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吉良上野介の首(江戸検お題「本当の忠臣蔵」76)
今日は、泉岳寺における赤穂浪士たちの様子と吉良上野介の首について書きます。
 「白明話録」によると、朝食のあと、赤穂浪士たちに、和歌や詩や俳句を依頼した様子が書かれています。
 木村岡右衛門から和歌、茅野和助から和歌、岡野金右衛門から俳句、大高源五から俳句、武林只七から漢詩、神崎与五郎あkら俳句をそれぞれ書いてもらったと書かれています。
 大高源五の俳句は、 山を劈(さく) ちからも折れて 松の雪  でした。
 なお、これに関連して、大石内蔵助の辞世「あら楽し思ひははるる身は捨つる浮世の月に翳る雲なし」は泉岳寺で詠まれたとされているが、「白明話録」には書かれていないことから、偽作の歌ではないかと宮沢誠一先生が「赤穂浪士」の中で書いています。

 そうしているうちに、また、ご飯の用意が出来て、書を頼む状況ではなくなりました。
c0187004_881972.jpg 赤穂浪士は疲れたと見え、殊の外、眠りました。皆さん温和な人たちでした。
 武林唯七は至って勇ましい様子でした。
 食事が済んだのは、申の上刻(午後4時)頃でした。
 そこへ御奉行所より召し出されたということで、赤穂浪士の皆さんも出立する用意を始めました。
 先ず寺へ参られ、全員が列座して、大石内蔵助は、丁寧に礼を述べられました。
 赤穂浪士一同は頓首してお礼・感謝を述べて出立しました。
 最早や、暮六つ時(午後6時)でした。
 提灯6張を前中後の3カ所に2個づつ配置しました。駕籠に乗ったのが6人でした。
 大石父子は一番先頭を歩きました。行列を正し、勇ましい様子でした。
 泉岳寺の僧全員が見送りしました。

 さて、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」」には、もっと詳しく書かれています。
 仙石伯耆守は、御徒目付を泉岳寺に派遣しても、赤穂浪士がすぐに命令に従うかどうか心配だったため、吉田忠左衛門と富森助右衛門に書状を書かせてそれを持たせて行かせました。
 御徒目付石川・市野・松永が泉岳寺に行くと、長恩和尚は、赤穂浪士44人を客殿に集めました。
 赤穂浪士に対して、御徒目付は、大目付仙石伯耆守から仰渡しがあるので、仙石伯耆守の屋敷にくるようにと伝えました。
 この際に、「吉良上野介の首をどうすればよいか」との問いに対して、「幕府から指示を受けていないので指図できない。持参に及ばないのではないか」と回答がありました。
そのため、吉良上野介の首は吉良上野介のお守り袋・鼻紙袋を添えて長恩和尚に預けることにしました。
 申渡しが終わって、御徒目付は「拙者たちは一足先に帰る、各々方は御勝手次第に仙石伯耆守の屋敷に来るように」と挨拶して帰りました。
 その後、長恩和尚から食事をふるまわれました。大石内蔵助ら主な人は客殿で、他の人は衆寮で食事をとりました。
 酒もだされたそうです。

 夜5ツ時(午後8時) 駕籠11挺と徒歩にて、朝の装束の儘泉岳寺を出発し、高輪・三田・新堀・西久保を経て愛宕下の仙石伯耆守の屋敷に入りました。

 なお、泉岳寺における赤穂浪士について書いたものとして「泉岳寺書上(承天覚書)」がありますが、これはあまり信用されていないようです。
 赤穂義人纂に収録されていますが、そのコメントでも
 「与太が多く、重野博士だけでなく三田村鳶魚も真っ向から否定している」と書いてあります。
 事実、三田村鳶魚は「忠臣蔵の真相」の中の「講談の根本資料」の中で
「泉岳寺書上」はあまりにもばかばかしいので誰彼も相手にしないのでしょうか。一向弁正したものがございません」と書いていて、その内容のいい加減さを詳しく批判しています。

 最後に吉良上野介の首の処置についても触れておきます。
 「白明話録」の中には、吉良上野介の首の処理についても次のように書かれています。
c0187004_883613.jpg  吉良上野介の首は、浅野内匠頭の墓前で手向けた後、庫裏から重箱の外箱を取り寄せ、首を納め、終日衆寮に置いてありました。
 赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」によれば、赤穂浪士が食事の時に、泉岳寺ではお酒も出しましたが、その際に「酒の肴がない」と言ったところ、吉良上野介の首の入った箱をさして「これほどの肴はない」と言いながら酒を飲んだそうです。
 寺社奉行阿部政喬は泉岳寺の和尚を呼んで、吉良上野介の首を吉良家に返すよう伝えました。
 泉岳寺では、翌日の晩、二人の僧すなわち一希と石獅を使いとして吉良兵衛の屋敷に送り届けました。
 使僧は、吉良家の受取書をもらってかえりました。
25.9.21追記
 吉良上野介首請取状は、次のように書かれていました。
   覚え
   一  首    一ケ
   一  紙包  一ケ
     右之通慥ニ請取申候、為念如是御座候、以上
       十二月十六日
               吉良左兵衛内 左右田孫兵衛
                         齋藤宮内
        泉岳寺御使僧  石獅 僧
                   一呑 僧
 
 送られた首は、栗崎道有によって胴体と縫合され、牛込の萬昌院に葬られました。
 吉良上野介の戒名は霊性寺殿実山相公大居士です。
 25.9.21追記
 右上写真の右端の墓碑が、吉良上野介義央のお墓です。

by wheatbaku | 2013-09-20 08:26 | 忠臣蔵
吉良上野介の最期(江戸検お題「本当の忠臣蔵」66)
 今日は、吉良上野介の最期について書きたいと思います。 

 赤穂浪士が、吉良邸に討ち入ったのは、吉良上野介の首を挙げるためでした。
c0187004_982660.jpg 1時間ほど闘い、吉良方の抵抗はなくなりました。
 屋敷内で出会う吉良方は一人もいなくなり、まるで明屋敷のようでした。
 そした状態のなかで、目標の吉良上野介を捜しました。
 屋敷の天井から床の下までくまなく捜しました。屋敷は一部2階となっているため、2階も当然調べました。
 しかし、吉良上野介はいませんでした
 こうした情況に、若者の中には、吉良邸で自害しようとまで言い出すありさまだったようです。
 しかし、吉田忠左衛門が、こうした意見を抑え、もう一度、徹底的に捜すよう指示しました。
 そうすると、台所の脇の炭部屋と思われる小屋に気が付きました。ここはまだ確認していませんでした。
 そこで、戸をあけると、中に2、3人いるように見えて、中からむやみに皿や茶碗など炭部屋にある物を投げてきました。
 詰め寄ると、2人が立ち向かってきました。しかし、2人とも討ち果たしました。
 奥を見ると、物陰に何者かが見えました。そこで、間十次郎が槍で突き刺しました。
 脇差を抜いて出て来たので、武林唯七が一刀のもとに切りとめました。
 それが、吉良上野介とはわからなかったが、寝間着は白無垢(白の小袖)で、顔に古傷がありました。傷を調べましたが、顔の傷は討ち入りの時の傷と以前の古傷とが重なっていて、はっきりと見分けがつきませんでした。
c0187004_991933.jpg しかし、背中の傷は確かに主君がつけた吉良上野介の傷に見えました。
 そこで、捕まえた置いた門番を連れてきてみせると吉良上野介に間違いがないとのことでした。
 そこで、上野介の首は一番槍の十次郎に揚げさせ、白小袖に包んで、以前決めていた合図の笛をお互いが吹き合いして、全員が表の玄関前に集合しました。
 そして、かねて捕えておいた門番3人に見せたところ、吉良上野介であると言いました。
 その際に、懐中にあった三つの守り袋を証拠であるとして持参しました。
 こうして、吉良上野介の首を赤穂浪士が挙げました。

 これが、富森助右衛門が書き記した「富森助右衛門筆記」に書かれた吉良上野介の最期の様子です。

 しかし、宮澤誠一氏によると吉良上野介の最期は、従来よく言われるように吉良上野介が赤穂浪士に向かってきて斬られたのではなく、手向かいもせずに斬られたのだと言います。
 このような状況とは違う情報があるとのことです。
 それは、不破数右衛門が実父にあてた手紙の中で、
 武林唯七と間十次郎が吉良上野介を仕留めた時は、吉良上野介だとは分からなかった。
 不破数右衛門が駆けつけ、吉良上野介の首にかかっているお守りを見つけ、それが平生の人のものと違うことに気が付き、顔を払ってみると額から眉の頭までの古い疵が見えたので、吉良上野介に違いないから、首を揚げるようにいった
と書いています。

 宮澤先生は、
 実際は、不破が書き残したように、吉良上野介は抵抗もしないうちに武林唯七や間十次郎などその場に居合わせた数人の浪士たちによって斬り殺されたのかもしれない。
 「富森筆記」では、吉良上野介殺害の残酷さをやわらげるために、浪士たちの行為を飾って書き記したとも考えられる
と書いています。
 山本博文先生も「本当の忠臣蔵」の中で、宮澤説に賛成しています。

右写真上段は、本所松坂町公園の中にある吉良上野介の像、下段は吉良上野介首洗いの井戸です。
by wheatbaku | 2013-09-09 08:52 | 忠臣蔵
吉良邸の大きさ(江戸検お題「本当の忠臣蔵」62)
 今日は、忠臣蔵の関係で、吉良上野介の屋敷について書きたいと思います。

 その前ですが、10月に文京学院大学生涯学習センターさん主催で開催される「忠臣蔵散歩」ですが、お蔭様で、一般申し込みが開始された昨日午前中に、定員に達したようです。
 初日に定員に達するとは思っていませんでした。
 お申込みいただいた皆様ありがとうございました。
 また、定員オーバーで、お申込みできなかった方、まことに申し訳ありませんでした。

 さて、それでは、吉良邸について書いていきます。  
c0187004_10589.jpg 吉良上野介は、第4回の模擬試験問題に書いたように、鍛冶橋門内に屋敷を拝領していました。
 その屋敷が、元禄9年の勅額火事により焼失したため、新たに呉服橋門内に屋敷を拝領しました。
 松之大廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた時には、呉服橋門内に屋敷がありました。
 しかし、刃傷事件後、高家肝煎の辞任を申し出てそれが認められたため、元禄14年8月に呉服橋門内から本所に引き移るように指示されました。
 吉良家の移転については 隣の徳島富田藩蜂須賀家の働きかけがあったという説もありますが、確かなことははっきりしていません。
 

 本所の屋敷周辺の地図は、下写真のようです。
c0187004_9575215.jpg
 これは、元禄15年版の「改撰江戸大絵図」が元になっていると思われます。
 横向きで「キラ左兵」と書かれているのが吉良邸です。
吉良邸は、三方向は道路に囲まれていて、北側に旗本屋敷があります。
 北西の旗本屋敷は、「土ヤチカラ」つまり土屋主税の屋敷でした。
 土屋家は、元々は、久留里藩の藩主の家柄ですが、主税の父の代に改易となり、主税は3千石の旗本でした。

 北東の屋敷は、「本多マコ太郎」つまり本多孫太郎の屋敷です。
 本多孫太郎は、福井藩松平家の家老でした。討入り当日は、福井に在留していて江戸屋敷にはいませんでした。

 表門の東側の道路を隔てた向かい側は「マキノ長門」つまり旗本牧野長門の屋敷でした。しかし、討入りの当時は、牧野長門の子供の牧野一学に代替わりをしており、牧野一学は駿河在番で屋敷にはいなかったようです。
 裏門の道路を隔てた向かい側には「エカウイン」つまり回向院がありました。

 
 この敷地の中に、下の絵図面のような屋敷が建てられていました。
 下の絵図面は、富森助右衛門の子孫の家に伝わるものですが、吉良邸の最も詳しい絵図面だそうです。
c0187004_100723.jpg
 
 絵図面の右側つまり東側に表門があり、左側が西側で、そこに裏門があります。
この絵図面による屋敷の大きさは、表門側の南北が、34間2尺8寸(約62.7メートル)、 裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3メートル)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9メートル)となっています。
 面積は、約2550坪でした。

 表門側に、吉良左兵衛の住む部屋があります。
 吉良上野介の住む隠居部屋は、裏門側にありました。
 隠居部屋側にも玄関があり、ここから出入りが可能となっています。
 吉良上野介の部屋近くには茶室もありました。

 屋敷の道路に面した三方向には長屋が設置されていました。
 長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。
 この長屋は二階建てだったと考えられています。
 屋根までの高さは6.6メートルあったとNHKによる推測がされています。
 それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。
 赤穂浪士が準備した道具の中に梯子が含まれているのは、こうした事情があったためです。
by wheatbaku | 2013-09-03 09:53 | 忠臣蔵
吉良邸、本所に移転(江戸検お題「本当の忠臣蔵」37)
 今日も忠臣蔵のお話を続けたいと思います。  
 大石内蔵助が江戸に下向しての江戸での会議から時間が遡りますが、9月に吉良邸が呉服橋門内から本所に屋敷替えしていますので、今日は、その話をします。

 吉良上野介義央は屋敷の移転を2回経験しています。
 1回目が鍛冶橋門内から呉服橋門内への移転、2回目が呉服橋門内から本所への移転です。
c0187004_919882.jpg 松之廊下の刃傷事件の際に、吉良上野介の屋敷は、呉服橋門内にありました。
 しかし、吉良上野介が生まれた屋敷は鍛冶橋門内にありました。
 その鍛冶橋門内にあった屋敷が元禄11年9月6日に発生した大火で焼失してしまったので、呉服橋門内に移転しました。

 この時の大火は、京橋南鍋町の商家から出火し、数寄屋橋門内から神田・上野・浅草・千住・両国へと燃え広がりました。
 この火事で、大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町家1万8700も焼け、死者3000人以上となったといわれています。

 元禄11年9月6日に起きたこの火事は、「勅額火事」と呼ばれています。
c0187004_9201027.jpg  これは、先に完成した寛永寺の根本中堂に掲げるため、東山天皇の御宸筆による「瑠璃殿」と書かれた勅額が京都より到着した日に起きた火事のため、「勅額家事」と呼ばれるようになったのです。
 ところで、「勅額火事」の由来となった勅額が、現在も上野寛永寺に残されています。
 寛永寺の根本中堂に掲げられている額がそれです。(右写真)
 300年前の勅額がなにげなく掲げられているのに驚かされます。

 この「勅額火事」によって、鍛冶橋門内の屋敷が焼失したため、吉良上野介は呉服橋門内に新たに2931坪の土地を拝領しました。東隣が徳島富田藩蜂須賀家でした。
 吉良上野介は、ここに屋敷を建てましたが、その費用は、上杉家が負担したと言われています。
 
 
 その新屋敷完成後2年後に、吉良上野介は、松之廊下の刃傷事件に遭遇します。
 そして、3月26日、高家の御役御免を願い出て了承されました。
そして、9月3日に呉服橋門内の屋敷を返上して本所に屋敷替えとなりました。

 本所の屋敷は、元は旗本の松平登之助の屋敷で、約2550坪ありましたが、空屋敷となっていた屋敷を拝領したものでした。
 
 ところで、本所松坂町の吉良邸とよくいいますが、本所松坂町という町名が付けられたのは、赤穂浪士が討ち入ってしばらく経った後の宝永年間になってからと考えられています。
 従って、吉良上野介義央が生きている時代には、本所松坂町と言う町名はありませんでしたので、「吉良上野介の屋敷が本所松坂町に屋敷替えになった」とか「赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸に討ち入った」という表現があったら、基礎的な点で間違えていることになります。(あまり目くじらを立てることではありませんが・・・)

 この屋敷替えについては、東隣の蜂須賀家が「赤穂の浪人たちが討ち入るかもしれないと危惧し、昼夜にわたって警備しているため、家中が困窮して迷惑だから、他に移転してほしい」と幕府に働きかけたためという話もありますが、真実かどうかは不明です。
 この話は、堀部安兵衛の「堀部武庸(ほりべ たけつね)筆記」に載っています。

 堀部安兵衛は、この屋敷替えの話に関連して、
 上野介の屋敷が本所あたりに替わるらしい。討ち入りを実行する時節がきたともっぱら取りざたされている。
 上野介の従弟婿にあたる松本藩主水野忠直は、御伽の座頭が上野介の屋敷替えは公儀が浅野家家来に「討ち候へ」といっているようなものだと言ったので、水野も「成程その通りだ」と答えたと親しい人に語ったらしい。
 という江戸の噂を8月19日付の書状に書いて内蔵助に知らせています。
 これも「堀部武庸筆記」に残されています。

 こうした噂の他にも江戸の噂を、堀部安兵衛は、大石内蔵助へ書き送っています。
 こうした噂は堀部安兵衛が意識して集めたものと思いますが、昨日、鶴ヶ島の小人さんがコメントに書かれたように、江戸っ子たちは、かなり、討ち入りを期待していたのも事実なのではないでしょうか。
 そのため、こうした噂話が自然と堀部安兵衛の耳にも届いてきたもとの思われます。
 だから、上方から下向してきた原惣右衛門や大高源五も江戸の雰囲気にのまれてしまったので、急進派に替わったという面はあると思います。
by wheatbaku | 2013-07-05 09:02 | 忠臣蔵
吉良上野介の人物評(江戸検お題「本当の忠臣蔵」11)
 昨日は、吉良上野介義央の経歴を書きました。
 吉良上野介義央は、忠臣蔵の影響から、「悪人」のイメージが強くあります。
 本当に「悪人」だったのかどうなのか、今日は吉良上野介義央の人物評について書いてみます。

綱勝毒殺説はウソ
 吉良上野介についての悪行が噂されています。
 まず米沢藩主綱勝が寛文4年(1664)閏5月に急死しました。
c0187004_830140.jpg この件に関して、吉良上野介による毒殺説があります。
 これは綱勝の発病が妹の嫁ぎ先の吉良家を訪れて、吉良義冬・義央親子から饗応を受けた後、その帰り道に腹痛を起こしました。
 そして、7日間病状が改善せず、7日についになくなりました。
 これが、吉良上野介が毒薬をもったからだという説です。
 三田村 鳶魚も「元禄快挙別録」に書いているそうですが、後に訂正したそうです。
 しかし、綱勝の病状については当時の上杉家江戸家老千坂高治の「千坂兵部日記」(「削封日記 天」)]に詳しく記されていて、それを詳細に見ると毒殺ではないというが有力説です。
 佐々木杜太郎氏著「吉良上野介の正体」には、「赤痢体の病状であったようである」と書かれています。

「黄金堤(こがねづつみ)」
 吉良上野介の領地の吉良では、名君とされています。
c0187004_8302242.jpg 吉良上野介の業績として上げられているのが「黄金堤」の築造と「富好新田」の開発です。
 吉良荘一帯は矢作川下流の肥沃な平野ですが,広田川、須美川、安藤川が流れ、たびたび洪水が起こり領民は苦しんでいました。
 そこで吉良上野介は、隣の西尾藩主と直接話し合い,一昼夜で築くことを条件に堤を作ることの許可を西尾藩から得て、合流点に長さ180m、高さ4メートルの堤防を築きました。
 それ以後は、洪水もなくなり、水田も黄金の稲穂を実らせるようになりました。
 そのため、「黄金堤(こがねづつみ)」」と呼ばれるようになりました。この堤は別名「一夜堤」とも言われ,現在も残っています。

「富好新田」 
 貞享3年(1686)ころから妻富子が重い眼病にかかりました。
 ある夜のこと、富子の夢に、身延山の七面天女を祈れば快癒するとのお告げがありました。
 富子は,身延山に詣で願を掛けたところ不思議と快癒しました。
 この時、富子は病気平癒の際には、七面天女を一生の守り本尊とすることと領地に新田を開いて供養すると誓っていました。
 吉良上野介は、富子の誓いを守るため、新田工事に取り組みました。
 こうして矢崎川河口約90町歩の海を干拓して新田を開きました。
 この開いた新田は富好新田(とみよししんでん)と呼ばれるようになりました。「富子が好む新田」という意味だと思います。

c0187004_8304069.jpg 赤馬に乗って巡回
 吉良家ゆかりの華蔵寺、花岳寺へと続く遊歩道には、赤馬に乗った吉良上野介の像が建てられています。
 吉良上野介は、赤馬(駄馬)に乗って、領内を巡視したと伝えられており、その言い伝えに基づく像です。
 また、郷土玩具に「赤馬」もあります。


「卜一」号をもつ茶人
 吉良上野介は、また茶人でもありました。
 茶人としての義央は、「卜一」(ぼくいち)という茶の号をもっていて、卜一流を興したほどでした。なお「卜一」というのは「上野介の上の字を二分したものです。
c0187004_831297.jpg 吉良上野介は、千利休の孫千宗旦の晩年の弟子の一人であり、宗旦四天王の一人で、『茶道便蒙抄(さどうべんもうしょう)』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていました。
 山田宗偏は、千宗旦の弟子で宗偏流を興しました。
 宗旦の推挙によって三州吉田城主小笠原忠知の茶頭となり、晩年江戸にくだり、茶室を本所2丁目に構え多くの弟子に教授しました。
 赤穂浪士の大高源吾が、宗偏に弟子入りし、12月14日の吉良上野介の在宅を確認したというのは有名なな話です。ただし、これも本当の話が作り話か確認の必要があるかもしれません。
 吉良の華蔵寺には、吉良上野介が使用したと伝わっている茶釜があります。

吉良流礼法
 礼法というと小笠原流が大変有名ですが、吉良流礼法もあります。
 高家肝煎たる吉良家は、職務の必要上から、長い伝統を持つ朝廷の礼法、鎌倉・室町時代の武家の礼法など、有職古事を踏まえた、江戸時代に即した礼法を打ち立てました。
 これが吉良流礼法です。
 吉良流礼法は、義央の父義冬が興したと言います。
 高家肝煎として、江戸城内での儀式を取り仕切っていたことから、吉良流礼法は多くの大名家で取り入れられたと思われますが、尾張藩徳川家と広島藩浅野家が有名です。
 この両家には、多くの吉良流礼法についての資料が残されているそうです。
by wheatbaku | 2013-04-05 08:23 | 忠臣蔵
吉良上野介の経歴(江戸検お題「本当の忠臣蔵」10)
 今回の「本当の忠臣蔵」は、「吉良上野介義央」について書きます。

 吉良上野介義央は、寛永18年(1641)9月2日、高家旗本吉良義冬と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれました。
 幼名は三郎と言いました。三郎という名は、吉良家の嫡男につけられた名前のようです。
 
c0187004_8512294.jpg 義央の名前の読みは、従来「よしなか」とされていました。
 しかし、愛知県西尾市(旧吉良町)の華蔵寺に収められている古文書の花押の中心に「久」が使われていることなどから、現在では「よしひさ」と呼ばれています。

 私も「よしなか」と思っていましたが、昨年、吉良に行った際に、皆さんが「よしひさ」と呼んでいて戸惑いました。
 右写真は、華蔵寺にある吉良上野介義央の木像です。吉良上野介の50歳の時の像だそうです。
 なお、右下写真は、両国の松坂町公園にある吉良上野介の像ですが、これも、華蔵寺の木像をモデルにして制作されたものです。

 承応2年(1653)13歳で、将軍徳川家綱に拝謁しました。
 明暦3年(1657)、従四位下侍従上野介に叙任されました。
 そして翌年の万治元年(1658)18歳で、出羽米沢藩上杉定勝の四女で上杉播綱勝の妹の三姫(後の富子)と結婚しました。

 万治2年(1659)19歳から高家見習いとして出仕し、家禄とは別に合力米千俵を支給されるようになりました。
 それから2年後の寛文2年(1662)に上野介は初めて上京しました。この時に、重要な使命を持って父義冬とともに上京していました。それは、後西天皇の譲位の内談でした。
 そして、見事に使命を果たし後西天皇の攘夷について後水尾上皇の裁許を得ることができました。
 そして、翌寛文3年(1663)正月、後西天皇の後を受けた霊元天皇の践祚が決まり、その賀使として2度目の上洛をし、大枚白銀千両と綿百杷を頂戴し、さらに22歳にして従四位上に昇進しています。

c0187004_8514397.jpg
 寛文4年(1664)閏5月、米沢藩主上杉綱勝が嗣子がないまま急死しました。
 そのために上杉家は改易の怖れがありましたが、吉良上野介の長男三之助を上杉家の養子として改易を免れました。この三之助が後の上杉綱憲です。
 これには、綱勝の正室の父保科正之の格段の配慮があったと言われています。

 寛文8年(1668)、父義冬が京都にて死去したため28歳で家督を相続しました。
 その後、高家として、生涯を通じて24回も上洛し朝廷へのお使いをしています。
 そのうち、15回が年賀使すなわち年頭のご挨拶で、9回が年賀使以外のお使いです。
 その他、伊勢神宮への御使いは3回、日光東照宮へは13回御使いしています。

天和3年(1683)には大沢基恒、畠山義里とともに高家肝煎に就任しました

 貞享3年(1686)に領地吉良に黄金堤を築き、洪水を防ぎました。
 そして元禄元年(1688)に新田開発を開始しました。
 これは、元禄10年に完成し、妻富子の名前をとって「富好(とみよし)新田」と呼ばれるようになりました。
 この黄金堤と富好新田については、後日、詳しく書きたいと思います。

 元禄2年には、綱憲の子供の春千代を養嗣子としました。
 綱憲を上杉家に養子に出した後、次男の三郎を跡継ぎにする予定でしたが、三郎が貞享2年に8歳でなくなってしまい、後継がいなかったためです。
 
 元禄9年には、11歳になった春千代が、将軍綱吉にお目見えし、名を改めて義周(よしちか)と名乗りました。

 元禄11年には、数寄屋橋から火事が起こり、鍛冶橋門内にあった吉良邸も焼失し、呉服橋門内に、新たに屋敷地を賜り、新しく屋敷を建て替えました。

 そして、元禄14年には、正月に朝廷に年賀使として上洛し、正月11日に京に到着し2月29日に帰京しました。
 3月11日に勅使・院使が江戸に到着し、その後の行事も無事終わり、最後の勅答の義が行われる3月14日、松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられ、吉良上野介の一生および吉良家が大きく変わることになりました。

 松の廊下刃傷事件の話は、赤穂事件の中心的事柄ですので、後日、また詳しく書きたいと思います。
by wheatbaku | 2013-04-04 08:52 | 忠臣蔵
本所松坂町公園(赤穂浪士引き揚げルート1)
 江戸文化歴史検定を受験された皆さん、試験はどうでしたか?
 難しかったですか? 簡単でしたか?
 朗報が届くとよいですね。
 それにしても受験お疲れ様でした。少しゆっくりしてください。

 さて、土曜日に「赤穂浪士引き揚げルート」を築地本願寺まで歩いてきました。
 そこで、今日からは、そのルート沿いの史跡をご案内していきます。

 今日は、スタートの本所松坂町公園です。
 本所松坂町公園は昭和9年につくられました。それには次のような経緯がありました。
c0187004_1647283.jpg 赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となったため、吉良邸跡は町人が住む町になりました。そのため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。
 そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それがこの公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。
 元の吉良邸は約2550坪ありましたが、この公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1%ほどの広さです。

 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われました。
c0187004_16475057.jpg 討ち入りした時刻は午前4時ころです。
 表門隊24人と裏門隊23人に別れ、討ち入りしました。
 表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。
 表門隊では、大高源吾と間十次郎が梯子をかけて塀を乗り越え一番乗りしました。
 裏門隊は掛矢(大きな木槌)で裏門を打ち破り突入しました。
 赤穂浪士は、屋敷内斬込隊、長屋制圧隊、表門・裏門の守護隊などに分かれ吉良側と戦いました。
 1時間ほどの激闘で、吉良側の反撃を封じました。
 そして、残りの1時間ほどは吉良上野介の捜索にかかりました。
 その長い捜索の結果、炭小屋に隠れている吉良上野介を見つけだし、首をあげました。

 吉良上野介の像が公園内にあります。(左上写真)
 この像は吉良家の菩提寺である愛知県西尾市の華蔵寺にある木像をベースに平成22年に作られたもの、上屋は旧吉良町から平成23年に寄贈されたものです。
c0187004_10581135.jpg 右写真は、華蔵寺にある吉良上野介の木像です。
 今年の黄金週間に華蔵寺を訪ねた時に撮った写真ですが、いつもは非公開ですが、華蔵寺さんの特別のご配慮により公開していただき撮らさせていただいたものです。
 上野介が50歳の時に、自身をモデルに作らせたものだそうですが、非常に穏やかな表情であるのが印象的でした。 

 今回ご案内するために事前調査する中で、「人々心得之覚書」という赤穂浪士が討ち入った際の行動要領があることを知りました。
 この「人々心得之覚書」には、討ち入りの際の行動について具体的に定められています。
 
 決め事のいくつかを書き上げてみますが、用意周到さに驚きます。
①吉良上野介の首を取ったら、引上場所(回向院)に持参すること。
その際首は上野介の上着で包むこと。
②吉良義周の首は討っても、持参する必要はない。
③吉良親子を討ち取れば笛を吹く。
④引き上げは鉦を打って合図する。
c0187004_20345685.jpg⑤裏門から引き上げる。
⑥引上げ場所は回向院とする。
 もし回向院に入れない場合には、両国橋の東詰の広場とする。

 吉良上野介の首を取った後、赤穂浪士は裏門とも玄関とも言われますが、点呼をとり、裏門から引き揚げました。
 裏門があったと思われる場所には、吉良邸裏門跡の高札が立てられています。マンションンの前です。
by wheatbaku | 2012-10-28 20:40 | 忠臣蔵
  

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