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寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインの墓⑮)

寺田屋お登勢のお墓(江戸のヒロインのお墓⑮)

この間、京都にある「江戸のヒロインのお墓」を紹介してきましたが、最後に、寺田屋のお登勢のお墓をご紹介します。

 寺田屋お登勢は、伏見にある松林院に眠っています。

 松林院は、伏見区役所の真北近くにあり丹波橋駅から徒歩で10分弱で到着します。

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 門の左手の潜り戸を空けて中に入ります。墓地はあまり広くなく、寺田屋お登勢の墓と書かれて標識もあるので、容易に見つかります。

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お登勢は文政12年、近江国大津で旅館を営む大本重兵衛の次女として生まれました。

18歳で京都伏見の船宿寺田屋6代目伊助に嫁ぎましたが、伊助は怠け者で京都木屋町の妾宅に入り浸って寺田屋へは帰らなかったといいます。

寺田屋は江戸初期から続く伏見の老舗の船宿で船頭も多く抱え、船足が速く評判の船宿でした。寺田屋は、現在もその姿を残しています。(下写真)

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元治元年、夫伊助は放蕩が祟り35歳の若さで没すると、気難しい姑によく仕え、一男二女を育てながら、お登勢は寺田屋を一人で切り盛りをしていました。

お登勢は人の世話が好きで、人から頼まれれば喜んで引き受け、捨て子を5人育て上げました。

寺田屋は早くから薩摩藩の定宿になっていたため、お登勢の性格から多くの尊王攘夷の志士達を支援しました。その一人が後で述べる坂本龍馬です。

寺田屋と言えば、文久3年、島津久光の命によって差し向けられた鎮撫使により有馬新七たち過激尊王攘夷派の9藩士が殺害された寺田屋事件が有名です。

この時、お登勢は子供達をかまどの裏に隠して一人で帳場を守り、騒動後は血で染まった畳やふすまをすべて取り替え天井の血糊をきれいにふき取らせ翌日には商売を始めたといいます。

下写真は、寺田屋事件の現場となった現在の寺田屋の一室です。1階の入口そばにあります。

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また、薩摩藩は騒動で亡くなった有馬新七ら9人を罪人として扱いましたが、お登勢は9人の位牌を作り寺田屋の仏壇で自ら供養しました。

寺田屋事件で亡くなった9人は、伏見の大黒寺に眠っています(下写真)が、その大黒寺は、お登勢のお墓がある松林院の真向かいにあります。

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お登勢といえば、坂本龍馬との関係も有名です。

坂本龍馬は、薩摩藩の定宿であった寺田屋を京都の活動拠点としました。

下写真が、坂本龍馬がいつも使っていた部屋です。

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坂本龍馬が寺田屋を利用するようになったのは、薩摩藩からお登勢に依頼があったからだと言われています。

坂本龍馬は、龍馬もお登勢を「おかあ」と呼んで親しんでいたうえにお登勢を「学問のある大人物也」と高く評価しています。

そして、禁門の変後、京都の半分は焼け出された楢崎龍の面倒を頼み、お登勢はお龍の面倒を見て、お龍を自分の妹のように可愛がりました。

慶応2年、薩長同盟を締結して間もなく、寺田屋で坂本龍馬が幕府の捕方に襲撃された際に、お龍が素裸で二階にいる坂本龍馬に知らせ、坂本龍馬が怪我を負いながらも逃走できたことも有名な話です。

先日の大河ドラマ「西郷どん」でも描かられていました。

現在の寺田屋にも、お龍(楢崎龍)が入っていた風呂が残されています。

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龍馬暗殺後は土佐でしばらく暮らしていたお龍が龍馬の姉乙女との不仲で京都に出てきた時に庇護したとも言われています。

明治10年、お登勢は49歳の若さで亡くなりました。法名は喜道院妙持信女です

赤印が松林院です。青印が大黒寺です




by wheatbaku | 2018-09-11 14:50 | 江戸のヒロイン
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺 (江戸のヒロインの墓⑭)
お江(崇源院)・春日局・阿茶局のお墓―金戒光明寺

(江戸のヒロインのお墓⑭)

池玉瀾が眠る金戒光明寺には、お江(崇源院)のお墓、春日局のお墓、阿茶局のお墓など、江戸検お題テキストに取り上げられている女性のお墓があります。そこで、今日は、それらのヒロインのお墓を紹介します。

金戒光明寺の墓地は、境内の東側の山腹に広く広がってあります。

そのため、金戒光明寺でのお墓詣りは石段を上がっていくので結構大変です。前回書いた池玉瀾のお墓も石段を何段も登って先にあります。

 下写真は、西雲院近くにある三重塔の前から山門方向を撮ったものです。金戒光明寺の境内の広大さおよび高低差がおわかりになると思います。

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今日紹介するヒロインのお墓のうち、お江(崇源院)と春日局のお墓は墓地の入口、阿茶局のお墓は御影堂のすぐそばにありますので、石段を登る必要はありません。

 下写真は、金戒光明寺の御影堂です。昭和9年に焼失し昭和19年に再建されたものです。

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お江(崇源院)のお墓は、墓地に入ってすぐの左側の石段を上った正面に建っている大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。

このお墓は、寛永5年(1628)に春日局がお江(崇源院)の追善供養のために建てて供養墓で、お江(崇源院)の遺髪が埋葬されているそうです。

お江(崇源院)と春日局は、将軍継嗣問題などで対立することが多かったわけですが、お江(崇源院)の死後の菩提を弔うために建てたものです。

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そのお江(崇源院)の供養墓の右手奥には、徳川忠長の供養墓があります。この徳川忠長のお墓を建てたのも春日局です。

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徳川忠長は、秀忠とお江(崇源院)の間に生まれ、両親の愛情を一身集め、3代将軍の有力候補でした。

しかし、春日局の徳川家康への直訴により、次期将軍は徳川家光ということになりました。

その後、徳川忠長は駿河50万石を領し、駿河大納言と呼ばれましたが、次第に悪くなってきたため、高崎藩に預けられ、寛永10年に高崎の大信寺で自害しました。お墓も大信寺にあります。

春日局は、徳川忠長がこういったことになったことの責任の一端は、春日局にもあると思い、寛永11年に徳川忠長の供養墓を建立しました。

二人の供養墓を建てた春日局自身のお墓が、お江(崇源院)のお墓の左手前にあります。(下写真)

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金戒光明寺には阿茶局のお墓もあります。

御影堂の西側におおきな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が四つありますが、その最も北側の宝篋印塔が阿茶局のお墓です。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、徳川家康に仕えました。阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよい活躍をし、大坂冬の陣では徳川方の和議の使者となました。徳川家康没後でも、東福門院和子の入内の際には、母代わりをつとめ,のち従一位をさずけられ神尾一位,一位の尼とよばれました。

阿茶局は、東福門院和子の母親代わりでしたので、東福門院和子の幸せと天皇家と徳川家の繁栄を祈念して、金戒光明寺に雲光院(のちに清心院)を建立しました。

阿茶局は、寛永14年正月22日に83歳でなくなりました。

「幕府祚胤伝(そいんでん)」には、神尾氏が、雲光院に碑を建てたと書いてあるので、阿茶局の一族が、供養墓として建立したのかもしれません。

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by wheatbaku | 2018-09-08 20:43 | 江戸のヒロイン
池玉瀾のお墓(江戸のヒロインのお墓⑬)

池玉瀾のお墓(江戸のヒロインのお墓⑬)

 江戸のヒロインのお墓、今日は、池玉瀾のお墓をご案内します。

池玉瀾のお墓は、京都の金戒光明寺の塔頭の一つ西雲院にあります。

金戒光明寺は、浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り草庵を結ばれたという由緒がある浄土宗最初の寺院です。

幕末には、京都守護職となった松平容保が本陣を構えたことで有名です。

現在も万延元年(1860)に完成した山門が当時の威容をそのまま感じさせてくれます。(下写真)

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西雲院は、金戒光明寺の広い境内のうち、境内の東の高台にそびえている文殊塔の北側にあります。西雲院は、幕末に京都でなくなった会津藩士を埋葬した「会津墓地」の菩提寺としても有名です。下写真が西雲院の本堂です。本堂の手前にあるのは蓮の花で、西雲院は、四季折々の花が美しいことで知られています。

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池玉瀾のお墓は、この西雲院が御守しています。

西雲院を訪ねたのは、大文字の送り火の翌日8月17日のことです。

ちょうどお盆明けの大変忙しい時期で来客がひっきりなしにあるにもかかわらず、御住職の橋本周現様(下写真)がお時間をつくっていただき池玉瀾についてお話しくださり、わざわざお墓までご案内していただきました。橋本御住職様大変ありがとうございました。

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 池玉瀾のお墓は、西雲院の山門を出て15メートルほど南側にあります。表面に玉瀾墓、左側に天明四甲辰九月二十八日帰漢、右側に祖族代代精霊 感光清月 百合事 裏面には井上泰山建之と刻まれています。

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池玉瀾は、池大雅の妻で、旧姓徳山町といいました。

池玉瀾の母は祇園のお茶屋の主人で歌人としても有名であった百合です。また、歌集『梶の葉』で知られる歌人梶が祖母です。梶、百合、町は祇園三女として有名です。

百合は、梶の養女となり、祇園のお茶屋の主人となりましたが、江戸の旗本の子供徳山某と結婚し、女の子を産み、その子は町となづけられました。
 この徳山町が、池大雅と知り合い結婚し池玉瀾となりました。

池大雅は、祖父の代まで京都の百姓で、池の傍に住んでいたので池野を姓にしたと言われています。池大雅は、池野という姓を中国風に一字で表し池と称しました。

池大雅の父池野嘉左衛門は京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人でしたが、大雅の幼いころに死別し、大雅は教育熱心な母の手で育てられ、数え年7歳のときに早くも宇治万福寺住職の杲堂元昶(こうどうげんちょう)からその能書を褒められ神童と激賞されました。

15歳のときには扇子に絵を描いた扇絵を売る店を開き生計をたてました。

やがて中国の明・清の画法、傾倒して大和郡山藩家老で文人画家でもあった柳沢淇園(やなぎさわきえん)にも見いだされ、新進の画家として注目されるようになりました。

26歳のとき江戸から東北地方に旅し、江戸で指頭画(しとうが)が評判となり、京都に帰った後さらに北陸地方を遊歴しています。

28歳の時には紀州藩に文人画の祇園南海(ぎおんなんかい)を訪れるなど各地の一流の人物と交渉をもち、腕と人格を磨いていきました。

こうして腕を磨いている30歳直前の頃に徳山町(のちの池玉瀾)と結婚しました。※江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」には結婚をしたのは宝暦元年(1751)と書いてあります。

池玉瀾は、やさしい女性で、奇行の多い池大雅によく仕え、仲睦まじい夫婦だったそうです。

池大雅は、こうした池玉瀾の内助の功もあり、30歳代以降、文人画(南画)派の指導者と目され、目覚ましい活躍をしました。

池玉瀾も大雅や柳沢淇園に絵を学び、当時一流の女流画家として知られました。

玉瀾という名前は、柳沢淇園の別号である玉桂から一字をもらったものと寛政2年に編まれた伴蒿蹊(ばんこうけい)の「近世畸人伝」に書かれています。

「近世畸人伝」には、少々風変わりな夫婦だった逸話も書かれています

「近世畸人伝」によれば池大雅が難波に出立した際に筆を忘れてしまい、玉瀾がそれを見つけて走って追いかけ建仁寺の前で追いついて筆を届けた際、大雅は届けた人が玉蘭だと気が付かず「(筆を)おしいただき、いづこの人ぞ、よく拾い給りしとて別れ去る」そして玉瀾も「また言なくて帰れり」だったそうです。

また、玉瀾は大雅と一緒に冷泉家で和歌を学びましたが、初めて冷泉家に行った時の様子が大原女のようで冷泉家の人々が大変驚いたことが「近世畸人伝」に次のように書かれています。

御内の女房たち、今や今やと町たるに、思いの外糊こわき綿衣(わたいれ)、魚籠を引提げたる様、大原女のわらうづ(藁沓:わらを編んで作ったくつ)はかぬごとくなれば、大きに驚きけり。

池大雅の画法は40歳頃に完成し、この頃に描かれた作品の中が特にすぐれていると評価されています。池大雅の代表作には、高野山遍照光院の襖絵や、「十便図」「楼閣山水図」などがあります。

池大雅は、安永5年(1776)54歳で没しました。

池玉瀾も、池大雅が亡くなった8年後の天明4年(1784)9月28日亡くなりました。享年57歳でした。

法名は宝誉玉蘭信女といい、金戒光明寺の西雲院に埋葬されました。

池大雅のお墓は京都市上京区にある浄光寺にありますので、池大雅とは違うお寺に埋葬されたことになります。

橋本御住職様のお話では、「大雅さんと玉瀾さんのお墓がそれぞれ別のお寺にあるのは、何らかの事情があると思われます。場合によっては、玉瀾さんは大雅さんの正式な妻ではなかったということも考えられます」とおしゃっていました。

また、池玉瀾の祖母の梶、そして母親百合のお墓があるかどうか尋ねたところ、「祖母の梶のお墓は西雲院にはありません。百合さんは玉瀾さんのお墓の脇に『祖族代代精霊 感光清月 百合事』と刻まれているので、百合さんも一緒に供養されているのだろうと思っています」というお答えでした。
 (下の写真は池玉瀾の墓碑の右側を撮った写真ですが、左下に小さく「百合事」と刻まれています。)

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ご丁寧にお教え頂いた橋本御住職様に改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。 



赤印が西雲院です。青印が金戒光明寺の御影堂です。ピンクが真如堂です。








by wheatbaku | 2018-09-06 18:26 | 江戸のヒロイン
幾松(木戸松子)のお墓(江戸のヒロインの墓⑩)

幾松(木戸松子)のお墓(江戸のヒロインの墓⑩)

 江戸のヒロインのお墓、今日は、幾松(木戸松子)のお墓をご案内します。

 幾松(木戸松子)のお墓は、霊山護国神社にあります。

 霊山は、幕末期に亡くなった人々のお墓があることで有名です。坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓もあります。

 幾松(木戸松子)と木戸孝允のお墓は、墓所の最も高い場所にあります。

 お墓には、「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」と刻まれています。

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 幾松(木戸松子)のお墓は、夫木戸孝允のお墓から向かって左奥に寄り添っていますが、 木戸孝允のお墓より少し小さめです。(下写真の右が木戸松子のお墓で、左が木戸孝允のお墓です。)

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幾松(木戸松子)は、若狭小浜藩酒井家の藩士生咲市兵衛の次女でした。

市兵衛は、事情があり、京都に出て、幾松を始め3人の娘を三本木の瀧中という置屋に預けました。

 当時桂小五郎といっていた木戸孝允と知り合ったのは文久2年頃のことでした。

 当時桂小五郎は30歳、幾松は、木戸より10歳若い20歳でした。


 幾松が危険を顧みず、桂小五郎のために動き回ったのは、禁門の変の後のことです。俗に、三条大橋の橋の下で乞食に変装していた桂小五郎のもとに食事を届けたということが大変有名です。

 この話に以前から興味をもっていたので、どのように書かれているか調べてみました。木戸孝允について書いた名著にはそれぞれ次のように書いてありました。

 『木戸孝允』(田中惣五郎著) 木戸の京都潜居敷日聞が、いはゆる三條橋下の乞食生活であり、幾松の活躍時代なのである。木戸一生の最も生命の燃廃した時代であらう。(中略)

木戸はさしづめこの今井家の離れに一時ひそんで居り、そこを気づかられぬために、他にも幾ところも隠れ家を作って居り、三條橋下の伝説もその隠れ家の一つして伝えられたものであらう。食物はここで拵えた握飯の類を、これも姿を変じた幾松が運んだのであるが、日々所を変えるため、今日は近所で済むとか、今日は道が遠いとかといふものの、隠れ家のことは今井一家にも洩らさなかったといふ。ために幾松も危難にあい、新選組あたりにも拉致されたが、ついに木戸を庇いとおした。

   

『木戸孝允』(松尾正人著)

 この京都で潜伏をよぎなくされた小五郎は、幾松に助けられた。潜伏場所は幾松の住む三本木やその周辺の数ヵ所であったようだ。幾松が握飯の類を運んだが、日々場所を変えて隠れ場所は誰にも洩らしていない。良く知られている三条橋下の乞食生活の伝説は、隠れ場所の一つであったのかもしれない。

『木戸孝允』(大江志乃夫著)

小五郎の潜伏を知っていたのは、長州藩御用商人の今井太郎右衛門であった。今井をつうじて芸妓幾松が小五郎と連絡をとり、今井家でこしらえた握り飯を、幾松が夜ひそかに二条大橋の下にひそむ小五郎のもとにはこんでその飢えをみたしたという。幕末政争史をいろどる、もっともあでやかでロマソチ″クなエピソードとして有名なシーンである。

 乞食に変装して二条大橋の下にひそむ「勤王の志士」桂小五郎と、これも変装して食物をはこぶ美妓幾松の幕吏のきびしい探索を逃れてのつかのまの夜の逢瀬という、舞台装置も役者も満点のこの情景は、結局、五日ののち、小五郎の京都脱出となって終った。

木戸孝允の伝記の基本といわれている『松菊木戸公伝』には、「公は京都に潜伏すること5日公の夫人松子は干辛萬苦能く公を庇護して危難を免れしめたり」とだけかかれていることは確認しました。しかし、「甲子の変後、公の窮困して飢え苦しむや夫人之を深慮して(今井)太郎右衛門の妻に謀りて結飯を作り、変装して夜に紛れ、密かに二条大橋の下に赴き、之を公に与えて僅かに其の飢を凌がしたり」とも書いてあるようです。

 このように多くの本が、二条橋と三条橋の違いがあるものの、橋の下で乞食に変装した桂小五郎に幾松が食事を届けたと書いています。

こうした苦労をしながらも京都に5日間宣布していた桂小五郎は、危険きわまりない京都をさけて、出石に逃れました。元治元年7月のことです。

これは、対馬藩に出入していた出石の商人広戸甚助に助けられて出石に入りました。しかし、出石も危険であったため、甚助およびその弟直蔵の援助により、養父郡養父村や城崎にも隠れたのち、出石に戻り、広戸家の分家広江孝助という触れ込みで小店を開き荒物屋に変装していました。

京都に残された幾松は、広戸甚助の助けで、対馬に逃れました。

長州藩で、高杉晋作の功山寺決起により、藩政が尊攘派のものになると、桂小五郎の帰藩を願う声が強くなり、桂小五郎の居場所を知る幾松が、広戸甚助にともなわれて対馬から下関に戻り、出石に迎えに向かいました。

こうして、桂小五郎が下関に戻ったのは、5月13日でした。

長州に戻った桂小五郎は、藩主の命令により、木戸貫治と名のるようになります。これは、幕府が長州の最重要人物の一人として桂小五郎の行方を探索していたためといわれています。

なぜ、木戸と名のったかについては、大江志乃夫先生は、その由来は不明としていますが、松尾正人先生は、桂小五郎が養子となった桂家が、「木戸桂」と呼ばれていたことによると書いてあります。

このように、木戸孝允の最も厳しい時期を援けた幾松は、明治3年、長州藩士岡部藤吉の養女として、晴れて木戸孝允と結婚をします。

岡部氏の養女として木戸孝允の妻となったため、墓碑にも岡部氏と刻まれています。

明治の元勲となった木戸孝允が、明治10年5月26日、西南戦争の行方を心配して「西郷もう大抵にせんか」と44歳で叫びながら病死すると、幾松は直ちに剃髪し、木戸孝允の菩提を弔いました。

そして、明治19年4月10日なくなりました。夫孝允と同じ享年44歳でした。若くして亡くなりました。法名は翠香院です。

〔8月28日追加〕
①三本木とは
 幾松(木戸松子)が、芸妓となった三本木はどこにあったのでしょうか?
 現在の京都で花街といわれる街は、祇園甲部、祇園東、先斗町、上七軒、宮川町の5つです。これらの花街
を称して「五花街」と呼ばれています。
 三本木は、現在は花街でないので、当然、現在の五花街に入っていません。そのため、あまり名が知られていません。
 三本木は、大雑把にいうと京都御所の東側で鴨川の西側にありました。
 さらに詳しく言うと、丸太町通りと河原町通りの交差する河原町丸太町の交差点の北東方向の一角にありました。現在は東三本木通りと西三本木通りの名前が残っています。
 長州藩邸は現在の京都市役所の東側にありました。そのため、長州藩邸からあまり遠くありません。桂小五郎と幾松が知り合ったのは、この地縁もあったのではないでしょうか。

②木戸公神道碑

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霊山護国神社の木戸孝允と木戸松子のお墓に行く途中でもあり、霊山護国神社の墓所全体の入り口にもあたる場所に、巨大な銅製の碑が建っています。

碑の最上部の篆額には、「故内閣顧問贈従一位勲一等木戸公神道碑」と刻まれています。

神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

木戸孝允のほかに、岩倉具視、三条実美、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

赤印が京都霊山護国神社です。








by wheatbaku | 2018-08-27 20:11 | 江戸のヒロイン
明正天皇のお墓(江戸のヒロインの墓⑨)

明正天皇のお墓(江戸のヒロインの墓⑨)

今日の江戸のヒロインのお墓は、昨日紹介した東福門院和子の娘である明正天皇のお墓をご紹介します。明正天皇も東福門院和子と同じ泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

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泉涌寺を紹介する時にはよく使用される風景は大門からの撮った仏殿の光景だと思います。(下写真参照)
 この景色の写真はガイドブックなどで
見たこともある方も多いと思いますが、月輪陵は、この仏殿の南東後方にあります。

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明正天皇は後水尾天皇の第2皇女で、元和9(1624)1119日に誕生しました。母は東福門院和子ですので、徳川秀忠の外孫ということになります。

幼い頃は女一姫と呼ばれていましたが、諱は興子といいました。

 興子内親王は、寛永6年118日後水尾天皇が突然の譲位を宣言したことにより、翌7年912日即位しました。明正天皇の即位です。

 後水尾天皇の譲位の意向は、ごく少数の天皇の側近を除く公家たちさえ全く知りませんでした。そのため、幕府にとっても突然のことでした。

このような全く異例の譲位が発表されたのは、後水尾天皇が幕府に対して強い不快感を持っていたことによると考えられています。

 譲位にいたる最大の理由が、紫衣事件です。紫衣事件とは、後水尾天皇が大徳寺・妙心寺の僧に与えた紫衣着用の勅許を幕府が無効であるとし、これに抗議した大徳寺の沢庵らを処罰した事件です。 

 その2が、お福(春日局)参内事件です。紫衣事件の解決のため、幕府は、寛永6年(1629)、伊勢神宮参拝に向かったお福(春日局)を上洛させました。これは、徳川秀忠の強い意向があったと言われています。お福は、東福門院和子に伺候した後、武家伝奏の三条西実条(さねえだ)の猶妹という資格で天皇に拝謁しました。この時に「春日」という局号と緋袴を賜りました。しかし、春日局は、無位無官であり、無位無官の春日局の参内に公家達は反発し、後水尾天皇も不快感を示しました。

後に、後水尾天皇が書いた「当時年中行事」の中で

武家の者のむすめ、堂上のものの猶子などになりて御前に参ること、近き頃まではかつてなき事なり。

当時、大奥を取り仕切っていた春日局も形無しで,後水尾天皇にとっては不快感を呼び起こす事件だったようです。

これが主な理由ですが、細川忠興が細川忠利に送った手紙によれば、公家の官位にまで幕府が干渉するようになったことがあげられ、さらに東福門院和子以外の女官が生んだ子供が殺されたり流産させられ、無念に思っていることがあげられています。

確かに、後水尾天皇は子だくさんで、33人の子供が生まれましたが、東福門院和子の入内後水尾天皇の譲位まで間に生まれた子供は、東福門院和子の子供だけ二皇子三皇女5人だけしかいません。このことは譲位後に26人の子供が生まれていることから異常なこと考えられています。

 こうした理由から、後水尾天皇は譲位を決意しましたが、当寺、譲位できる皇子・皇女は、和子が生んだ皇女が二人だけでしたので、やむなく、興子内親王が天皇に即位しました。

当時興子内親王は7歳であり、後水尾上皇が院政をしき政治をみていました。

明正天皇は、奈良時代の称徳天皇以来の女性天皇でしたが、東福門院和子に皇子が生まれれば、その子に譲位するという含みで即位しました。

しかし、東福門院和子は、後水尾天皇の譲位後は、皇子を生むことがなかったため、将軍家が期待した将軍家の血筋を引いた男子が天皇に即位するということは実現しませんでした。

東福門院和子に皇子が生まれなかったため、京極局が生んだ紹仁親王(後光明天皇)に譲位されることになります。

譲位は明正天皇が15年在位した後の寛永20年10月3日のことです。

後水尾天皇の近臣であったもと武家伝奏の中院通村(なかのいん みちむら)は、継橋宮と呼ばれた興子内親王について「世を渡る人の上にもかけて見よいかに心のままの継橋」という和歌を詠んでいます。このことから、明正天皇は、幕府の庇護のもと、わがままな女性だったのではないだろうかという説があります。

明正天皇は、後光明天皇に譲位した後、54年間を仙洞御所で暮らして、元禄9年(1696) 11月10日、74歳でなくなりました。

明正天皇の名前は、奈良時代の女性天皇の元明天皇と元正天皇の名前からそれぞれ一字をとったものです。



by wheatbaku | 2018-08-23 20:10 | 江戸のヒロイン
東福門院和子のお墓(江戸のヒロインの墓⑧)

 東福門院和子のお墓(江戸のヒロインの墓⑧)

 先週、大文字の送り火を見に行った際に、「江戸のヒロインたち」に載っている女性のお墓にもお参りしてきました。

 これからは、京都にあるヒロインのお墓を順にご案内します。

 最初は、東福門院和子のお墓をご案内します。

 東福門院和子は、泉涌寺の月輪陵(つきのわみさぎ)に眠っています。(下写真)

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泉涌寺は、東山にある真言宗泉涌寺派のお寺です。

江戸時代には、後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は泉涌寺で行われ、後水尾天皇から孝明天皇までの陵が境内に設けられています。

 こうしたことから、泉涌寺は天皇家の菩提寺といわれていて、「御寺(みてら)」とも呼ばれています。

京都駅からそれほど遠くないバス停「泉涌寺道」から数分歩くと見えてくる総門を入口として、坂道を登っていきますが、広大な境内の最も奥まった所にある霊明殿の東に月輪陵(つきのわみさぎ)があります。下写真が泉涌寺の境内地図ですが、御寺泉涌寺と書かれている辺りが月輪陵です。

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ここには、後水尾天皇から仁孝天皇までの天皇のほかに皇妃、皇子・皇女が埋葬されています。

東福門院もここに眠っています。入口に埋葬されている天皇の名前が書かれていますが、その中に後水尾天皇皇后和子と書かれています。(下写真)

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 東福門院は和子、2代将軍徳川秀忠とお江の間に慶長12年(1607)10月4日に五女として生まれました。

誕生後まもなくから入内が計画されていて、 慶長17年(1612)には、かなりつこんで幕府と朝廷との間で交渉が行なわれました。

しかし、大坂の陣(1615)や徳川家康の死去(1616)、後陽成天皇(1617)の死去があり、延期されていました。そして、いよいよ入内となった時に、後水尾天皇の傍に仕える「およつ津御寮人」が後水尾天皇の皇子を出産したことが発覚し、このことで朝廷と幕府の関係がギクシャクし、また延期となりました。

和子が女御として入内したのは、元和6年(1620)6月18日でした。この時和子は14歳でした。

入内した頃はまだ幼かった和子ですが、父秀忠が上洛し後水尾天皇に拝謁した元和9年6月25日には、懐妊していました。

父秀忠と兄家光が帰府した直後の10月19日に女子を出産しましまた。この子が後に明正天皇となる女一宮(おんないちのみや)です。

その後も、後水尾天皇との間には多くの子供が生まれ、2皇子5皇女を儲けました。しかし、2皇子1皇女は幼くして亡くなり、幕府が期待していた皇子の成長はありませんでした。

和子は、女御として入内しましたが、寛永1(1624) 11月中宮となりました。

それから5年後の寛永6年11月に、「紫衣事件」など幕府との軋轢のなかで後水尾天皇は東福門院が生んだ女一宮である興子内親王に突然譲位しました。これが明正天皇ですが、この譲位に伴い東福門院という院号を名のるようになります。

明正天皇は実子ですから当然のこととして、明正天皇の後に皇位を継承した後光明天皇、後西天皇についても、養母として皇子の教育にも関わりました。

後水尾天皇との間は、入内当初は、ぎくしゃくした面もあったようですが、その後の二人の間は円満だったようです。

東福門院和子は、延宝6年(1678)6月15日に亡くなりました。72歳の長命でした。

 この時、後水尾天皇はまだ存命で、最期は、後水尾法皇、明正上皇たちに看取られて、あの世に旅立っていったそうです。

 東福門院和子の化粧料は1万石であったため、財政面で大変恵まれていたため、後水尾天皇や皇子・皇女の生活をささえるばかりでなく、文化面でも大きな役割を果たし、華やかな寛永文化が花開く基ともなったようです。

赤印が泉涌寺です。









by wheatbaku | 2018-08-22 13:19 | 江戸のヒロイン
白峯神宮〔今出川沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

白峯神宮〔今出川通り沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

今回の京都旅行2日は、今出川通り沿いに、神社仏閣や史跡を訪ねてきました。

主な訪問場所は、白峯神宮、大聖寺、同志社大学、相国寺、旧三井下鴨別邸です。

これらを順にご紹介していきますが、今日は、白峯神宮をご紹介します。

白峯神宮は、今出川堀川の交差点の北東にあり、今出川通りに面しています。

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白峯神宮は、慶応4年、明治天皇により創建された神社です。

もともと、この神社を創建しようと思われたのは、121代孝明天皇です。

孝明天皇は、保元の乱に敗れ失意のうちに亡くなった第75代崇徳天皇の御霊を慰め、さらに未曾有の国難にご加護を祈るため、崇徳天皇の御霊を、四国・坂出の「白峰山陵」から迎え、これを祀ろうとしましたが実現しないうちに亡くなりました。

 そこで、孝明天皇のその思いを継いだ明治天皇が、公卿「飛鳥井家」の邸宅地跡に創建したのが、白峯神宮です。

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 そして、明治6年には、崇徳天皇とともに第47代淳仁天皇も併せてお祀りするようになりました。

 従って、御祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇です。

 下写真は拝殿です。

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 お祀りされている第75代崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇の第1皇子で、鳥羽天皇から譲位されましたが、鳥羽上皇により近衛天皇へ譲位をしいられ,近衛天皇崩御後は、同母弟の後白河天皇が即位しました。

鳥羽上皇の死後、後白河天皇と争い、保元の乱が起きました。崇徳天皇は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、失意のうちに讃岐でなくなりました。

崇徳天皇は、和歌が上手で、百人一首にも次の歌が載せられています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

   われても末に 逢はむとぞ思ふ

 この歌は、落語「崇徳院」にもなっているほど有名な和歌です。

 そうしたことから、この歌の碑が、境内に建てられていました。

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 白峯神宮が創建された場所は、公卿飛鳥井家の邸宅跡です。

飛鳥井家は、和歌・蹴鞠の宗家でした。そこで、飛鳥井家が「まり」の守護神として代々邸内にお祀りしてきた「精大明神」も祀られています。

そのために、今では白峯神宮は、「まりの神様」とされ、野球・サッカーを始めとする球技の上達を願う人たちが大勢参拝するそうです。

拝殿には、多くのボールが奉納されていました。(下写真)

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また、春季例大祭や七夕祭りには蹴鞠の奉納が行なわれています。そのための球戯場も用意されています。(下写真)

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さらに、境内には蹴鞠の碑もありました。中央のボールを回転させると球運が授かります。

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赤字が白峯神宮です。








by wheatbaku | 2018-03-21 14:10 | 京都探訪
八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

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また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

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その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』
八月十八日の政変②(『幕末』)

八月十八日の政変の2回目です。

八月十八日の政変は、前回書いたように、薩摩藩が会津藩に働きかけて、事がスタートしました。

薩摩藩から働きかけられた会津藩がどう動いたのかがわかる本があります。

 それが『京都守護職始末』ですc0187004_00003832.jpg

 今日は、『京都守護職始末』に基づいて、八月十八日の政変の直前の状況を書いていきます。

 8月13日、薩摩藩士の高崎佐太郎(後の正風)が。会津藩の秋月悌次郎の住居を訪れ

「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わか輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思ふに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」 と語りました。

「その意気昂然たるものがあった」と書いてありますから、高崎佐太郎の語る勢いは非常に盛んだったようです。

秋月悌次郎たちも、その気持はもともと持っていましたが、藩主松平容保の了解もえずに勝手に協力を承諾するわけにいかないので、すぐに会津藩本陣のある黒谷に急いで、そのことを松平容保に報告しました。

 松平容保も同じ考えなので、薩摩藩と提携し尊攘派を排除する計画を準備することを許し、まず秋月悌次郎と高崎佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の経緯を説明させました。

すると中川宮は大変喜んで、自分の身をなげうって孝明天皇が安心するようにしようと約束してくれました。

c0187004_23311147.jpg これほどの大事を決行するには、さらに、同じ考えの人の協力をえる必要があるので、天皇の信任が深い近衛前関白親子(近衛忠煕前関白と近衛忠房)と二条斉敬右大臣の賛同が必要なので、薩藩藩が近衛親子を説得することを約束し、二条右大臣の方を会津藩が説得することに手はずをきめました。

 会津藩では、大野重英を二条邸につかわしいろいろ説得した結果、二条右大臣も賛同しました。そして、近衛親子は薩摩藩が説得し賛同を得ました。

 こうした宮中工作の一方で、会津藩は軍勢の準備も怠りなくおこないました。

 会津藩の在京部隊は1千人規模でした。そして、8月はちょうど会津藩の在京部隊の交代時期にあたっていました。

 そこで、京都勤務が終わり帰国途上の部隊を引き留めることにより、在京部隊の数を通常の2倍の2千名にしようとしました。

 そこで、8月13日に大和行幸の警備強化を名目として、帰国途中の会津藩兵を呼び戻したのでした。

ちょうど8月12日に新選組の芹沢鴨が大和屋を焼討していて政情が騒然としていたので、この命令が本当はクーデターのための召喚命令だと気が付く人はいなかったようです。

この召喚により武力が2倍となりクーデターの実施が容易になりました。

 このことについても『京都守護職始末』に書かれています。

わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、薄制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。

 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

「天皇の側近の協力も得られた」「軍勢も揃えた」「さぁ、いよいよ、クーデターの実行だ」となります。

8月17日の夜に中川宮が動いてクーデターが始まります。それについては次回書きます。





by wheatbaku | 2017-04-10 07:50 | 『幕末』
姉小路公知暗殺(『幕末』)

姉小路公知暗殺


 今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。

 今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。

文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。


 暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
 朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)

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 姉小路公知は、三条実美とともに、当時の朝廷を牛耳った公卿で、尊王攘夷派の代表格でした。

二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。

 

 平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。

姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた

また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。

5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。

 そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。

 探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
 田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。

 その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。

 その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。

奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった

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 田中新兵衛はどうして自刃したのかについては二つの説があるようです。

 田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。

その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
 しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。

ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。

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 将軍が軍艦で巡見すると云ふことで、姉小路少将は大樹(将軍)に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。其時勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其の時帰って来てから鋭峰が挫けた都合で、轟武兵衛な   り武市半平太などは、姉小路様は幕府に寵絡されたとか云ひましたが、(中略)其れから鋭鋒が鈍った。

これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。

こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。

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姉小路公知が襲われたところは、猿が辻とも言われています。

猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。

京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
 そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。

この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


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暗殺された姉小路公知のお墓は、京都御所の東にある清浄華院にあります。

 清浄華院は、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四カ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています





by wheatbaku | 2017-04-05 22:29 | 『幕末』
  

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