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正岡子規、新聞『日本』に入社する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑥)

正岡子規、新聞『日本』に入社する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑥)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第6回では、正岡子規が東京帝国大学を退学し陸羯南(くが かつなん)の新聞『日本』に入社する話、秋山好古が結婚する話、そして、いよいよ日清戦争が始まる話などが描かれていました。

 今回は、正岡子規と陸羯南(くが かつなん)との関係について書いてみます。

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、子規が陸羯南に帝大を中退し新聞「日本」に入社したいと相談すると、陸羯南がそれを承諾するとともに母と妹を呼び寄せ一緒に住む家の紹介までする話が描かれていました。

 現在、JR鶯谷駅北口から徒歩5分~6分の場所に子規庵があります。(下写真は子規庵の入り口です)

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子規庵は正岡子規が明治27年から亡くなる明治35年まで住み、子規の死後も子規の母や妹が住んでいた正岡子規ゆかりの建物ですが、陸羯南が紹介したものです。

 陸羯南は、弘前藩士族中田氏に生れました。本名は中田実ですが、親戚の陸家再興の名目で陸(くが)姓を名のったと言います。羯南は号です。

明治7年宮城師範学校に入りますが中退し、上京して司法省法学校に入ります。同期生には、原敬、福本日南らがいます。しかし、寮の食事への不満が原因で起きた騒動に関連して、原敬らとともに退学となります。その後、故郷に戻り青森新聞などに勤めた後上京し、官職を得て、内閣官報局編輯課長となります。しかし、明治21年年政府の条約改正と欧化政策に反対して辞職し、谷干城らの援助を受けて4月より《東京電報》を発刊します。この新聞は明治22年に『日本』となり、陸羯南は33 歳で社長兼主筆となりました。

 正岡子規を陸羯南に紹介したのは、子規の叔父加藤恒忠でした。加藤恒忠は、安政6年、松山藩の儒者大原観山の三男として生まれました。秋山好古も安政6年生れですので好古と同い年ということになり、好古とは深い付き合いがあったようです。

加藤恒忠は明治816歳で上京して司法省法学校に学びます。ここで陸羯南と出会います。しかし、司法省法学校を退学となり、中江兆民のフランス語熟で学びます、明治16年、加藤恒忠は旧松山藩主久松定謨(さだこと)に随行してフランスへ留学することになりました。加藤恒忠は子規が幼い頃から面倒をみていましたが、自分が渡仏して子規の面倒を見られなくなることから、明治16 年子規を陸羯南に引き合わせました。

こうした経緯を経て親友の加藤恒忠からの依頼された陸羯南は、誠実に子規を援助していました。そのため、明治25年に子規からのお願いを聞いた陸羯南は新聞『日本』への入社を認めただけでなく、明治27年には『小日本』という新聞を新たに発刊し、それを子規に任せています。

また、子規は明治252月に陸羯南の自宅の西隣に引っ越しました。これも陸羯南の配慮です。さらに子規の病気を心配した陸羯南は、子規の母と妹律を東京に呼びよせるようにして、子規は明治2511月に母と律を神戸まで迎えに行っています。そして、3人が東京に着いた翌日には陸羯南から香の物・砂糖・醤油などが届いたと子規は故郷の伯父に手紙で報告しています。陸羯南の心配りのほどがよくわかるエピソードだと思います。

そして、明治272月には、陸羯南の隣地である上根岸町82番地の家に引越しています。それが現在の子規庵のある場所です。

こうした陸羯南の心配りに対して、子規も非常に感謝していたようです。子規は生前、河東碧梧桐の兄河東可全に自分の墓碑銘を書き送っています。その墓碑銘は次の通りです。

正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升

  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人

  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東

  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御

  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養

  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年

□月□日没ス享年三十□月給四十円

 子規が生前書き残した墓碑銘は、現在、北区田端の大龍寺にある子規の墓の隣に建てられています。脇の説明板によると平成19年に建て替えられてもののようです。

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この墓碑銘について、復本一郎氏は『正岡子規伝』p82で次のように書いています。

「注目すべきは『日本新聞社員タリ』の部分である。日本新聞社の社員であった。との意味であろうが、この言葉には、子規自らの誇りと、陸羯南への感謝の思いの二つながらが籠められているとみるべきであろう。」

 ちなみに子規の墓(下写真)は「子規居士之墓」と刻まれていますが、『正岡子規伝』p733によるとこの字は陸羯南が書いたものだそうです。

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 最後に、加藤恒忠の話題に戻りますが、加藤恒忠は、外交官として活躍し、後には松山市長も勤めています。

 子規が亡くなった後、正岡家は妹律が継ぎました。律は二度結婚しましたが子供には恵まれませんでした。そこで養子をもらいました。その養子は加藤恒忠の三男の忠三郎でした。そして、その御子孫は御存命のようです。 


*大龍寺の正岡子規のお墓と墓碑銘の写真は数年前に撮ったものです。現状と異なるかもしれないことをお断りしておきます。


下記地図の中央が子規庵です。


下記地図の中央が大龍寺です。





# by wheatbaku | 2024-10-14 22:15 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
正岡子規は喀血し、秋山真之は海軍兵学校を卒業する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑤)

正岡子規は喀血し、秋山真之は海軍兵学校を卒業する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」⑤)

スペシャルドラマ「坂の上の雲」第5回では、正岡子規が結核になり伊予松山に帰京する一方、秋山真之が海軍兵学校を卒業し少尉候補として軍艦に乗り組む姿が描かれていました。そして、最後に東郷平八郎と出会うことが描かれていました。

 正岡子規が、喀血したのは、明治225月のことです。この時に、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていたように初めて俳号の「子規」を使用しました。「子規」とは野鳥のホトトギスのことで「子規」のほか「不如帰」、「時鳥」などとも表記します。ホトトギスは、鳴いて血を吐く鳥と言われています。咳をして血を吐いた自分をホトトギスに見立てて、俳号として「子規」と名づけたといわれています。

 子規は、治療のため、松山に帰郷します。その時のことがスペシャルドラマ「坂の上の雲」でも描かれていました。帰郷の時の様子や真之が訪ねてきてくれた時の様子などは原作『坂の上の雲』とほぼ同じです。ただ、原作『坂の上の雲』では、正岡子規が松山で野球に取り組んだことが詳しく描かれています。

 子規が松山で療養している際に、真之は松山に帰省します。その際には当然子規の住いを訪ねています。今回のスペシャルドラマ「坂の上の雲」で秋山真之が海軍兵学校時代に松山に帰省している時、お囲い池(プール)で鎮台兵と喧嘩したエピソードが描かれていました。この話は、原作『坂の上の雲』にも書かれています。そして、『秋山真之』(秋山真之会編)にも書かれていますので、実際にあったエピソードだと思います。

 『秋山真之』(秋山真之会編)には次のように書かれています。旧字は現代語に修正して引用させていただきます。

「将軍(秋山真之のこと)は学校が休暇になると、よく江田島から一衣帯水の松山に帰省していた。松山には旧藩時代から御伴流という水泳術があって夏にはお囲い池という所がその練習場所となり、みんな真っ黒になって泳いでいたものである。その水泳場で将軍が兵隊を殴って問題を惹き起こした。

 将軍が兵学校から夏休みで松山に帰っていた時だった。『ここでは褌(ふんどし)をせぬと泳がれぬということになっていたのだが、それを知ってか知らずか、褌をしていない兵士が2人来て泳いだ。将軍は『不都合な奴だといって後から泳いで行き、その兵士が筏に上るのを待っていた。兵隊さんはそんなことは知らないから筏へ上った所を、将軍は鉢巻をしていた手拭で、兵士をバンバン、引っぱたき水中に突き飛ばした。兵士はようやく岸に泳ぎ着くと逃げてしまった。

翌日、56人づれで兵隊たちが復響にやって来た。将軍はその時筏の上で昼寝をしていた。兵士逹はぢっと将軍を見ていたが、中の一人が『こいつぢやこいつぢや」と言った。見ていたお囲いの連中はどうなることかと非常に心配していた。一人の兵士は続いて『昨日叩いたのはこいつぢやと言った。その時将軍はやっと眼をさました。そして何か用かと尋ねた。兵士達はその落らつきはらった態度に先づ威圧されてしまった。将軍は俺に中歩行町(なかおかちまち)の秋山ぢゃが何か用かと却って逆襲を試みた。

兵士逹は警察へ告訴するといって騒ぎ立てた。将軍は無褌で泳ぐのは此のお池では規則違反だ。お囲い池の神聖を汚すものだから罸したのだ。併し喧嘩なら此慮で起った事だから此處で始末をつけてやらうと成喝し、一歩も譲らなかった。正岡師範(*正岡子規とは特別の関係はない)らは、警察汰沙になっては困るから、出来れば調停しようと試みたが、将軍も譲らず兵士達も譲らなかった。正岡師範は脱衣所前の荒莚の上に、いつもキチンと扇を持って座り込んでいるような古武士的な人であったが、兵士達が何うしても承知しないのでこのお囲い池で規則違反をやった者は、お囲い池の水を飮ませるといふ事になっている。それほどあなた逹が御不滿なら、秋山のいうように水の中で勝負をさっしゃい』と言い放った。兵士達はそれで最早とりつく島がなくなった。水の中の喧嘩ではお囲い池の連中には叶わないことは判り切っているので 結局警察へ訴えた。秋山将軍は警察から呼出しが来ても頑として出て行かなかった。そして結局この間題は五十銭の罰金という事で解決した。身体は小さい方だったが剛毅で肝っ玉はその時から太かった。

 郷里松山ではこんなことも起こしていた秋山真之ですが、海軍兵学校での成績は抜群で、明治237月に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍少尉候補生として比叡に乗艦しました。そして、その年の12月に父久敬が亡くなっています。

 ドラマの最後では、真之が東郷平八郎とめぐり逢うエピソードが描かれていました。東郷平八郎は連合艦隊司令長官として日本海海戦での指揮を執り、秋山真之は参謀としてT字戦法を編み出し、そして日本海海戦で実施しました。両雄の巡り会いが早くも描かれたわけです。

 明治247月、当時世界最強とうたわれた定遠・鎮遠を含む清国の北洋艦隊を率いて水師提督丁汝昌が日本にやってきました。これは清国のデモンストレーションでした。丁汝昌率いる北洋艦隊は、安芸の宮島にも停泊しました。それを見学した東郷平八郎と秋山真之が会うという設定でした。スペシャルドラマ「坂の上の雲」では、秋山真之の質問に答える形で東郷平八郎が感想を述べる場面が描かれていました。この中で東郷平八郎が語った「清国艦隊はなまくら刀」という感想は史実のようです。

 『元帥東郷平八郎』(野村直邦編)の中で次のように書かれています。

「安芸の宮島に碇泊し、呉鎮守府司令長官中牟田中将、東郷参謀長等が招かれ、他の諸港同様盛大な宴が設けられたが、東郷参謀長は、熱心に兵器その他を観察し、讃否に関しては一言も発しなかった。数日後、清国艦隊の一艦、絛理のため呉軍港内に入港すると、ひそかに同艦の周囲を視、やがて、周囲の人に一言『清国艦隊は焼身(なまくら)の名刀の如きのみ』と評した。後日、当日の感想を語った中に次のようなことばがある。『たしか平遠であったかとおもうが、修理のため入港したので、見物に行ったところ、一砲門より、洗濯物がぶらさがり、かつ不潔不整頓を極めていた。神聖なるべき砲門にこのような不作法を、しかも外国であえてするを憚(はば)からずとすれば、彼等の覚悟の程も推量され、いかに堅艦巨砲を有しているといっても、どうしてその威力を充分に発揮できよう。たとえ、上に立つ名将が何名いたとしても、このような兵員を使うにおいては、勝利を得ることは難しかろうと考えた。』」

 このように東郷平八郎が「清国艦隊はなまくらの刀」と語ったのは史実のようです。しかし、原作『坂の上の雲』にも、ドラマのようなエピソードは書かれていません。従って、スペシャルドラマ「坂の上の雲」のように、安芸の宮島で秋山真之と東郷平八郎との邂逅があったかどうか定かではありません。




# by wheatbaku | 2024-10-07 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
秋山真之は海軍兵学校に入学し、好古は渡仏する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」④)

秋山真之は海軍兵学校に入学し、好古は渡仏する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」④)


スペシャルドラマ「坂の上の雲」第4回では、秋山真之が海軍兵学校に入学し、兄の好古が渡仏する話が描かれていました。

秋山真之は、明治19年(188610月、海軍兵学校に入学しました。真之は、大学予備門は快適だと感じていました。しかし、吉古が学費のねん出に苦心しているのを感じており、大学へ行くのはやめて、学費無用の学校に行こうと考えて、海軍兵学校に行くことにしました。そして、吉古に相談しますが、この相談の場面は、ほぼ原作通りです。

 真之が入学した海軍兵学校は、海軍の士官養成機関で、明治2年(1869)海軍操練所として東京築地に創設されました。翌3年、海軍兵学寮に改称し、明治9年、海軍兵学校に改称しました。このように真之が海軍兵学校に入学した頃は築地にありましたが、明治21年学校は広島県江田島に移転しました。これ以降、江田島は兵学校の代名詞となりました。

海軍兵学校は、明治6年にはイギリスの海軍少佐ダグラス以下34名の教官団による教育が始まり、イギリス式の海軍教育が行われました。これは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた通りです。

ちなみ、海軍兵学校の生徒の採用年齢は16歳以上19歳以下、学術試験および身体検査により選抜され、教育は将来兵科将校として勤務に必要な学術の修習、徳性の涵養、体力の練成に重点が置かれ、修業年限は34年で、卒業と同時に海軍少尉候補生に任命され、練習艦隊における実習、遠洋航海を経て海軍少尉に任官しました。

秋山真之も、明治23年、首席で海軍兵学校を卒業して海軍少尉候補生として実地練習として比叡に乗艦しています。

原作『坂の上の雲』では築地時代に築地から飛鳥山までの駆け足競技で知り合ったこととなっていますが、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で海軍兵学校のカッター競技で競い合う中で広瀬武夫と知り合う場面がありました。

広瀬武夫は、後に日露戦争で旅順港を海上封鎖した旅順港閉塞作戦で戦死し軍神と崇められ、文部省唱歌の「広瀬中佐」にも歌われました。『秋山真之』(秋山真之会編)によれば真之と広瀬武夫とは、お互いを尊敬しあっていて、四谷で一緒に暮らしていたこともあったとのことです。ただ、二人が知り合ったきっかけは海軍兵学校の教官であった八代六郎(後の海軍大将)の紹介によると『秋山真之』(秋山真之会編)には書いてあります。

また、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で、海軍兵学校が江田島に移転した後に松山に里帰りする場面がありました。その際、街中で父の久敬(当時は八十九と号していた)を見かけながら、挨拶もせずにすれ違いながら場面がありました。実際、こうしたことがあったのかどうかわかりませんが、原作『坂の上の雲』には、このことが書かれています。ただ、この帰省の際に、正岡子規の妹律との話がスペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれ通りであるか(もしくは描かれていないか)はネタバレになってしまいますので、ここでは控えておきます。気になる方は、原作の「海軍兵学校」の章をお読みください。


秋山好古は、明治20年(1887)にフランスに渡りました。

好古は、明治16年に陸軍大学校(1期)に入校し、明治18年に陸軍大学校卒業し、参謀本部勤務した後、東京鎮台の参謀となっていました。

フランスに渡ったのは、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていた通り、旧松山藩の当主久松定謨が、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学したため、その補導役としてフランスへ渡ったのでした。

ペシャルドラマ「坂の上の雲」第3回では、秋山好古が入った陸軍大学校の場面がかなりありました。この中に登場した陸軍大学校長の児玉源太郎は、は日露戦争を語る上で欠かせませんし、高橋英樹が演じていることからもわかると思いますが、ドラマの展開のうえで非常に重要な役を果たしますので、いつか、改めて詳しく書こうと思います。

陸軍大学校の学生はドラマでは大勢いるように描かれていましたが、実際は第1期生は10名でした。第3回では井口省吾(堤大二郎)、藤井茂太(宮内敦士)、長岡外史(的場浩司)が姓名入りで描かれていましたし、彼らは第4回でも登場していました。日露戦争では、長岡外史は参謀本部参謀次長、井口省吾は満州軍総司令部の参謀、藤井茂太は第三軍の参謀長として、それぞれ日露戦争勝利のため活躍します。日露戦争の場面で、再び登場することとなると思います。なお、ドラマには登場しませんが、陸軍大学校第1期生には太平洋戦争時代に首相をつとめた東条英機の父東条英教(ひでのり)もいました。

秋山好古が、明治20年に久松定謨(さだこと)の補導役としてフランスに渡るにあたっては、好古の松山時代の親友加藤恒忠(正岡子規の叔父)の推薦があったようです。

しかし、スペシャルドラマ「坂の上の雲」で描かれていたように、当時の陸軍はドイツ式に切り替える方針でしたので、フランスに渡る意味がありませんでした。そのため、好古は大いに悩んだようですが、最終的には、フランス行きを決断します。結果的には、後の日本での騎兵の育成にフランスで学んだことが非常に役立ったようです。




# by wheatbaku | 2024-10-01 21:45 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
尾張徳川家の菩提寺~建中寺~(尾張徳川家②)

尾張徳川家の菩提寺~建中寺~(尾張徳川家②)

 今週初めに、所用があり名古屋に行ってきました。その際に、尾張徳川家の菩提寺である建中寺を訪ねてきました。

 建中寺は、尾張徳川家の菩提寺でしたので、歴代藩主のお墓がありましたが、現在は、歴代藩主のお墓は改葬されていて、2代徳川光友のお墓が残されているだけですが、尾張徳川家ゆかりのお寺ですので訪ねてきました。下写真は建中寺の本堂です。

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 建中寺は、名古屋市営地下鉄桜通線の「車道(くるまみち)駅」から徒歩10分でした。

建中寺は慶安3(1650)に亡くなった初代尾張藩主徳川義直の菩提を弔うため、第2代藩主徳川光友が、翌慶安4(1651)に創建した寺院で、徳川光友自身も埋葬されており、以降、尾張徳川家代々の菩提寺でした。

なお、初代藩主徳川義直は、愛知県瀬戸市の定光寺脇の源光廟に埋葬されています。

創建当初、建中寺の境内地は約5万坪(165,000)の広大な敷地があり、諸堂伽藍が建ち並んでいましたが、現在は、約1万坪の境内となっています。元々の境内地は、現在は東区役所、名古屋市立あずま中学校、名古屋市立筒井小学校、東海学園東海中学校・高等学校園などとなっています。

また、現在の境内の南側は、建中寺公園となっていますが、戦後の区画整理前までは公園までが建中寺の境内でした。公園の南端に建中寺の総門が残されています。

下写真は総門の写真ですが、寺号標に刻まれているように、山号は「徳興山」と言います。山号にも徳川家との関係の深さを感じさせるものがあります。

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建中寺公園を通り過ぎると正面に三門が現れますが、三門から北側が現在の建中寺の境内となります。現在の境内図は下記図の通りです。

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建中寺には創建当時の総門・三門を始め、天明年間に再建された本堂のほか多くの建築物がありますので、以下、順に紹介します。

〈総門〉

総門は、慶安4年(1651)創建当時の建物で、総欅造りの三間薬医門の様式で本瓦葺きです。(下写真)

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三門

三門は、慶安4年(1651)創建当時の建築物で、総檜造り三間重層門の建築様式で、本瓦葺きで、名古屋市指定文化財です。

三門は別名山門とも表記しますが、この場合は徳興山という山号に因んだ名称で、徳興山の門という意味だそうです。

三門の二階には、釈迦牟尼仏を中心として十六羅漢の像が祀られているようですが、普段は公開されていません。

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〈本堂〉

三門を抜けると正面に本堂が見えます。この本堂は天明7年(1787)大火の後に再建されたもので、入母屋造り本瓦葺きで、間口15間(27m)奥行14間(25.2m)建坪210坪(700㎡)の巨大な木造建築で、現在名古屋市内の木造建築物としては最大のものだそうです。名古屋市指定文化財です。下写真は三門から見た本堂です。

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本堂内に鎮座する本尊阿弥陀如来は、開山の開山廓呑上人が結城弘経寺から招来された、止利仏師作と伝えられる中品中生の印を結ばれた大変貴重な仏像だそうですが、撮影禁止です。下写真は、ご本尊様が写らないように撮影した本堂内の様子です。

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〈不動堂〉

 本堂に向かって左手側手前に不動堂があります。昭和44年(1969)の再建されたものですが、本尊不動明王は、江戸時代から尾張徳川家戦勝祈願の秘仏として伝えられてきたもので秘仏は非公開です。

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〈開山堂〉

不動堂の本堂よりに開山堂があります。棟札によると、火災消失の後天明6年(1786)に再建された寄せ棟造り桟瓦(さんがわら)葺き総欅造りの建物です。

堂内には本尊阿弥陀如来を中心として建中寺の開山上人中興上人の木像を安置し、代々の住職の位牌が祀られているそうです。

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〈鐘楼〉

 本堂に向かって右手(東側)手前に鐘楼があります。天明七年の再建で、入母屋造り本瓦葺き、台形の袴腰つきの建築様式で、名古屋市指定文化財です。

鐘楼には五百貫の(1,923㎏)の梵鐘がつるされていますが、この梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれていたため、戦時中の供出を免れたそうです。

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〈経蔵〉

 本堂に向かって右手(東側)奥に経蔵があります。宝形造り本瓦葺きの建物で

名古屋市指定文化財です。棟札によると文政11年(1828)建立です。

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〈源正公(げんしょうこう)廟〉

 建中寺は、尾張徳川家の菩提寺でしたので、歴代藩主が埋葬され、そのお墓もあったようです。しかし、現在では、歴代藩主のお墓は改葬され、愛知県瀬戸市にある定光寺脇の徳川家納骨堂に納められているそうです。

 そうした中で、第2代藩主徳川光友のお墓だけが残されていて、「源正公廟」と呼ばれています。

 源正公廟は公開されていませんが、唐門を見ることができます。唐門は徳川光友が亡くなった翌年の元禄14年(1701)に建築されたものです。

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〈御霊屋〉

本堂の真後ろに、建中寺では御霊屋(ごれいや)と呼んでいる建物がある位牌堂があります。ここは非公開です。下写真は、 源正公廟への参道から写した写真です。ここには歴代藩主のお位牌が納められていて、毎日、御回向が行われているそうです。

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〈御成門〉

建中寺は、東側に幼稚園を併設していますが、その幼稚園の南側―三門の東側に御成門があります。元々は、5代藩主徳川五郎太の霊廟の門だったそうです。五郎太は4代藩主徳川吉通の嫡男で父吉通が若くして亡くなったため3歳で5代藩主となりましたが、相続後わずか2か月で亡くなりました。現在は賓客をもてなす門として移築されています。

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下地図の中央が建中寺です。





# by wheatbaku | 2024-09-28 17:00
正岡子規、野球に熱中する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」➂)

正岡子規、野球に熱中する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」➂)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第3回では、秋山真之と正岡子規が大学予備門で学びそして悩む姿や秋山吉古が陸軍大学校で学ぶ姿が描かれていました。その中で、正岡子規が野球に熱中する様子が描かれていました。そこで、今日は、正岡子規と野球について書いてみます。下写真は野球のユニフォーム姿の正岡子規ですが、後記する正岡子規記念球場脇にある句碑の説明板の写真です。

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 原作『坂の上の雲』で、司馬遼太郎は明治22年に子規が結核になったようすを描いた「ほととぎす」の章のなかで「明治20年ごろからベースボールに熱中し、仲間を組んでほうぼうで試合をしたりした。」と書いていますし、子規が結核になり療養のため松山の実家に帰った時にも、安静するようにという医者の指示にもかかわらず、野球に熱中する様子が描かれています。

 実際の子規も野球が大好きだったようで、野球に関する俳句や短歌を多数詠んでいますし、野球に関する文章も書いています。これらの作品は、岩波文庫『正岡子規ベースボール文集』にまとめられています。(下写真)

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 そこに載っている俳句の主なものをあげると次の通りです。

「春風や まりを投げたき 草の原」 

「若草や 子供集まりて 毬(まり)を打つ」

「草茂み ベースボールの 道白し」

「生垣の 外は枯野や 球(まり)遊び」

これを読むと季節を問わず、野球に関する俳句を詠んでいることがわかります。さらに、子規の詠んだ短歌をみると子規が野球が大好きなことがよくわかります。

・久方(ひさかた)のアメリカ人のはじめにしべースポールは見れど飽かぬかも

・若人のすなる遊びはさはにあれどべースポールに如(し)く者はあらじ

・九つの人九つのあらそひにべースポールの今日も暮れけり

 また、スペシャルドラマ「坂の上の雲」では。黒板に「野球」と書いて「『のぼーる』と読むんだ」と子規が説明していましたが、実際に子規は「野球」という俳号を使用して「のぼーる」と読ませたといいます。

 子規は、様々な野球用語を日本語に訳しています。

実際に子規が書いた「ベースボール」という小文の一部を後記しておきましたが、その中で、いろいろな野球用語を日本語に訳しています。そして、その小文の最後に、「ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここに掲げたる訳語はわれの創意に係る。訳語妥当ならざるは自らこれを知るといへども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜へ。」と書いています。

現在、利用されている野球用語の多くのものー例をあげれば「投手」「打者」「走者」ーが、子規の手により日本語に訳されたのでした。

 こうした野球に対する功績が評価され、正岡子規は、2002年に野球殿堂入りをしています。 野球殿堂博物館は、東京ドームの一画にあります。(下写真が東京ドーム、野球殿堂博物館の入口です)

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正岡子規のブロンズは、「野球殿堂」の「新世紀特別表彰コーナー」に飾られ(下写真)、次のように説明文が書かれています。

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「野球を愛した明治の俳人・歌人 明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。227月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。232月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には『日本』新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」

 余談ですが、野球殿堂博物館では、2023年のWBC が大きく取り上げられていて、優勝トロフィーはもちろん、優勝の瞬間をとらえた写真が掲示されていました(下写真)

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 ところで、ベースボールを野球と翻訳したのは正岡子規であるという説が有力でした。

 しかし、最近では、野球という訳語を最初に使用したのは中馬庚(ちゅうまかのえ)であるというのが定説になっています。

 司馬遼太郎も原作『坂の上の雲』の中で「『野球』という日本語をあたえたのはかれ(正岡子規のこと)であった。と河東碧悟桐などはのちしきりに書いているが、そうではなく子規と一高の同窓の中馬庚だったともいわれている」と書いています。

 野球殿堂博物館でも野球の訳語は中馬庚(ちゅうまかのえ)によるものだとして、野球の歴史コーナーの中に次のように書かれています。

「明治27年(1894)に一高(のちの東京大学)の中馬庚(かのえ)が『校友会雑誌号外』の例言(用語の解説)で「野球」と訳しやがてこれが一般に使われるようになった」  下写真が展示されていた『校友会雑誌号外』です。

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 スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも、こうした最近の説にそった説明がされていました。

下写真が「野球の歴史コーナ」入口風景です。手前には天井から「春風や まりをなげたき 草の原」という子規の句が掲示されています。

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 正岡子規は晩年は現在の台東区に住んでいました。そうしたことも関係しているのだと思いますが、上野公園にある都立の野球場に「正岡子規記念球場」という愛称が付けられています。(下写真)

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 この球場のホームベースの後ろ側(球場外です)に正岡子規の句碑が建てられています。句碑には「春風や まりを投げたき 草の原」と刻まれています。(下写真)

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 そして、句碑の手前に設置されている説明板には次のように書かれています。

「正岡子規記念球場

 正岡子規(18671902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。

 子規の随筆『筆まかせ』には、明治23321日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。

 子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。

 上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。

 平成187月 台東区・台東区教育委員会」


◆参考 「ベースボールとは何ぞや―随筆『松蘿玉液』より」より

[○ベースボールの球 ベースボールにはただ一個の球ボールあるのみ。しかして球は常に防者の手にあり。この球こそこの遊戯の中心となる者にして球の行く処すなわち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く。されば防者九人の目は瞬時も球を離るるを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者もまた球に注目せざればついにその要領を得ざるべし。今尋常の場合を言わば球は投者[ピッチャー]の手にありてただ本基[ホームベース]に向って投ず。本基の側には必らず打者[ストライカー]一人〈攻者の一人〉棒[バット]を持ちて立つ。投者の球正当の位置に来れりと思惟する時は〈すなわち球は本基の上を通過しかつ高さ肩かたより高からず膝より低くからざる時は)打者必ずこれを撃うたざるべからず。棒球[ボール]に触ふれて球は直角内に落ちたる時(これを正球[フェアボール]という)打者は棒を捨てて第一基に向い一直線に走る。この時打者は走者[ラナー]となる。打者が走者となれば他の打者は直ちに本基の側に立つ。しかれども打者の打撃球に触れざる時は打者は依然いぜんとして立ち、攫者[キャッチャー]は後(一)にありてその球を止めこれを投者[ピッチャー)に投げ返す。投者は幾度となく本基に向って投ずべし。かくのごとくして一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球[ジレクトボール](投者の手を離れていまだ土に触れざる球をいう)棒[バット]と触れざる者攫者[キャッチャーよくこれを攫かくし得ば打者は除外[アウト]となるべし。攫者これを攫し能わざれば打者[ストライカー]は走者[ラナー]となるの権利あり。打者の打撃したる球[ボール]空に飛ぶ時(遠近に関せず)その球の地に触れざる前これを攫する時は(何人にても可なり)その打者は除外[アウト]となる。(未完)明治29年7月23日]


下地図の中央が「正岡子規記念球場」です。




# by wheatbaku | 2024-09-24 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
  

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