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正岡子規、日清戦争に従軍する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑨)

正岡子規、日清戦争に従軍する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑨)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第8回は、正岡子規が日清戦争に従軍した様子、日清戦争に従軍した秋山真之の様子、秋山真之と東郷平八郎の再会が主な内容でした。その中で、今日は、正岡子規の従軍についてかいてみます。

かねて、従軍を希望していた子規は、明治282月、その望みが叶います。子規は、その喜びを次のように書いています。

「皆にとめられ候へども、雄飛の心難抑終に出発と定まり候。生来希有の快事にござ候。小生今までにて最も嬉しきもの

  初めて東京へ出発と定まりし時

  初めて従軍と定まりし時

の二度に候。」(同僚で出征中の五百木瓢亭あてた手紙、復本一郎著『正岡子規伝』より)

 これは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。

 ちなみに、その後は次のように続いています。

「此上に尚望むべき二事あり候。洋行と定まりし時、意中の人を得し時の喜びいかならむ。前者或は望むべし、後者は全く望みなし、遺憾々々、非風をして聞かしめば之れを何とか云はん呵々」(柴田宵曲著:岩波文庫『評伝正岡子規』p129より

 これを読むと、子規は海外渡航を希望していたし、結婚することも願っていたようです。しかし、残念ながら二つともかないませんでした。

子規は、33日、東京を発ち、6日に広島に着きました。しかし、広島では、軍から従軍許可が出るまで2週間ほど待たされました。

 子規は、小説『我が病』の中で、この間の出来事を箇条書きで13件の出来事をあげています。その中には「郷里伊予に行き二泊して帰り事」や「某伯のもとにて刀を賜りし事」などが挙げられています。

許可がおりるまでに、「郷里伊予に行き二泊して帰りし事」の通り、15日に松山に帰省し、父のお墓にお参りし、2泊してから17日に広島に帰りました。

 321日になって、待望の従軍許可がおりました。それから20日後の410日、子規は近衛師団付として宇品港を出発しました。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、子規が「大阪師団と一緒に行く」と言っていましたが、実際は近衛師団と一緒に従軍しています。

 近衛師団の師団長は、北白川宮能久親王でした。また、師団の副官として旧松山藩主の久松定謨(さだこと)が従軍していました。

 近衛師団長であった北白川宮能久親王は、最後の輪王寺宮で、戊辰戦争の際には、会津・米沢・仙台へと移り、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された人物です。そして、日清戦争終結後、北白川宮親王は、台湾割譲に反対する勢力を討伐するため、台湾に渡り、マラリヤに懸かり、戦病死すると悲劇的な最期を迎えます。

 子規は、「某伯のもとにて刀を賜りし事」と書いているように、従軍するにあたり旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領しました。そして、従軍中は、その刀を背中に背負って歩く姿がしばしば見られたようです。

 旧松山藩士は大勢いたのですが、従軍するにあたって旧藩主から刀を拝領できた旧藩士は数少なかったようです。こうした中で、子規が旧藩主久松定謨(さだこと)から刀を拝領できたのは、子規が近衛師団付で渡海することや子規の叔父加藤恒忠が久松定謨(さだこと)が渡仏中の御学友であったことなどが考慮された結果ではないかと思います。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を子規たちが兵隊とともに歩いている場面がありましたが、その時の子規が手にした鞄の上に刀らしきものがありました。それが旧藩主から拝領した刀という設定だったのではないでしょうか。もし、そうだとすれば、「さすがNHK!」ということになります。

413日は、遼東半島が見える所まで近づいてきましたが、翌々日まで上陸を許されず、ようやく15日に大連湾に面した柳樹屯に上陸しています。 

上陸後、スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、中国人の村を通過する際に住民への対応で曹長と衝突する場面があり、その後、子規が森林太郎(鷗外:以下森鷗外)から声をかけられ、森鷗外と親しく話をする場面がありました。

子規は日清戦争中に遼東半島南部の金州で森鷗外を訪問していますので、森鴎外との出会いは史実に沿った描写です。

森鷗外の「徂征日記」には54日と10日に子規の訪問があったことが記されているようです。一方、子規の「病床日誌」(結核が悪化して帰国早々神戸病院に入院した当時の記録)では、子規は毎日森鷗外を訪問したと書いています(*63日の記録)ので、子規は鷗外をしばしば訪問していたようです。森鷗外は、当時、第2軍(司令官大山巌大将)の兵站部軍医部長という要職でした。下写真は、明治32年当時の陸軍軍医姿の森鷗外です。

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         出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

なお、森鷗外は、明治25年に現在の「文京区立森鴎外記念館」の場所にあった屋敷『観潮楼』に転居していますので、日清戦争には、この屋敷から出征したことになります。

 あれほど熱望していた従軍ですが、1ヶ月もたたないうちに、子規は、帰国を決意します。『正岡子規、従軍す』(末延芳晴著)によれば、近衛師団の従軍記者に対する待遇があまりにも悪いので帰国を決意したようです。

 そして、帰国するため、514日、佐渡国丸に乗船し、柳樹屯を出発しました。2日間は何事もなく過ぎ、517日に、甲板にあがって(ふか)が泳いでいるのを見ようとした時、突然喀血しました。子規は『病』という作品の中で、次のように書いています。

「明治285月大連湾より帰りの船の中で、何だか労(つか)れたようであったから下等室で寝て居たらば、鱶(ふか)が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰(たん)が出たから船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子(はしご)を下りて来て、自分の行李(こうり)から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套(がいとう)のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。」

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、甲板で海に向かって大量の喀血をするように描かれていましたが、『病』を読むと、ドラマほど大量の血を吐いたようではなさそうです。

しかし、輸送船内での喀血であり、輸送船に医師がいるものの、薬はコレラ用の薬しかないため、子規は、窮屈な船内で横になって寝ているだけでした。まったく治療も受けられずにいたため、病状はますます悪化していきました。

 『病』のなかに次のように書いています。

「咯血(かっけつ)の度は一層烈(はげし)くなった。固より船中の事で血を吐き出す器もないから出るだけの血は尽(ことごと)く呑み込んでしまわねばならぬ。これもいやな思いの一つであった。」

 そして、神戸について上陸した後、人力車で病院へ行こうとして歩き始めたものの、一歩も歩くことができず、同行の従軍記者に頼んで担架を手配してもらい、ようやく県立神戸病院に入院しました。そして、2か月ほど入院することになりました。一時は、命も危ぶまれましたが、京都から駆け付けた高浜虚子や東京から駆け付けた母八重と河東碧梧桐の看病の甲斐があって幸運にも一命をとりとめました。




# by wheatbaku | 2024-11-05 22:25 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
尾張藩中興の祖9代藩主徳川宗睦の墓(尾張徳川家④)

尾張藩中興の祖9代藩主徳川宗睦の墓(尾張徳川家④)

 名古屋の建中寺が尾張徳川家の菩提寺であることは再三このブログに書きました。その建中寺には、現在は、2代藩主徳川光友の墓碑だけが残されていること、そして、8代藩主徳川宗春の墓碑が名古屋市内の平和公園にあることを、これまで紹介してきました。

 実は、尾張藩藩主の墓碑がもう一つ現存しています。それが今日紹介する9代藩主徳川宗睦(むねちか)の墓碑です。宗睦の墓碑が残されているのは愛知県小牧市の小牧山です。

小牧山は、織田信長が築いた小牧山城があり、小牧長久手の戦いの際には徳川家康が本陣をおいた場所です。昨年、小牧長久手の古戦場を訪ねた際に、徳川宗睦のお墓をお参りしてきてありますので、今回、紹介します。下写真は小牧山山頂の小牧山歴史館です。

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徳川宗睦のお墓は小牧山歴史館に向かう大手道の途上にありました。下写真が公園内にあった地図ですが、その中心に徳川源明公墓碑と書いてあるのが、徳川宗睦のお墓です。

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下写真が徳川宗睦の墓碑ですが、墓碑には「亞相二品天祥院殿鋻譽峻徳源明公尊儀」と刻まれています。(下写真)

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小牧市教育委員会が設置した説明板には、菩提寺である建中寺にあったが昭和28年に行われた区画整理のため、移転を余儀なくされ、小牧山に移設されたと書いてあるだけで、徳川宗睦の墓碑が小牧山にある経緯については詳しく書かれていませんでした。

そこで、いろいろ調べたところ、インターネットで見ることのできる「『象山文庫』(小牧市立図書館所蔵)の伝写資料について」(著者山田久)の中に、愛知県小牧市の郷土史家津田応助が、名古屋市内の墓地を平和公園へ移転する際に、小牧山に徳川家の墓碑を保存したいと願い出たことにより、徳川宗睦の墓碑が小牧山にあるという故水谷盛光氏の話が紹介されています。

次に9代宗睦について紹介しますが、宗睦は、8代宗勝の次男として生まれ、宝暦11(1761)に家督を相続しましたので、まず父の8代宗勝について説明します。  

宗勝は、尾張徳川家のご連枝(分家)である川田久保家松平友著(ともあき) の長男として名古屋に生まれました。松平友著(ともあき)は尾張徳川家2代藩主光友の十一男として生まれ、川田久保家を起こしました。川田久保家は、牛込村川田久保(現在の新宿区河田町)に屋敷があったため、そう呼ばれました。

宗勝は、享保17年(1732)、一族の美濃国高須藩主松平義孝(よしたか)の養嗣子となり家督を相続し、義淳(よしあつ)となのりました。しかし、元文4年(17391月、宗家の尾張藩の7代藩主である従兄宗春が隠居謹慎を命ぜられたため宗家を相続し、8代藩主となりました。

襲封すると、宗春の寵臣星野織部たちを処罰し隠居減禄等とし、また、宗春が廃止した死刑を復活させる等幕府から処罰された「宗春色」を消すための施策を実施し、さらに、襲封後間もなくの元文43月に七カ年間の倹約令を発し、財政再建に注力し、治政後半には財政に余裕がでるまでになりました。そして、宝暦11(1761)622日、57歳で亡くなりました。

9代宗睦(むねちか)は享保18(1733)920日、宗勝の次男として江戸四谷藩邸に生まれました。寛保2(1742)に元服し、8代将軍吉宗から一字を賜り宗睦と名乗り、 宝暦11 (1761)に父宗勝が亡くなったため家督を相続しました。襲封後、先代を引き継いで藩政改革を行ない、農政改革、殖産興業を推進し、財政の窮乏回復のため藩札である米切手を発し、世禄制を復活させたりしました。さらに、儒学者細井平洲を起用し、天明3年(1783)、藩校明倫堂を創設し、細井平洲を初代総裁としました。こうした善政を敷いたことから、宗睦は「尾張藩中興の祖」といわれました。その治政は38年間という長いものでしたが、 寛政11 (1799)1220日、67歳で亡くなりました。しかし、既に世子治休が21歳で亡くなっており、その他の跡継候補も早世したため、11代将軍徳川家斉の弟一橋治国(一橋家)の長男斉朝を10代藩主として迎えました。

ところで、建中寺にあった藩主等の墓碑は全く残されていないものと思っていましたが、御住職のお話では、建中寺には藩主等の墓碑のうち3つの墓碑が残されているとのことでした。

それは、建中寺惣門脇の寺号標、三門脇の寺号標、本堂西側の「南無阿弥陀仏」標の三つです。

建中寺惣門脇の寺号標は惣門の左手に設置されています。「徳興山建中寺」と刻まれています。(下写真)

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三門脇の寺号標は「尾州家菩提所 徳興山崇仁院建中寺 尾州家二十代徳川義知書之」と刻まれています。(下写真)

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設置場所は三門の右手です。下写真の右手の大きな石碑が寺号標です。

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本堂西側の元墓碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれています。

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 これらの墓碑は、一旦、墓碑に刻まれていた法名をすべて削り取ったものを再利用しているため、誰の墓碑であったのかは不明とのことでした。




# by wheatbaku | 2024-11-02 22:30
7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③))

7代藩主徳川宗春のお墓〈名古屋千種区平和公園〉(尾張徳川家③)

 先月、名古屋に行った際に、尾張徳川家の菩提寺建中寺を訪ねたことは、以前、ブログに書きました。(下記ブログご参照)

 その時、名古屋市東区にある平和公園内に尾張藩7代藩主の徳川宗春のお墓がありますので、お参りしてきました。そこで、今日は、尾張藩7代藩主徳川宗春について書いてみます。 

 下写真が宗春の墓碑です。墓碑には贈亞相二品章善院殿厚譽孚式源逞大居士尊儀と刻まれています。

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 まず、徳川宗春のお墓が建中寺でなく平和公園にある事情は次のような事情があります。 

徳川宗春は、亡くなった後、菩提寺の建中寺に埋葬されましたが、昭和20年に名古屋市が大空襲を受けた際、建中寺も、大きな被害を受け、歴代の霊廟の多くが焼失しました。宗春の墓石も焼夷弾の直撃を受けて墓石の一部が損傷しました。戦後、名古屋市の復興都市計画に伴い、市内の墓が千種区の平和公園に移転することになりました。一方、建中寺の歴代藩主のお墓も改葬されることとなり、遺骸が火葬され、愛知県瀬戸市にある定光寺脇の徳川家納骨堂に納められました。この時に歴代藩主の墓碑も処分されましたが、宗春の墓碑は、例外的に平和公園内の建中寺墓地に移されることになりました。その結果、歴代藩主の墓碑のうち、宗春の墓碑だけが平和公園にあります。

 徳川宗春の墓碑の隣の説明板には次のような説明が書かれていました。

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「尾張藩七代藩主 徳川宗春公 元禄九年~明和元年(16961764

八代将軍徳川吉宗公と同じ時代を行きた人物です。当時の徳川幕府が掲げた『質素倹約』という政策は必要としながらも、規制緩和により縮小されていた祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に努め、農民の収入を増やすなどして現在の名古屋の発展の礎を築きました。

『温知政要』(おんちせいよう)という書物に基本政策理念二十一箇条を著し、どの時代でも立派に通用する政策を唱えて実行した、先見の明のある殿様です。

その宗春公のお墓が第二次世界大戦のおり、名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け一部が損壊してしまいましたが、2010年7月8日、多くの市民のご協力により墓碑修復が完了しました。当時から月日を重ねた現代に至るまで、市民から大変愛される殿様だったことがうかがわれます。

文:南山大学教授 安田文吉」

 墓碑脇の説明板ではコンパクトに徳川宗春について解説してありますが、もう少し詳しく書いてみます。

 徳川宗春は、元禄9年(1696)、尾張藩第3代藩主徳川綱誠(つななり)の二十男として名古屋で生まれ、幼名万五郎と呼ばれました。

父綱誠(つななり)は、尾張藩初代藩主徳川義直の嫡男光友と3代将軍徳川家光の長女千代姫の間に生れ、実際は次男でしたが、母が正室であり将軍の娘でしたので、綱誠(つななり)が尾張徳川家を継ぎました。 

なお、綱誠(つななり)は子だくさんで「名古屋市史 人物編」では二十二男、十八女の子供がいたとされています。宗春は、二十男ですので、晩年の子供ということになります。

宝永5年(1708)、兄で4代藩主の吉通から偏諱を受け、通春となのりました。吉道は、綱誠(つななり)の十男(九男とも)として元禄2年(1689)に生まれましたので、7歳年上ということになります。

正徳3年(17137月には兄吉通が亡くなります。さらに同じ年の10月には、吉通の跡を継ぎ5代藩主となった吉通の長男五郎太がわずか3歳でなくなっため、通春の兄通顕が継友と改名して6代藩主となりました。

享保14年(17295月に、尾張藩御連枝で梁川藩3代藩主の松平義真が亡くなり、梁川藩が無嗣断絶となりました。なお御連枝とは尾張藩宗家が断絶した時のために尾張藩2代藩主光友が分家独立させたもので、梁川藩松平家、高須藩松平家、川田窪松平家の三家がありました。

梁川藩松平家が無嗣断絶となったため、享保148月に、通春が徳川吉宗から改めて梁川藩3万石を与えられました。柳川藩松平家が再興されたことになります。なお、梁川藩主は江戸定府とされていましたので、通春は梁川に入ったことはなかったと思われます。

享保15年(173011月に兄継友が亡くなりました。39歳でしたが子供がいませんでした。そこで、梁川藩主松平通春が尾張藩を相続し7代当主徳川通春となりました。継友が亡くった際には、通春には兄二人(通温と義孝)がいましたが、2人とも健康でなかったため通春が7代藩主となったといいます。享保16年(1731)正月、家督御礼を言上した際に将軍吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春と名乗るようになりました。

同じ年の3月、『温知政要』を著しました。『温知政要』は、藩主として初めて名古屋に入るにあたってまとめた政治理念などを全21ヵ条にまとめたもので、宗春の考えが具体的に語られています。『温知政要』の巻頭と巻末には、宗春の治政の根本を表す「慈」と「忍」の文字が大きく書かれています。

そして、4月、藩主として初めて名古屋に入りました。名古屋入府の際の宗春は、『ゆめのあと』によれば、浅黄の頭巾をかぶり、唐人笠風の鼈甲の丸笠で、黒い衣服と黒い足袋という奇抜な服装をして、馬に乗って入国したといいます。

名古屋東照宮の例祭は、継友の時代は規制された簡素なものでしたが、宗春が入国した年に開催された例祭は規制を緩和され元の華やかなものとなりました。さらに、芝居小屋が許可され、藩士の芝居見物も許可され、遊郭も許可されました。 

当時、将軍吉宗は享保の改革を推進し質素倹約・規制強化が徹底されており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていましたが、宗春は、それと全く逆を行く規制緩和政策を推進し、芝居小屋や遊郭等を許可するなどしたため、名古屋の町は大いに賑わいました。

しかし、宗春の規制緩和政策は、幕府の方針に真っ向から反対する政策であったため、幕府から厳しい目を向けられるようにようになり、ついに元文4年(1739年)正月12日に吉宗からの隠居謹慎を申し渡され、宗春は江戸の中屋敷麹町邸に謹慎することになりました。そして、7ヶ月間中屋敷で謹慎した後、9227に江戸を発ち、103日に名古屋に入り、三の丸の屋敷に幽閉されました。

その後、宝暦4年(1754)に名古屋城下の下屋敷に移されましたが、宝暦11年に尾張徳川家の菩提寺建中寺の父母の霊廟への参拝が許可されるまで外出は許されませんでした。そして、謹慎して25年後の明和元年(1764108日、69歳で亡くなり、建中寺に埋葬されました。

しかし、死んでも宗春は幕府から赦免されることはありませんでした。建中寺の宗春の墓石には金網が掛けられたといいます。宗春が許されたのは没後75年の天保10年(1839)のことでした.

 下地図が、平和公園内の徳川宗春のお墓です。平和公園は広大な墓地ですので、いきなり訪問しても徳川宗春のお墓は見つかりませんので、事前によく調べてから訪問したほうがよいと思います。



# by wheatbaku | 2024-10-26 22:30
秋山好古、旅順攻撃で勇戦する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑧)

秋山好古、旅順攻撃で勇戦する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑧)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第7回は、日清戦争開戦前の正岡子規の様子、「高陞号事件」、そして、遼東半島に上陸した秋山好古の戦いの様子が主に描かれていました。

 正岡子規は、次回の予告を見ると日清戦争に従軍するようになりそうですので、次回の放映をみてからコメントします。また、高陞号事件については前回コメントしてあります。そこで、今日は秋山好古について書こうと思います。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第7回で描かれていた秋山好古の戦いは、「土城子(どじょうし)の戦い」と呼ばれている戦いです。そこで、今日は、主に「土城子(どじょうし)の戦い」での好古の戦いぶりを説明します。

 その前に、スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回で秋山好古の結婚のことが描かれていましたが、それについてはまだコメントしていませんので、まず秋山好古の結婚について書こうと思います。

 秋山好古は、明治26年に結婚しました。相手は、好古が陸軍大学校在学中に下宿していた旧旗本佐久間家の長女であった多美です。スペシャルドラマ「坂の上の雲」6回では、児玉源太郎がきっかけをつくったように描かれていましたが、原作『坂の上の雲』では、「渡米」の章のなかで、好古が独身主義者であり、同僚や後輩に主張し、弟の真之にもそれを強制したと説明した後、簡単に「日清戦争の前年、好古のほうが結婚した。齢35である。その前年に松山に残っていた母お貞に家をひきはらわせ、東京へよんだ。はじめて一家をかまえた。家は四谷の信濃町十番地にもったが、しかしこのため一家の宰領者が必要になった。好古は結婚することになった。新婦は、好古が少尉のころに下宿していた旧旗本の佐久間長女多美であり、齢24歳であった。」とだけ書かれています。

『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)によれば、好古が雇い入れた若い女中が、母貞の財布からお金を盗んだことがあり、そのことを同期生の塚本芳郎に打ち明けました。すると、塚本芳郎は好古を責め、「こんな事が起こるというのも家庭を取り締まる主婦がいないからだ。こんなことでいつまでも母親に心配させるのは親不孝じゃぁないか。早く嫁を貰え」と逆に説教をされて、好古も意外と素直に結婚を決意します。好古は「母が気に入りさえすりゃ、それでいい」といいました。結婚すると決めたとたん、塚本芳郎は、好古が下宿していたことのある旧旗本佐久間家の長女多美を紹介しました。母お貞も多美を気に入り、話は順調に進み、明治264月に結婚しました。

 以上からみると、児玉源太郎が仲介の労をとったというのはスペシャルドラマ「坂の上の雲」の創作ということになります。しかし、松たか子が演じた多美とのシーンは創作とはいえ、「(茶碗が)もう一つあってもええかもしれません」というプロポーズのセリフなどは素晴らしいシーンだったと思います。

 そして、好古は、結婚の1年後に日清戦争が始まり、出征することになりました。

 日清戦争では、山県有朋を司令官とする第1軍が最初に朝鮮に上陸し明治27年10月には鴨緑江まで北上していきました。さらに、2軍が編成され、第2軍は遼東半島へ上陸します。第2軍は、第1師団、第2師団、混成第12旅団で編制され、司令官には大山巌陸軍大将が任命されました。

 第1師団は山地元治中将が師団長で、第1旅団、第2旅団から編成されていました。山地元治中将は、片目を失っていたため「独眼竜」のあだ名を持っていました。第1旅団長は乃木希典少将、第2旅団長は西寛二郎少将でした。秋山好古は、第1師団隷下の騎兵第1大隊長として、明治27105日広島港を出港しました。

 1025日に上陸を終えた第1師団は西方に進み、116日に金州への攻撃を開始しまもなく金州を攻略しました。その後第1師団はさらに西に向かい、117日には大連湾の複数の砲台を占領した後に、旅順攻撃の準備にかかりました。

1113日、騎兵第1大隊と騎兵第6大隊の一部を合した「秋山支隊」は第2軍の直属となり、好古は旅順の敵情の捜索を命じられました。

捜索にあたった好古は、1117日旅順の北東約30キロの営城子から大山巌第2軍司令官あてに上申書を送りました。この上申書は的確な情勢判断だと高く評価されたようで、大山巌司令官は秋山好古の上申書をもとに、旅順攻撃計画を立てました。

秋山好古の上申書を大山巌が高く評価していたことは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。

引続き捜索を命じられた秋山好古の捜索騎兵隊は、1118日の朝、宿営地の営城子を出発し 午前10時ごろ、突然、砲十門を持つ約一旅団の大部隊が水師営方面から前進してくるのに出会いました。ここでの戦いが「土城子(どじょうし)の戦い」です。

スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた好古の戦いがこの戦いです。そこで、「土城子の戦い」を『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)に基づいて書いていきます。

敵の大軍に対して味方は三中隊に満たない小勢なため、到底敵対するのは難しい状況でした。しかし、今度の戦いは騎兵隊にとって初陣で、 将来の士気に大いに影響するので退却できないと考えた好古は、 戦闘開始を決心しました。

好古は、 中隊長河野政次郎大尉の第一中隊を本道の東側に、中隊長山本粂太郎大尉の第二中隊を本道の西側に配置し、中隊長浅川敏靖大尉の第六中隊を乗馬予備隊として手許において、 戦闘を始めました。しかし、兵力の差がちがいすぎ、味方は苦戦に陥り、さらに士気の揺らぎも見え始めました。

敵弾が炸裂し、砂煙りがうず巻くなかで、好古は水筒につめた酒を飲んで戦況を眺めていました、すると、好古は副官が止めるのも聞かず兵たちが伏せている前方へ馬を進め平然として督戦しました。。

その姿は悠然また泰然たる姿は胸中何等の恐怖も焦燥も困惑もなく、「あたかも桜花爛漫のなかで、酒客が盃を傾けているような風情だった」と河野中隊長が語っています。

好古の豪胆な姿をみた味方は忽ち戦闘意欲を回復し防戦に勤めました。しかし、大隊長の身辺を心配した副官の稲垣三郎中尉は、堪りかねて好古の馬の轡(くつわ)を取り、後方へ引き戻しました。この時のこと、乱軍の中で、好古の部下たちが周囲の敵にあたっていたため、好古の周囲にいるのは通訳の熊谷直亮(なおすけ)だけになった際、熊谷に「おれは旅順にゆけと命令されている。 退却しろとは命令されていない。去る者は去れ。しかし、 通訳は要るから、 君はついてこい」と言って、敵の中に突入しようとしました。副官稲垣が来てこれを止めましたが、それでも、好古は、陣頭にたち続けと言います。

騎兵大隊の危機を知った中隊長中萬徳二中尉が率いる歩兵第三連隊第三中隊が、応援に駆けつけてきました。しかし衆寡敵せず、中萬中尉は頭に敵弾が命中して戦死し、中隊も大損害を被りました。

今や総退却せざるをえない戦況となった中、好古は、河野第一中隊長に決死の襲撃を命令しました。河野大尉は「これは万死に一生も期せない。秋山さんは酔っぱらってしまったのではないか」と思ったものの、命令は絶対なので、好古のもとにかけつけ、剣の礼をして、「これでお別れいたします」といい、決死の乗馬襲撃に出発すべく、ふたたび隊に駆けもどった。

敵は左右一里にわたって展開し潮のように押し寄せ、四、五百メートル近くまで迫ってきた。剛毅な好古も手の打ちょうがなく、意を決して、河野中隊に襲撃中止を命じ、総退却するよう命令しました。

しかし、歩兵を伴っていたため退却が大変でした。騎兵部隊の苦戦を知り応援にきた歩兵部隊の退却を騎兵部隊がそれを掩護するということになってしまいました。

この時、好古は自ら殿(しんがり)を勤め、壊滅しそうな部隊を掩護し集結させて退却戦と戦っているうちに、急を聞いた歩兵第三連隊が駆けつけ、ようやく敵の追撃を阻止することができました。

以上『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)に基づいて戦いの様子を書きました。なお、『秋山好古』(秋山好古大将記念刊行会刊)は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。

この戦いは「土城子(どじょうし)の戦い」と呼ばれています。土城子の戦いは、好古および日本騎兵にとって初陣でしたが、好古の初陣は歴戦の中で最も苦しい戦闘の一つとなりました。しかし好古にとっては貴重な実戦経験となりました。また、好古の戦場における勇敢な戦いと的確な決断および指揮に対する部下たちの信頼が高くなりました。

1121日未明には日本軍が旅順に対して総攻撃を開始します。そして、陥落させるのに半年かかると言われていた旅順はわずか一日で陥落しました。

司馬遼太郎は、原作『坂の上の雲』の中で、「(日清戦争における日本軍の)勝利の最大の因は、日本軍のほうにない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという概念を、ほとんどもっていなかったためである。」と書いています。


# by wheatbaku | 2024-10-22 22:15 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
東郷平八郎、英国籍船「高陞号」を撃沈する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑦)

東郷平八郎、英国籍船「高陞号」を撃沈する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑦)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回では、日清戦争開戦前の政府内部における開戦の可否について、時の総理大臣伊藤博文、外相陸奥宗光、参謀次長川上操六、そして山県有朋とのやりとりが丁寧に描かれていました。原作『坂の上の雲』でも日清戦争とはどういうものか司馬遼太郎が詳しく書いていますので、ご興味を持たれた方は、原作『坂の上の雲』をお読みいただくとよろしいと思います。

 そして、ドラマ第6回は、東郷平八郎がイギリス船籍の船に対して砲撃を命じたところで終わりました。

 これは撃沈した船が「高陞(こうしょう)号」と呼ばれていたため、「高陞号事件」と呼ばれています。今日は、次回のネタバレになってしまうかもしれませんが、その「高陞号事件」について書いてみます。

 日清両国は開戦必至の情勢ながらまだ宣戦布告されていない明治27725日に朝鮮半島中部西側の豊島沖(ほうとうおき)で、日本海軍連合艦隊の軍艦「吉野」「秋津洲(あきつしま)」「浪速」3隻は清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻「済遠(さいえん)」「広乙(こうおつ)」と遭遇し海戦となりました。「済遠」は逃げ去り、「広乙」は座礁しました。この海戦は日本側の圧勝となりました。これが「豊島沖(ほうとうおき)海戦」と呼ばれる海戦です。

 この海戦の最中、たまたま清国軍艦「操江(そうこう)」と英国商船旗を掲げた輸送船がやってきました。この輸送船が「高陞号」でした。

 以下、田中宏巳氏が『東郷平八郎』のなかで”最も信頼に足る”伝記であると書いている『東郷元帥詳伝』(小笠原長生編)に沿って「高陞号事件の経緯を書いてみます。

 高陞号は、東郷平八郎が艦長であった浪速の右舷を通過しようとしました。その時、東郷平八郎が艦橋から注視すると清国兵が満載されていました。そこで、直ちに停船させ人見大尉に臨検させました。臨検した人見大尉は「イギリスのインドシナ汽船会社代理店所有の『高陞号』であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、イギリス人船長は日本側の指示に従う意向を示している」と復命しました。

 そこで、東郷平八郎は「錨をあげよ」と抜錨を信号で指示しました。しばらくして、高陞号の船長から「重要なことがあるので面談したい」との信号が挙がりかつ「ボートを送って欲しい」と言ってきました。東郷平八郎が再び人見大尉を送って調べさせると、「清国兵は船長を脅迫しており、船長はこちらの命令に従うことができず、船内はすこぶる不穏な様子である。」と報告してきました。この報告を聞いた東郷平八郎は船長と船員に向けて「直ちに船を見捨てよ」と命じました。 これに対して船長は再びボートを送るよう要望してきました。これに対して繰り返し送れないと返信しました。

 東郷平八郎は慎重を期して、もう一度、「船を去れ」と信号を挙げました。そのうえで、危険を知らせる赤旗をかかげ、清国兵に反省を期待しましたが、彼らは闘争意志を明確にして、船長も脅迫して、日本側の命令に応じる様子を見せませんでした。ここまで2時間半の時間が経過していました。ついに東郷平八郎が声を発しました。「撃沈します」と(*スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回の最後の場面がこれです)

 以上が『東郷元帥詳伝』に書かれている概要です。

725日午後146分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没しました。この時船長らイギリス人船員は救助されましたが、清国兵の多くは水死しました。

 高陞号を撃沈したとの情報が国内に伝わるとイギリスとの関係が悪化することを懸念して、政府要人たちは東郷平八郎を非難しました。

 また、イギリスのキンバレー外相も駐英青木公使に対して「日本海軍の将校によるイギリス国民の生命財産を損害は日本政府の責任である」と抗議するほどイギリス世論も沸騰しました。しかし、こうしたイギリス世論の高まりの中で、イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドが「タイムス」に寄稿して国際法上問題ないと論じ、さらに、とジョン・ウェストレーキ博士も「タイムス」に寄稿し、浪速の東郷艦長の処置は正当で何ら問題はないと発表しました。 こうしたことによってイギリス世論は沈静化しました。

 東郷平八郎は国際法に則って高陞号を撃沈していました。 東郷平八郎が国際法に熟知していたのは、若い頃7年間イギリスに留学し、そこで国際法を学んでいたからです。スペシャルドラマ「坂の上の雲」第5回で東郷平八郎が清国の丁昌に国際法の書物を贈る場面がありましたが、あの場面は、東郷が国際法を熟知していることを示すためのものだったと思います。

 東郷平八郎は弘化4年(1848)、現在の鹿児島市に生れ、戊辰戦争当時は薩摩藩の軍艦「春日」に乗り込んでいました。明治4年イギリスに留学しますが、その事情は、田中宏巳著『東郷平八郎』よると、鉄道技師になるため留学したいと思った東郷平八郎が西郷隆盛に相談したところ、西郷隆盛は海軍軍人をめざすという条件で留学を許したそうです。

 明治4年(1871)、東郷平八郎は横浜港を出発し、イギリスに向かいました。

最初の2年間はカレッジで、英語を始め数学、理科などの基礎知識を学び、2年後、「ウースター」という練習船に乗り込み、2年間学びました。卒業後、帆船「ハンプシャー」に乗り込んで世界一周の遠洋航海に出発し、7ヶ月に及ぶ航海で、実地研修を経て留学を終了し、明治11年帰国しました。

 留学中、基礎知識や操船技術の習得は当然ですが、東郷平八郎が力を入れて学んだのが国際法でした。

東郷平八郎が国際法を一生懸命勉強したことは、『日本の海軍誕生篇』(池田清著)p125に「留学中、操艦の実務とは別に、彼が最も関心を持ち、研究を重ねたのは国際法と海商法であった。東郷が在英中書きつづったこれらのノート類はネルソンの遺髪とならんで、終戦時まで江田島の海軍兵学校の教育参考館に陳列されていたが、大型の大学ノートに、細かい、しかもていねいな英文でギッシリと書き込まれたもので、彼の几帳面な性格の一端をうかがわせるに十分であった。」と書かれていることからもわかります。

 明治44年、東郷平八郎がイギリス国王ジョージ五世の戴冠式のため東伏見宮依仁親王に随行して訪英した際、東郷平八郎は「ウースター」号を訪ね、大歓迎を受けました。その際に、高陞号の船長と再会しています。船長は「ウースター」号の卒業生で、東郷平八郎の2年後輩だったからです。これには、東郷平八郎も驚いたと語っています。(『東郷元帥詳伝』より)


*『東郷元帥詳伝』と『日本の海軍誕生篇』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。




# by wheatbaku | 2024-10-17 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
  

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