駒場御薬園を管理した植村佐平次政勝は隠密御用も勤めた採薬使だった(駒場散歩④)
駒場には、江戸時代には、幕府の御薬園があり、「駒場御薬園」と呼ばれていました。そこで、今日は「駒場御薬園」についてご案内します。
京王井の頭線駒場東大前から南に1キロほど行くと都立駒場高校があります。(下写真)
その敷地の西側に目黒区教育員会が設置した「御用屋敷跡」の説明板があります。
駒場周辺は、江戸時代は将軍が鷹狩をする鷹場がありました。御用屋敷とは、鷹場を管理する役人が詰めていたり、将軍が鷹狩りに来た際の食事場所などに利用される屋敷です。説明板には次のように書かれています。(下写真)
「江戸時代、この周辺は約5万5千坪(約18万㎡)におよぶ御用屋敷の敷地でした。この辺りに建っていたと推定される御用屋敷の建物は、徳川将軍がこの近くの駒場野へ鷹狩りに来た際には食事や休憩場所となり、また平素は狩場の管理や準備にあたる鳥見役人が詰めていました。
御用屋敷を含むこの地域は元々、上目黒村の加藤家が拓いた土地でした。寛永3年(1626)に御用屋敷にあたる土地が加藤家より伊予宇和島藩伊達家へ献上され、同家の下屋敷地となりました。そして、幕府によって江戸周辺の鷹狩りの場が整えられるのに従い、享保3年(1718)に伊達家より下屋敷地は建物も含めて幕府へ差し出されて、 御用屋敷となりました。御用屋敷には、将軍家のための「御薬園」も設けられ、薬用の植物が栽培されていました。」
説明板によれば、現在の都立駒場高校周辺には、幕府の御用屋敷があり、そこに駒場御薬園があったと考えられています。
徳川家康は、健康や薬に強い関心があり、自ら薬を調合したと伝えられています。その影響からか、3代将軍徳川家光の時代の寛永15年(1638)に江戸の南北に御薬園が整備されました。北の御薬園は、現在の護国寺がある場所に整備され、大塚御薬園などとよばれたといいます。また南の御薬園は現在フランス大使館がある南麻生周辺に整備され、麻布御薬園などと呼ばれたと言われています。しかし、5代将軍徳川綱吉は、護国寺を建立するため北の御薬園を廃止してしまいました。そして貞享元年(1684)には南の御薬園も廃止され、綱吉の屋敷であった白山御殿に薬草を移植されました。これがのちに小石川御薬園となります。徳川綱吉は、御薬園の整備には力をいれませんでしたが、8代将軍徳川吉宗の時代になり、御薬園の整備に力が入れられます。8代将軍吉宗は、医療政策の一環として、丹羽正伯・野呂玄丈・植村政勝ら本草学者を登用し、全国各地での薬草の調査などを実施しました。それとともに薬草の栽培・研究のため薬園を整備させました。
有名な小石川御薬園が拡大整備されたのは享保6年(1721)のことです。小石川御薬園には小石川養生所が設置されたり青木昆陽が甘藷を試作したことでも有名です。
この小石川御薬園より1年早く駒場に御薬園が開設されました。これが駒場御薬園で、駒場御薬園は、享保5年(1620)駒場の鷹場1万坪の山林を切り開き薬園として整備されました。そして、それを管理したのが植村佐平次政勝です。
植村佐平次政勝は、伊勢国飯高郡大津杉村(三重県松阪市)の郷士植村政恭の子として生まれました。松坂は、現在は松阪牛で有名ですが、江戸時代は和歌山藩の飛び地でした。宝永7(1710)年に和歌山藩御庭方として登用されました。そして、和歌山藩主であった徳川吉宗が8代将軍となったことにより、享保元年(1716)吉宗に随行して幕臣となり、奥御庭方となり庭の手入れと警固、情報収集の任に当たりました。そして、駒場御薬園が開設された際に「薬園預り」となり、駒場御薬園の管理を任されました。また、薬草の採集しつつ隠密の用務を勤める採薬使として全国各地を廻り、採集した薬草は駒場御薬園で栽培しました。植村政勝の子孫も代々駒場御薬園管理の役職を踏襲し明治維新を迎えました。
採薬使としての植村佐平次政勝の活躍を描いた平谷美樹著「採薬使佐平次」(角川文庫)という小説もあります。この小説は全三巻で、①「採薬使佐平次」、②「採薬使佐平次 将軍の象」、 ➂「採薬使佐平次 吉祥の誘惑」となっています。下写真は「採薬使佐平次」です。
採薬使の植村佐平次政勝が、町奉行所の同心の助けも得て、8代将軍吉宗の指示を受けつつ、尾張藩の一部要人が企んだ蝗害(こうがい)を引き起こそうという陰謀に立ち向かう姿が描かれています。
下地図の中央が「御用屋敷跡」の説明板です。