人14歳だったそうです。なお、武田勝頼の最初の正妻は織田信長の養女竜勝院でした。しかし、竜勝院は嫡男信勝を出産した後、若くして亡くなっています。

『改正三河後風土記』は国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができますので、原文に沿いながらその内容を少し長くなりますが以下に書いていきます。

《勝頼は最後が近づいてきた際、北条夫人に対して『ここから相模は遠くはないので、あなたはどんなことがあっても小田原に逃れてくれ。たとえ敵にあったとしても女のことだから殺すほどのことはないだろう。また小田原に着きさえすれば、兄の氏政と私勝頼は不仲であるが、あなたは氏政の妹なので、つれなくすることはないだろう。勝頼が死んだと聞いたならば、尼となって後世を弔って欲しい。」と伝えた。すると北条夫人は涙をぬぐい「私は相模を出てこの国に参り、貴方に嫁いだ時から、来世でも同じように契りをかわそうと心に誓っておりました。たとえ玉の輿に乗せて送られるとも、故郷に帰ろうとは思いもよりません。三途の川もあなたと一緒に越えて、死出の山道も一緒にと思っていました。」と答え、二人はともに手を取り合って離れまいと泣き崩れた。勝頼は涙にくれながら「よくぞ申してくれた。それでこそ真の勝頼の妻である」と喜んでは嘆き、嘆いては喜び、よそ目も憚らず語り合っていたが、勝頼は「それにしても故郷の兄弟たちに申し残すことがあれば、どんなことがあっても手紙を書いて送りなさい」というと、北条夫人は「いや意外なことをいわれる。貴方が長坂光堅や跡部勝資の佞言(ねいげん;へつらいのことば)に惑わされて、上杉景勝の工作に乗じて、大量の黄金に目がくらみ、上杉景虎(北条夫人の実兄)を見殺しにしたことについて兄氏政は当然のことながら北条一族は深く怨み、今度の武田攻めでも敵に組したと聞いています。そうした貴方に連れそう私が、何の面目があって故郷へ申し送ることができましょうか。私は先に三途の川に参ってお待ちしています。貴方にはこのうえ心配してくださいませんように」と答えました。(北条夫人は)これまで付き添ってきた女房達23人には無理やり暇をだして、古くから仕えた者たちのみ残しておいて、最期が近づいてくると、いつも読み慣れている法華経をしずかにあげ、『隔(へだ)てなき 法(のり)をぞたのむ 身は田野の あしたの露と 消え果つるとも』と辞世の句をよみ、自ら守り刀を抜いて口に含んでうつ伏せになると、勝頼は即座に介錯し遺骸を抱きしばらく物も言わずに涙を流していた。敵も近づいてきているので、残された女房達も互いに差し違い自害していったのはたとえようもなく悲惨なことであった。》(以上です。)

 同じく国立国会図書館デジタルコレクションで読むことのできる『甲乱記』にも北条夫人の最期が書かれています。それによれば、勝頼から小田原への脱出を諭された北条夫人は、自身が小田原に脱出することは拒んだものの、小田原から付き添ってきた4人の家臣たちには小田原に逃れるよう命じ、その際に自分の髪とともに「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消(きゆ)る 露の玉の緒(お)」という辞世の句を託しました。脱出を命じられた四人の家臣のうち剣持但馬守は全員が帰国したら小田原への聞こえも悪いといい北条夫人のそばに残り(夫人に殉じた)といいます。

 これらの記録を読むと、武田勝頼と北条夫人の仲は非常に良かったのだろうと思われます。また、勝頼の嫡子信勝も最後まで勝頼と一緒に行動し潔い最期を遂げています。勝頼は、最後の最後に信頼していた家臣たちに裏切られていますが、本当の身内である妻子たちは最後まで伴に行動してくれたことは救われた気持ちだっただろうと思います。北条夫人のお墓は、甲州市の景徳院に武田勝頼・信勝のお墓と並んであるそうです。(最下段地図参照)

 なお、武田勝頼、北条氏政、上杉景虎、上杉景勝の関係を少し書いておかないと『改正三河後風土記』に書かれている北条夫人の発言が理解できないと思いますので補足しておきます。

 北条氏康・氏政父子と上杉謙信は、敵対関係にありましたが、武田信玄が北条氏に敵対するようになった時点で越相同盟を結ぶことになりました。そして、北条氏政の弟三郎が謙信の養子になり上杉景虎と名乗りました。しかし、天正6年(1578)上杉謙信が急死すると家督相続争いが勃発し上杉景虎と上杉景勝が争いました。これが御館(おたて)の乱です。この時、武田勝頼は、北条氏政から景虎支援を要請されていたものの最終段階で上杉景勝を支持しました。御館の乱で敗れた景虎は自害して果てることになりました。このことに激怒した北条氏政は、武田家との同盟を破棄し、武田勝頼と敵対することになりました。

 武田勝頼が上杉景虎でなく上杉景勝を支持するようになったのは、『改正三河後風土記』に書かれているように武田勝頼の側近であった長坂光堅や跡部勝資が上杉景勝側のわいろ攻勢に乗った結果だという噂があったのかもしれません。


下地図中央が景徳院です。



# by wheatbaku | 2023-07-22 22:45 | 大河ドラマ「どうする家康」
織田信長、伊賀に侵攻する。《天正伊賀の乱》(「どうする家康」102)

織田信長、伊賀に侵攻する。《天正伊賀の乱》(「どうする家康」102

 「どうする家康」で2回にわたり、織田信長の伊賀侵攻に関連した話がでてきましたので、今日は、天正伊賀の乱と呼ばれる織田信雄と織田信長による伊賀侵攻について書きます。

 伊賀国は、現在の三重県の西北部にあたる伊賀市と名張市からなる地域で、もともとは伊勢国の一部を割いて成立した国で、阿拝(あへ)山田、伊賀、名張の4郡からなっていました。戦国時代には、守護として仁木(にき)氏が任ぜられましたが、在地土豪たちの力が強く実権をもつことはありませんでした。また、在地土豪たちも戦国大名へ成長する者もなくて、伊賀国は、「惣国一揆(そうこくいっき)」と呼ばれる在地土豪の連合体よる支配が行われていました。

 この伊賀を攻略しようとしたのが、織田信長の次男織田信雄でした。信長の伊勢侵攻のなかで、伊勢国司家である名門北畠家の養子となった織田信雄は、天正7年(1579)に伊賀国に伊勢側から侵攻しました。

 この伊賀侵攻の狙いについて、『三重県史』は「最終的には伊賀国全体を織田氏の支配下に置くことが意識されていたことは否定できないが、北畠氏の当主として置かれた信雄は、まずは(中略)旧北畠領全体の把握つまり南伊賀の支配化を当面の目的としたのではなかろうか」と書いています。

 しかし、伊賀国の地侍・土豪たちは巧妙な戦いを仕掛け、織田信雄軍を敗退させ、重臣の柘植(つげ)保重は討死しました。信長は、信雄が独断で伊賀に侵攻し、しかも重臣柘植保重を討死させ敗退した失態ぶりに激怒したといいます。

 そして、信雄の伊賀侵攻を撃退した伊賀の地侍・土豪たちに対して壊滅的な打撃を与えたのが天正9年(1581)に行われた織田信長の伊賀侵攻です。(※この2回にわたる伊賀侵攻が天正伊賀の乱と呼ばれていて、信雄の伊賀侵攻が第一次天正伊賀の乱、信長の伊賀侵攻が第二次伊賀天正の乱と呼ばれます。)

織田信長は、天正9(1581)93日、大軍を動員して伊賀国四方から伊賀に侵攻しました。その攻め口は、「信長公記」によると、甲賀口からは、織田信雄・滝川ー益・丹羽長秀・蒲生氏郷・甲賀衆など、信楽(しがらき)口からは堀秀政など、加太(かぶと)口からは滝川雄利と信長の弟織田信包(のぶかね)、大和口からは筒井順慶と大和衆が攻め込んでいます。まさに四方から伊賀に攻め込んでいます。

「多聞院日記」によれば、侵攻が始まった翌日の94日には伊賀衆で寝返る者が出はじめ、降伏する者が続き、奈良からも伊賀国内が燃える煙が見えたと書かれているようです。

信長は、侵攻に際して徹底的に掃討するよう命令しており、多くの地侍・土豪たちが切り捨てられています。『信長公記』には、伊賀郡は織田信雄、山田郡は織田信包(のぶかね)、名張郡は丹羽長秀など、阿拝(あへ)郡は滝川一益などが処置し、それぞれが討ち取った者の名が具体的に書かれていますし、大和の春日山に逃げこんだ伊賀の武士たちを筒井順慶が捜し出して大将分75人をはじめ数えきれないほど斬り捨てたと書かれています。そして、伊賀国四郡のうち、織田信包が跡を継いだ長野氏のかつての拠点があった伊勢国長野(津市)と隣接する山田郡は織田信包(のぶかね)に与えられ、残る三郡は織田信雄に与えられました。

伊賀国では厳しい討伐が信長の手によって行われましたので、他国に逃げ出す地侍たち大勢いただろうと思います。「どうする家康」第26回で織田信長が伊賀を攻略したので多くの伊賀者が徳川家に保護を求めてきていると語られる場面があり、第27回では、すでに多くの伊賀者が徳川家に仕えていると服部半蔵が語る場面がありましたが、『徳川実紀』には、下記のような記載がありますので、全くの創作でもないと思われます。

「伊賀の侍柘植三之丞清広という者は、前年の天正9年(1581)に三河に参上して家康に拝謁し、『伊賀の者どもはみな織田家を離れ、徳川家に属したいと思っています。どうかお墨付きをいただけませんか』と願ったが、家康は『当家は織田家と親密な関係なので、お墨付きを与えることはできない。ただ以前の通り本領を守られるのがよかろう。もし当家に仕えたいならば、徳川領に居所を移すがよい』という返事であった」(『現代語訳徳川実紀 家康公伝【逸話編】』より)




# by wheatbaku | 2023-07-21 22:45 | 大河ドラマ「どうする家康」
甲斐の恵林寺、織田信忠に焼き討ちされ、徳川家康により再建される。(「どうする家康」101)

甲斐の恵林寺、織田信忠に焼き討ちされ、徳川家康により再建される。(「どうする家康」101

 「どうする家康」に描かれたわけではありませんが、武田家滅亡の際に恵林寺が焼き討ちにあい、住職の快川(かいせん)和尚が山門で焼き殺され、その際「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と唱えたという話は有名です。そこで、今日は、その話を書こうと思います。

 そもそも恵林寺は、その御由緒によれば、臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2年(1330)に、甲斐牧ノ庄の地頭職二階堂出羽守貞藤、道号は道蘊(どううん)が、夢窓国師を招き、自邸を禅院とし創建された寺院です。

その後、武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚の入山で寺勢を高め、永禄7年(1564)に、信玄が寺領を寄進し自らの菩提寺と定めました。そして、天正4年(1576)4月には、信玄の遺言に従い三年間の秘喪の後、武田勝頼により、快川和尚の導師のもと信玄の盛大な葬儀が恵林寺で執り行われています。

しかし、天正10年(158243日、恵林寺は焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに焼殺されました。

 この恵林寺の焼き討ちは、織田信長が行ったと考える人が多いように思います。恵林寺のホームページでも「43日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい」と書かれています。しかし、恵林寺の焼き討ちを指示したのは織田信忠でした。『信長公記』には次のように書かれています。

43日 (織田信長が甲府の武田信玄の屋形に新しく作った仮御殿に着陣したことが書かれた後)恵林寺において六角義治を匿ったので、その罪に対して織田信忠卿より、処罰の命令が下された。恵林寺僧衆成敗の奉行人は、津田元嘉、長谷川丹波守、関小十郎右衛門、赤座七郎右衛門であった。

右の奉行衆が出動し、寺中の老若僧侶を残さず恵林寺山門階上へ呼び集め、楼門から山門にかけて籠草を積み上げ、火を付けた。初めは黒煙が立ちのばり、内部の様子がわからなかったが、次第に煙が収まって炎が燃え上がると、人の姿が見えるようになった。快川紹喜(かいせんじょうき)長老はまったく動揺することなく、座したまま微動だにしなかった。そのほかの老若、稚児、若衆は躍(おど)り上がり跳ね上がり、互いに抱き付き、悶え焦がれていた。焦熱地獄、大焦熱地獄の炎に咽(むせ)び、火血刀(かけつとう)の苦を悲しむありさまは、見るに堪えなかった。43日、 恵林寺は破滅した。老若上下の者150余人が焼き殺された。」(『訳注信長公記』より)

 『信長公記』によれば、恵林寺が焼き討ちにあったのは、佐々木義治を匿ったことによるもので、織田信忠の命令によるものと書かれています。ただ、恵林寺が焼き討ちされた43日は、織田信長が甲府に着陣しているので、織田信長の命令によるものと誤って受け止められたのではないでしょうか。しかし、恵林寺の焼き討ちは織田信長が直接指揮したものでないとしても信長の意向がかなり織り込まれた処罰だとは思います。

 恵林寺の焼き討ちについては『武田氏滅亡』(平山優著)に『甲乱記』という書物に詳しく書かれていると書いてあるので、国立国会図書館デジタルコレクションで『甲乱記』を読んでみました。すると『甲乱記』の「恵林寺炎減並び織田信長の事」のなかに次のように書かれています。

「(前略)恵林寺は今度の甲州の大乱の時にことごとく炎滅した。川尻秀隆が使者を通じて、この度勝頼父子が自害した際に、許可なく死骸を埋葬し、追善供養した事、次に近江国の佐々木義定などを寺院内に匿ったこと、さらに小屋銭を架けた事の三か条は仏門の本来の役割に背いたものでありその罪は軽いものではないと詰問した。快川和尚は、勝頼父子は当寺の旦那であり、殊には国主であるので遺骨を拾って追善した。また佐々木義定を寺内に隱していたことや小屋餞のことはまったく知らないことであるとの返答であった。それに対して使者は、それではお寺の中を探すと言い、武士が寺内に侵入し、「僧侶たちは山門へあがれ」といったので快川和尚をはじめ多くの僧侶が山門に登った。その他の寺内にいる者たちも全員山門に上った。その後、梯子をはずし、門前の草屋を壊したものを山門の下に積み重ね、それに火を付けた。(中略)快川和尚は、結跏趺坐、手を常に胸にあてる静かにしているだけであった。その他の若い僧たちは刺し違えたり、炎の中に飛び込んで死んだものもありあるいは柱に抱き付いてそのまま焼死したものあった。」と書いてあります。

 まさに恵林寺にいる僧侶全員を山門に追い上げて下から火をかけて焼き殺すという残虐な行為をしたことが詳細に書かれています。

 そして、快川和尚は、山門の燃え盛る炎の中で「心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という有名な言葉を吐いたと言われていて、これが通説となっています。

しかし、前述の『甲乱記』では快川和尚と一緒に恵林寺の山門の楼上にいた長禅寺の長老高山和尚が快川和尚の問いに答えた言葉としています。平山優氏によれば、快川和尚が述べた有名な言葉は当時の書物にはまったく記録されていなくて江戸時代初めに初めて登場すると書いていて、通説に疑問を呈しています。

 こうして織田氏により焼き討ちにあった恵林寺を、家康は、甲斐に入国する早々に再建しています。『改正三河御風土記』の「氏直若御子対陣 付北条和睦御縁組の事」に「信忠卿焼亡されし恵林寺も武田代々の菩提所なればとて、新たに建立し給い、その跡懇(ねんご)ろにとはせ(※注)給えば、織田殿の暴政とは雲泥の違いなりと、甲州・信州の寺社農商まで、万歳を唱え歓抃(かんべん:大いに喜ぶこと)せざるものなし」と書いています。注:「とはせ」という意味についていろいろ調べましたが正確な意味は不明です。文脈からすると弔うという意味だと思います。)

 家康は、本能寺の変の後に信濃・甲斐・上野の領有をめぐって北条氏と争い、天正1010月には北条氏と和睦し甲斐を領有することとなりましたが、恵林寺を入国早々に再建したのは、これによって武田家の旧臣の心をつかもうという思惑も家康にあったと思われます。

 下地図中央が恵林寺です。恵林寺には、武田信玄や柳沢吉保のお墓もありますので、いずれお参りしたいと思っています。






# by wheatbaku | 2023-07-20 22:10 | 大河ドラマ「どうする家康」
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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