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六義園①(新江戸百景めぐり61-1)

六義園①(新江戸百景めぐり61-1

 今日は、『新江戸百景めぐり』で六義園をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、86ページの第36景で紹介されています。

 六義園は、JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。

 駒込駅近くの染井門は、春の桜の季節や秋の紅葉の季節のみ開く門で、通常は閉鎖されているため、南側にある正門に向かう必要があり、染井門から10分程歩く必要があります。下写真が正門です。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254105.jpg

 六義園は、柳沢吉保が作った庭園です。

元禄8年(1695)に柳沢吉保が拝領した下屋敷に、7年間かけて元禄15年に完成した庭園です。

 現在、広さは、約3万坪あります。

 六義園の名前は、中国の古い書物である「詩経」に出てくる「六義」からとった名称です。「六義」という言葉は、詩の分類を表すもので、次の六個を指します。

 賦(ふ)   感想をそのまま述べたもの

 比(ひ)   例をとって感想を述べたもの

 興(きょう) 外の物にふれて感想を述べたもの

 風(ふう)  民間で行われる歌謡

 雅(が)   朝廷でうたわれる雅な歌

 頌(しょう) 祖先を讃える歌

 現在は、音読みで「りくぎえん」と呼ばれていますが、六義園が作られた際には、柳沢吉保は日本風に「むくさのその」と呼んでいたようです。

宝永6年(1709)綱吉がなくなると、柳沢吉保は、長男の吉里に家督を譲って隠居し、隠居後は六義園で過ごしました。

吉保の孫3代の柳沢信鴻(のぶとき)までは、六義園はかなりしっかりと管理されていたようです。特に3代柳沢信鴻(のぶとき)は隠居後、この六義園に住んで、芝居などをよく観に行っていました。

しかし、寛政4年(1792)信鴻が亡くなると、それ以降20年間ほど、ほとんど六義園は利用されず荒廃していました。そこで、文化6年(1809)、4代保光の時に復旧工事が行なわれています。

明治以降は、六義園は三菱家のものになります。

明治11年に三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が手に入れました。そして、弥太郎の長男の岩崎久弥の時代には、久弥の本邸として使用されていたこともありました。

そして、昭和13年4月岩崎久弥から庭園を中心とした3万余坪が、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日に至っています。

六義園の正面を入り少し歩くと大きな門「内庭大門」が見えてきます。

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内庭大門は、岩崎家所有当時の雰囲気を残していますが、現在の門は東京市によって再建されたものです。

かつては門をくぐった先、しだれ桜のある場所あたり(下写真)あたりに岩崎家の「御殿」と呼ばれる邸があったようです。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254280.jpg

 六義園を訪ねた時は、冬景色で、しだれ桜は、枝ばかりでした。

しかし、春には下の写真のように見事な花をさかせます。

枝垂桜は、高さ約15m、幅約20mもあります。

3月下旬の満開の時期には、ライトアップもされて大勢の花見客が訪れます。

六義園①(新江戸百景めぐり61-1)_c0187004_21254102.jpg

 「シダレザクラ」は、「エドヒガン」という桜の品種の一種で、枝が下に垂れているため「枝垂れ桜」と呼ばれています。

「ソメイヨシノ」より少し早く咲きます。非常に有名な桜ですが、昭和30年代に、東京都によって植えられたもので、樹齢はまだ60~70年だそうです。

 
 赤印が六義園正門です。
 青印がしだれ桜です。







by wheatbaku | 2020-02-27 21:18 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)
駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2

縁起の良い初夢としてあげられるもの『一富士、二鷹、三茄子』があります。

この三つが縁起のよいものにあがれるかについては諸説がありますが、  「駒込に一富士、二鷹、三茄子」という川柳があり、駒込の名物を挙げたものだという由来説もあります。

 そこで、今日は、駒込の「一富士、二鷹、三茄子」について書いてみます。

まず、「一富士」は、いうまでもありませんが、前回ご案内した「駒込富士神社」であることは、すぐにおわかりになると思います。

下写真は駒込富士神社入り口です。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294388.jpg

「二鷹」は、駒込に鷹匠屋敷があったことによります。

鷹狩は、徳川家康が大変好きでしたので、家光までの歴代将軍も鷹狩を好んで行ないましたが、4代家綱の時には回数が少なくなりました。そして、5代将軍綱吉は、生類憐みの令との関係で鷹狩を禁止しました。鷹狩が復活したのは、8代将軍吉宗の時です。

吉宗が復活した鷹匠屋敷の一つが現在の都立駒込病院の場所にありました。

これがあったことが「二鷹」の由来です。

昭和49年、駒込病院の外溝工事中に貝塚が確認されたことから、2次にわたる発掘調査が行われ、縄文時代の遺跡の上に江戸時代の遺構が発見されました。これが動坂遺跡です。下写真は文京区教育員会が設置した説明板です。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294375.jpg

縄文時代の遺跡が貝塚で、江戸時代の遺構が鷹匠屋敷の遺構です。

そのため、都立駒込病院の入口に、動坂貝塚記念碑(下写真)が設置されています。

上写真と下写真は以前訪ねた時に撮った写真です。現在は状況が変わっているかもしれません。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294303.jpg

続いて「三茄子」ですが、江戸時代、駒込はなすの産地で、「駒込なす」は、江戸では大変有名な野菜でした。

 新編武蔵風土記稿の上駒込村に、

  茄子の土地によろしいので世にも駒込茄子と称す

 と書かれています。

 こうしたことから、駒込富士神社にJA東京が設置した説明板があります。下写真がそれです。

駒込富士神社②「一富士、二鷹、三茄子」(新江戸百景めぐり60-2)_c0187004_14294369.jpg

 縁起の良い初夢としてあげられる『一富士、二鷹、三茄子』がどうして縁起がよいとされるのかについては諸説があります。

徳川家康の好物を挙げたという説や駿河にあるもので高いものを挙げたという説もあります。

「甲子夜話」には、「神君駿城に御座ありし時、初茄子の値貴くして、数銭を以て買得ぬ故、其値高きをいはんとして、まず一に高きは富士なり。その次は足高山なり、其次は初茄子なりといひしことなり」と書かれていて、家康が駿河で高い順にあげたものだそうです。

 ちなみにここで言われている足高山は、愛鷹山のことで、駿河では富士山に次いで高い山です。

赤印が動坂遺跡の説明板と動坂貝塚記念碑のある場所です。
青印が駒込富士神社です。







by wheatbaku | 2020-02-24 14:27 | 新江戸百景めぐり
駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1) 

今日は、『新江戸百景めぐり』で駒込富士神社をご案内します。

 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、135ページ第73景で紹介されています。

 駒込富士神社は、山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩12分のところにあります。途中に六義園がありますので、六義園を見たついでにお参りするのもよいと思います。
 下写真は鳥居正面から写した駒込富士神社です。

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駒込富士神社は、本郷村の名主が天正元年(1573)、現在の東京大学本郷キャンパスの地に駿河の富士浅間社を勧請したのが始まりです。

寛永6年(1629)に、本郷の鎮座地が加賀藩前田家の屋敷となったため、現在地に移ってきました。

社伝によれば、現在地は昔から富士塚と呼ばれ、大きな塚があり、この塚は一説によると前方後円の古墳ともいわれているそうです。

駒込富士神社は、その塚の上に、鎮座していますので、正面の石段は大変急な石段になっています。そして、石段を登りきったうえに駒込富士神社の社殿があります。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314338.jpg

江戸時代は、富士山信仰が盛んで、富士の浅間神社にお参りに行く「富士講」が数多くできました。

そして、次のように詠われるほどになりました。

~江戸は広くて八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。~

そして、富士山に見立たてた富士塚が多く作られました。

富士山に見立てた山の上に拝殿を配したこの富士神社も、富士信仰の拠点の一つでした。
 下写真が現在の社殿です。

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毎年の富士山開きの日にあわせ、代表者が富士山に登り、江戸に残った人たちは、近くの富士塚に参拝しました。ここの富士神社も、山開きの日には大勢の参拝客でにぎわいます。

 以前、お参りした時の記事がありますので、ご興味のある方はご覧ください。
 駒込富士神社の麦藁蛇

本郷の富士浅間神社

富士神社が駒込に移転する前は、加賀藩上屋敷(現在の東大本郷キャンパス)に鎮座していました。鎮座していた場所は、赤門東側にある「赤門総合研究棟」のある場所といわれています。(下写真)

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江戸時代の加賀藩邸の地図を見ると赤門東に緑色に塗られた場所があります。そこが「加賀殿再訪」(東京大学出版会刊)では富士権現旧地と注記されていて、「江戸のミクロモス」(新泉社刊)では富士山と注記されています。ここが富士浅間神社が鎮座していた場所と思われます。下写真は現在の赤門です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314365.jpg

駒込富士神社が駒込にできた後も富士浅間神社が祀られていましたが、明治になって、前田侯爵家の屋敷が旧加賀藩邸の一画に設けられると、富士浅間神社も屋敷内に鎮座していました。前田家が昭和3年に駒場に移転して跡地が東大キャンパスとなり、現在は、春日通りに面した場所にお祀りされています。下写真が富士浅間神社の社殿です。

駒込富士神社①(新江戸百景めぐり60-1)_c0187004_12314330.jpg

富士浅間神社がある地区の昔の町名は、本富士町といいました。かつて富士山があったことにちなむ名前です。現在も東大のそばにある警察署は、本富士警察署となっています。

〇駒込富士神社の場所

 赤印が駒込富士神社です。青印が六義園です。


〇富士浅間神社の場所

 緑印が富士浅間神社です。オレンジ印が赤門です。ピンクが総合研究棟です。







by wheatbaku | 2020-02-20 12:26 | 新江戸百景めぐり
神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3)

神楽坂③(新江戸百景めぐり59-3

 

 神楽坂からは少し離れますが、神楽坂坂上から大久保通りを東に歩いていくと筑土八幡神社があります。神楽坂周辺はには史跡が結構あります。それで、今日は神楽坂からはちょとと離れますが、筑土八幡神社と「寒泉精舎跡」をご案内します。

筑土八幡神社

 筑土八幡神社は、神楽坂上からは徒歩67分、JR飯田橋駅からは徒歩10分です。
 下写真は、大久保通りに面して建っている社標です。

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 筑土八幡神社の御祭神は、八幡神社の名前の通り、応神天皇、神宮皇后、仲哀天皇です。

 筑土八幡神社の御由緒は、一の鳥居近くに設置されている説明板によれば、今から約千二百年前の平安時代の嵯峨天皇の御代に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいました。

ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、 雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまりました。

翁は神霊の現れたことを知り、このことを里人に語り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀ったそうです。

その後のことついて、説明板には、「伝教大師(※)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀りました。」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」によればここを訪れたのは慈覚大師であり、「江戸名所図会」には、「慈覚大師、東国遊化の頃、伝教大師彫造したまうところの阿弥陀如来を本地仏とし、小祠を経始す」と書いてあります。これらの説明と説明版とは、訪れた人物名が少し違うようです。下写真が社殿です。

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筑土という名前について、説明板には「伝教大師がこの地を訪れた時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた」と書いてありますが、「新宿区の文化財史跡ガイドブック」には「築き立てた地の意味である」とも書いてあります。

その後、文明年間に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社殿を造って、この地の産土(うぶすな)神としたそうです。

現在、境内地は約2200平方メートルあり、前の社殿は昭和20年の戦災で焼失してしまい、現在の社殿は、昭和38年に再建されたものです。

参道の石段の途中には石造りの鳥居があります。この鳥居は、高さは 3.75 メートルあり、享保 11 年(1726 )に建立された鳥居で、新宿区内最古の鳥居で、新宿区の有形文化財に指定されています。(下写真)

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この鳥居の右側の柱の裏側には奉納した人の名前が刻まれています。

それにより常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものであることがわかります。(下写真)

 黒田直邦は、旗本中山直張の三男に生まれ母方の祖父黒田用綱の養子となりました。黒田用綱はのちに5代将軍となる徳川綱吉が藩主であった舘林藩の家老であったことから、徳川綱吉に仕えるようになりました。綱吉が5代将軍となったことから幕臣となり、徳川綱吉に寵愛され、元禄16年(17031月常陸国下館藩15千石の藩主となりました。宝永4年に5千石加増され、2万五千石となっています。そして、享保17年(17323月に上野国沼田藩に3万石で移封され、同年7月、西の丸老中に就任しました。

 享保20326日になくなり、埼玉県飯能市にある能仁寺に眠っています。

 

寒泉精舎跡
 飯田橋駅と筑土八幡神社の中間に「寒泉精舎跡」があります。「寛政の三博士」の一人岡田寒泉の家塾の跡です。

 目印のなるのがJCHO東京新宿メディカルセンターですが、その少し手前の大久保通りの西側に「寒泉精舎跡」 と書かれた新宿区教育委員会が設置した説明板があります。

 よく探さないと見落としてしまいますが、ドラッグストア「くすりの福太郎」が目印となります。下写真

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岡田寒泉は江戸時代後期の儒学者で「寛政の三博士」の一人に数えられています。また、下総国の代官も勤めた幕府の役人でもあります。

岡田寒泉は、江戸牛込に1200石の旗本岡田善富の次男として生まれました。

通称清助といい、寒泉と号しました。寒泉という号は、自宅を寒泉坊といったことによるもので、それは、近くに冷水(ひやみず)の井という井戸があったことにちなむものだそうです。

武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学びました。また、淡斎の子村主玉水(すぐりぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学びました。

寛政元年(1789)に松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じました。50歳の時でした。

松平定信の寛政の改革の中で学政や教育の改革に当たり、共に改革を進めた柴野栗山、尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と呼ばれました。

寛政6年(1784)に下総の代官に転任しました。岡田寒泉が転任したため、その後任の古賀精里が岡田寒泉の代わりに寛政の三博士の一人に数えられるようなりました。

なお、藩の儒官であった頃の古賀精理自身の手紙に、「寛政の三博士」の呼称が使用されているので、岡田寒泉が最初の「寛政の三博士」の一人であることは明らかと「岡田寒泉」(重田定一著)に書かれています。

岡田寒泉が、代官として民政にあたったのは、常陸国内の182カ村でした。

それ以降14年間、代官として、荒廃の進む農村の立て直し,人口回復に尽力しました。

そのため、名代官の一人に挙げられていて、茨城県内には、つくばみらい市の板橋不動院や筑西市寺上野公民館など各地に岡田寒泉を顕彰する石碑が建てられています。

岡田寒泉は、当初父(または兄)の屋敷に同居していましたが、寛政2(1790)819日この地に幕府から屋敷を拝領し、自宅の隣地3286余の土地も与えられ、寒泉精舎(かんせんしょうしゃ)と名付けた家塾を開きました。

自宅部分は、明治以降、道路となりましたが、寒泉精舎のあった部分に新宿教育委員会設置の説明板があります。

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文化12 (1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖して土地を返上しました。

翌文化1389日、岡田寒泉は77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られました。

赤字が筑土八幡神社です。

青印が寒泉精舎跡の説明板の設置場所です。






by wheatbaku | 2020-02-10 17:54 | 新江戸百景めぐり
神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2)

神楽坂②(新江戸百景めぐり59-2

 神楽坂では、善非常に寺が有名ですが、その他にも見どころがあります。

 そこで、今日は神楽坂の続編として、光照寺、天文屋敷跡、行願寺跡についてご案内します。

 

 まず、光照寺ですが、光照寺は善國寺の西側にありますが、あまり知られていないように思います。

 善國寺を過ぎて最初の路地を左に曲がります。そこは地蔵坂という登り坂です。

 そこを登りきった左手に光照寺があります。

 下写真は門前の様子です。右手に寺標が建てられています。

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 この光照寺一帯は、戦国時代には牛込城があった場所です。

 当時の資料は残されてないため、詳細は不明ですが、城と言っても大規模なものではなく、住居を主体とした館程度のものであっただろうと推定されています。

 牛込城のあった場所は、牛込台地の南端にあたり、江戸城とは谷一つ隔てた場所です。(下写真は本堂脇に設置されている新宿教育委員会の説明版です)

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 ここの主であった牛込氏は、もともとは、上野国勢多郡大胡の領主大胡氏を祖先とした氏族です。大胡は赤城山の南麓にあります。

戦国時代の天文年間(153255)に大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。重行の子の勝行は姓を牛込氏と改めました。

しかし、北条氏が滅亡した後は、牛込勝重は、徳川家康に従いました。その際、牛込城は取り壊されました。

牛込城は、重行、勝行、勝重の三代の居館で、ここを拠点として、牛込、桜田、日比谷付近を領有していました。 

 牛込城の跡地に現在建っている光照寺は、浄土宗の寺です。下写真は本堂です。

慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開かれました。そして、牛込城の跡に、正保2(1645)に神田から移転してきたものです。

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出羽国松山藩主酒井家の墓所

光照寺境内の墓所の中に、ひときわ大きな墓碑群があります。

出羽国松山藩主酒井家の墓所です。

松山藩は譜代大名の名門であり徳川四天王の一人あった酒井忠次の子孫庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保4年(16472万石で創設された藩です。松山藩は、現在の山形県酒田市にありました。

光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があります。

酒井家の墓域はかなり広いのですが、東日本大震災の際に墓碑が緩んで倒れる危険があるため、一般の人は、入ることができません。

墓域の外からの撮影ですが、入り口正面には、初代の忠恒の立派な墓碑が建っています。下写真

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松山藩酒井家では、江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られました。

天文屋敷跡

 光照寺がある場所は、坂の上にあり、昔は、江戸湾に入ってくる船をみることができたそうです。

そのため、戦国時代に城が築かれたのでしょう。そうした見晴らしのよい地形を利用して、 幕府は、明和2(1765)、牛込藁店に天文屋敷が建てられました。

当時使用されていた宝暦暦は、京都の土御門家が中心になって作成した暦でしたが、不正確であったため、宝暦暦の修正のため、明和元年(1764)に佐々木文次郎を天文方に任命し、翌年、光照寺門前の火除地に「新暦調御用所」を設置しました。

ここでは天体観測も行われましたので、いってみれば天文台です。この天文屋敷があった場所が光照寺の門前です。

天文屋敷のあった場所は、以前は日本出版クラブがありましたが2018年に移転して、現在はマンションの新築工事中で2022年3月に竣工する予定です。

現在の目印は、新宿区の保護樹林となっているイチョウの木です。(下写真)

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ここでの観測を基に宝暦暦の修正が明和6年に終了しましたが、その後も、天体観測が続けられ、ここが最初の幕府天文台となりました。

しかし、光照寺の木立が茂って観測に不便だったため、天明2(1782)に浅草片町裏に移転しました。これが浅草天文台です。

行願寺跡

神楽坂の東には、行元寺という大きなお寺がありましたが、現在、行元寺は目黒に移転して、その跡地は、マンションや戸建て住宅となっています。

その中に、寺内公園があります。(下写真)

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そこにある説明板によると、行元寺が明治40年に移転した後は、その跡地は「寺内」と呼ばれたそうです。

この寺内公園だけが、行元寺の名残りを伝える唯一のものだろうと思われます。

この行元寺境内で、天明3年(1783年)冨吉という百姓が、父の仇を討ったという記録があります。

これが神楽坂の仇討とも行元寺の仇討とも呼ばれる仇討です。

下総国相馬郡早尾村の百姓冨吉が、親の仇である同じ村の百姓甚内を牛込神楽坂の行元寺境内でうったのでした。

この仇討は江戸中の評判となりました。そこで、時の住職は、太田南畝に依頼して、石碑を「念彼観音力 還著於本人」と刻んだ石碑を建てました。

現在、行願寺門は目黒に移転していますが、そこには、大田南畝ゆかりの石碑が、いまも残されています。

以前、このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は下記記事にとんでください。

行元寺の大田南畝の隠語碑

赤印が光照寺です。

青印が天文屋敷跡です。

緑印が寺内公園です。

オレンジ印が善國寺です






by wheatbaku | 2020-02-06 10:49 | 新江戸百景めぐり
牛込見付(新江戸百景めぐり58)

牛込見付(新江戸百景めぐり58

 

今日の新江戸百景めぐりは、前回の小石川後楽園の近くの牛込見付のご案内をします。
 「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では44ページの第5景で紹介されています。

私は、牛込門と呼んでいましたが、「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では「牛込見付」と呼んでいるので、ここでも「牛込見付」としておきます。

 現在は、牛込見付といっても、江戸好きの人はピンとくるかもしれませんが、一般の人はピンとくる人はあまり多くはないのでないかと思います。

 牛込見付は、江戸時代は、三十六見附の一つであり、上州方面への出口であるため、「上州口」とも言われました。

 牛込見付は、現在のJR飯田橋駅西口にありました。

 現在も、JR飯田橋駅西口に牛込見付の石垣が残されています。(下写真)

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ちなみに現在の飯田橋は、江戸時代にはありませんでした。当時は、外堀を越えるには牛込見付から渡っていました。

 牛込見付は田安台から牛込方面にでる門で、牛込門や牛込口とも呼ばれていました。

 牛込御門から市ヶ谷門にかけては、江戸時代には、堀の幅が100mもありましたが、現在では大分狭くなっています。

 別名で楓門とも言われますが、秋の紅葉は素晴らしかったそうです。

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駅西口にある飯田橋駅前交番の北側脇にも巨石が残されています。(上写真)

 牛込門は、寛永13年(1636)に枡形石塁が、そして寛永15年(1638)に門が、阿波徳島藩藩主蜂須賀忠英によって築かれています。 

 交番脇の巨石の左下隅に「阿波乃國」の刻印がされていて、阿波藩で築いたことを物語っています。下写真は刻印の部分を拡大したものです。巨石の一番下に左から右に「阿波乃國」と刻まれています。

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 外堀は、高低差があり、市ヶ谷寄りと小石川寄りで水位差があるため、土橋(土で作られた橋)で市ヶ谷方面の水を支え、小滝を設けて小石川方面に水を落としていました。


 土橋となっているため、牛込見付まで、船は入ってくることができましたが、これから先には上れませんでした。

【1月24日追記】浄瑠璃坂の仇討

牛込見付の土橋近くで起きた大事件が浄瑠璃坂の仇討です。

浄瑠璃坂の仇討ちは、江戸三大仇討ちの一つに数えられる仇討で寛文12年(167223日、江戸市ヶ谷の浄瑠璃坂で、奥平源八が父を殺害した奥平隼人を討ち果たした事件です。

事件の発端は、寛文8年(166832日、宇都宮の興禅寺で宇都宮藩前藩主奥平忠昌の二七日法要が行われ、法要後、奥平内蔵允と奥平隼人の2人の重臣が、諍(いさか)いを起し、激怒した奥平内蔵允が奥平隼人に向かって斬りかかりました。この時、奥平隼人は軽い傷ですみましたが、奥平内蔵允は奥平隼人から反撃され、大怪我をしました。奥平内蔵允の受けた傷は深手で、その傷がもとで亡くなりました。

2人の喧嘩に対して藩の処分が下され、奥平源八も奥平隼人も追放となりました。2人は、それぞれ宇都宮を離れ、奥平源八とそれを支持する人たちは、藩の処分に納得せず奥平隼人を討ち果たして仇を討とうということになりました。

宇都宮藩を追放された奥平隼人は、各地を転々として江戸に入り、最終的には市ヶ谷浄瑠璃坂上の鷹匠頭戸田七之助の屋敷へ身を隠しました。

そこに、寛文12年(167223日午前4時ごろ、身支度をととのえた奥平源八とその一党42名が奥平隼人の潜む戸田屋敷へ討ち入りました。

討入った時、奥平隼人は不在でしたが、激闘が展開されました。この戦いの中で多くの隼人の助太刀も討ち取られましたが、肝心な隼人が見つかりませんでした。いったん仇討ちを断念した討ち入りの一党が、屋敷から引き上げて浄瑠璃坂を下り、牛込土橋に近づいたところ、奥平隼人が、手勢を率いて追ってきました。そこで、奥平源八は、隼人と対決し、ついに隼人を討ち取りました。

この際に、奥平隼人は外堀に逃げこみ、それを追った奥平源八は、 堀の中で隼人を討ち取ったともいわれています。


赤印が牛込見付の石垣です。

青印が交番脇の巨石です。
緑印がJR飯田橋駅の西口です。





by wheatbaku | 2020-01-23 17:17 | 新江戸百景めぐり
小石川後楽園②(新江戸百景めぐり57-2)

小石川後楽園②(新江戸百景めぐり57-2

 今日は、小石川後楽園の2回目です。今日は、小石川後楽園の中の中国趣味の風景、そして藤田東湖と造兵廠の石碑についてご案内します。

 小石川後楽園に中国趣味があるのは、小石川後楽園を造営した水戸藩2代藩主徳川光圀が招聘した中国の明の遺臣朱舜水の影響があります。

そこで、まず朱舜水について書いていきます。

朱舜水は、中国の儒学者です。

 中国の明に時代に活躍していましたが、明朝が滅亡し清朝が成立すると、朱舜水は明朝再興のための運動に参加し、鎖国政策下の日本へ救援を求める使節として派遣されていました。

しかし、明朝復興のための戦いが思うように進まないため、復興を諦めて長崎へ亡命しました。

そして、水戸藩藩主の徳川光圀が朱舜水を招聘し、朱舜水は江戸に移住しました。

朱舜水が住んでいたのは、本郷の水戸藩中屋敷でした。

水戸藩中屋敷跡は、現在東京大学農学部となっていますが、東大農学部の正門近くには“朱舜水先生終焉之地”と記された碑が建てられています。

徳川光圀は、朱舜水から大きな影響を受けています。

後楽園と名付けたのも朱舜水であると言われています。

また、日本で初めてラーメンを食べたのは、徳川光圀であると有名な話がありますが、そのラーメンを献上したのは、朱舜水だったと言われています。

西湖の堤 
 西湖の堤は、前回紹介した渡月橋の近くにあります。この石堤は、中国の西湖(せいこ)の蘇堤を模したものです。

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西湖は、中国の名勝地で、当時の日本人のあこがれの的で、詩歌や絵画の題材とされていました。
 この西湖の堤は、光圀が朱瞬水の設計を取り入れて造ったものと言われています。
 円月橋とともに中国趣味の風景で、これ以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなったものです。現在、芝離宮恩賜庭園にも西湖の堤があます。

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円月橋 
 円月橋は、朱舜水の指図により、駒橋という石工が造ったものです。
 この橋は、中国の山水画にある橋柱のない橋です。

 橋柱がないため、橋が水に写った様が、満月のようであるので、円月橋と名づけられています。

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長さが約11メートル、幅約2メートル、中央部の高さが4メートルあります。アーチの半径は2.42メートルです。
 8代将軍吉宗が吹上御苑にこのような橋を作らせようとして、石工を後楽園に派遣させて研究させましたが、難しいと伝えたのであきらめたとの逸話もあるそうです。
 

「藤田東湖先生護母致命之処」の石碑

小石川後楽園の北東の隅に「藤田東湖先生護母致命之処」の碑が建っています。(下写真)

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 藤田東湖は、斉昭の側用人を勤めた人物で、戸田忠太夫とともに、徳川斉昭の腹心として、幕末の水戸藩を支え、水戸の両田と称されました。

号の「東湖」は生家が千波湖の東にあったことにちなむといいます。

父は水戸学者・藤田幽谷です。

徳川斉昭の藩主就任運動を進め、斉昭が藩主になると、側用人として藩政改革にあたり、斉昭の絶大な信用を得ました。しかし、斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚しました。

 その後、ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、再び斉昭を補佐することになり、安政元年(1854年)には側用人に復帰しました。

 しかし、翌年の安政2102日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去しまた。享年50歳でした。その亡くなった場所を示す石碑です、

  

東湖は地震発生時に一度は脱出したものの、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追って邸内に入りました。邸内に入ると梁が落下してきて、その梁から母親を守るために自らの肩で受け止めました。

東湖の母親は、東湖が受け止めたため、何とか母親は無事でしたが、東湖は下敷きとなって圧死したといわれています。

下写真は全体写真、正面の高い石碑が「藤田東湖先生護母致命之処」の碑です。

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藤田東湖が圧死した場所は、東京ドームの東側です。

この石碑は、もともと、昭和17年に建てられ、白山通りが拡幅された際に移転されたものです。

石碑の脇には、昭和54年に石碑を移した経緯を書いた石碑があります。(下写真)

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その石碑には次のように書いてあります。

安政2年(1855102日江戸を襲った大地震の際、水戸藩の碩学者藤田東湖は母を救わんとして臣死した。後世有志相謀り、文京区後楽1-3-40(旧水戸藩武家屋敷跡)東湖在住跡地へこの碑を建立したが、周辺は今や企業の所有に帰したるを以って特に碑を此処へ移して永久に東湖の譲母致命の所以を伝えんと欲するものである。

 昭和54年(19793月吉日 茨城県人会連合会

陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑

 小石川後楽園は、庭園のイメージが強いのですが、明治から昭和初期には、軍需工場でもありました。
 そのため、入口からは最奥部になる内庭に、「陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑」と刻まれた石碑があります。

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 水戸藩上屋敷には、明治4年に小銃などの兵器を造る造兵司が移されました。そして、明治12年、東京砲兵工廠と改称されました。

大正12年に造兵廠と改称された直後の関東大震災で甚大は被害を受けました。そして、昭和8年、小倉に移転され、その役目を終わりました。

この碑は、移転後2年の昭和10年に建立されたもので、碑の形は造兵廠の敷地の形状です

造兵廠の広さは13万坪あったそうです。
 東京ドームも、造兵廠の跡地に経っています。







by wheatbaku | 2020-01-20 18:39 | 新江戸百景めぐり
小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1)

小石川後楽園①(新江戸百景めぐり57-1

 昨年の秋に、神田上水のなごりの地を探して小石川後楽園に行き、神田上水の跡をこのブログでも紹介しました。

 小石川後楽園は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)でも84ページの第36景で出紹介されていますので、新江戸百景めぐりの一つとしてご案内します。

 

小石川後楽園の概要

小石川後楽園は、水戸藩徳川家の初代藩主の徳川頼房が、寛永6年(1629)に作り、2代藩主の徳川光圀が完成させた江戸期の代表的な大名庭園です。

 関東では、後楽園とは、この小石川後楽園を指しますが、岡山にも後楽園があることから、正しくは小石川後楽園と呼びます。

 もともと後楽園といっていたのは、ここの後楽園で、岡山の後楽園は、明治4年までは「御後園」と呼ばれていて、後楽園と呼ばれていなかったそうです。しかし、岡山の後楽園が、大正11年に、国の名勝に指定された時に「後楽園」とされました。小石川後楽園が名勝に指定されたのは大正12年でしたので、後楽園という名称を使えなかったため「小石川後楽園」と称したという経緯があります。

 後楽園という名前ですが、四文字熟語に「先憂後楽」という言葉ありますが、この「先憂後楽」から採られた名前です。

 「先憂後楽」というのは《范仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」に由来する言葉で、政治を行う者は、常に民衆に先立って国のことを心配し、民衆が楽しんだ後に自分が楽しむという国家に対する心がけを述べた言葉です。

 小石川後楽園は、池泉回遊式庭園で広さが約2万1千坪(70,847.17平方メートル)ですが、いくつかの特徴がありますが、「名所写し」と「中国趣味」も特徴の一つです。

名所写しというのは、日本各地の名所を取り入れていることです。

小石川後楽園には、滋賀の琵琶湖、京都の大堰川、渡月橋、清水寺、音羽の滝、木曾の寝覚めの床などが取りいれられています。

と中国様式の取り入れが行われていることです。

 また、2代光圀は朱舜水の意見を聞いて、中国の要素を取り入れられています。西湖(せいこ)の堤や円月橋がそれです。

 小石川後楽園は、見所がたくさんありますが、今日は、この名所写しの景色をご案内します。次回、『中国趣味』の景色をご案内します。


小廬山 
 庭園の入口の左手に「小廬山」があります。 

京都の清水寺一帯は、中国の名勝地「廬山」にちなみ小廬山と言われています。
 園内にある大堰川上流の景色が、京都の清水寺に似ていることから、寛永17年に林羅山が「小廬山」と名づけました。現在は、オカメザサに覆われている丘が小廬山と呼ばれています。

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渡月橋 
 渡月橋は園内の川の景の入口にあたる部分にあります。
 京都と同じように大堰川にかかっています。
 この写真の右手が大堰川で、左手前方には西湖があります。

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大堰川 
 大堰川の川幅はかなりあり、川の景の中心を占めています。
 京都の嵐山を模したものです。
 大堰川は、3代将軍家光の好みでつくられたとされています。家光自身が指揮をとったとも言われています。
 大堰川の上流は通天橋につながり、下流には渡月橋がかかっています。
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屏風岩 
 屏風のようにまっすぐ屹立していることから屏風岩と呼ばれている岩で、大堰川の川原に作られています。

この石組は、三尊石組といわれる工法で組まれたものです。

三尊石組とは、阿弥陀三尊や釈迦三尊を石組で表したもので、中央の大きな石が阿弥陀様やお釈迦様を表し、両脇の石が脇侍を表しています。

3代将軍家光は頼房とは年齢も近いこともあり、後楽園作庭中から何度も水戸家を訪ねて、徳大寺左兵衛に指示もしていたそうです。その際に、腰を掛けたといわれる御腰掛石も残されています。

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清水観音堂跡 
 京都の清水寺を模して造ったもので、崖下から柱を組み上げせり出していてすばらしい見晴らしだったと言われています。
 堂内には、室町時代の作と言われる如意輪観音が安置されていましたが、関東大震災により観音堂が焼失する直前に持ち出されて、現在東京都が管理しています。

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通天橋 
 清水観音堂跡を過ぎた場所で大堰川の上流部に架けられた橋が通天橋です。

京都の東福寺の「通天橋」は、紅葉の名所として有名ですが、この通天橋は、その京都の東福寺の「通天橋」にならって、大堰川に朱塗りの橋をかけたものです。
 紅葉の時は大変見事です。

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音羽の滝 
 通天橋のすぐ下にある石組みが音羽の滝です。

これも清水寺の音羽の滝を模したものです。

写真右手に「音羽の滝」の説明板です。

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愛宕山 
 小石川後楽園には愛宕山の写しもあります。山といっても石段です。 
 その石段は、京都の愛宕山の坂を模してつくられた石段ですので愛宕山と名づけられています。石段は47段もの石段となっていて、あまりにも勾配が急で昇り降りが危険ですので、通行できないようになっています。
 石段の上に八卦堂跡があります。

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一つ松 
 後楽園の中央に広がった大きな泉水は琵琶湖に見立てられています。

一つ松も近江の唐崎の一つ松を模したものと言われています。光圀はこの松を非常に大切にしたそうですが、この松はその時代のものではなく、何度か植え替えられた後の松です。

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蓬莱島 
 琵琶湖に見立てられた大泉水の中央にある島は蓬莱島と呼ばれています。
 蓬莱島は中国に古くからあった神仙思想に基づく島で、大名庭園には必ずといっていいほど出てきます。
 蓬莱島は亀の形をしているといわれていて、後楽園の蓬莱島も亀の形をしています。
 徳大寺石は、亀の頭の位置に据えられています。

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徳大寺石 
 蓬莱島の正面にある大きな石が、徳大寺石と呼ばれる有名な石です。
 水面上の高さが約3.5mあるそうです。
 頼房が満足する石組みにならなかったので、京都から徳大寺左兵衛を呼んで組ませたので、徳大寺石という名がついたと言われます。

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竹生島 
 大泉水は、琵琶湖を模したと言われていますので、大泉水の奥には竹生島の名所写しがあります。写真に写っている岩の数個の塊が竹生島と呼ばれています。
 小さな岩が大泉水の中に置かれていますので、注意していないと、気がつかずに見落とされてしまうかもしれません。

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寝覚の滝
 大泉水の南側奥の樹林の中に瀧があります。それが寝覚の滝です。

 木曾に目覚の床という名勝地がありますが、それを写した風景です。

 寝覚の滝を流れ落ちる水は内庭の泉水の水が流れでたものです。

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木曾山

寝覚めの滝を流れ落ちた川は木曽川とされています。

そして、木曽川に見立てられて川の周辺の林が木曽山です。

当初は棕櫚の木が多かったので棕櫚の林と呼ばれていたようです。

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竜田川

大泉水の南側に、細流が流れています。これが竜田川です。

大和の竜田川を写したものです。竜田川は紅葉の名所として有名です。そこで竜田川の脇には、楓の木が植えられています。下写真の右手が竜田川、左手が楓の林です。

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下写真が小石川後楽園全体の地図です。小石川後楽園で配布してくれます。


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by wheatbaku | 2020-01-16 15:19 | 新江戸百景めぐり
護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)

護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2

 今日は、新江戸百景めぐりの護国寺の2回目で、護国寺に眠る有名人をご案内します。護国寺には、大勢の有名人が眠っていますが、江戸時代の有名人はほとんど眠っていなくて、明治以降の有名人が眠っています。今日は、そうした有名人の中で特に有名な人のお墓をご案内します。


 護国寺でのお墓参りは、護国寺の本堂(観音堂)の中にある寺務所にお願いするとお墓の地図を無料で配布してくれますので、それを見ながらお参りするといいと思います。

 お墓は、本堂の東側と北側そして北西側に大きく広がっています。今日は南東側から北西側に順にご案内します。

安田善次郎

 安田善次郎は、安田財閥の創設者です。安田財閥は、現在は多くの企業が合併して名称が変わっていますが、昔の富士銀行、安田生命、安田火災などが主要企業です。

 安田善次郎の墓所は、本堂の南東側にあります。前回ご案内した鐘楼の東側にあります。

 周囲は塀で囲まれています。正面は下写真のように立派な門があります。 

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 周辺が塀で囲まれているため、中には入れません。
 下写真は、前面の扉の隙間から写したものです。
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 安田善次郎は富山県富山市の出身ですが、江戸に出て両替商で奉公しました。

 このころに、後で紹介する大倉財閥の創設者大倉喜八郎と知り合っています。

その後、独立し安田商店(のちの安田銀行)を開業し、金融業を中心に、業務を拡大し、安田財閥を育てあげました。

 ところで、安田善次郎がどのようになくなったか、ご存知ですか。

 実は、大磯の別荘で、右翼の人物に刺殺されているのです。安田善次郎は、世間的な寄付を好まなかったので誤解され殺されたといわれています。

しかし、実は多くの寄付を行う意向がありました。安田善次郎は、暗殺される前、東大の安田講堂の寄付を約束していました。また、日比谷公会堂も、安田善次郎が寄付すると生前約束していたものです。

この二つとも安田善次郎の死後に完成しました。

大隈重信

 大隈重信のお墓は本堂の北東に広い墓域を占めています。 

 墓所の前に鳥居があるので、よく目立ちます。 

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大隈重信は、早稲田大学の創設者として、あるいは総理大臣経験者として有名です。

 大隈重信は、肥前国の出身者です。肥前藩は、明治維新後は薩長土肥として有力な藩閥を形成しましたが、幕末の倒幕運動にはあまり大きな力を発揮しなかったようです。

 大隈重信も、倒幕運動の中では目立った実績はありませんが、明治新政府になってから頭角を発揮し、参議や大蔵卿を兼任し活躍しました。
 大久保利通が暗殺された後は、明治政府の中心人物となりました。しかし、明治14年、即時議会開設を主張したこともあって、薩長藩閥勢力に排斥され、10月参議を辞任しました。これはが「明治十四年の政変」と呼ばれる事件です。

政変後、政党結成を実行に移し、立憲改進党を結成してその総理となり、また東京専門学校(1902年早稲田大学と改称)を創立しました。

その後、第一次伊藤博文内閣で外務大臣に復帰し、条約改正に努力しましたが、そのさなか、爆弾を投げつけられました。幸い命は取りとめましたが右足を切断する重傷を負いました。

その後、2回、総理大臣を経験しています。

大隈重信は、早稲田大学を創立したように教育にも熱心で、同志社大学や日本女子大学の設立も支援をしています。

大正11110日胆石症で死去し、日比谷公園で国民葬が行われました。

 この時、早稲田の私邸から日比谷公園に向かう行列には早稲田大学関係者2万人が参加したといわれています。また、国民葬には10万人が参列し、行列は神田橋まで続いたそうです。そして、葬儀の後、葬列は護国寺に向かい、埋葬されました。

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松平治郷(はるさと) 

 大隈重信の墓所の北側に、出雲国松江藩主松平家の墓所があります。松江藩の幕末の石高は18万6千石ですが、18万石の墓所としてはあまり広くはありません。その松平家の墓所の入り口にの第7代藩主松平治郷の墓があります。

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 松平治郷は不昧(ふまい)と号したので、松平不昧のほうが有名かもしれません。松平治郷は、17歳で松江藩藩主となりました。それは、家老朝日丹波を中心とした御立派(おたては)の改革の中で擁立されました。改革は勧農抑商を基調として藩財政の立て直しをすすめ成功しましたが、朝日丹波が隠居した後に財政状況はふたたび悪化し、寛政8年(1796)からは治郷自身が親政した後、56歳で隠退しました。その後は、江戸品川の別邸大崎園に数々の茶室を営み風流三昧の生活を送りました。

 松平治郷は、お茶を将軍御数寄屋頭の伊佐幸琢(こうたく)にまなび、石州流不昧派を起こしました。藩財政の好転に伴い道具収集に乗り出し、江戸後期最大の収集者となり、収集した名物道具を分類整理して『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)18巻を著しています。

三条実美

 三条実美の墓所は、本堂の北側にあります。三条実美のお墓の前にも鳥居があります。

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三条実美は、幕末には、攘夷派の若手公卿として活躍しましたが、8月18日の政変で京都を追われて長州に下ったのち、長州征伐で大宰府に移りました。
 王政復古により京都に戻ることが許され、明治新政府では、太政大臣となり明治政府の最高官となりました。
 その後、明治18年内閣制度が発足した際に内大臣となりました。

最初の総理大臣は伊藤博文ですが、この際、三条実美も有力候補者でした。

しかし、総理大臣を選ぶ会議で、英語がわかる人物ということから、伊藤博文が総理大臣ときまった逸話があるそうです。

明治24年(1891年)に55歳でなくなり、護国寺に埋葬されました。

三条実美の墓所の入り口には大きな神道碑があります。この神道碑は国家に功績のあった人物を顕彰するために建てられた碑で、その人物の墓所参道に建てられました。

三条実美のほかに、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、島津久光、大原重徳などの神道碑が明治天皇の命令により建てられました。

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山県有朋

 本堂の北側には多くの人が眠っています。その中に山県有朋の墓所もあります。

 山県有朋の墓所も塀で囲まれていて、入口は鍵がかかっているため中に入ることができません。また、お墓が入口の正面にないため、お墓を正面から撮ることはできません。下写真は墓所の脇から撮影したものです。奥が山県有朋のお墓です。

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山県有朋は、長州出身の政治家・軍人です。松下村塾(しょうかそんじゅく)に学ぶ。長州藩倒幕派に加わり、高杉晋作がつくった奇兵隊軍監として活躍しました。

 明治新政府では、徴兵制を実現し参謀本部を設置し初代参謀本部長になるなど近代軍制の基礎を築きました。

 政治家として、2回総理大臣を務め、伊藤博文が暗殺された後は、政界・軍部・官界に絶大な影響力を発揮しました。

 しかし、最晩年は宮中某重大事件を引き起こし、大正1121日失意のうちに没し、国葬が行われました。

 この直前に行われた大隈重信の葬儀には多くの国民が参列しましたが、山県有朋の国葬には、軍人中心に1000人程度が参列するという状況だったそうです。

築庭・造園に趣味をもち、目白の椿山荘は、山県有朋の別荘でした。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園も山県有朋に関係する庭園です。


大倉喜八郎

大倉喜八郎は大倉財閥の創設者です。大倉喜八郎の墓所は、山県有朋の墓所に行く手前にあります。下写真の東側が大倉喜八郎のお墓です。右は夫人のお墓です。

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大倉喜八郎は、新潟県新発田の名主の家に生まれ、江戸に出て、かつお節店の店員となった後、独立し銃砲店を開業し、幕末、維新の動乱に乗じて販売を拡大しました。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文は新政府軍、幕府軍の双方から注文がありました。新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、官軍に鉄砲を売っていたことで、彰義隊に連行されましたが、「官軍は現金払いなので売った」と説明し解放されたというエピソードがあります。

明治維新後は欧米視察のうえ、明治6年、大倉組商会を設立して貿易および用達事業に乗り出し、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥となりました。

とくに中国大陸への事業進出に積極的で、中国軍閥との関係も深かいものがありました。
 ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅後に建てられたものです。

ホテルオークラに隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。また、東京経済大学は大倉喜八郎が作った大倉高等商業学校が発展したものです。

 昭和3年に大腸がんのため永眠しました。享年92歳でした。

山田顕義
 本堂の西北に大きな墓所があります。山田顕義の墓所です。
 きれいに整備されている明るい墓所です。

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 山田顕義は、長州藩士の長男として生まれ、吉田松陰)の松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加し、、蛤御門の戦いや四国連合艦隊との戦いに参加しています。戊辰戦争の箱館五稜郭の戦いでは、海軍参謀として榎本武揚軍と戦いました。
 明治維新後、陸軍少将となり、岩倉具視の遣欧使節に随行しフランスはじめ各国の兵制を調査し、帰国して東京鎮台司令長官となりました。佐賀の乱征圧のため九州に出征し、西南戦争には別働第二旅団長として出征し、戦後、陸軍中将に昇進しました。
 第一次伊藤博文内閣に司法大臣として入閣し、以後第一次松方正義内閣まで4内閣に司法大臣として留任、条約改正の前提として法典編纂にあたりました。
 山田顕義は、日本大学の創設者でもあります。日本大学は、山田顕義が司法大臣の時に開設した日本法律学校を起源とした大学です。
 神道の擁護にも熱心で、有栖川宮幟仁(たかひと)親王を初代総裁とする皇典講究所の初代所長に就任し、国学院(國學院大学の前身)を創設しました。
 なお、1891年に起きた大津事件では、担当大臣として大逆罪を適用するよう大審院の裁判に圧力をかけたことでも有名です。
護国寺② 護国寺に眠る有名人(新江戸百景めぐり56-2)_c0187004_15262536.jpg
 護国寺には、このほか、島津家、南部家、ジョサイア・コンドル、益田鈍翁、団琢磨などのお墓があり、それぞれお参りしましたが、長くなるので、このあたりで一区切りさせてもらいます。




by wheatbaku | 2020-01-13 14:50 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)
護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)

 2020年のお正月も松飾りもとれてビジネスマンも仕事を本格的に始める時期です。

 このブログでも、昨年からシリーズで書いている「新江戸百景めぐり」を順に書いていきたいと思います。

 今日は、護国寺について書いていきます。護国寺は昨秋に訪ねていますが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では95ページの第47景で紹介されています。

 下写真は、正面からみた観音堂(本堂)です。

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護国寺の歴史

護国寺は、奈良の長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の大本山で、正式には神齢山悉地院護国寺(しんれいざんしっちいんごこくじ)といいます。

天和元年(1681)、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の発願により創建されました。

 桂昌院は、上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢に深く帰依しました。

亮賢は、大和国長谷寺で修業した僧で、当時、霊験ある祈祷僧として有名でした。

そこで、桂昌院が懐妊したとき、亮賢に占ってもらうと「この子は将来、天下を治める器である」とのことでした。喜んだ桂昌院は亮賢に安産祈祷を命じます。こうして無事に生まれた子が、のちの綱吉です。

この後、亮賢は護持僧として桂昌院に仕えるようになりました。

 綱吉が将軍になった翌年の天和元年(1681)に、桂昌院の願いにより、亮賢を開山に招いて将軍家が所有していた高田薬園の地に創建されたのが護国寺です。

護国寺は、桂昌院の信仰する念持仏「天然琥珀如意輪観世音菩薩」をご本尊として、当初は将軍家の私的な祈願寺として建立されました。創建当初の寺領は300石でした。

 天和3年2月、桂昌院は初めて護国寺に参詣し、元禄3年(1690)11月には将軍綱吉が訪れます。その後、元禄7年には綱吉・桂昌院が一緒に護国寺に参詣し、寺領は加増されて600石になりました。

 桂昌院の護国寺への参詣は年2回が定例になり、生涯で15回参詣していて、そのうちの4回は、将軍綱吉も桂昌院と一緒に参詣しています。

 護国寺には、江戸時代の建築物が数多く残されていますので、それらを中心に重要な建物を順にご紹介します。

仁王門

 仁王門は、不忍通りに面して建っています。切妻造り、丹塗りの八脚門で、桁行は11.5m、梁間6m、軒高5m、棟高5mあります。建立は、元禄10年に造営された観音堂(現本堂)よりやや時代を下ると考えられているようです。

正面両脇間には金剛力士像(向かって右に阿形、左に吽形)が、門の裏側両脇には仏法を守る仏像である二天像(増長天、広目天)が安置されています。

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惣門

 仁王門は地下鉄の出口のそばにあるため、護国寺の門というと仁王門のほうが目立ってしまいますが、仁王門の東側に立派な門があります。これが惣門です。

 惣門は、将軍綱吉あるいは桂昌院の御成のために造られた御成門です。5万石以上の大名の格式で造られたものです。大名屋敷の門で現存しているものは、大部分が江戸時代後期のものなので、元禄年間のものは非常に貴重なものとして文京区の有形文化財に指定されています。

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不老門 

 不老門は、仁王門をくぐってまっすぐ本堂(観音堂)へとつづく石段の中腹にあ り、中門の役割を果たしています。昭和13年4月に三尾邦三氏の寄進により建立されたもので、護国寺境内では比較的新しい建物です。

鶴は千年、亀は万年といわれように、この門をくぐれば病気にならず、長寿の願いが叶うといわれる門で、形式は天狗や牛若丸で有名な鞍馬山の山門を模しものだそうです。正面に高く掲げられている「不老」の二字は徳川家達公のご執筆です。

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石段の下の左右には水舎があり、ここには桂昌院により寄進された手水水盤が置かれています。この手水水盤は、元禄10年(1678)に製作されたと考えられています。

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元禄年間奉納の銅灯籠

 不老門をくぐり、本堂に向かう石段を登ると両側に銅灯籠があります。

 下写真は右側の銅灯籠です。

 よくみると谷村藩主秋元喬朝が元禄10年に寄進したと刻まれています。

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大師堂

 本堂手前東側の一段低くなった場所に大師堂があります。大師堂は、元禄14年(1701)に再建された旧薬師堂を、大正15年(1926)以降に修理して、現在地に移築して大師堂としたものです。擬宝珠(ぎぼし)には宝永2(1705)、正面前方の石灯籠には寛政2年(1790)の銘があります。

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鐘楼

 本堂の右手手前には鐘楼があります。鐘楼形式のなかでも格式の高い袴腰付重層 入母屋造りという形式で造られていて、江戸時代中期の建立とのことです。

袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げでできています。天保7年(1836)刊行の『江戸名所図会』に描かれていて、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼は天保期から存在していたことになります。

 鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので、現在は本堂内部の南西隅に吊るされています。銘文には、徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられているそうです。本堂隅にありますので、見落とさないように気をつけ

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てください。

月光殿        

 月光殿は、もと大津三井寺の塔頭日光院の客殿を移築したもので、国指定重要文化財です。

桃山時代の建立で、織田信長の時代に大修理を行なっています。

桃山期の書院風建築の代表的なもので、床の間の壁画は狩野永徳の筆と伝えられ、水墨で蘭亭曲水の図が描かれています。ほかの襖絵は狩野派の絵師による花鳥図が描かれていたそうですが、現在は原美術館が所蔵しています。

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観音堂(本堂)

 現在の観音堂は、元禄10年(1697)に、半年余りの工期をかけて完成しまし た。

当初の観音堂は、天和2年(1682)に建てられたもので、36坪という小規模な建物でした。

元禄10年に建て替えられた観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物で、十四間十一間半(広さ161坪)の規模を誇ります。ちなみに、この観音堂の材木は紀伊国屋文左衛門が調達したものだそうです。

 観音堂は幸いにも関東大震災や戦災を免れて、元禄時代の姿を今に留めており、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。元禄時代の大建築物が東京に残っていることに驚かされるとともに、都内とは思えないような光景に心を打たれます。

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☆如意輪観世音菩薩像

護国寺のご本尊様は、桂昌院の念持仏だった天然琥珀製の六寸五分の如意輪観世音菩薩像です。この琥珀製の観音像は、元禄13年(1700)に秘仏本尊として奥ノ院に移されました。

そして、新たに平安時代の恵信僧都作と伝えられる木製の如意輪観世音菩薩像が祀られました。

木製の新しい観音像は、大老堀田正俊の母堀田栄隆尼により寄進された五尺六寸の六臂の観音様で、毎月18日の御縁日だけに開帳されます。

今回、観音像の写真撮影を護国寺様にお願いしましたところ、護国寺様が撮影された写真の転載をお許しいただけました。右の写真は護国寺様のHPから転載させていただいたものです。

☆『悉地院 (しっちいん)』の篇額

本堂内陣の上に、徳川綱吉直筆の『悉地院(しっちいん)』の篇額が掲げられています。これは、観音堂造営の記念として奉納された横3尺5寸、縦7尺の檜の板に刻まれたものです。綱吉直筆の額が残されていることに驚きました。

なお、本堂内は撮影禁止ですが、以前に護国寺様の特別のご配慮によりご許可いただいた上で写真撮影させていただいた時の写真を掲載させていただきました。

護国寺①(新江戸百景めぐり56-1)_c0187004_18514018.jpg
赤印が護国寺の仁王門です。
青印が護国寺の惣門です。仁王門の東側にあります。
緑印が本堂(観音堂)です。









by wheatbaku | 2020-01-09 18:40 | 新江戸百景めぐり
  

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