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久能山東照宮は、久能城の城跡に造営された!《久能山東照宮⑵》(徳川家康ゆかりの地57)

久能山東照宮は、久能城の城跡に造営された!《久能山東照宮⑵》(徳川家康ゆかりの地57

 久能山は、今では久能東照宮が鎮座していることで有名です。しかし、久能山東照宮が鎮座する以前は久能城と言う城があったことはあまり知られていないように思います。そこで、今日は、東照宮が鎮座する前に久能山にあった久能城について書いていきます。なお、久能城は久能山城とも呼ばれることがありますが、ここでは久能城と表記します。

 日本平ロープウェイの久能山駅に到着すると久能城の二の丸の石垣と言われている石垣があります(下写真)。見るからに城の石垣です。

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 ロープウェイの駅を降りると社務所前に久能山の歴史を書いた説明板が設置されています(下写真)。

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 その説明板には次のように久能山の歴史が簡潔に書かれています。

『史跡久能山』指定年月日 昭和34617

一、指定理由 久能山はおよそ7世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺、武田信玄の築城した久能山城、徳川2代将軍秀忠公の創建した東照宮とその時代時代の歴史の変遷の跡を見ることが出来る。

一、久能寺 久能山縁起によれば7世紀の頃に秦氏の久能忠仁が一寺を建て、補陀洛山久能寺と称したと伝えられる。その後、平安時代から鎌倉時代にかけて隆昌を極めたが、山麓の失火により山内のほとんどの坊等が焼失した。今川時代には相当復興した。

一、久能山城 永禄11年(156812月武田信玄は、当山が要害の地である事を知って、寺院を清水来た矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。天正10年(1582)武田氏が滅亡したことで徳川氏の所有となった。山上の勘助井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。

一、東照宮  徳川家康公は、生前久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し、かつ風光を愛せられた。元和2年(1616417日家康公が、駿府(静岡)に没する時の遺言により、この地に埋葬され、2代将軍秀忠公は、壮麗な権現造りの社殿を造営した。これが現在の東照宮で、14棟が国宝・重要文化財に指定されている。

 この説明板に久能城と久能山東照宮の位置関係が示されています。これを見ると東照宮が久能城(説明板では久能寺山城となっている)の跡に造営されたことがよくわかりますので、拡大しておきます。

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 久能山には、久能忠仁が創建した久能寺という寺院が戦国時代までありました。それを移設して久能城を築城したのは武田信玄でした。武田信玄は、永禄11年(1568)に今川家との同盟を破棄して駿河国に攻め込みました。その際に要害の地である久能山に城を築きました。それが久能城です。

 久能城築城の経緯が『甲陽軍鑑』に書かれていると『駿河国新風土記』に書いてあります。『駿河国新風土記』は新庄道雄(17761835)が文化131816)年から天保5(1834)年にかけて記した全25巻の風土記で、江戸時代を代表する地誌の一つです。昭和8年に『修訂駿河国新風土記』として出版され国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。

『駿河国新風土記』に紹介されている『甲陽軍鑑』の久能城築城の部分を現代語訳すると次のようになります。

「庵原(いはら)弥兵衛という侍は小身ではあるけれども武道の覚えがあって今川家において人が認めた者であったが、昔、山本勘助に物を習ったと聞いて、ただちに召し抱えて、この辺りに少人数が立て籠って、大勢で攻められても陥落しない堅固な地はないかと尋ねると、『久能という山は、弓鉄砲を持って千人いれば、日本中の軍勢が攻め寄せても(攻略することが)成功しないと、勘助が当地で浪人している時にたびたび語っていました』と申し上げた。そこで、この場所に(城を)築いて、弓鉄砲弾丸兵糧三年分を蓄えて、今福浄閑とその息子丹波に40騎の軍勢を与えて籠らせた。」

 これを読むと、久能山に城を築くと良いと考えたのは伝説的軍師の山本勘助だったようです。現在も久能山東照宮に久能城の名残りとされている勘助井戸と名づけられた井戸が残されています(下写真)。「勘助井戸」という名称は、久能城築城について最初に発案したのが山本勘助だったという伝承が影響していると思われます。

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『徳川家康と武田氏』(本多隆成著)p59には「(前略)信玄はついに駿府から撤退することを決断した。419日付けで『左衛門太夫』宛と『久能在城衆・番手衆』宛の信玄定書(さだめがき)が出されている。前者は横山城(静岡市清水区) の穴山信君(のぶただ)宛のもので全15カ条、後者は久能城(静岡市駿河区) の板垣信安ら在城衆・番手衆宛で全10カ条となっている それぞれ詳細な規定を行っており、信玄が再度駿河に侵攻するまで、両城を堅守するよう命じた」 と書いてあり、一次史料が残されているようです。その史料によれば、武田信玄の第一次駿府侵攻が成功しなかったため、信玄自身は甲斐に撤退するものの久能城には板垣信安が城将として留まったようです。

 その後、武田家が滅亡し、天正11年(1583)に駿河が徳川家康の領国となった際に久能城は家康の異父弟松平勝俊が城主となりました。松平勝俊は天正14年に亡くなり、その跡を水野忠分の五男の勝政が継いでいて、『寛政重修諸家譜』では、勝政が久能山城主となったとは書いてありませんが『駿河国新風土記』が引用している『改撰諸家系譜』の松平勝政の項には「天正12年に父(勝俊)の家督を継ぎ駿州久能城五千石を拝領する」と書いてありますので、勝政も久能城主となったと思われます。

『駿河国新風土記』によると、その後、天正18年に徳川家康が関東に転封となると駿河国は中村一氏が領するようになりましたが、誰が城主となったかは不明のようです。そして、慶長6年(1601)以来大久保忠政が城主となり、慶長11年(16063月榊原清政を館林から呼び寄せ3千石を与えて、久能城を守らせました。そして、慶長12年に榊原清久が亡くなると、その子照久に久能城を預けたと書いてあります。

 そして、元和2年(1616)、徳川家康が亡くなるに際して、榊原照久に対して、亡くなった後も家康を守るように遺言しました。このことは既に下記ブログで書きましたので、詳しくは下記ブログをお読みください。



 この徳川家康の遺言に従って、榊原照久は久能山東照社の祭主として家康をお祀りし、その子孫も「久能惣門番」として東照宮を守りました。久能惣門番は久能山東照宮の一の門(下写真)の警護はじめ久能山東照宮の警護にあたる役職です。『駿河国新風土記』には次のように書かれています。

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「榊原氏居館は久能山城坂下道の西にあり、久能惣御門番とて与力八騎同心三拾人にて日夜交代して一の御門の御番をつとむ。(中略)当主榊原越中守照郷、高千八百石、御役淵二百人扶持、交代御寄合衆というものにて此所を在所とす、毎年十二月恩暇を賜りて百日の間久能の居館にあり、榊原氏祖従二位照久卿、東照宮の祭主に補任せられて居し所は今の御山上なる御台所下の平に居る、その子従五位下照清、正保年間神主の職を辞して本国伊賀国に退去す。慶安四年7月与力同心を預け賜りて今の役となる。その後より今の館にうつる。この郡もと浄念寺といいし寺ありし所なり、その寺は今の照久寺なり。」

 久能総門番の榊原家の屋敷は、久能山東照宮の表参道の西側にあったようです。私は、現在は西台院別院となっている元の照久寺の近隣にあったのではないかと私は推測しています。

 久能山の歴史が書いてある説明板が設置されている場所から見た駿河湾の景色が次の写真です。

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 そして、山麓から見た久能山が下写真です。これらを見ると久能山が要害の地であることがよくわかります。久能城という城が築かれたのも当然と感じました。

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# by wheatbaku | 2024-01-23 22:45 | 徳川家康ゆかりの地
日本平からの富士山は絶景《久能山東照宮⑴》(徳川家康ゆかりの地56)

日本平から見る富士山は絶景《久能山東照宮⑴》(徳川家康ゆかりの地56

 昨年は、大河ドラマ「どうする家康」に関連して多くの「徳川家康ゆかりの地」を訪問しましたが、これまでは「どうする家康」の展開にあわせてコメントしていたため、「徳川家康ゆかりの地」で訪問していたもののまだ投稿できていないものが数多くあります。その一つが久能山東照宮です。久能山東照宮には1年前の2023131日にお参りしましたが、まだ投稿していませんので、これから数回に分けてご紹介します。

久能山東照宮へは、乗用車またはバスで直接お参りすることができません。日本平から日本平ロープウェイを利用してお参りするルートか久能山の南側の海沿いの山麓から1159段の石段を登ってお参りするルートしかありません。

 私は、1159段の石段を登る自信がなかったので、行きはJR静岡駅から「しずてつジャストライン日本平線」を利用して日本平まで行き、ロープウェイを利用して久能山東照宮をお参りした後、1159段の石段を下って、「しずてつジャストライン」の「久能局前」バス停からバスを利用してJR静岡駅に戻ってきました。

 これから、このルートに従って数回に分けて久能山東照宮のお参りについて書いていきます。先ほど、JR静岡駅から「しずてつジャストライン」を利用して日本平まで行ったと書きましたが、今日は、富士山の絶景を見ることができた日本平についてご案内します。下写真は日本平ホテルからみた富士山です。

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 「しずてつジャストライン日本平線」の終点は「日本平」ですが、私は「日本平ホテル」で富士山の絶景を見たいため、「日本平ホテル」で途中下車しました。下写真が「日本平ホテル」の正面全景ですが、バスは「日本平ホテル」の正面玄関に停車しました。

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 玄関を入るとロビーから富士山が正面に見えます。(下写真)

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 「日本平ホテル」は昭和39年に「日本平観光ホテル」として開業し、その後、昭和54年に「日本平ホテル」へと社名を変更し現在に至っていますが、ホテル正面に富士山が見え、眼下には駿河湾が広がっていています。絶好のロケーションにあります。

最上段写真は、「日本平ホテル」のテラスラウンジから写したものですが、上写真を写したテラスラウンジは次のような雰囲気です。

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 テラスラウンジでは、紅茶・コーヒーとケーキで、優雅なテータイムを過ごすことができます。私は「モンブラン」とコーヒーでティータイムしました。

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日本平ホテルで富士山の絶景を堪能してから日本平ロープウェイに向かいました。「日本平ホテル」から日本平ロープウェイまでは歩いて行きました。途中に展望施設の「日本平夢テラス」もありました。下写真は「日本平夢テラス」から撮った富士山です。

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日本平は標高308mで久能山は標高165mですので、日本平から久能山へは下ることになります。ロープウェイの山頂側の駅「日本平駅」は標高269メートル、久能山駅145メートルで120メートル程下ります。下写真は、「日本平駅」の写真です。久能山が下に見えています。

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下写真は出発直後に進行方向の後ろ側(日本平駅方向)を写したものですが、出発した「日本平駅」が遥か高いところにあります。

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 日本平ロープウェイは全長約1000メートルあります。途中にある鉄塔はほぼ中間点にあります。この鉄塔から久能山(写真手前側)に寄ったところがもっと谷が深く90メートルあるそうです。ロープウェイは日本平と久能山を5分で結んでいます。

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 私が乗ったロープウェイのゴンドラは、葵の御紋をあしらった赤色のものでした(下写真)、これはお姫様の籠をイメージしたものだそうです。ちなみに、もう一つのゴンドラはお殿様の籠をイメージしたもので青色だそうです。

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下地図中央が日本平ロープウェイの日本平駅です。





# by wheatbaku | 2024-01-19 22:45 | 徳川家康ゆかりの地
新年あけましておめでとうございます


新年あけましておめでとうございます


本年もどうぞよろしくお願い致します


新年あけましておめでとうございます_c0187004_21193219.jpg

上の写真は2023年1月に

久能山東照宮をお参りした際に

日本平から撮った富士山です

久能山東照宮については

改めてご案内します






# by wheatbaku | 2024-01-01 00:15
東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから秀忠が選んだもの(「どうする家康」222)

東照大権現という神号は、朝廷から示された四つの案のなかから秀忠が選んだもの(「どうする家康」222

 徳川家康は、東照宮に神として祀られています。「どうする家康」でナレーションで寺島しのぶさんが家康のことを「神の君」と呼んでいたのはそのためだということは多くの方がご存知だと思います。家康を神として呼ぶ場合の称号が東照大権現です。今日は家康が東照大権現として祀られるようになった過程を書いてみます。

 家康は、元和2417日に亡くなり、その日に久能山に移され、神として祀られました。この儀式を執り仕切ったのが、神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)でした。神龍院梵舜は以前書いたように吉田兼右(かねみぎ)の子で、神龍院の住職でした。吉田家は吉田神社の神官をつとめ、吉田神道とよばれる神道の一派を形成していました。梵舜は兄吉田兼見とともに、豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣秀吉を豊国大明神として祀ることや豊国神社の創建に尽力していました。

『日光東照宮の成立』(山澤学著)p29に、「梵舜は、吉田神道をつかさどる神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)吉田(ト部)兼右の男子であり、豊臣秀吉を豊国大明神という神とし、豊国社の創設にあたった神道家であった。当時、不遇の死を遂げた後に跳梁する怨霊とは異なり、通常の死を迎えた人間を直ちに神霊として復活させ、神に祀る法儀を有していた神道は吉田神道のみであった。吉田家では永正8年(1511)219日に没した兼倶以降、代々の当主を遷宮の儀式に擬して葬送し、その遣骸を葬った墓所の上に霊社を設け、神に祀る法儀を執行した。梵舜は、現実にその法儀を用いて天下人豊臣秀吉を神に昇華した。梵舜の執行する法儀によって徳川家康が神格化されたのである。」と書いてあります。

 こうして、梵舜は明神形式で家康を神として祀りました。そして、家康の神号も「明神」とする考えでした。しかし、これに異を唱えたのが天海大僧正でした。天海大僧正は天台宗が唱える山王一実神道に基づいて「権現」という神号にすべきという考えでした。

 こうして、「明神」を主張する神龍院梵舜と「権現」を主張する天海大僧正との間で論争が起こります。

『台徳院殿御実紀』巻四十二にも論争について次のように記録されています。

「元和253日 本多上野介正純、土井大炊頭利勝、安藤対馬守重信、金地院崇伝を神龍院梵舜の旅宿に遣わされて、御神号のことを評議し、権現と大明神の神位について甲乙優劣を尋ねさせた。梵舜がその話を聞いて、『権現と大明神の尊号には優劣はないけれども権現は陰陽両尊の神号で、大相国(家康)の尊号はもっとも大明神の尊号がふさわしい、(中略)』と答えた。」と記されています。

 その後の論争がどのようになったか『台徳院殿御実紀』には書かれていませんが、最終的には、天海が主張する「権現」が採用されました。

 それについて決め手となったのが明神と言う神号は不吉だという天海の主張だったとよく言われています。『神君家康の誕生』(曽根原理著)にも「最後は天海が『子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ』と言い放ち山王一実神道で祭ることに決定した」と書いてあります。

 一方、『台徳院殿御実紀』巻四十二には、前述の記述の後に注記があり、「今案ずるに、梵舜が伝えることは、吉田卜部の神道で、既に豊国も大明神と号しているのは梵舜等の考えである。しかし、かねて、烈祖(家康)は天海大僧正を信任していて、天台宗山王神道に帰依していたので、亡くなる前に既に天海と決めていて、『私(家康)が亡くなった後は必ず大権現と称して永く国家を鎮護しよう』と仰せおいたことなので、天海は大権現という考えをひたすら主張して、梵舜の考えはついに採用されなかったのであろう。」と書いてあり、家康と天海が生前に大権現とすることと決めていたとしています。

 また、『南光坊天海の研究』(宇高良哲著)p37には「死後の祀りの場として、明確に日光を指定していたことは、祭祀を天海に委ねることであり、それは山王一実神道で祀られることを意味している。したがって神号も権現号が前提となる。第一、秀吉の豊国大明神を凌駕した神格を求める者にとって、明神号は最初からあり得ない選択肢であった。このことは、将軍や崇伝にとっては既に了解事項であったと考えられる。」と書かれています。

 2代将軍秀忠も天海の主張を支持して、天海に京都に上洛して、朝廷と交渉するよう命じ、天海は6月に上洛しました。そして、朝廷に働きかけた結果、713日に権現とするよう勅諚が出され、勅許されました。

 その後、神号案の検討が行われ、朝廷から四つの案が提示されました。それは①日本大権現、②東光大権現➂東照大権現、④霊威大権現の四案でした。『徳川家康の神格化』(野村玄著)によれば、①日本大権現、②東光大権現の2案は二条昭実の案であり、東照大権現、霊威大権現は今出川晴季から出された案だったようです。そして、その四案から一つを将軍秀忠に選んでもらうこととなりました。

 そうした朝廷側の結論は、天海大僧正から書状で江戸に通知された後、天海大僧正自らが江戸に戻り秀忠に報告しています。

『台徳院殿御実紀』巻四十二には「93日、天海大僧正が京から帰り、江戸城に参上し(秀忠に)拝謁した。97日、天海大僧正が京から御神号の議を承って来て奏上しました。二条関白昭実公、菊亭右大臣晴季公から出された東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現のうちから、御所(秀忠)の思し召しのままに定めてよろしいとの叡慮(天皇のお考え)とのことである。近日に(武家)伝奏のお二人が下向するとのことであるので、お二人と協議して決めるとの仰せが出された。」と書かれています。

 そして、秀忠が決めたのは「東照大権現」という神号でした。

 その秀忠の決定を受けて、「東照大権現」の神号が朝廷から与えられました。『台徳院殿御実紀』には「元和339日 京より東照大権現に正一位の御追贈宣下ありしかば、御所ことさら御感悦大方ならず。」と書いてあります。

 こうして、家康は東照大権現という神様となり、東照大権現を祀る神社は東照社とよばれました。そして、家康が亡くなって29年後の正保2年(1645113日に、東照社が東照宮に改められました。

 この記事を本年の最後の記事とさせていただきます。

今年もご愛読いただきありがとうございました。

皆様、良い年をお迎えください。



# by wheatbaku | 2023-12-30 22:45 | 大河ドラマ「どうする家康」
久能山から日光に改葬されて出来上がった豪華絢爛な日光東照宮、しかし、家康は豪華にするなと遺命していた(「どうする家康」221)

久能山から日光に改葬されて出来上がった豪華絢爛な日光東照宮、しかし、家康は豪華にするなと遺命していた(「どうする家康」221)

 元和2年(1616417日に亡くなった家康は、即日久能山に移されて神として祀られた後、遺言に従って、1年後の元和3315日に久能山を出発して日光に改葬されました。315日に久能山を出発した霊柩は、相模国中原にあった中原御殿までは東海道に沿って進み、中原御殿からは、ほぼ真北にむかって北上し、府中、川越、忍、佐野、鹿沼を通って、44日に日光に到着しました。約20日間の行程でした。

『台徳院殿御実紀』巻四十五には、霊柩が日光に向かって進む様子が記録されていますので、それから、改葬行列の行程を書いてみます。

元和3年(1617315日 久能山出発し善徳寺(静岡県富士市)で1

316日 善徳寺を出発し吉原より浮島が原(静岡県富士市)をへて三島で2

318日 三島を出発し箱根山を越えて小田原に2

320日 小田原を出発し小余綾(こゆるぎ)の磯(神奈川県大磯付近一帯の海岸)を過ぎて中原御殿に1

321日 武州府中の府中御殿に2泊。

3月23日 府中を出発し川越喜多院の大堂で4

3月27日 川越喜多院出発し忍(埼玉県行田市)で1

3月28日 忍を出て、館林で休憩し佐野の惣宗寺で1泊。(※家康の遺骸が泊まった惣宗寺は、現在、「佐野厄除け大師」として有名なお寺です。)

3月29日 佐野を出て、鹿沼の薬王寺を御旅所として、ここに43日まで滞在

44日  未刻(午後2時頃)に日光山の座禅院に入る。

48日  日光山奥の院の岩窟内に安置する。

417日 遷座祭が行われる。

 こうして、日光に家康をご祭神とする東照宮が鎮座することになります。現在の日光東照宮は豪華絢爛な建物で知られていますが、現在の主な社殿は、3代将軍家光によって、寛永13年(1636)に増改築されたものです。

 しかし、家康自身は、自分が死んだ後、自分の廟所が豪華になることを懸念して、そうしないよう遺命しています。『東照宮御実紀』附録巻十六に次のように書かれています。

「(家康は)病気療養中に仕えた者の中でも、特に秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌、松平右衛門大夫正綱、榊原内記清久は安心して召しつかった。ある日、(板倉)内膳正重昌を呼んで、亡くなった後の事を数々いい置いたが、そのなかに、『私がなくなった後には、将軍家(秀忠)はきっと私の廟所を荘厳に建造するだろう。それは無用な事である。子孫末代まで初代(家康)の廟を越えることのないようにさせるために、私の廟は簡素に造営せよ。』と言っていたことがあった。」

 このように家康は、後々のことを考えて、簡素な廟所を造らせようと側近の板倉重昌に命じていました。

 しかし、家康が亡くなった後に板倉重昌からそのことを聞いても、秀忠としては、簡素なものにするわけにはいかなかったようです。次のように書いてあります。

「(家康)が亡くなられた後に、(板倉)重昌がこの事を申し上げると将軍家(秀忠)はこれを聞いて『先代にとっては非常に謙譲な美徳だと申し上げるが、私達が孝養を尽くす思いから言えば、あまりにもつつましやか過ぎる。凡そ荘厳だと言われる程度に造ろう』と言って、最初の廟所はできたものである。」

 秀忠は豪華絢爛すぎるものではなくて、そこそこ荘厳なものを建造させたようです。しかし、秀忠の子供たちは、より先代を荘厳に祀ろうという気持ちが強かったようです。『台徳院殿御実紀』に次のように書かれています。

「その後、崇源院殿(お江)霊牌所(位牌堂)の造営の際に、駿河亜相(徳川忠長)が思う存分に祀って厳(おごそ)かにできたので、台徳院殿(秀忠)が亡くなった時には、また、霊廟を(お江の)霊牌所より良いものに造営せよと命令があり、段々と荘厳になった。この二か所に比べると日光山の御廟はいかにも簡素すぎるということで、大猷院殿(家光)の時代に新しく建てるのではなく、改修の形式をとって若干の費用を使って、後の宮が出来たという。こうして、廟が厳然として、天下に比類ないほどになったのである。」

 家康は、家光によって東照宮が絢爛豪華なものに建造された際に、東照宮の中でどのような感想をもったのでしょうか?「家光お前、やりすぎだ」と怒ったのでしょうか?「やっぱり、そう造ったか。仕方がないなぁ」とあきれながらも喜んだのでしょうか?




# by wheatbaku | 2023-12-29 22:45 | 大河ドラマ「どうする家康」
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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