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井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)

 「井伊直弼と桜田門外の変」の最後に、井伊直弼ついての評価が書かれた文を紹介して、このシリーズを終わります。
 本からの紹介ですので、ちょっと読むのが大変かもしれませんがお付き合いください。

 まず、最初は、江戸文化・風俗の研究家として有名な三田村鳶魚の「井伊大老の家族」の中から紹介します。
井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_14333498.jpg これは中公文庫の「鳶魚江戸文庫16 大名生活の内秘」の中に載っています。

【水戸・彦根両側からみる必要がある】
 「(井伊直弼については)今日でも、水戸の天狗連の系統に属する文書を資料として、薩長諸家の主張を解説にする。それと反対の資料、反対の解説を聴いたら、何となる。また、両端を叩けばどんな音がするか、何人も考慮したほうがよい

 と書いて、後段に次のようなエピソードを紹介しています。

「質素な生活を忘れられない中将(井伊直弼)は、顕栄な地位につかれての後も、手ずから柚子味噌を拵(こしら)えることがあった。それへ『御礼之儀は申上置候』という書付を添えて、度々臣下に与えられた。
 いささかの物でも、君公からの拝領といえば、家来の栄誉でもあり、主従の礼として、一々お礼言上に出なければならない。ここを察して、御礼済の書付を添えて下さる。それで別段お礼に出なくても済んだ。
 一通(側近の三井孫太夫のこと)はお手製の柚子味噌を頂戴することから思い付いて、八月朔日の式日出仕に、自分の畑の大カボチャを、縄からげで奥へ提(ささ)げ込み、手作りのカボチャというので献上した。
 中将はすぐに『八朔や もろたかぼちゃの 礼をさき』と書いて与えられた。式日の御礼口上よりも先へ、この方からカボチャの礼をいうぞ、という心持ちで、親しくもあり、いかにも気軽な様子がよく現われている。
 こうしたこぼれ話によって、大老在職中、忙しく険しい間にも、豪も鋭いところがなかったのが知れよう。」


 最後に、東京大学名誉教授小西四郎氏の井伊直弼評を書いておきます。
 小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19  開国と攘夷」の中で、次のように述べています。

井伊直弼の評価 (桜田門外の変 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_15371636.jpg 【吉田松陰斬首が悪評の原因】
 「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。

 あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。
 しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。

 遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。勤皇志士の弾圧も同様である。
 とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。
 その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。

 わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。

 最後までお読みいいただきありがとうございました。
# by wheatbaku | 2010-03-17 06:19 | 『幕末』
直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 12回にわたり、「井伊直弼」および「桜田門外の変」について書いてきましたが、 今日は、「井伊直弼は襲撃されることを事前に承知していて、襲われることを覚悟していた」という話をしたいと思います。

直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_21211977.jpg【友人の忠告を無視】 
 井伊直弼は、桜田門外で非業の死を遂げましたが、意外に知られていませんが、その死は直弼自身があらかじめ覚悟していたものだったとも考えられています。
 井伊直弼は。事件の数日前、友人の矢田藩主松平信和(のぶやす)を始めとした何人かから忠告を受けていたのです。
 信和(のぶやす)の意見は、水戸を脱藩した浪士たちの不穏な動きを警戒しなければならない。事態が落ち着くまで大老を辞してはどうかというものでした。
直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_2114155.jpg  これに対して直弼は、国家の危機の一身の保全を図る事などできないとし、その友情に感謝の意を示しつつ申し出を断っています。
 それでもなお彼の身を案じる信和は身辺の警護を厚くするように強く薦めました。
 しかし直弼はこの進言すら受け入れなかったそうです。
 諸侯の従士の数は幕府により定められているもので、大老の自分がそれを破ることはできないというのです。
直弼は自分の身よりもあくまでも幕府の権威を再度確立させることを第一に考えていたからです。

 左上の写真は、井伊家の菩提寺である世田谷豪徳寺の山門です。ここに直弼もねむっています。


直弼の覚悟(桜田門外の変④ 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_2194410.jpg【襲撃の投げ文も無視】 
  3月3日の事件当日、直弼が屋敷を出た直後に、側役の宇津木左近が直弼の部屋で封の切られた書を発見しています。
 この日の早朝に何者かが投じたもので、密かに覗き見ると、水戸浪士に注意するよう忠告した封書でした。
 直弼は書を読み自らの危険を知りながら誰にも知らせることなく出発した後でした。
 宇津木はびっくり仰天し同僚に告げ、対策を講じようとした矢先に飛び込んできたのが直弼遭難の知らせでした。
 井伊直弼は、投げ込まれた投書を確実に見ていたに違いありませんが、側近にも告げず、屋敷を出発したのでした。
 井伊直弼、覚悟のうえでの遭難であったのだろうと言われています。

  以上のことは余り知られていませんが、これが事実であれば、井伊直弼に対する見方も変わっていいように思います。

 右上の写真は井伊家上屋敷表門外西にあった「桜の井」の跡です。井伊直弼もこの脇を通り登城していました。
# by wheatbaku | 2010-03-16 06:17 | 『幕末』
幕府の対応(桜田門外の変③ 江戸検定今年のお題「幕末」)
 井伊大老の暗殺は、幕府にも衝撃を与えました。
 今日は、桜田門外の変の後の幕府の対応について書いてみます。 
 
幕府の対応(桜田門外の変③ 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_2225299.jpg【直弼は生きていることに】
 井伊大老が、桜田門外で襲撃されたとの報は、すぐに幕府にも伝わりました。
 緊急に4人の老中たちが招集されて事件について協議しました。
  集まったのは、内藤信思(のぶこと)、松平乗全(のりやす)、脇坂安宅(やすのり)、安藤信睦(のぶゆき)の4人でした。
 藩主が生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、家名断絶となるのが掟であり、今回の直弼の死はこれに相当することになります。
 しかし、今回、井伊家を取り潰せば、井伊家は水戸藩に対して報復手段を取ることは明らかです。
 また、喧嘩両成敗の定めに従えば、幕府は御三家の一つ水戸徳川家も取り潰さなくてはなりません。
 そうすれば過激な水戸藩士が黙っているわけがありません。
 そこで幕府は彦根藩の安泰を図り、水戸藩に対しても存亡にかかわるような制裁を加えないことが最善策だと判断しました。
 彦根藩に当分の間直弼の死を隠し、負傷したように装い、折をみて死亡を公表し、直弼の子供の愛麿(のちの直憲)に跡目相続するように指示したのです。

幕府の対応(桜田門外の変③ 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_22252277.jpg【幕府、彦根藩を慰撫】
 幕府の指示を受けて、彦根藩から幕府に、直弼遭難の届出が出されました。
 即日、幕府から彦根藩での動揺がないようにとの論旨がありました。
 そして、将軍家茂は4日に使いを井伊家に遣わし朝鮮人参を賜りました。
 5日には、改めて幕府から井伊家に「動揺しないようにとの達しが出されました。
 さらに7日には将軍家茂が若年寄酒井忠眦( ただます)を遣わして氷砂糖と鮮魚を賜りました。 
 このように幕府は彦根藩が暴発しないように盛んに慰撫しています。
 それは、藩主を暗殺された彦根藩では、江戸だけでなく彦根でも激昂は大きかったからです。

 彦根に桜田門外の変を伝えたのは先日紹介した埋木舎の所有者で武蔵野学院大学副学長の大久保治男氏の先祖の大久保小膳です。
 大久保小膳は3日夜に江戸を立ち8日早くに彦根に着いているそうです。
 こうした江戸からの報告を受けて激昂する藩士が多く、水戸藩とは一触即発の状況にあったからです。
 
 彦根藩士の怒りは、水戸藩だけでなく、行列にいながら逃げ帰った藩士にも向けられました。
 彦根藩では、即死者は4名、藩邸で死亡したもの4名いましたが、その他、軽傷の人や無傷の人もいました。
 これらの人々は、強く非難され、とりあえず謹慎処分にされました。 そして2年後には斬首などの処分がされたそうです。
# by wheatbaku | 2010-03-15 06:53 | 『幕末』
襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、桜田門外で井伊直弼を襲撃した人たちのその後を書いていきます。 

 襲撃に加わった18人のうち、現場で死亡したのは、稲田重蔵のみでした。
 その他の人たちは、現場から脱出しました。
 しかし、残る17名中4名がまもなく自刃し、8名が老中邸などに自訴し、残る5名が現場を脱出し各地に逃亡しました。

【天童藩上屋敷前で2人自刃】 
襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_20482669.jpg 自刃したものは4名いますが、そのうち、山口辰之助と鯉淵要人は、傷が深く、伊勢長島藩増山家上屋敷の角を右にまがり、ようやく天童藩織田家上屋敷前にたどりつき、そこで自刃しました。
 天童藩織田家は、織田信長の次男織田信雄の系統で、上屋敷は、現在の丸の内の三菱ビルヂングや丸の内二丁目ビルディングがある場所にありました。ここは、丸ビルの南側になります。

【竜野藩上屋敷に4人自訴】 
 襲撃した水戸浪士たちは、襲撃が終わった後、月番老中の村上藩主内藤信思(のぶこと)の屋敷に自訴する計画でした。 襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_20484810.jpg 
 しかし、馬場先門が通行できなかったため、村上藩に自訴するのをあきらめ、竜野藩上屋敷に自訴しました。竜野藩藩主脇坂安宅(やすのり)が老中であったためです。
 ここに自訴したのは。斉藤監物、佐野竹之介、黒沢忠三郎、蓮田市五郎の4人でした。
 4人は満身創痍で、特に佐野竹之介は重傷で、その日のうちになくなりました。
 竜野藩上屋敷は、現在の東京海上日動ビル(写真左のビル)や新丸ビル(写真の右のビル)の建っている地区にありました。
 竜野藩が拝領する前は、福山藩阿部家上屋敷として老中阿部正弘が拝領していました。 

【熊本藩上屋敷に4人自訴】 襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_20583669.jpg 水戸浪士のうち4名が肥後熊本藩細川家上屋敷に自訴しています。
 自訴したのは、森五六郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森山繁之の4人です。
 竜野藩に自訴した人たちが重傷であったのに比べ、熊本藩に自訴した人たちは軽傷だったそうです。
 熊本藩上屋敷は、東京駅丸の内北口を出た場所で、現在、日本生命東京本部(写真の左部分)や丸の内オアゾ(写真の右部分)がある場所にありました。

【三上藩上屋敷前で有村自刃】 
 有村が自刃したのは三上藩上屋敷前でした。 襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_20491133.jpg井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は勝鬨をあげ、刀の切先に直弼の首級を突きたてて引き上げにかかりましたが、昏倒していた井伊家の小河原秀之丞が鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがって後頭部に切りつけました。
 小河原は広岡子之次郎らによって斬り倒されたが、有村も重傷を負いました。
 有村は、しばらく歩いていたもののついに歩行困難となり辰ノ口の三上藩遠藤家上屋敷の門前で自決しました。この時の三上藩藩主遠藤胤統(たねのり)は、当時、若年寄でもありました。
 三上藩上屋敷は、パレスホテルやAIGビルのある場所にありました。
 現在パレスホテルは建て替え中で、写真正面はAIGビルです。 

 この時まで有村が持っていた直弼の首は、一旦、三上藩遠藤家に引き取られた後、井伊家から人が出向き、供方騎馬徒士の加田九郎太の首と称して取り戻しました。

【姫路藩上屋敷前で広岡自刃】 襲撃後の水戸浪士 (桜田門外の変② 江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_20585067.jpg
 自刃者はもう一人います。広岡子之次郎は、大手門前の姫路藩酒井家上屋敷前で自刃しました。
 この自刃の様子を姫路藩士が見ていて、広岡の最後を「いさぎよい死ぬぶり」と書いているそうです。
 姫路藩酒井家上屋敷は、現在は、りそな銀行(写真)、三菱東京UFJ銀行などになっています。

【関鉄之助も斬首される】 
 その他の関鉄之助、岡部三十郎、海後蹉磯之助、広木松之介、増子金八の5人は大老の首をあげるのを見届け、現場を脱出しました。
 そして、襲撃の指揮者・関鉄之介は各地を逃亡した後、越後湯沢温泉で捕らえられ江戸で斬首されました。
 自訴した人たちや逃亡した後捕えられた人は斬罪に処せられ、後まで生存したのは、増子金八と海後蹉磯之助の2人でした。
# by wheatbaku | 2010-03-12 05:36 | 『幕末』
桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)
 今日は、いよいよ桜田門外の変です。
 
 3月3日は五節句の一つである上巳の節句であり、大名の登城日でした。
 安政7年の3月3日に桜田門外の変が起きました。 この日は、大雪でした。新暦でいうと3月24日ですので、春には珍しい大雪ということになります。 

【土蔵相模で訣別の宴】 
3月1日の決定を受けて、水戸浪士たち18人の実行部隊は、決行の前日の3月2日夕刻、品川の土蔵相模に集合し訣別の宴を開きました。桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_16564875.jpg 
 「土蔵相模」とは、食売(めしもり)旅籠の「相模屋」のことで、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)でしたので、「土蔵相模」と呼ばれました。
 桜田烈士の決別の宴のほか、高杉晋作たちの英国公使館焼き討ち事件の密議の場所にもなった「土蔵相模」は、惜しくも昭和52年に壊されて、現在はマンションが建っていて一階がコンビニエンスストアーになっています。 コンビニの前の通りが、旧東海道です。

桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_2161878.jpg【愛宕神社に集合】 
 3月3日早朝、土蔵相模を出た実行の人々は、愛宕山の愛宕神社に集合します。
 現在、愛宕神社の社殿前には、「桜田烈士の碑」が建てられています。
 桜田烈士とは次の18人の人々です。
 水戸浪士17人
  関鉄之介(現場総指揮 戦闘不参加)、岡部三十郎(検視見届役 戦闘不参加)、斎藤監物(神官、戦闘不参加の予定だったが戦闘に参加) 、稲田重蔵、山口辰之介、鯉淵要人(神官)、広岡子之次郎、黒澤忠三郎、佐野竹之助、大関和七郎、森五六郎、蓮田市五郎、森山繁之介、海後磋磯之介(神職)、杉山孫一郎、広木松之介、増子金八
 そして唯一の薩摩藩士 有村次左衛門

桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_21101242.jpg【襲撃の体制】 
 18人は、「武鑑」を手にして大名の登城を見物しているふりをして桜田門外で待ちました。
 桜田門近くには、森、
 お濠側に佐野、大関、広岡、稲田、森山、海後の6人が立ち、
 杵築(きづき)藩松平家上屋敷(現在は警視庁になっています)側に、黒沢、山口、杉山、増子、蓮田、鯉淵、広木、有村の8人が立っていました。
 以上15人が実際の戦闘要員で、現場の総指揮者の関鉄之助、それに岡部と斉藤は少し離れた場所に立っていました。
 上の写真は、桜田門前から見た警視庁です。桜田門外の変当時は豊後杵築藩上屋敷があり、屋敷前で桜田門外の変が起きました。 

【暗殺まで数分間の出来事】 
 井伊直弼の一行は午前9時に上屋敷を出ました。
 直弼の行列が桜田門外の杵築藩上屋敷前に近づいた時、森が訴状を手にして駕籠訴するような格好で駕籠に近づきました。井伊家供頭の日下部三郎が近づくと、いきなり切り付けられ深傷を受けて倒れました。 桜田門外の変(江戸検定今年のお題「幕末」)_c0187004_21111573.jpg これと同時に銃声がなり、待機していた水戸浪士たち、お濠側からは佐野たち、杵築藩松平家上屋敷の塀側からは黒沢たちが、一斉に直弼の行列に切り込みました。
 井伊側も必死に防戦しますが、雪を防ぐための柄袋や合羽に自由を奪われ斬り立てられてしまいます。
 そして、直弼の乗った駕籠だけが残りました。薩摩藩士有村次左衛門が、駕籠に何回も突きつけ、そして、直弼を駕籠から引き出し、その首を落としたのです。
 直弼は、発射された弾丸によって、腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまっていたため、居合い術の達人でありながら、その居合いを活かすこともできませんでした。

 襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいいます。
# by wheatbaku | 2010-03-11 06:30 | 『幕末』
  

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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