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芭蕉記念館(赤穂浪士引き揚げルート7)
 赤穂浪士の引き揚げルートには、芭蕉関連の史跡もありました。
 今日は、そのご紹介です。
 
 まず、赤穂浪士引き揚げルートで、新大橋通りを横切って、南に進みますと、間もなく通りの西側に芭蕉記念館が見えてきます。右下写真が芭蕉記念館の外観です。
c0187004_15593643.jpg 芭蕉記念館は、江東区により昭和56年に建てられました。
 芭蕉記念館の設立について、次のように書いています。

 芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。
 大正6年(1917)の大津波の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)4月19日に芭蕉記念館を、平成7年(1995)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館しました。 
 以上、江東区のHPからでした。

c0187004_1601625.jpg 松尾芭蕉は、正保元年(1644)、伊賀上野(現在の三重県伊賀市)で生まれました。
 芭蕉は、若い時に伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の息子良忠に仕え、良忠とともに近江出身の俳人であり歌人でもある北村季吟に師事して俳諧の道に入りました。
 しかし、寛文6年(1666)主人の良忠が25歳で亡くなった後、寛文12年(1672)年 江戸に出てきました。 
 江戸で芭蕉は、まず最初に日本橋に住みました。その後、延宝8年(1680)冬、日本橋小田原町から深川の地に移り住みました。
 
c0187004_1602483.jpg 芭蕉が移り住んだのは、門人の杉山杉風所有の生簀の番小屋であったといいます。
 杉山杉風は鯉屋という屋号の川魚問屋を営んでいました。
 杉山杉風の子孫は、平成17年まで栃木市で旅館「鯉保(こいやす)」を経営していました。
 女優の山口智子さんは、実家が「鯉保」です。つまり山口智子さんは杉山杉風の子孫ということになります。
 芭蕉が深川に引越してきた翌年春、門人李下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、それまで桃青と号していた草庵の主人の名ともなりました。

 その後、芭蕉庵は、3回にわたって営まれましたが、いずれも深川の内でした。
 そこで、ゆかりの地に、芭蕉記念館が造られたようです。
 
c0187004_1605589.jpg 芭蕉記念館の館内は撮影禁止です。しかし、記念館には庭園もあり芭蕉の句碑が立っています。
 記念館の入口には、次の句碑があります。
 草の戸も住み替る代ぞひなの家 
  元禄2年に奥の細道の旅に旅立つ前に芭蕉庵から採荼庵に移り住んだ際に詠んだ句。(左最上段の写真 )

 庭園の築山には次の二つの句碑が立っています。
  ふる池や蛙飛こむ水の音 
  芭蕉の代表的な句で、誰でも知っている句。貞享3年に詠まれました。(右上段の写真)
  川上とこの川下や月の友 
  芭蕉が「小名木川五本松」で月見を楽しんだ時の句。川上の友とは、『目に青葉 山ほととぎす 初鰹』の句で有名な山口素堂だと言われています。元禄6年に詠まれた句です。(左上の写真)

 赤印が芭蕉記念館です。地下鉄の森下駅が最寄駅です。

by wheatbaku | 2012-11-05 17:17 | 忠臣蔵
「元禄の凱旋 赤穂義士の引揚げ」(赤穂浪士引き揚げルート6)
 赤穂浪士の引き揚げルートはどこを通っていく道順ですかという質問がありました。
 このブログでは、引き揚げルート沿いの史跡を書いていますが、引き揚げルートそのものを表示できる機能がなさそうですので、ブログ上で表示していません。
 ですから、前述のご質問はもっとなご質問です。

 そこで、大まかルートを書いていこうと思います。
 旧両国橋の東詰から一之橋を越えて一の橋通りを下り、萬年橋北交差点を西側に曲り、そしてすぐに左折します。そして道なり進みますと萬年橋の北詰にでますので、萬年橋を渡ります。萬年橋を渡ってすぐの南詰の交差点を西側に入ります。この道をまた道なりに南下していきます。
 そうしますと、永代橋の東詰に出ます。ここで永代橋を渡ります。

c0187004_17452934.jpg さて、ここまで、書いてきて、はたと困りました。
 これからのルートは、江戸時代の霊巌島、現在の新川一丁目、二丁目を抜けるルートですが、ここの道順は複雑で文章で書くのが非常に難しいのです。
 というのは、赤穂浪士一行は、通り名のない道路を通り、交差点名がない路地をまがったりしているからです。 

 そこで、赤穂浪士引き揚げルートについて書いた本を紹介します。
 中央義士会監修「元禄の凱旋 赤穂義士の引揚げ」です。
 この本に引き揚げルートが詳しく書かれています。
 毎日文化センターの講座「『忠臣蔵』ゆかりの地を行く」でも、「元禄の凱旋 赤穂義士の引揚げ」に書かれているルートに沿って、歩いています。
 この本は、実際にルートを踏破したうえで書いてあります。
 赤穂浪士の引き揚げルートは、現在は、交差点名もない場所で右折・左折したりしていますので、そうした場所では、ビルの名前が明確にされていて、迷うことなく曲がれます。
 赤穂浪士の引き揚げルートを歩こうとされ場合は、この本を参考にされるとよろしいと思います。
 
 しかし、ブログの中でも、極力、ルートを詳しく書いていこうとは思います。
 
by wheatbaku | 2012-11-04 20:01 | 忠臣蔵
新大橋(赤穂浪士引き揚げルート5)
 今日は、新大橋について書きます。
 赤穂浪士一行の引き揚げたルーは、江島杉山神社の前を通りすぎ、一の橋通りをさらに南下していきす。  そうしますと、新大橋通りと交差します。

c0187004_15382563.jpg 新大橋は、この通りに架けられています。
 最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693)です。
 隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。
 隅田川に架けられた最初の橋は千住大橋で徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594)にかけられました。
 次いで架けられたのが両国橋で万治2年(1659)です。

 新大橋は5代将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民の便が良くなるように、架橋を将軍に勧めたと伝えられています。
c0187004_15382337.jpg 当時の橋は現在の位置よりもやや下流側にありました。
 旧の新大橋があった場所には、「旧新大橋跡」の標柱が立てられています。
 萬年橋北交差点の北西角に立っています。(左写真)

 新大橋が架けれた頃、新大橋の東詰近くの芭蕉庵に松尾芭蕉が住んでいました。
 そして、架橋中から架橋完了後の新大橋について、松尾芭蕉が句を詠んでいます。 
 「初雪やかけかかりたる橋の上」 架設工事中の様子を詠んだものです。
 「ありがたやいただいて踏むはしの霜」 完成後の様子です。

 新大橋は、江戸時代には、何度も破損、流出、焼失しました。
 明治になってからは、明治18年に新しい西洋式の木橋として架け替えられました。
 そして、明治45年に鉄橋として現在の位置に架け替えられました。

 関東大震災の際には、新大橋以外の隅田川に架かる橋がすべて焼け落ちてしまいました。新大橋だけが炎上を免れ、沢山の避難住民の命を救うことになりました。そのため、「人助け橋(お助け橋)」とも呼ばれました。
c0187004_1541383.jpg  これは、橋の全ての構造が不燃材で出来ていた ためです。
 人形町の水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われています。
 この明治の鉄橋は、現在愛知県犬山市の明治村に約25mが移築されて保存されています。
 現在の橋は、昭和52年に架け替えられたものです。

 右の浮世絵は 歌川広重の名所江戸百景の「大はしあたけの夕立」です。
 この絵に基づきゴッホが「大橋の雨」という絵を描いたことで有名です。
 この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図です。
 絵のタイトルにある「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の「御船蔵(みふねくら)」に係留されたままになっていた史上最大の御座船「安宅丸(あたけまる)」にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからです。
 絵の左奥に灰色に煙る屋根がありますが、それが「御船蔵」です。
 

c0187004_153958.jpg 「御船蔵跡」の標柱が新大橋の東詰に設置されていました。
 「安宅丸(あたけまる)」は、寛永9年(1632)に徳川家光が幕府の船手頭(幕府水軍の総司令官)の向井将監に命じて造らせた御座船です。
 艪(ろ)の数は2人掛りの100挺で、船上には二層の天守を備えていました。
 外板の厚みは一尺もあるうえに船体総てに銅板を張っていたそうです。
 その巨大さと頑丈さから、「日本一の御船」とよばれ、江戸の名物の一つでした。
 その安宅丸は伊豆から回航されこの付近に格納されていました。
 しかし、維持費用が高いため、5代将軍綱吉の命により、天和2年(1682)に解体されてしまいました
 安宅丸が解体された後も明治時代まで幕府軍船の格納所として使用され、御船蔵と呼ばれました。


 赤印が新大橋です。青が「御船蔵跡」の標柱です。 緑が「旧新大橋跡」の標柱です。

by wheatbaku | 2012-11-01 21:50 | 忠臣蔵
回向院と両国橋(赤穂浪士引き揚げルート2)
 赤穂浪士引き揚げルートの2回目は回向院と両国橋東詰です。

 吉良上野介の首を挙げた赤穂浪士は休息のため回向院へ向かいました。
 これは、事前に定めた「人々心得之覚書」に

引き取り候う場所は無縁寺(回向院のこと)なるべし。ただし無縁寺へ入らず候はば、両国橋東の橋際の広場に打ち寄せ申しべきこと(読み下し文)

 と書かれていますので、討ち入り前に決まっていた行動だと思われます。
 

 回向院は、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火(別名振袖火事)でなくなった人々を供養するために、幕府が建立したお寺です。
c0187004_16451728.jpg 現在は、京葉道路側に山門(右写真)がありますが、江戸時代には、西側つまり隅田川に面して表門がありました。
 江戸時代の両国橋は、現在の両国橋より50メートルほど下流に架けられていて、両国橋を渡ってくると正面に回向院が見えるという位置関係にありました。

 回向院での休息を申し込んだ赤穂浪士に対して、回向院は暮れ六つ以後明け六つ以前は誰もいれない決まりとなっていると断りました。
 回向院は関わり合いになって後難が生じるのを怖れたものと思われます。

 そこで、赤穂浪士一行は両国橋東詰で休息しながら上杉家からの討手を迎え撃つ準備をしました。
 現在の両国橋は、赤穂浪士が討ち入りをした頃に比べて50メートルほど上流に架けられています。
 そのため、左下の写真が説明板ですが、説明板の前方には、両国橋は写りません。
c0187004_14165163.jpg 大石内蔵助は、上杉家からの討手は必ず来ると確信をしていたようです。
  しかし、上杉家からの討手はかかりませんでした。
  これは、上杉家では、藩主綱憲は討ち入りの報告を受けるとすぐに救援を出そうとしますが、救援の兵を揃えたり情報を収集するのに手間取っている間に、幕府から高家畠山下総守義寧(よしやす)が訪ねてきて兵を出さないようにとの老中の意向を伝えたため、救援の兵を出すのを断念せざるを得ませんでした。

  「忠臣蔵」の映画やドラマなどでは、実父の吉良上野介のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老千坂兵部がこれを諌めて救援を止めさせる場面があります。「忠臣蔵」の名場面の一つです。
 しかし、これはフィクションだと言われています。
 というのは、一方の主役である千坂兵部は、元禄13年5月につまり討ち入りの2年前に亡くなっていました。
 当時の江戸家老は色部又四郎ですが、色部又四郎も、討ち入りの当日は、上杉家の上屋敷にはいなかったと言われていますので、色部又四郎も止めようがなかったと思います。
 止めたのは、高家畠山下総守義寧だったのでした。

 上杉家の討手が来ないため、赤穂浪士一行は高輪の泉岳寺へ急ぐことにします。
その際、両国橋を渡らず、隅田川沿いに南下するルートを通りました。
 本所から泉岳寺に行くには隅田川を両国橋で渡って江戸市中に入るのが近道ですが、そうすると武家屋敷街を通ることになります。
c0187004_16493522.jpg 討ち入りの翌日は15日です。
 その日は、大名・旗本の登城日にあたっていました。
 当時は、月次御礼(つきなみおんれい)といって、江戸にいる大名と旗本は、毎月1日と15日それと28日(正月、2月、4月、7月、12月のみ)には、江戸城に登城することになっていたのです。
 そこで、泉岳寺までの引揚途中に大名行列と遭遇したり、大名屋敷近くで誰何されたりして、トラブルになる怖れがないとはいえません。
 不測の事態の起こるのを懸念した大石内蔵助は、両国橋(右上の写真は現在の両国橋を日本橋側から撮ったものです)を渡らず、そのまま隅田川に沿って南下するコースをとりました。
 それが、いわゆる「赤穂浪士引き揚げルート」です。
by wheatbaku | 2012-10-29 22:11 | 忠臣蔵
本所松坂町公園(赤穂浪士引き揚げルート1)
 江戸文化歴史検定を受験された皆さん、試験はどうでしたか?
 難しかったですか? 簡単でしたか?
 朗報が届くとよいですね。
 それにしても受験お疲れ様でした。少しゆっくりしてください。

 さて、土曜日に「赤穂浪士引き揚げルート」を築地本願寺まで歩いてきました。
 そこで、今日からは、そのルート沿いの史跡をご案内していきます。

 今日は、スタートの本所松坂町公園です。
 本所松坂町公園は昭和9年につくられました。それには次のような経緯がありました。
c0187004_1647283.jpg 赤穂浪士の討ち入り後、吉良家が改易となったため、吉良邸跡は町人が住む町になりました。そのため、吉良家の名残を残すものはありませんでした。
 そこで、昭和9年に地元の自治会の有志がお金を出し合い、土地を購入し、東京都に寄付しました。それがこの公園です。現在は墨田区に移管され墨田区立公園となっています。
 元の吉良邸は約2550坪ありましたが、この公園は約30坪しかなく、元のお屋敷の1%ほどの広さです。

 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日に行われました。
c0187004_16475057.jpg 討ち入りした時刻は午前4時ころです。
 表門隊24人と裏門隊23人に別れ、討ち入りしました。
 表門は大石内蔵助、裏門は大石主税が大将で、吉田忠左衛門が補佐しました。
 表門隊では、大高源吾と間十次郎が梯子をかけて塀を乗り越え一番乗りしました。
 裏門隊は掛矢(大きな木槌)で裏門を打ち破り突入しました。
 赤穂浪士は、屋敷内斬込隊、長屋制圧隊、表門・裏門の守護隊などに分かれ吉良側と戦いました。
 1時間ほどの激闘で、吉良側の反撃を封じました。
 そして、残りの1時間ほどは吉良上野介の捜索にかかりました。
 その長い捜索の結果、炭小屋に隠れている吉良上野介を見つけだし、首をあげました。

 吉良上野介の像が公園内にあります。(左上写真)
 この像は吉良家の菩提寺である愛知県西尾市の華蔵寺にある木像をベースに平成22年に作られたもの、上屋は旧吉良町から平成23年に寄贈されたものです。
c0187004_10581135.jpg 右写真は、華蔵寺にある吉良上野介の木像です。
 今年の黄金週間に華蔵寺を訪ねた時に撮った写真ですが、いつもは非公開ですが、華蔵寺さんの特別のご配慮により公開していただき撮らさせていただいたものです。
 上野介が50歳の時に、自身をモデルに作らせたものだそうですが、非常に穏やかな表情であるのが印象的でした。 

 今回ご案内するために事前調査する中で、「人々心得之覚書」という赤穂浪士が討ち入った際の行動要領があることを知りました。
 この「人々心得之覚書」には、討ち入りの際の行動について具体的に定められています。
 
 決め事のいくつかを書き上げてみますが、用意周到さに驚きます。
①吉良上野介の首を取ったら、引上場所(回向院)に持参すること。
その際首は上野介の上着で包むこと。
②吉良義周の首は討っても、持参する必要はない。
③吉良親子を討ち取れば笛を吹く。
④引き上げは鉦を打って合図する。
c0187004_20345685.jpg⑤裏門から引き上げる。
⑥引上げ場所は回向院とする。
 もし回向院に入れない場合には、両国橋の東詰の広場とする。

 吉良上野介の首を取った後、赤穂浪士は裏門とも玄関とも言われますが、点呼をとり、裏門から引き揚げました。
 裏門があったと思われる場所には、吉良邸裏門跡の高札が立てられています。マンションンの前です。
by wheatbaku | 2012-10-28 20:40 | 忠臣蔵
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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