正岡子規、日清戦争に従軍する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑨)
スペシャルドラマ「坂の上の雲」第8回は、正岡子規が日清戦争に従軍した様子、日清戦争に従軍した秋山真之の様子、秋山真之と東郷平八郎の再会が主な内容でした。その中で、今日は、正岡子規の従軍についてかいてみます。
かねて、従軍を希望していた子規は、明治28年2月、その望みが叶います。子規は、その喜びを次のように書いています。
「皆にとめられ候へども、雄飛の心難抑終に出発と定まり候。生来希有の快事にござ候。小生今までにて最も嬉しきもの
初めて東京へ出発と定まりし時
初めて従軍と定まりし時
の二度に候。」(同僚で出征中の五百木瓢亭あてた手紙、復本一郎著『正岡子規伝』より)
これは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。
ちなみに、その後は次のように続いています。
「此上に尚望むべき二事あり候。洋行と定まりし時、意中の人を得し時の喜びいかならむ。前者或は望むべし、後者は全く望みなし、遺憾々々、非風をして聞かしめば之れを何とか云はん呵々」(柴田宵曲著:岩波文庫『評伝正岡子規』p129より)
これを読むと、子規は海外渡航を希望していたし、結婚することも願っていたようです。しかし、残念ながら二つともかないませんでした。
子規は、3月3日、東京を発ち、6日に広島に着きました。しかし、広島では、軍から従軍許可が出るまで2週間ほど待たされました。
子規は、小説『我が病』の中で、この間の出来事を箇条書きで13件の出来事をあげています。その中には「郷里伊予に行き二泊して帰り事」や「某伯のもとにて刀を賜りし事」などが挙げられています。
許可がおりるまでに、「郷里伊予に行き二泊して帰りし事」の通り、15日に松山に帰省し、父のお墓にお参りし、2泊してから17日に広島に帰りました。
3月21日になって、待望の従軍許可がおりました。それから20日後の4月10日、子規は近衛師団付として宇品港を出発しました。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、子規が「大阪師団と一緒に行く」と言っていましたが、実際は近衛師団と一緒に従軍しています。
近衛師団の師団長は、北白川宮能久親王でした。また、師団の副官として旧松山藩主の久松定謨(さだこと)が従軍していました。
近衛師団長であった北白川宮能久親王は、最後の輪王寺宮で、戊辰戦争の際には、会津・米沢・仙台へと移り、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された人物です。そして、日清戦争終結後、北白川宮親王は、台湾割譲に反対する勢力を討伐するため、台湾に渡り、マラリヤに懸かり、戦病死すると悲劇的な最期を迎えます。
子規は、「某伯のもとにて刀を賜りし事」と書いているように、従軍するにあたり旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領しました。そして、従軍中は、その刀を背中に背負って歩く姿がしばしば見られたようです。
旧松山藩士は大勢いたのですが、従軍するにあたって旧藩主から刀を拝領できた旧藩士は数少なかったようです。こうした中で、子規が旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領できたのは、子規が近衛師団付で渡海することや子規の叔父加藤恒忠が久松定謨(さだこと)が渡仏中の御学友であったことなどが考慮された結果ではないかと思います。
スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を子規たちが兵隊とともに歩いている場面がありましたが、その時の子規が手にした鞄の上に刀らしきものがありました。それが旧藩主から拝領した刀という設定だったのではないでしょうか。もし、そうだとすれば、「さすがNHK!」ということになります。
4月13日は、遼東半島が見える所まで近づいてきましたが、翌々日まで上陸を許されず、ようやく15日に大連湾に面した柳樹屯に上陸しています。
上陸後、スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を通過する際に住民への対応で曹長と衝突する場面があり、その後、子規が森林太郎(鷗外:以下森鷗外)から声をかけられ、森鷗外と親しく話をする場面がありました。
子規は日清戦争中に遼東半島南部の金州で森鷗外を訪問していますので、森鴎外との出会いは史実に沿った描写です。
森鷗外の「徂征日記」には5月4日と10日に子規の訪問があったことが記されているようです。一方、子規の「病床日誌」(結核が悪化して帰国早々神戸病院に入院した当時の記録)では、子規は毎日森鷗外を訪問したと書いています(*6月3日の記録)ので、子規は鷗外をしばしば訪問していたようです。森鷗外は、当時、第2軍(司令官大山巌大将)の兵站部軍医部長という要職でした。下写真は、明治32年当時の陸軍軍医姿の森鷗外です。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
なお、森鷗外は、明治25年に現在の「文京区立森鴎外記念館」の場所にあった屋敷『観潮楼』に転居していますので、日清戦争には、この屋敷から出征したことになります。
あれほど熱望していた従軍ですが、1ヶ月もたたないうちに、子規は、帰国を決意します。『正岡子規、従軍す』(末延芳晴著)によれば、近衛師団の従軍記者に対する待遇があまりにも悪いので帰国を決意したようです。
そして、帰国するため、5月14日、佐渡国丸に乗船し、柳樹屯を出発しました。2日間は何事もなく過ぎ、5月17日に、甲板にあがって鱶(ふか)が泳いでいるのを見ようとした時、突然喀血しました。子規は『病』という作品の中で、次のように書いています。
「明治28年5月大連湾より帰りの船の中で、何だか労(つか)れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶(ふか)が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰(たん)が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子(はしご)を下りて来て、自分の行李(こうり)から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套(がいとう)のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。」
スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、甲板で海に向かって大量の喀血をするように描かれていましたが、『病』を読むと、ドラマほど大量の血を吐いたようではなさそうです。
しかし、輸送船内での喀血であり、輸送船に医師がいるものの、薬はコレラ用の薬しかないため、子規は、窮屈な船内で横になって寝ているだけでした。まったく治療も受けられずにいたため、病状はますます悪化していきました。
『病』のなかに次のように書いています。
「咯血(かっけつ)の度は一層烈(はげし)くなった。固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血は尽(ことごと)く呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。」
そして、神戸について上陸した後、人力車で病院へ行こうとして歩き始めたものの、一歩も歩くことができず、同行の従軍記者に頼んで担架を手配してもらい、ようやく県立神戸病院に入院しました。そして、2か月ほど入院することになりました。一時は、命も危ぶまれましたが、京都から駆け付けた高浜虚子や東京から駆け付けた母八重と河東碧梧桐の看病の甲斐があって幸運にも一命をとりとめました。










