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小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

小伝馬町牢屋敷(新江戸百景めぐり㉔)

前回と前々回と2回にわたり南北奉行所跡を案内しましたが、町奉行所と関係の深い小伝馬町牢屋敷を本日はご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、75ページに第30景として紹介されています。

 小伝馬町牢屋敷は、現在の十思公園と十思スクウエアにありました。十思公園は、東京メトロ小伝馬町駅2番出口もしくは4番出口から徒歩1分の至近距離にあります。

 この公園で遊んだり休憩したりする人が大勢います。この穏やかな公園が、江戸時代には牢屋敷があったと知っている人が何人いるでしょうか?

 下写真は、小伝馬町駅側から撮った十思公園です。ここ全体が小伝馬町牢屋敷でした。

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 十思公園の隣には十思スクェアがあります。十思スクェアは、以前は十思小学校でした。この十思の名前は、明治になってから、この地区が第十四小区であったことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思の音が十四に通じるところから名づけられました。十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中に書かれている唐の名臣魏徴が大宗皇帝にさし上げた十ヶ条の天子のわきまえなければならない戒めです。

十思公園は、十思小学校の東隣にあることから、小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。

なお、大区・小区制とは、明治初年の地方行政制度であり、区名には番号を使用したと「角川新版日本史辞典」に説明されています。


小伝馬町牢屋敷

十思公園と十思スクェアがある場所が、江戸時代に小伝馬町牢屋敷があった場所です。

牢屋敷は、約2600坪ありました。十思公園のほか、隣の十思スクェア(旧十思小学校)と道路を挟んだ南側の大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。

牢屋敷は、十思スクェアと十思公園の北側にあり、牢屋奉行の屋敷などは、南側にありました。

大安楽寺

十思公園から道路を挟んだ南側に大安楽寺があります。大安楽寺は真言宗のお寺です。(下写真が本堂です)

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大安楽寺は、明治の初年、ここを通った高野山の山科俊海というお坊さんが、燐の火が燃えているのを見て、霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年に大安楽寺を建立しました。

その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、3円50銭だったそうです。

建立に際して、戦前の大倉財閥創始者の大倉喜八郎と安田財閥創始者の安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前の一字をそれぞれとって大安楽寺と名づけたと言われています。 
 しかし、本当は「理趣経」に基づく寺号とのことです。

 大安楽寺の本堂の東側に延命菩薩地蔵が鎮座しています。その場所が死罪所といわれています。ここで、「下手人」「死罪」「獄門」の刑を言い渡された罪人が斬首されました。下写真が延命菩薩地蔵です。

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 土壇場という言葉はご存知だと思いますが、「最後の最後」という意味で、「土壇場でキャンセルする」というように使われています。その「土壇場」というのは、首切りの刑を行うために築いた土の壇をいいます。まさに、延命菩薩地蔵が鎮座する場所辺りが、本当の土壇場でした。

延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立され、台座の下の部分に「為囚死群霊離苦得脱」と供養の言葉が書かれていますが、これは、山岡鉄舟の字です。有名な吉田松陰もここで処刑されました。

吉田松陰終焉之地の碑

吉田松陰は、安政6年(1859)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。吉田松陰終焉之地の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にありましたが、戦後、GHQの命令で、こちらに移転したと言われています。(下写真)

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碑には、「身はたとひ(え) 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置(留めおか)まし 大和魂」と書かれています。

 これは、「留魂録」という松陰の遺書といわれている本に書かれている辞世の歌です。

 そして、二十一回猛士と書かれていますが、これは、吉田を崩して再構成すると二十一回となり、杉という字も二十一になるところから、松陰が自ら付けた号で、猛というのは猛々しいことを行うという意味でつけたようです

時の鐘

十思公園には、時の鐘があります。(下写真)

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江戸時代後期に9つあった時の鐘の一つです。

時の鐘は、日本橋石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9ヶ所にありました。

その中で、石町の時の鐘が最初に設置された時の鐘です。

十思公園にある時の鐘は、宝永8年(1711)鋳造であり、既に300年を過ぎています。

元々、時の鐘は、本石町にありました。

明治4年に時の鐘が廃止され、鐘は近くの屋敷(松沢家:大阪屋孫八 勘定御用達)の庭においてありましたが、昭和2年に十思小学校校庭に移され、昭和5年に十思公園に鐘楼を建てて設置しました。

石町にあった時の鐘は、約9メートルあり、高さ3尺(約1メートル)の石垣のうえに、高さ京間4間(約8メートル)の鐘楼が建っていて、そこに鐘がつるされていたと推定されています。

 

十思スクエア

十思スクェアの建物は昭和3年に建てられた十思小学校の校舎を利用しています。(下写真)

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 十思小学校は平成2年に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。
 建物は関東大震災の復興期に建てられた小学校建築の代表的なものとして、東京都の歴史的建造物に選定されています。

 十思スクェアの別館入口に、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されています。(下写真)

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小伝馬町牢屋敷の仕組み

 最後に、小伝馬町牢屋敷について少し詳しく説明しておきます。

 ご興味のある方はお読みください。

1、江戸の牢屋敷は、江戸時代初期の慶長年間(15961615)に常盤橋外から小伝馬町に移されたとされています。そして、明治8年に市谷監獄が新設されるまで、江戸時代を通じて小伝馬町に牢屋敷がありました。これが小伝馬町牢屋敷です。

2、牢屋敷というと刑務所と誤解する人が多いのですが、刑務所は懲役刑や禁錮刑の人を収監しておく施設で、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑はありませんでした。(ただし、永牢という長期間収監する刑が例外的にありました。)。

そのため、牢屋敷は、刑務所ではなくて、刑が決まるまでの一時的な収容所、今で言うと拘置所にあたります。

3、囚人を収容する牢屋は、細かく区分されていましたので、その区分ごとに説明します。下写真が小伝馬町牢屋敷の模型を拡大したものですが、中央が表門で、左手(実際に北側)に牢屋がありました。

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①牢屋は、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていて、東牢、西牢にそれぞれ揚屋が二つずつあり、大牢と二間牢が一つづつありました。

②揚屋は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れた牢です。東西とも入口に近い方を口揚屋、遠い方を奥揚屋と呼びました。

③大牢には 町人を入れました。

④二間牢は町人を入れていれた牢ですが、江戸時代後期には無宿人を入れました。 

⑤女牢(女部屋ともいう)は女性の囚人を収容する牢で西口揚屋を使用しました。

⑥遠島部屋は、遠島の刑を受けた囚人を船出まで収容しておく部屋で東口揚屋を使用しました。

4、これまで説明した牢は、牢屋敷の北側にある牢屋にありますが、これとは別に、独立した建物として揚座敷と百姓牢がありました。        

①揚座敷は見分の高い囚人を収容する牢で、独立した建物でした。ここに収容されるのは、御目見以上、これに準ずる僧正、院家(いんげ、門跡寺の別院にいて門跡を補佐する僧)、紫衣その他の重き僧侶、神主の罪人でした。 

②百姓牢は、百姓だけを入れた牢で、独立した建物でした。大牢や二間牢は牢馴れした者が多く、そこに百姓を入れるといじめられたり、彼らに影響されて悪に走ったりする弊害があったので、両者を別々に収容するために安永4(1775)に新しく百姓牢が作られたものです。

 以上、長々と牢屋敷のしくみを書きました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

赤印が十思公園です。
青印が十思スクエアです。この別館に牢屋敷の模型が設置されています。
 




by wheatbaku | 2019-08-20 12:08 | 新江戸百景めぐり
貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

貨幣博物館(新江戸百景めぐり㉑)

 今日は、前回ご案内した日本銀行の目の前にある貨幣博物館のご紹介をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では、73ページで紹介されています。

 その前に先週土曜日の8月10日午後12時30分から、江戸楽アカデミーで「1級合格虎の巻講座」が開講されましたので、まずそれをレポートしておきます。

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 当日は、35度を超える暑さのなか、大勢の人に受講いただきました。

 江戸検も、来年で終了するため、あと2回しかチャンスがないため、合格のノウハウをしっかり書き込んだ「合格虎の巻」を利用して合格のための心構えや勉強方法を説明しました。

 昨年1級に合格したお二人の合格体験談の発表もあって、3時間の長丁場でしたが、参加者の皆さんは、大変熱心に聞いていただきました。

 その後、希望者による懇親会を開催しましたが、この席では、「これまでまったくわからなかった合格への道がわかった」「目からうろこが落ちた」といった絶賛の声をいただき大変うれしく思いました。また、その席では「今年は絶対合格します」と宣言する人もいて、参加者の熱気があふれる懇親会になりました。

 当日の講義の写真は撮り忘れましたが、懇親会の写真を撮りましたので、そちらをアップしておきます。

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 講座に参加していただいた皆様ありがとうございました。
 そして懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 さて、貨幣博物館ですが、前回ご案内した日本銀行本店の道路を挟んだ南側にある日本銀行分館の中にあります。下写真が入口の写真です。

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 貨幣博物館は、正式名称「日本銀行金融研究所貨幣博物館」の如く、日本銀行の付属施設です。

ここでは、貨幣および貨幣に関係する資料が展示されています。

 貨幣博物館の所蔵資料の中核となっているのは、古貨幣収集家・研究家であった田中啓文氏が収集していて、昭和19年に日本銀行に寄贈された銭幣館コレクションです。

 貨幣博物館は、日本銀行創立100周年(1982年)を記念して昭和60年(1985)に開館した博物館です。
 貨幣博物館を訪れるのは久しぶりでしたが、今から4年前にリニューアルされていて、以前に比べて大変見やすい展示となっています。下写真が展示室の入口です。

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展示されている貨幣つまり江戸時代の小判や大判はじめ現在通用している1万円札などはすべて本物だそうです。そのため、展示ケースはロックされています。またケースには、警報機も設置されているそうです。

こうしたことから、博物館内は撮影禁止となっています。

そうした中で、下記1億円の重さを実体験できるものは展示室外に展示されていました。1億円の重さは約10キロあるそうです。実際に持ってみましたが、結構重かったです。

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また、日本銀行の本店の外観を見学する見学会が毎週火曜日~金曜日の12:45から(30分程度)開催されています。料金はかかりません。

日本銀行の外観しか見学できませんが、外観をみながら丁寧な案内があり、大変参考になります。下写真は、本店見学の様子です。

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展示されている内容は、大判・小判の推移から藩札、さらに両替商の仕事など、幅広いものとなっています。
 その中には、小判が黄金色に輝く理由なども説明されています。実は、小判は、純金でできているわけだはなく、金と銀の合金でできていました。それにもかかわらず、小判が黄金色に輝いて見えるのは、製造の最後の工程で「色付け」または「色揚げ」という作業が行われていたからです。

これは、数種類の薬品を小判の表面に塗って炭火で焼き、水の入った桶の中で磨く作業です。この作業を行うことによって表面から銀だけが溶けて取り除かれ、金だけが残ります。そのため、黄金色に輝いて見えるそうです。

貨幣博物館の入り口の看板には、「色付け」の工程が描かれていました。(下写真)

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赤印が貨幣博物館です。

青印が日本銀行本店です。






by wheatbaku | 2019-08-12 11:52 | 新江戸百景めぐり
金座(新江戸百景めぐり⑳)

金座(新江戸百景めぐり⑳)


 今日は、金座についてご紹介します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、第27景(73ページ)で紹介されています。

 江戸時代に金座があった場所に、現在は、日本銀行が建っています。下写真は、常盤橋からみた日本銀行の遠景です。

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 現在の日本銀行は、明治29年4月に建設された建物で、東京駅を設計した辰野金吾が設計しました。

日本銀行の建物は、下写真のように外観から見ると石造りのように見えますが、設計した石積みレンガ造りと呼ばれる建て方の建物です。

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当初は総石造りとする予定でしたが、明治24年に濃尾大地震が起きたため、総石造りは耐震上無理があるということで、積み上げたレンガの外側に、外装材として石を積み上げるという方法に変更したため、石積レンガ造りとなりました。

この建物は昭和49年に、国の重要文化財に指定されました。

この地に、江戸時代に金座がありました。金座は、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていました。

ところで、金座というのは、通称です。正しくは、①御金改役(おきんあらためやく)役所②金局(きんきょく)、③吹所(きんふきしょ)の3つの役所からなりたっていました。

御金改役役所は、金座の長官である後藤庄三郎光次の役宅でした。

御金改役は、後藤庄三郎家の世襲でした。しかし、文化7年(1810)に後藤庄三郎光包が流罪となり、当時銀座年寄役を勤めた後藤三右衛門が新たに御金改役となりました。この後藤三右衛門家も弘化2年(1845)に後藤光亨が死罪となり、別家の後藤吉五郎が御金改役となりました。

金局は、金貨鋳造作業のすべてを所管する金座人の役所でした。

吹所は、小判を鋳造する工場です。

金座は慶応2年(1866)焼失し、明治2年には造幣局の設置に伴って廃止されました。

赤印が日本銀行です。青印が日本橋です。






by wheatbaku | 2019-08-09 20:11 | 新江戸百景めぐり
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)
日本橋(新江戸百景めぐり⑲)

 前回は、越後屋を中心に日本橋通りをご案内しましたが、今日は、日本橋について紹介します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では60ページの第16景に紹介されています。

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日本橋は、家康が、征夷大将軍となった慶長8年(1603)に建てられたと言われています。

なぜ、日本橋と呼ばれるようになったかはっきりはしません。

日本国中から人があつまって架けた橋だから日本橋という説もあります。

日本橋がかけられる前に、2本の木を渡しただけの橋があったからだという説もあります。

 

架橋後15年後の元和4年(1618)に長さ37間4尺5寸(約67.4m)、幅4間2尺5寸(約7.7m)の大橋に架け替えられました。

その後も日本橋は度々架け替えられ、「道路史余話」によると少なくとも19回架け替えられ、その平均架橋寿命は約16年とされています。

江戸時代後期の日本橋が、江戸東京博物館に復元されています。

江戸東京博物館の日本橋は、文化3年(1806)と文政2年に架けられた日本橋を基にした日本橋の北半分が復元されています。これによると、文化・文政当時の日本橋は、長さ約51メートル、幅約8メートルありました。(下写真)

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現在の橋は、明治44年に架けられたもので、重要文化財に指定されています。

「日本橋」の橋名は最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。

長さ49.1メートル、幅は27.3メートルあります。車道10間で2間半の歩道が両側にあり合計15間となっています。江戸時代のものと比較して、長さはほぼ同じで、幅は約3倍となっています。

獅子像と麒麟像

現在の日本橋の意匠設計は、妻木頼黄(よりなか)が担当し、欄干の麒麟像と獅子像は彫刻家渡辺長男(おさお)が製作しました。

渡辺長男は、朝倉文夫の実のお兄さんです。苗字がちがうのは、朝倉文夫が養子にいっているからです。

獅子が抱いているのは、東京都のマークです。運慶の狛犬を参考にしたと言われています。(下写真)

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下写真が麒麟像です。頭は龍、胴が鹿、羽があります。

麒麟麦酒のラベルにある麒麟というより、西洋のドラゴンという雰囲気ですね。小さい台座にバランスよく載せるのに苦労したそうです。上には、松並木の松と一里塚の榎も彫られています。

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江戸時代は、擬宝珠がある橋は、格の高い橋でした。江戸城の橋は別として、一般の橋では、この日本橋、京橋、新橋の三つの橋しかありませんでした。

橋の南側にある江戸時代から続く漆器店黒江屋の2階のウィンドウに江戸時代初期の万治元年(1658)と刻まれた擬宝珠が陳列されています。(下写真)

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日本国道路元標

日本橋は、架橋の翌年には、五街道が定められ、日本橋が五街道の起点となりました。そうしたことから、現在も「日本国道路元標」として各道路の起点になっています

日本橋の北詰の西側に日本国道路元標の複製が展示されています。道路元標の字は佐藤栄作元首相の字です。(下写真)

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日本国道路元標の前には、東京市道路元標が、道路の真ん中にありました。その東京市道路元標が日本国道路元標の後ろに立っています。下写真の右奥が東京市道路元標、手前左が日本国道路元標です。

なお、歩道からははっきり見えませんが、日本国道路元標の本物が日本橋の道路の中央にあります。

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魚河岸

 日本橋の北詰の東側には魚河岸がありました。

 それを記念して魚河岸の記念碑が建てられています。

正十八年(1590年)、徳川家康が江戸入りした時に、家康に従って摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、佃島を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかりました。そして、その後、納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したといいます。これが魚河岸のはじまりであり、森孫右衛門ら一族がその始祖といわれています。

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昭和29年に建てられた日本橋魚河岸記念碑が乙姫像(上写真中央)なのは、川柳で「日本橋 龍宮城の 港なり」と詠まれたことに因みます。なお、上写真の左手には日本橋魚市場岸発祥の地と刻まれた石碑も建てられています。

この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。

近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交い、一日に千両の取引があるともいわれ、「朝千両(魚河岸)、昼千両(歌舞伎)、夜千両(吉原)」と、その繁栄を詠われました。

高札場

五街道の起点でもあり、人が多く集まる日本橋は、幕府にとって政策のPR場所でもありました。それらが、ともに日本橋の南詰めにありました。

ひとつは高札場であり、ひとつは晒し場でした。

南詰西側には、高札場(こうさつば)がありました。

高札場とは、幕府が決めた法令を木の板に書き、人目をひくように高く掲げておく場所のことです。

高札場の跡には、高札の形を模した日本橋の由来を書いた「日本橋由来記」が組み込まれた石碑が建てられています。(下写真)

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 高札場には、重要な高札場つまり大高札場とふつうの高札場との二種類ありました。江戸には、大高札場は日本橋をふくめ六カ所、普通の高札場は35カ所ありました。6ヶ所の大高札場は次の通りです。

日本橋、常盤橋門外、筋違橋門外、浅草橋門外、半蔵門外、札の辻、

中でも重要なのが日本橋の高札場でした。日本橋の高札場は、有名な歌川広重の東海道53次の日本橋の中にも描かれています。下写真の左手に高札場が描かれています。

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大高札場には、キリシタン禁制、運賃を制定した高札など共通の定高札といわれる7枚の高札がありましたが、

日本橋には、ここだけにしか設置されない高札が掲げられていました。それは、幕府が政策としてもっとも重視したものであった。
 たとえば、五代将軍綱吉の「生類憐れみ令」の高札、享保年間に立てられた「目安箱の設置に関する高札」「諸国新田取り立ての高札」などがありました。新田取立の高札が、なぜ日本橋に立てられたのか不思議に思われるかもしれませんが、当時、新田開発の大事業は、江戸その他の大都市の富豪が金子元にならなければ実行できないことを反映しています。
 

晒し場

日本橋南詰の東側は、江戸時代は晒し場です。

心中未遂の男女、女犯僧は、見せしめのため、日本橋で晒されました。

また、主人殺しの犯人は、首だけ出して土に埋め、3日間見せ物として晒されました。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔としました。

このように見せしめのための晒刑が実行されたのは、大勢の庶民に、「悪事を働くとその結果はこのようになりますよ」と実際に認識させるためでした。

そのため、江戸で最も多くの人が集まる日本橋が晒し場に選ばれました。

赤印が日本国道路元標(複製)がある場所です。
青印が日本橋魚河岸記念碑です。
緑印が日本橋由来記です。
ピンク印が黒江屋です。(お店はビルの2階にあります)







by wheatbaku | 2019-08-02 21:41 | 新江戸百景めぐり
日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)

 先週土曜日に、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」の2回目の講座が行なわれました。

 今回は、三井高利について話をさせていただきました。

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 三井高利は、越後屋の創業者です。延宝元年(1673)52歳で江戸の本町通りに越後屋を開店し、「現金掛け値なし」の革新的な商法で、越後屋を繁栄させましたが、呉服や仲間からの妨害を受けたため、天和3年(1683)駿河町に移転し、その後、両替商も兼営し、呉服と両替を車の両輪として、越後屋を江戸随一の豪商に押し上げました。

受講者の皆さんは、今回も大変熱心に聞いていただきました。私も、受講者の皆さんの熱意に押されて楽しく話をさせていただきました。

 受講いただいた皆様ありがとうございました。

 この講座では、東京の三井本館と三越日本橋本店、京都の三井家の菩提寺真如堂、松阪の三井発祥の地など三井高利ゆかりの地も紹介しました。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、越後屋のあった日本橋通りも取り上げられています。そこで今日は、日本橋通りをご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、P116の第60景で紹介されています。

越後屋があった場所は、現在の三越日本橋本店と三井本館がある場所です。下写真の奥が三越日本橋本店、手前のビルが三井本館、手前の道路が中央通りです。

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三井高利は、天和3年(1683)に、それまであった本町から駿河町に店舗を移転しました。その移転場所が、現在の三越日本橋本店のある場所です。

最初の店舗は、間口7間で、東側4間で呉服店、その西側3間が両替店でした。その後、貞享2年(1685)に、両替店を北側(現三井本館のある場所)に移し、南側は呉服店だけとしました。

そして、元禄11年(1698)には、北側は呉服店本店とし絹織物を扱い、南側は綿店として木綿製品等を扱うこととして、駿河町の南北は越後屋が占めることになりました。

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まさに、葛飾北斎の「冨嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』」(すぐ上浮世絵)や歌川広重の「名所江戸百景『する賀てふ』」(下浮世絵)に描かれているような景色となりました。

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現在の三越日本橋本店は、大正3年に建設されました。当時はスエズ運河以東最大の建物と言われました。

建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの建築で、5階建一部6階でした。その後、関東大震災で損傷し、昭和2年に修復工事が完了し、昭和10年に増改築され、現在みられるような形となりました。三越日本橋本店は平成28年に国の重要文化財に指定されています。

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三越の正面玄関にあるライオン像は、モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像です。大きさはそこの約半分になっているそうです。

これは、当時の三越の支配人の日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアです。日比は、ライオンが大好きで自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどでした

 

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三越日本橋本店の北側には、江戸時代は、越後屋の本店と両替店がありましたが、現在は、三井本館が建っています。

三井本館は、三井財閥を構成していた三井合名会社、三井銀行(現三井住友銀行)、三井信託銀行(現三井住友信託銀行)、三井鉱山(現日本コークス工業)等の主要各社の本社が入居し、三井財閥の拠点として昭和4年(1929)に建設されました。今年は2019年ですので、ちょうど90周年を迎えることになります。三井本館も平成10年に国の重要文化財の指定を受けました。

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三越日本橋本店の地下は、東京メトロ三越前駅に直結しています。

 その地下コンコース壁面に、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻が展示されています。(下写真)

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「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、この絵巻は、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰したものです。

絵巻には沿道にある88軒の問屋や店のほか、通りを歩く人1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿①匹、鷹2羽が描かれていると言われています。もちろん、越後屋も描かれています。直前の貴重な記録といえます。

この絵巻により、文化時代の日本橋通りの様子がよくわかります。

 三井本館から中央通を北に少し行くと「日本橋室町三井タワー」が見えてきます。この建物は、今年(2019年)3月には竣工した建物です。

下写真は「日本橋室町三井タワー南東の入口の全体写真です。

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その南東の入口に「十軒店跡」の説明板が設置されています。

半透明なので写真に写りにくいのですが、下の写真であればタイトルがいくらかわかると思います。

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十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として江戸で有名でした。

十軒店は、下の切絵図でわかる通り、町の名前です。その名前は、戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。

 江戸時代中期以降は、3月と5月の節句や12月には、お雛様、五月人形、鯉のぼり、破魔矢、羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。

 「江戸名所図絵」には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌(はんじょう)している挿絵が描かれています。

「日本橋室町三井タワー」の北東に新日本橋駅があります。その駅の入口に『中崎屋跡』の説明板が設置されています。(下写真)

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 長崎屋は、江戸時代、薬種問屋でしたが、長崎に駐在したオランダ商館長の将軍に拝謁するために江戸に参府した際の定宿になりました。

将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは数年に1回となっています。

 商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者や蘭学者が訪問し、外国の知識を吸収する貴重な場所でした。

 長崎屋の北には、石町の時の鐘がありました。

 そのため、新日本橋駅の北側の通りに「石町の時の鐘」の説明板があります。(下写真)

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江戸の初期は、江戸城内の土圭の間にある時計で時刻をはかり、城内にある太鼓を打って知らせていました。しかし、城内ではうるさいので、町方に移させるということになりました。その移転先が石町でした。つまり、石町の時の鐘が最初の時の鐘です。

その後、時の鐘は増加して、江戸時代後期には、日本橋の石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9カ所となりました。

そして、時の鐘は明治4年に廃止されたため、石町の時の鐘は近くの屋敷の庭に放置されていましたが、昭和5年に十思公園内に鐘楼を建てて移設されました。それが現在、十思公園にある時の鐘です。(下写真)なお、鐘楼は、移設時に新たに建設されたものです。 

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赤印が三越日本橋本店、その北側が三井本館です。

青印が日本橋室町三井タワーの十軒店跡の説明板設置場所です。

緑印が長崎屋跡の説明板設置場所です。
ピンク印が石町の時の鐘の説明板設置場所です。









by wheatbaku | 2019-07-31 18:57 | 新江戸百景めぐり
大安楽寺(人形町散歩)
 今日は、十思公園の南隣にある「大安楽寺」について書きます。
 大安楽寺も小伝馬町牢屋敷跡に建立された寺院です。

 大安楽寺は、真言宗のお寺で、江戸三十三観音の5番札所です。
 山科俊海というお坊さんが、牢屋敷で霊を慰めるために、明治8年に創建されました。
 大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は十一面手観世音菩薩像です

 さて、大安楽寺の境内の入り口に「弁財天」がお祀りされています。
 しかし、多くの人が気が付かないのではないでしょうか。
 この弁財天は、江ノ島に鎮座していた三弁財天の一つだったそうです。
c0187004_1357712.jpg 明治になって、廃仏毀釈の流れのなかで、廃棄されそうになったものが、縁があって大安楽寺に鎮座されるようになったようです。
 弁財天は、もともとは、サラスヴァティーというインドの川の神様ですが、中国経由で日本に伝わり、宗像三神の一つの市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多くなりました。
 
 弁財天は、琵琶を抱えた女神とあらわされることが多いのですが、大安楽寺に鎮座している弁財天は8本の腕をもつことから「江戸八臂(はっぴ)弁財天」とよばれています。
 八臂(はっぴ)とは8つの腕を言います。
 8本の腕は、、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・縄)を持っています。
 八臂(はっぴ)の弁財天は数少ないのではないかと思います。


 その弁財天のとなりに貴重なものがありました。
 弁財天の神使(しんし)は「蛇」ですが、蛇の化石と伝わっている石が置いてありました。
c0187004_13564325.jpg  大安楽寺のご住職にお聞きしました。
 この化石は、北海道のカムイコタンで、酋長のしるしとして、歴代伝わったものだそうです。
 もともとは、カムイコタンの酋長を決める際に、水の底から、この石を持ち上げた人が酋長に選ばれたという言い伝えがあるそうです。
 それが、どういう事情があったのかわかりませんが、カムイコタンを離れることとなり、築地のかつお節の「和田久」の社長が手に入れて、大安楽寺に寄進していただいたのだそうです。


c0187004_13563096.jpg 以前、東京新聞に取り上げられた時には、大勢の参拝客が来られたそうです。
 そして、霊験もあらたかで、現在もお礼に参拝される方がいらしゃるというお話でした。

 今年は、巳年です。 初春から、良い年になるようにとお願いしました。
 参加された皆様も、化石をなでたり、手をあわせたりして、それぞれお願いをしていました。
by wheatbaku | 2013-01-18 07:48 | 大江戸散歩
四千両小判梅葉(人形町散歩、黙阿弥ゆかりの地)
 人形町散歩に戻ります。
 人形町での歌舞伎ゆかりの地の最後になりますが、今日は、河竹黙阿弥の「四千両小判梅葉」ゆかりの地を紹介します。
 それは「小伝馬町牢屋敷跡」で、現在では十思公園や十思スクエア、大安楽寺などになっています。
 
 「四千両小判梅葉」は、幕末に実際に起きた、江戸城の御金蔵(ごきんぞう)を破った事件を題材にしています。
 「四千両小判梅葉」は「しせんりょうこばんのうめのは」と呼びます。人形町散歩の際に「よんせんりょうこばんうめのは」と言っていたら、同行の忍び駒様に早速「しせんりょう!!」とご指摘を受けました。
c0187004_16443887.jpg 「四千両小判梅葉」は、黙阿弥70歳のときの作品で、明治18年11月に千歳座(現在の明治座、右写真)で、初演となりました。
 初演は、5代目尾上菊五郎が富蔵(とみぞう)、3代目市川九蔵(のちの7代目市川團蔵)が藤岡藤十郎に扮しました。
 五代目菊五郎のお家芸ともいうべき名作と言われていて、昨年10月に新橋演舞場で上演されました。

 浪人藤岡藤十郎は辰巳屋の遊女お辰に入れあげて金に困っているところに、むかし藤岡家で中間奉公をしていて、いまはおでん屋をしている富蔵に御金蔵破りを誘われ、4千両を盗み出すことに成功します。
 藤十郎はすぐに山分けしようとしますが、富蔵が藤十郎の家の床下へほとぼりが冷めるまで埋めておこうと言います。
 二人は自分の分け前を少しずつ使っていましたが、悪事の露見が近いと思った富蔵は最後に3百両を藤十郎から受け取って母のいる金沢へ行き、そこで捕まります。
江戸に護送される富蔵は途中の熊谷にある妻と子、舅が営むうどん屋の前で、籠に入ったまま家族と再会し別れを惜しみます。一方で、藤十郎も、身をきれいにしてから捕縛されます。
 富蔵は町人の罪人が入れられる西の大牢で、二番役につき、新入りの囚人を問い詰めています。
 その中には遺恨のある生馬の眼八(いきうまのがんぱち)もいました。
 そして、判決の言い渡しが近づいたため牢名主から新しい着物と帯をもらいます。
 そして、市中引き回しのうえ磔の刑の言い渡しを受けた富蔵は、藤十郎とともに囚人達に見送られて刑場へ引かれて行くのでした。

 当時、千歳座にいた田村成義は、幕末には小伝馬町の牢役人だったので、実際の牢内のしきたりを教えるなどしたそうです。
c0187004_8451247.jpg   田村成義は、日本橋で生まれ、田村家の養子となり,伝馬町の牢獄に勤め、明治になって、千歳座(現在の明治座)で初めて企画製作を行い、守田勘弥の死後には歌舞伎座を経営しました。
 歌舞伎座がの経営が松竹に移った後には、市村座の経営にあたり、6代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門の2人を市村座に出演させ、いわゆる菊吉の市村座時代という黄金期をつくり、2人を育てました。
 一時「田村将軍」と呼ばれるほどであったと言います。

 「西大牢の場」で行われる囚人の「すってん踊り」や、富蔵が新入りの囚人たちに向かって独特の調子で牢内のおきてを話す「シャクリ」というセリフ、飯を盛るうつわなどの細かいものも、すべて田村成義の考証によるものだそうです。
 その牢内の有様があまりにもリアルなため、「西大牢の場」は「獄中の活歴」と評されたといいます。

 大評判になった「西大牢の場」は、小伝馬町牢屋敷での場面です。
 小伝馬町牢屋敷は、江戸時代の慶長年間から江戸時代を通じて、小伝馬町にあって、明治8年(1875)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。

 小伝馬町牢屋敷跡は、現在は、十思(じっし)公園や十思(じっし)スクエアとなっています。
c0187004_16453146.jpg 十思公園には、「時の鐘」が保存されています。
 写真左手に見えるのが「時の鐘」で、写真の奥に見える建物が旧十思小学校(現在の十思スクエア)です。
 牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでした(永牢という長期間収監する刑が例外的にあります)。
 ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所という施設、今で言うと未決囚の収容施設(拘置所)でした。
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 牢屋敷は、約2700坪ありました。その中には、牢屋と牢屋敷を管理する役人の屋敷や事務所がありました。
 牢は一棟の建物で、大きく分けて、東牢、西牢に分かれていました。
 上の写真は、牢屋敷の模型ですが、手前中央が表門、左側の屋根がない部分が牢です。右の部分は、牢屋敷の事務所や牢屋奉行の屋敷などがありました。
 東牢、西牢にそれぞれ揚屋が二つ、大牢と二間牢が一つずつありました。
 揚屋(あがりや)は、御目見以下の直参、陪臣、僧侶、医師、山伏などを入れる牢屋で、町人や無宿人は、大牢、二間牢に入れられました。
 牢には、牢名主を筆頭とする牢内役人がいました。
 時代劇での牢屋の場面で、牢名主が何枚もの畳の上に座っている場面がありますが、あれは事実だったようです。
 牢役人は、名主、添役、角役、二番役、、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番の12名が幕府により決められました。
 さらに、隠居、隅の隠居なども随時決められました。
 
 「四千両小判梅葉」で、富蔵は二番役となっていますので、ナンバー4だったことになります。
 「西大牢の場」を見ても4番目に座っています。
by wheatbaku | 2013-01-16 07:25 | 大江戸散歩
人形町甘味老舗めぐり(人形町散歩)
日曜日開催の人形町散歩の続報です。
今回の人形散歩は、甘味の老舗を訪ねることもテーマの一つでした。というよりそれが最も大きなテーマでした。

 今回は、①瓦せんべいの「人形町亀井堂」、②虎家喜の「玉英堂彦九郎」、③おしるこの「甘味処 初音」の老舗三ヶ店を訪ねました。

1、人形町亀井堂
 人形町亀井堂さんは昭和4年創業の瓦せんべいのお店です。
 人形町亀井堂さんは、神戸元町で明治6年に創業した亀井堂総本店からのれん分けされた店です。
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 亀井堂さんの店内で、瓦せんべい、人形焼を買う2期会のメンバーです。
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 瓦せんべいはカステラと同じ材料でつくられたものだそうです。
 また瓦せんべいの生地に刷毛のみで砂糖細工をほどこす伝統技法「刷毛引き」をした瓦せんべいも有名です。
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2、玉英堂彦九郎
 玉英堂彦九郎さんは天正4年(1576)に京都で創業された和菓子屋です。
 昭和29年に現在地に支店を構え、現在は、人形町の店が本店だそうです。
 「玉英堂彦九郎」の名前は、高山彦九郎からもらったからだそうです。
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 店内で和菓子を買う参加者の皆さん。
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 人気の高い虎家喜(260円)と玉饅(650円)です。これを買われた方が多かったですね。
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3、甘味処 初音
 歌舞伎や落語が好きだった初代が、歌舞伎に登場する「初音の鼓」に因んで名付けた「甘味処 初音」。
 天保8年(1837年)の創業以来、170年がたったお店です。
 お店の前に集まっているみんなは、何を話しているのかな?
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 御膳しるこは680円です。アツアツで気を付け食べないとやけどしそうでした。甘さを抑えてありおいしかったです。
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 赤印が「人形町亀井堂」です。 青印が「玉英堂彦九郎」です。 緑印が「甘味処初音」です。

by wheatbaku | 2013-01-08 07:28 | 大江戸散歩
日本橋七福神めぐり(人形町散歩)
 昨日は、江戸検一級2期会の特別例会で日本橋人形町を歩いてきました。
 そこで、今日と明日に分けて、その様子をお知らせします。
 今回のメインテーマは、①日本橋七福神めぐり、②人形町の甘味老舗めぐり、③人形町の史跡めぐりでした。
 そのうち、今日は、日本橋七福神めぐりについて紹介します。

 日本橋七福神は、比較的狭い範囲の中にあり、短時間で回れるので、個人的にはもう何回かお参りしてきているので、慣れた道筋ではありました。 
 しかし、昨日は、6日でしたが、七福神めぐりする人たちが多くびっくりしました。
 今回は、小伝馬町よりから順に七福神めぐりをしました。
 つまり、①椙森神社、②笠間稲荷神社、③末廣神社、④小網神社、⑤茶ノ木神社、⑥松島神社、⑦水天宮の順に巡ってきました。
 
1、椙森神社   恵比寿    詳細はこちら ⇒ 「椙森神社」

 参拝を待つ人で一杯でした。この後にも行列は続いていました。

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2、笠間稲荷神社  寿老神   詳細はこちら ⇒ 「笠間稲荷神社」

 写真手前では、参加者が地図を見ながら現在地の確認中です。奥には長い行列が見えています。
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3、末廣神社  毘沙門天   詳細はこちら ⇒ 「末廣神社」

 参拝客の行列が長く続いています。左手に列は伸びていました。

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4、小網神社  福禄寿、弁財天 詳細はこちら ⇒ 「小網神社」

 もっとも長い列ができていました。人気が高いようですね。

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5、茶ノ木神社  布袋    詳細はこちら ⇒ 「茶ノ木神社」

夕方近くなったので、参拝客が減ってきました。参加者ものんびり立ち話中です。

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6、松島神社  大国神   詳細はこちら ⇒ 「松島神社」

 神社の由緒書を熱心にみている参加者たちです。もう暗くなり始めていました。

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7、水天宮、  弁財天    詳細はこちら ⇒ 「水天宮」

 水天宮についたときは5時でした。夕暮れ時で、暗くなっていました。それでもかなりの参拝客がいたのは、さすが水天宮です。

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最後は、東京シティエアーターミナルの「龍鳳」で新年会でした。
全員で記念撮影です。2期会の皆さんお疲れ様でした。そして本年もよろしくです。
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by wheatbaku | 2013-01-07 00:30 | 七福神めぐり
水天宮に初詣
 今日は仕事開始めです。
 取引先への挨拶をすませた後で水天宮に初詣をしてきました
 6日に.人形町を案内しますので、その下見の意味もありました。
 もう5時近くでしたので、初詣の人は少なくなっていましたしビジネスマンが多かったように思いました。
 やはり、仕事始めですね。

 さて、水天宮は、安産の神様として大変有名ですね。c0187004_20113371.jpg では、水天宮にお祀りされている神様はどなたでしょうか?
 主祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)ですが、さらに三柱が祀られています。
 その御三方は、安徳天皇、建礼門院、二位の尼という平清盛の関係者が祀られてています。
 
 もともと、水天宮の総本宮は久留米市にあります。
 この水天宮は、壇ノ浦で滅んだ平家に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢という人が、小さな祠を建てて平氏一門の霊を慰めたのが始まりだそうです。ですから、平清盛の関係者がお祀りされているのです。
 江戸時代になって、久留米藩2代藩主の有馬忠頼が7000坪の土地を寄進して社殿を造営しました。
 江戸の水天宮は、久留米藩9代藩主の有馬頼徳が江戸の上屋敷に勧請したものです。
 有馬家の上屋敷は、現在の港区の赤羽橋付近にありました。
 明治になってから、青山に移転した後、明治5年に現在地に移転をしたものです。
 従って、江戸時代には、日本橋蛎殻町(かきがらちょう)には水天宮はありませんでした。

c0187004_20121621.jpg 水天宮にお参りした後に人形町を散歩していたら、左のようなポスターを見つけました。
 昨晩、テレビで放映されていた「麒麟の翼」のポスターです。
 「麒麟の翼」は昨年上映された映画ですが、見なかったので、我が家では「麒麟の翼」を家族で見ました。
 この情報は月猫さんが江戸検一級2期会のメンバーにも発信していたので、2期会のメンバーも見た人がいると思います。
 「麒麟の翼」では、水天宮をはじめとした日本橋七福神が出てきました。
 そこで、人形町にポスターが貼られていたのです。
 町ぐるみで応援していたんだと感じました。

c0187004_20122835.jpg そんな気持ちを持ちながら、6日に案内する予定の甘酒横丁の「玉英堂彦九郎」さんにごあいさつにお邪魔しました。
 そうしましたら、店内に「麒麟の翼」の阿部寛さんのサインが飾られていました。
 「玉英堂彦九郎」さんは、映画にはでてなかったと奥様がちょっと残念そうでした。
 「玉英堂彦九郎」さんは天正4年創業の老舗中の老舗です。
 「虎家喜」や「玉饅」というお菓子が評判のお店です。
 詳しくはこちら「玉英堂彦九郎(江戸からの和菓子)」をご覧ください
by wheatbaku | 2013-01-04 20:28 | 神社参拝
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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