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尾張徳川家の菩提寺~建中寺~(尾張徳川家②)

尾張徳川家の菩提寺~建中寺~(尾張徳川家②)

 今週初めに、所用があり名古屋に行ってきました。その際に、尾張徳川家の菩提寺である建中寺を訪ねてきました。

 建中寺は、尾張徳川家の菩提寺でしたので、歴代藩主のお墓がありましたが、現在は、歴代藩主のお墓は改葬されていて、2代徳川光友のお墓が残されているだけですが、尾張徳川家ゆかりのお寺ですので訪ねてきました。下写真は建中寺の本堂です。

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 建中寺は、名古屋市営地下鉄桜通線の「車道(くるまみち)駅」から徒歩10分でした。

建中寺は慶安3(1650)に亡くなった初代尾張藩主徳川義直の菩提を弔うため、第2代藩主徳川光友が、翌慶安4(1651)に創建した寺院で、徳川光友自身も埋葬されており、以降、尾張徳川家代々の菩提寺でした。

なお、初代藩主徳川義直は、愛知県瀬戸市の定光寺脇の源光廟に埋葬されています。

創建当初、建中寺の境内地は約5万坪(165,000)の広大な敷地があり、諸堂伽藍が建ち並んでいましたが、現在は、約1万坪の境内となっています。元々の境内地は、現在は東区役所、名古屋市立あずま中学校、名古屋市立筒井小学校、東海学園東海中学校・高等学校園などとなっています。

また、現在の境内の南側は、建中寺公園となっていますが、戦後の区画整理前までは公園までが建中寺の境内でした。公園の南端に建中寺の総門が残されています。

下写真は総門の写真ですが、寺号標に刻まれているように、山号は「徳興山」と言います。山号にも徳川家との関係の深さを感じさせるものがあります。

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建中寺公園を通り過ぎると正面に三門が現れますが、三門から北側が現在の建中寺の境内となります。現在の境内図は下記図の通りです。

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建中寺には創建当時の総門・三門を始め、天明年間に再建された本堂のほか多くの建築物がありますので、以下、順に紹介します。

〈総門〉

総門は、慶安4年(1651)創建当時の建物で、総欅造りの三間薬医門の様式で本瓦葺きです。(下写真)

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三門

三門は、慶安4年(1651)創建当時の建築物で、総檜造り三間重層門の建築様式で、本瓦葺きで、名古屋市指定文化財です。

三門は別名山門とも表記しますが、この場合は徳興山という山号に因んだ名称で、徳興山の門という意味だそうです。

三門の二階には、釈迦牟尼仏を中心として十六羅漢の像が祀られているようですが、普段は公開されていません。

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〈本堂〉

三門を抜けると正面に本堂が見えます。この本堂は天明7年(1787)大火の後に再建されたもので、入母屋造り本瓦葺きで、間口15間(27m)奥行14間(25.2m)建坪210坪(700㎡)の巨大な木造建築で、現在名古屋市内の木造建築物としては最大のものだそうです。名古屋市指定文化財です。下写真は三門から見た本堂です。

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本堂内に鎮座する本尊阿弥陀如来は、開山の開山廓呑上人が結城弘経寺から招来された、止利仏師作と伝えられる中品中生の印を結ばれた大変貴重な仏像だそうですが、撮影禁止です。下写真は、ご本尊様が写らないように撮影した本堂内の様子です。

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〈不動堂〉

 本堂に向かって左手側手前に不動堂があります。昭和44年(1969)の再建されたものですが、本尊不動明王は、江戸時代から尾張徳川家戦勝祈願の秘仏として伝えられてきたもので秘仏は非公開です。

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〈開山堂〉

不動堂の本堂よりに開山堂があります。棟札によると、火災消失の後天明6年(1786)に再建された寄せ棟造り桟瓦(さんがわら)葺き総欅造りの建物です。

堂内には本尊阿弥陀如来を中心として建中寺の開山上人中興上人の木像を安置し、代々の住職の位牌が祀られているそうです。

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〈鐘楼〉

 本堂に向かって右手(東側)手前に鐘楼があります。天明七年の再建で、入母屋造り本瓦葺き、台形の袴腰つきの建築様式で、名古屋市指定文化財です。

鐘楼には五百貫の(1,923㎏)の梵鐘がつるされていますが、この梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれていたため、戦時中の供出を免れたそうです。

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〈経蔵〉

 本堂に向かって右手(東側)奥に経蔵があります。宝形造り本瓦葺きの建物で

名古屋市指定文化財です。棟札によると文政11年(1828)建立です。

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〈源正公(げんしょうこう)廟〉

 建中寺は、尾張徳川家の菩提寺でしたので、歴代藩主が埋葬され、そのお墓もあったようです。しかし、現在では、歴代藩主のお墓は改葬され、愛知県瀬戸市にある定光寺脇の徳川家納骨堂に納められているそうです。

 そうした中で、第2代藩主徳川光友のお墓だけが残されていて、「源正公廟」と呼ばれています。

 源正公廟は公開されていませんが、唐門を見ることができます。唐門は徳川光友が亡くなった翌年の元禄14年(1701)に建築されたものです。

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〈御霊屋〉

本堂の真後ろに、建中寺では御霊屋(ごれいや)と呼んでいる建物がある位牌堂があります。ここは非公開です。下写真は、 源正公廟への参道から写した写真です。ここには歴代藩主のお位牌が納められていて、毎日、御回向が行われているそうです。

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〈御成門〉

建中寺は、東側に幼稚園を併設していますが、その幼稚園の南側―三門の東側に御成門があります。元々は、5代藩主徳川五郎太の霊廟の門だったそうです。五郎太は4代藩主徳川吉通の嫡男で父吉通が若くして亡くなったため3歳で5代藩主となりましたが、相続後わずか2か月で亡くなりました。現在は賓客をもてなす門として移築されています。

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下地図の中央が建中寺です。





# by wheatbaku | 2024-09-28 17:00
正岡子規、野球に熱中する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」➂)

正岡子規、野球に熱中する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」➂)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」第3回では、秋山真之と正岡子規が大学予備門で学びそして悩む姿や秋山吉古が陸軍大学校で学ぶ姿が描かれていました。その中で、正岡子規が野球に熱中する様子が描かれていました。そこで、今日は、正岡子規と野球について書いてみます。下写真は野球のユニフォーム姿の正岡子規ですが、後記する正岡子規記念球場脇にある句碑の説明板の写真です。

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 原作『坂の上の雲』で、司馬遼太郎は明治22年に子規が結核になったようすを描いた「ほととぎす」の章のなかで「明治20年ごろからベースボールに熱中し、仲間を組んでほうぼうで試合をしたりした。」と書いていますし、子規が結核になり療養のため松山の実家に帰った時にも、安静するようにという医者の指示にもかかわらず、野球に熱中する様子が描かれています。

 実際の子規も野球が大好きだったようで、野球に関する俳句や短歌を多数詠んでいますし、野球に関する文章も書いています。これらの作品は、岩波文庫『正岡子規ベースボール文集』にまとめられています。(下写真)

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 そこに載っている俳句の主なものをあげると次の通りです。

「春風や まりを投げたき 草の原」 

「若草や 子供集まりて 毬(まり)を打つ」

「草茂み ベースボールの 道白し」

「生垣の 外は枯野や 球(まり)遊び」

これを読むと季節を問わず、野球に関する俳句を詠んでいることがわかります。さらに、子規の詠んだ短歌をみると子規が野球が大好きなことがよくわかります。

・久方(ひさかた)のアメリカ人のはじめにしべースポールは見れど飽かぬかも

・若人のすなる遊びはさはにあれどべースポールに如(し)く者はあらじ

・九つの人九つのあらそひにべースポールの今日も暮れけり

 また、スペシャルドラマ「坂の上の雲」では。黒板に「野球」と書いて「『のぼーる』と読むんだ」と子規が説明していましたが、実際に子規は「野球」という俳号を使用して「のぼーる」と読ませたといいます。

 子規は、様々な野球用語を日本語に訳しています。

実際に子規が書いた「ベースボール」という小文の一部を後記しておきましたが、その中で、いろいろな野球用語を日本語に訳しています。そして、その小文の最後に、「ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここに掲げたる訳語はわれの創意に係る。訳語妥当ならざるは自らこれを知るといへども匆卒の際改竄するに由なし。君子幸に正を賜へ。」と書いています。

現在、利用されている野球用語の多くのものー例をあげれば「投手」「打者」「走者」ーが、子規の手により日本語に訳されたのでした。

 こうした野球に対する功績が評価され、正岡子規は、2002年に野球殿堂入りをしています。 野球殿堂博物館は、東京ドームの一画にあります。(下写真が東京ドーム、野球殿堂博物館の入口です)

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正岡子規のブロンズは、「野球殿堂」の「新世紀特別表彰コーナー」に飾られ(下写真)、次のように説明文が書かれています。

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「野球を愛した明治の俳人・歌人 明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。227月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。232月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には『日本』新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」

 余談ですが、野球殿堂博物館では、2023年のWBC が大きく取り上げられていて、優勝トロフィーはもちろん、優勝の瞬間をとらえた写真が掲示されていました(下写真)

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 ところで、ベースボールを野球と翻訳したのは正岡子規であるという説が有力でした。

 しかし、最近では、野球という訳語を最初に使用したのは中馬庚(ちゅうまかのえ)であるというのが定説になっています。

 司馬遼太郎も原作『坂の上の雲』の中で「『野球』という日本語をあたえたのはかれ(正岡子規のこと)であった。と河東碧悟桐などはのちしきりに書いているが、そうではなく子規と一高の同窓の中馬庚だったともいわれている」と書いています。

 野球殿堂博物館でも野球の訳語は中馬庚(ちゅうまかのえ)によるものだとして、野球の歴史コーナーの中に次のように書かれています。

「明治27年(1894)に一高(のちの東京大学)の中馬庚(かのえ)が『校友会雑誌号外』の例言(用語の解説)で「野球」と訳しやがてこれが一般に使われるようになった」  下写真が展示されていた『校友会雑誌号外』です。

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 スペシャルドラマ「坂の上の雲」でも、こうした最近の説にそった説明がされていました。

下写真が「野球の歴史コーナ」入口風景です。手前には天井から「春風や まりをなげたき 草の原」という子規の句が掲示されています。

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 正岡子規は晩年は現在の台東区に住んでいました。そうしたことも関係しているのだと思いますが、上野公園にある都立の野球場に「正岡子規記念球場」という愛称が付けられています。(下写真)

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 この球場のホームベースの後ろ側(球場外です)に正岡子規の句碑が建てられています。句碑には「春風や まりを投げたき 草の原」と刻まれています。(下写真)

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 そして、句碑の手前に設置されている説明板には次のように書かれています。

「正岡子規記念球場

 正岡子規(18671902)は俳人、歌人、随筆家であり、現在の愛媛県松山市に生まれた。名は常規。子規は、明治時代のはじめに日本に紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。

 子規の随筆『筆まかせ』には、明治23321日午後に上野公園博物館横空地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であったことがわかる。子規の雅号のひとつに、幼名の升にちなみ「野球(の・ぼーる)」という号がある。子規は野球を俳句や短歌、また随筆、小説に描いてその普及に貢献した。ベースボールを「弄球」と訳したほか「打者」「走者」「直球」などの訳語は現在も使われている。これらの功績から平成14年に野球殿堂入りをした。

 子規が明治27年から同35年に亡くなるまで住んでいた住居は、戦後再建され「子規庵」(台東区根岸2-5-11)の名で公開されている。

 上野恩賜公園開園式典130周年を記念して、ここに子規の句碑を建立し、野球場に「正岡子規記念球場」の愛称が付いた。

 平成187月 台東区・台東区教育委員会」


◆参考 「ベースボールとは何ぞや―随筆『松蘿玉液』より」より

[○ベースボールの球 ベースボールにはただ一個の球ボールあるのみ。しかして球は常に防者の手にあり。この球こそこの遊戯の中心となる者にして球の行く処すなわち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く。されば防者九人の目は瞬時も球を離るるを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者もまた球に注目せざればついにその要領を得ざるべし。今尋常の場合を言わば球は投者[ピッチャー]の手にありてただ本基[ホームベース]に向って投ず。本基の側には必らず打者[ストライカー]一人〈攻者の一人〉棒[バット]を持ちて立つ。投者の球正当の位置に来れりと思惟する時は〈すなわち球は本基の上を通過しかつ高さ肩かたより高からず膝より低くからざる時は)打者必ずこれを撃うたざるべからず。棒球[ボール]に触ふれて球は直角内に落ちたる時(これを正球[フェアボール]という)打者は棒を捨てて第一基に向い一直線に走る。この時打者は走者[ラナー]となる。打者が走者となれば他の打者は直ちに本基の側に立つ。しかれども打者の打撃球に触れざる時は打者は依然いぜんとして立ち、攫者[キャッチャー]は後(一)にありてその球を止めこれを投者[ピッチャー)に投げ返す。投者は幾度となく本基に向って投ずべし。かくのごとくして一人の打者は三打撃を試むべし。第三打撃の直球[ジレクトボール](投者の手を離れていまだ土に触れざる球をいう)棒[バット]と触れざる者攫者[キャッチャーよくこれを攫かくし得ば打者は除外[アウト]となるべし。攫者これを攫し能わざれば打者[ストライカー]は走者[ラナー]となるの権利あり。打者の打撃したる球[ボール]空に飛ぶ時(遠近に関せず)その球の地に触れざる前これを攫する時は(何人にても可なり)その打者は除外[アウト]となる。(未完)明治29年7月23日]


下地図の中央が「正岡子規記念球場」です。




# by wheatbaku | 2024-09-24 22:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
秋山真之、上京する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」②)

秋山真之、上京する(スペシャルドラマ「坂の上の雲」②)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」について、今回は、915日放映の第2回についてコメントします。915日分はまだNHK+で見ることができますので見逃した人はそちらでご覧ください。

 第2回では、真之の上京からが描かれています。明治16年(1883)に真之は東京へ向かいます。ドラマでは、一人で上京していますが、実際には、年長の従兄に連れられて上京したようです。

 その頃、兄の好古は番町の佐久間という旧旗本の屋敷の離れに住んでいましたので、真之は、そこを訪ねます。その際、ドラマで描かれていた佐久間家の老女とのやりとりや兄好古とのやりとりはほぼ原作どおりです。

当時の好古の生活状況は、『秋山真之』(秋山真之会編)によると、離れの部屋は三部屋ほどありましたが、好古が持っていた家財道具は炊事道具のほかは、実際に酒徳利と茶碗が一つだけだったそうです。履物も足駄一足で間に合わせていたようです。

また、ドラマでは、大殿が老女に近寄るなと命じていたと描かれていましたが、『秋山真之』(秋山真之会編)によると、佐久間家には男子がいなかったので、養子になって欲しいと願っていて、もしそれがだめだったら家は次女に家を継がせて長女を貰ってくれればよいと考えていたと書いてありますので、嫌うということはなく、逆に好古の将来に期待していたと思われます。

 好古は、上京してきた真之を非常に厳しく指導したようです。

 東京は寒いだろうと思って母が綿の入った足袋を送ってきたが、好古は「贅沢だ」といって脱がせたり、ある時、真之が新聞を読んでいると「頭がかたまらないうちに新聞など読んではいかん」としかりつけたと言います。また、ある雪の日、真之が玄関で切れた下駄の鼻緒を直すためぐずぐずしていると好古は「裸足で行け」と怒鳴られたこともあったそうです。これらの事はドラマ「坂の上の雲」でも描かれていましたね。

 ドラマ「坂の上の雲」で正岡子規が東大予備門に入学するために共立学校に通い、上京した秋山真之も一緒に共立学校で学ぶ場面がありました。英語の先生は高橋是清でした。

ここに登場する共立学校は、現在、東大入学者数ナンバーワンを誇る開成学園(開成中学校・高等学校)です。開成学園の発祥の地は、神田淡路町でした。千代田区立淡路公園に「開成学園発祥の地」の石碑が建っています。(下写真)

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その裏面には、略年譜として「明治4年 佐野鼎共立学校を創立、明治11年 高橋是清初代校長に就任、(以下略)」と書かれています。また、開成学園ホームページには、「開成学園は、明治 4年(1871)、幕末の進歩的な知識人であった佐野鼎先生によって創立されました。先生は、欧米の教育事情を視察した折に、わが国にも欧米なみの学校が必要であると強く感じられ、帰国後、創立を決意されました。校名は『共立学校』と名づけられました。佐野先生が若くして亡くなられたあと、初代校長として高橋是清先生が就任され、今日の学園の基礎を築かれました。」と書かれています。

 子規と真之は、そこに通っていたのでした。

 『坂の上の雲』で、子規や真之を指導していた高橋是清は、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣となる人物ですが、当時は共立学校の校長でした。アメリカで誤って奴隷として売られたという話も有名な話です。高橋是清は、共立学校の校長を務めた後、農商務省の官吏となって特許局長にまで昇進しましたが、その後、職を辞して南米に渡り、ペルーで銀山開発に取り組んだものの失敗し無一文で帰国しました。その後、日本銀行に入り、日露戦争当時には、副総裁として日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させました。この外債募集の話もいずれ、「坂の上の雲」で描かれるものと思います。

 なお、真之と子規が高橋是清とともに横浜に行き、そこで、古物商に難癖つけた悪徳外国人を真之がやるこめる場面がありましたが、私が読んだかぎりでは、原作では描かれていませんので、創作されたものだと思います。(間違っていたらごめんなさい) 


下地図中央が淡路公園です。






# by wheatbaku | 2024-09-20 06:00 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
秋山真之の少年時代(スペシャルドラマ「坂の上の雲」①)

秋山真之の少年時代(スペシャルドラマ「坂の上の雲」①)

 スペシャルドラマ「坂の上の雲」の放映が202498日より開始されました。このドラマは司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」をドラマ化したもので、2009年から2011年までの3年間、毎年年末に放映されたものの再放送です。当時の大河ドラマは、11月末で終了し、12月には「坂の上の雲」が放映されました。90分ものが全13回でしたので、大河ドラマ半分に見合う大規模なテレビドラマでした。

 私も毎年、毎回、楽しみにみていました。今回、再放送されることになったので、可能な限りコメントしていこうと思います。

「坂の上の雲」の主人公は伊予松山出身の3人の青年です。その三人とは、秋山真之、秋山好古、正岡子規です。秋山真之は、成人して海軍に入り、日本海海戦では東郷平八郎大将のもとで参謀としてT字戦法を考案し、世界最強と呼ばれたバルチック艦隊を破りました。また真之の兄秋山好古は、陸軍に入り騎兵隊司令官となり、日露戦争で、勇猛さを謳われたロシアのコサック騎兵隊を打ち破る軍功を挙げました。正岡子規は、いうまでもありませんが、明治の俳壇・歌壇に革新を起こしました。正岡子規は、秋山真之の同級生でした。

この三人を中心に日本を近代化し欧米に伍していける強国に作り上げる人々が描かれる非常に壮大なドラマです。

秋山兄弟を主人公としたことについて司馬遼太郎自身が原作の中で語っていますので、少し長くなりますが引用しておきます。

「余談ながら、私は日露戦争というものをこの物語のある時期から書こうとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。

その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。

その奇蹟の演出者たちは、数え方によっては数百万もおり、しぼれば数万人もいるであろう。しかし小説である以上、その代表者をえらばねばならない。

その代表者を、顕官のなかからはえらばなかった。

一組の兄弟にえらんだ。

すでに登場しつつあるように、伊予松山のひと、秋山好古と秋山真之である。この兄弟は、奇蹟を演じたひとびとのなかではもっとも演者たるにふさわしい。」

原作は、文春文庫8冊にもなる長編ですが、原作を読むと、テレビドラマがより楽しくなると思います。お時間のある方には原作をお読みになるようお勧めします。

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さて、98日放映の第1回は、真之の誕生から正岡子規の上京までが描かれていました。

 まず、秋山真之・好古兄弟の両親について書いてみます。

二人の父親は、秋山平五郎久敬といって江戸時代には松山藩の歩行(かち)目付でした。寛容で衆望の厚い人だったようで、はじめは普通の歩行(かち)でしたが、知恵者でもあったので歩行(かち)目付にまでなったようです。久敬は晩年になると室内でも頭巾をかぶっていたようです。写真でも頭巾をかぶっていますし、『坂の上の雲』でも頭巾をかぶっています。久敬は「親があまり偉くなると子供が偉くならないからなぁ」と言っていたようで、これが秋山兄弟に対する教育方針であったそうです。

母貞は旧松山藩士山口正貞に二女として生まれ、五男一女の子供をもうけました。好古は三男、真之は五男でした。母は男子には自ら四書五経の素読をさせ、女子には炊事から裁縫までを教えたそうです。

 秋山真之にとっては、母貞は厳しい母だったようです。

 少年時代の真之は、ドラマで描かれていたように、ガキ大将でよく喧嘩をして相手の子供を泣かし、その都度相手の子供の親たちから抗議が持ち込まれ、貞がお詫びをしていました。ある時、貞は真之を招いていきなり短刀を突き付け、「お母さんもこれで死ぬからお前もお死に」と諭したといいます。この話はドラマでも描かれていましたが実話のようです。しかし、真之は、この母を非常に大切にして、自身の結婚相手について、貞の気に入ることが条件だったそうです。下写真は海軍大佐時代の秋山真之です。

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                                         「国立国会図書館所蔵」

 真之の兄の秋山好古は安政6年(1859)に生れました。秋山家の三男として生まれています。真之が生まれた際、父と母が生活が苦しいから寺に出そうと話をしていると隣の部屋でこれを聞いていた好古が「お父さん、待ってくれ。今に私が大きくなったら豆腐ほどの儲けをしてやるから」と両親にお願いし、この健気な言葉が真之が寺にやることを押しとどめたと言います。豆腐ほどというのは豆腐ほどの厚みの紙幣という意味だそうです。

 松山での好古の少年時代は、ドラマで描かれていたように、風呂屋の手伝いなどをして家計をたすけていましたが、大坂に学費無料の大阪師範学校ができると聞いて明治8(1875)18歳の時に大阪に出て大阪師範学校に入学しました。それ以降の好古については、真之が10歳の時には士官学校に入った好古が帰郷して、真之を中学校に行かせてくれと頼む場面のみが描かれているだけでしたが、原作には丁寧に書かれています。好古は、明治9年大阪師範学校を卒業し大阪の小学校の教員となりましたが、明治10年(1877)に教職を辞し、陸軍士官学校に入校し、明治12年(1879)陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉に任官し、明治16年に陸軍大学校に入校しています。下写真が将軍(おそらく大将)時代の秋山好古です。

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                                      「国立国会図書館所蔵」

 

 以上、長くなりましたので、第1回についてはこの辺にして、第2回については次回書こうと思います。

この記事を読んでドラマ『坂の上の雲』に興味を持たれた方、9月8日第1回の見逃し配信は終わってしまいましたが、915日放映の第2回はまだNHK+で見ることができますのでそちらでご覧ください。





# by wheatbaku | 2024-09-18 15:30 | スペシャルドラマ「坂の上の雲」
徳川慶勝のお墓がある西光庵(尾張徳川家①)

徳川慶勝のお墓がある西光庵(尾張徳川家①)

 しばらく、ブログの更新できませんでしたが、昨日、新宿にある西光庵(さいこうあん)を訪ねてきましたので、その記事を書いて、久しぶりの更新とします。

西光庵を訪ねたのは、「青松葉事件」の当事者である尾張藩主徳川慶勝のお墓があるからです。西光庵で徳川慶勝のお墓参りをしてきました。

 西光庵は浄土宗のお寺で、大江戸線東新宿駅から徒歩おおよそ10分のところにあります。住宅街の一画にあるため、初めての方は事前によく調べて訪ねたほうがよいと思います。

 西光庵は「庵」という名前がついていることから「草庵」のイメージがありますが、りっぱなお寺です。(下写真は門から写した全景です。正面が庫裏で、その左手が本堂です。)

徳川慶勝のお墓がある西光庵(尾張徳川家①)_c0187004_17435962.jpg

 西光庵のパンフレットには「寺名の中では珍しい西光庵の『庵』は僧尼あるいは隠遁者の侘び住まいを意味しており、後世になると尼寺を指すようになりました。」と書いてあります。また「『庵』と号する浄土宗寺院は都内で西光庵一ヶ寺のみとなっています」とのことです。 

 ここに書いてある通り、西光庵は尼寺です。御住職も当然のことながら女性でした。

 西光庵は、江戸時代後期の文化12年(1815)に小石川伝通院の実興上人によって開山され、蓮忍法尼が初代庵主として入庵した寺院だそうです。開山当初から尾張藩徳川家の庇護があったようです。 

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墓地は本堂に向かって左手にあります。上写真が本堂です。

尾張徳川家のお墓は、その墓地の一番奥まった西の端にありました。尾張家徳川家の墓域には、徳川慶勝、正室、徳川義宜(よしのり)、そして徳川家分家のお墓が並んでいます。尾張徳川家の地元の菩提寺は名古屋の建中寺で、歴代藩主のお墓はそこにありました。(※現在は、尾張徳川家の歴代当主は愛知県瀬戸市の定光寺の徳川家納骨堂に葬られているようです)

西光庵が尾張徳川家の東京の菩提寺となったのは、お参りした際に頂戴した『西光庵開山に百年史』によれば、明治8年だったようです。

 徳川慶勝のお墓は一番奥まったところにあります。墓碑には「従一位勲二等徳川慶勝卿墓」と刻まれています。

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 徳川慶勝のお墓の左隣(南側)には正室矩姫(かねひめ)のお墓です。墓碑には「貞徳院殿恭蓮社寛誉和厚大禅定尼」と刻まれています。矩姫は二本松藩主丹羽長富の三女として生まれ、19歳で慶勝に輿入れし、明治35年に71歳で亡くなっています。

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 矩姫の墓の左隣には、16代藩主徳川義宜(よしのり)のお墓があります。義宜(よしのり)は、慶勝の三男として生まれましたが、兄たちが夭逝していたため6歳で家督を継ぎましたが、明治8年(1875)、18歳の若さでなくなりました。

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 なお、徳川慶勝の遺骨は、昭和28年に愛知県瀬戸市の定光寺の初代徳川義直霊廟脇に造られた徳川家納骨堂に改葬されていますが、墓碑等は原形のまま残されたものだそうです。おそらく、正室矩姫と徳川義宜(よしのり)お二人も改葬されているもと思います。 

 徳川慶勝は、子だくさんでした。しかし、男の子の多くが幼くして亡くなっています。15代藩主となった義宜(よしのり)も明治8年に18歳で亡くなってしまったため、高松松平家の義礼(よしあきら)を養子としました。その後、十一男義恕(よしくみ)が産まれました。そこで、 義恕(よしくみ)は分家を創設し男爵となりました。その徳川分家のお墓が尾張徳川家の南側にあります。(下写真)墓碑には「徳川氏之墓」と刻まれています。

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 墓碑の右手にある墓誌を見ると、昭和11年から昭和天皇の侍従をつとめ、昭和60年から昭和~63年に侍従長をつとめた徳川義寛の名前もありました。徳川義寛は徳川義恕(よしくみ)の長男です。


 墓地の入り口左手に高須松平家の墓域があります。高須松平家は徳川慶勝の生家です。

 ひときわ目出つ大きなお墓が13代藩主松平義勇(よしたけ)のお墓です。

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松平義勇(よしたけ)は、10代藩主松平義建の十男で、徳川慶勝の異母弟です。高須松平家は、10代の義建の後、11代松平義比(よしちか)12代松平義端(よしまさ)13代松平義勇(よしたけ)と続きます。11代松平義比(よしちか)は兄で尾張藩主であった慶勝が安政の大獄で隠居を命じられたため、尾張藩主となり徳川茂徳(もちなが)と改名します。そして義比(よしちか)の子供が高須藩主となります。それが12代義端(よしまさ)です。しかし、義端(よしまさ)は万延元年(1860)に3歳で亡くなったため、。松平義勇(よしたけ)13代藩主となりました。義勇(よしたけ)は、明治2年に病により家督を養嗣子の義生(よしなり)に譲り、明治24年、31歳で亡くなりました。墓碑には「従五位松平義勇之墓」と刻まれています。

 松平義勇(よしたけ)の墓の手前には合祀墓があります。

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 その手前に建てられている墓誌をみると初代から12代までの歴代高須松平家の当主の戒名が刻まれ、14代以降は当主および令室の戒名が刻まれています。

 高須松平家は、高須(岐阜県海津市)に行基寺という菩提寺があるので、西光庵は東京(江戸)の菩提寺ということです。西光庵は文化12年(1815)に創建されていて、高須松平家初代の松平義行は正徳5年(1715)に亡くなっているので、その頃の菩提寺は、西光庵でなかったと思います。当時の菩提寺がどこであるか調べましたが、確かなことはわかりませんでした。ただし、私自身は、港区虎ノ門にある天徳寺がもともと江戸の菩提寺であったのではないかと推測しています。 

 下地図の中央が西光庵です。



# by wheatbaku | 2024-09-16 20:00 | 江戸の大名
  

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