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池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3)

池上本門寺その3(新江戸百景めぐり㊾-3

池上本門寺の3回目になりますが、今日は、奥絵師の狩野探幽や加藤清正供養塔など有名なお墓のほか、あまり有名ではないものの注目すべき人物のお墓を案内します

 

狩野探幽の墓

狩野探幽の墓は、多宝等の南西部にあります。

記念碑のような縦長のお墓と瓢箪形をしたもの2つのお墓が並んでいます。(下写真)

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 狩野探幽は、江戸時代初期の狩野派の絵師で、有名な狩野永徳の孫です。父の狩野孝信と一緒に慶長19年(1614)江戸へ下向し、幕府の奥絵師として、二条城障壁画制作などに大活躍しました。鍛冶橋門外に1000坪余の屋敷と215石を拝領し、鍛冶橋狩野家の祖となりました。

瓢箪形のお墓は、元々、目黒区の永隆寺にあった分骨墓で昭和11年に改葬されたものです。瓢箪形の墓には「玄徳院殿前法眼守信日道」と刻まれています。

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 なお、狩野探幽について、興味深いことを知りましたので、ここで書いておきます。

 狩野探幽の母は、戦国武将佐々成政の娘養秀院だとされています。この養秀院の姉岳星院は五摂家の一つ鷹司信房に嫁いでいます。鷹司信房の娘孝子が将軍家光の正室となっていることは前回ブログに書きましたが、家光の正室となった孝子と狩野探幽とは従兄妹ということになります。また、将軍家光と狩野探幽は義理の従兄弟ということになります。思いがけない関係に驚きました。

狩野孝信の墓

 狩野孝信は、狩野探幽の父です。狩野孝信のお墓は多宝塔の南東にあります。狩野探幽のお墓とは少し離れています。

 孝信のお墓には、法名慈父圓大院考信日養霊と刻まれています。

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 狩野孝信は狩野永徳の次男として生まれました。しかし長男光信が若くして亡くなり、さらに光信の長男貞信も若くしてなくなったため、孝信が狩野派の中心となって活躍しました。

 孝信の長男探幽は鍛治橋狩野家となり、次男尚信が木挽町狩野家を興しました。三男安信は、狩野派宗家を相続し中橋狩野家を興しました。さらに、次男尚信の孫岑信が浜町狩野家を起こしています。

 下写真の一番右のお墓が狩野孝信です。真ん中が、若くして亡くなった狩野貞信(本来の狩野派宗家を継ぐはずであった人物)、そして一番左が、木挽町狩野家を興した狩野尚信の墓です。

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加藤清正家供養塔

 霊宝殿の裏側(西側)に、加藤清正の供養塔があります。

この供養塔は、加藤清正の娘で、紀州徳川家の初代藩主徳川頼宜の正室である瑤林院が、慶長16年(1611)に亡くなった加藤清正の供養のために満38年目の忌日に当る慶安2年(1649)に建立したものです。

表面に加藤清正の法名「浄池院殿永運日乗」が刻まれています。

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加藤清正正室の逆修供養塔

加藤清正の正室正応院が建てた逆修供養塔は、五重塔に向かう参道の北側にあります。

 加藤清正の正室正応院は、清正の嫡男忠広の母です。

加藤忠弘は、11歳で家督を相続しましたが、いわゆる「牛方馬方騒動」と呼ばれる御家騒動が起きるなど藩政が混乱しました。そして、寛永9年(1632)には、加藤家は改易されてしまいます。加藤忠広の改易は、3代将軍家光の日光社参のおりに、老中土井利勝を首謀者として家光暗殺を計画するという内容の密書を、忠広の子供光広が発したとされることに基づくというもので、秀忠死去後の大名の動向をうかがうために企てられた可能性がある事件とも言われています。

正応院は、改易後、忠弘と一緒に出羽国丸岡に移り、慶安3年(1650)に亡くなっています。

この供養塔は正応院が、寛永3年(1626)に建てられたもので、生前に建てられた逆修供養塔です。

逆修供養塔といのは生前に自分の供養のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るために建立される供養塔をいいます。

元は11層でしたが、3層が失われ8層になっています。

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前田利家側室の逆修供養塔

加藤清正正室の逆修供養塔の手前に「前田利家室層塔」があります。

これは、前田利家の側室寿福院が生前に自身のために建てた逆修供養塔です。

寿福院は前田利家の側室で、加賀藩3代藩主前田利常の生母です。

元々、寿福院は利家の正室芳春院(お松)付の侍女でしたが、利家の側室となり3代利常を生みました。

関ヶ原の戦いが起こる前年に、前田利家亡き後、金沢城主となった前田利長の謀反が疑われ、実母の芳春院が人質として江戸に送られました。芳春院は15年間、人質として江戸で暮らした後、金沢に戻ります。この芳春院の替わりに人質として送られたのが寿福院でした。

寿福院が生前に死後の冥福を祈り造ったのが11層塔です。現在は五層のみが残されています。

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円光院(米沢藩主上杉綱憲正室)の墓

 五重塔の北側すぐ近くに、紀州徳川家2代藩主徳川光貞の次女で、米沢藩上杉家4代藩主綱憲の正室であった円光院のお墓があります。

 表面に「円光院殿日仙榮寿大姉」と刻まれています。

 上杉綱憲は、赤穂事件で有名な吉良上野介の実子で、米沢藩 代藩主上杉綱勝の養子となりました。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には、赤穂浪士を追いかけようとして家老に留められる場面で有名です。宝永元年(1703)になくなった上杉綱憲のあとを追うように宝永2年(1704)に亡くなっています。

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by wheatbaku | 2019-11-15 18:02 | 新江戸百景めぐり
池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2)

池上本門寺その2(新江戸百景めぐり㊾-2

池上本門寺の2回目ですが、今日は、池上本門寺に眠る有名人をご案内したいと思います。

 池上本門寺は、大名家、絵師など多くの有名人が眠っています。そのため、それらをすべてお参りするには、多くの時間が必要です。先日、お参りした際は、江戸時代の大名家のお墓を中心にお参りしましたが、英一蝶など、時間がなくてついにお参りすることができませんでした。また、日をあらためてお参りしようと思っています。

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 多くの有名人が眠っている中で、特に目立つのが紀州徳川家関係のお墓です。

 前回ご案内した、多宝塔(上写真)の北側は斜面となっていますが、その中段に紀州徳川家のお墓がまとまってあります。

 下写真の最も右から養珠院(ようじゅいん)、妙操院(みょうそういん)、天真院(てんしんいん)、瑤林院(ようりんいん)のお墓です。 そのお墓の順にご案内します。

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養珠院(ようじゅいん)

 養珠院は徳川家康の側室で紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の母です。名は万(まん)といいます。御三家の一つ水戸徳川家初代藩主徳川頼房の母でもあります。

 お万の方は上総国勝浦城主・正木頼忠の娘として生まれました。慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となりました。

万は慶長7年(1602年)に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌慶長8年に鶴千代(後の徳川頼房)を生みました。

慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長14年(1609年)には、駿河・遠江50万石に移り、元和5年(1619)、紀伊和歌山55万5千石に封じされました。

なお、鶴千代(徳川頼房)は慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が与えら、慶長14年水戸25万石に移封されました。

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妙操院(みょうそういん)

妙操院は、11代将軍徳川家斉の側室で、名は登勢といいました。

子どもが13女あり、男子が徳川治寶の養子となり、11代藩主となった徳川斉順です。

斉順の子供慶福が14代将軍となる徳川家茂ですので、妙操院は家茂のお祖母さんということになります。

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天真院(てんしんいん) 

天真院は、紀州藩第2代藩主・徳川光貞の正室です。
 伏見宮貞清親王の王女として生まれました。名は照子といいます。
 4代将軍徳川家綱の正室である顕子女王は妹です。また、8代将軍・徳川吉宗の正室である理子女王は、姪となります。

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瑤林院(ようりんいん) 

 瑤林院は、徳川頼宣の正室です。瑤林院は、加藤清正の娘で、名は八十姫(やそひめ)といいました。元和3年(161717歳の時に、肥後より駿府藩主徳川頼宣に輿入れしました。

 瑤林院は、池上本門寺に加藤清正供養塔を寄進しています。

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寛徳院(かんとくいん)

寛徳院は、第8代将軍となる徳川吉宗が紀州藩主だった頃の正室です。

寛徳院のお墓は、瑤林院のお墓の北側にあります。

寛徳院は、伏見宮貞致(さだゆき)親王の娘です。名は理子(まさこ)といいます。宝永3年(1706)に吉宗と結婚し、4年後の宝永7年(1710)死去しました。ちなみに吉宗が将軍に就いたのは享保元年(1716)です。

2代藩主徳川光貞の正室の照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の正室顕子女王は叔母、

9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の正室増子女王は姪に当たります。法名は寛徳院玄真日中大姉です。

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松寿院

養珠院のお墓の近くに、松寿院のお墓があります。
松寿院は、徳川頼宣の娘松姫で、上野国吉井藩の祖松平信平の正室です。

松平信平は、関白鷹司信房の4男で、徳川家光の正室孝子(本理院)の弟でした。鷹司家は、五摂家の一つですが、信平は京都にとどまらず、家光の正室として江戸に下向した姉の孝子(本理院)を頼って、江戸に下りました。

そして、家光に愛され、徳川頼宜の娘松姫を正室として娶り、松平の称号をゆるされ、鷹司松平家と呼ばれるようになり、孫の代には、上野国に吉井藩を起こしました。

松平信平のことは、昔から知っていましたが、その正室のお墓にお参りできて、新たな収穫となりました。

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 以上が多宝塔の背後にある紀州徳川家のお墓ですが、このほか、徳川吉宗の側室二人のお墓が、五重塔の北側にもありますので、二人のお墓をご案内します。

深徳院(しんとくいん)

 深徳院は、八代将軍徳川吉宗の側室で、9代将軍徳川家重の生母です。お須磨(おすま)の方とよばれました。

 徳川吉宗の側室となったのは、吉宗が将軍となる享保元年(1716)より以前のことで、家重を出産したのは正徳元年(1711)でした。その後、再び懐妊しましたが、難産のため母子ともに 正徳3年(1713)に亡くなりました。享年26才、法名は深徳院妙順日喜大姉です。

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本徳院(ほんとくいん)

本徳院は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の側室で、御三卿の田安宗武の生母です。お古牟(こん)の方と呼ばれました。

正徳5年(1715)に田安宗武)を出産しました。翌享保元年(1716年)、吉宗は将軍となり、お古牟の方も吉宗とともに江戸城大奥に入りました。

しかし、享保8年(1723221日、28歳でなくなり、池上本門寺に埋葬さました。法名は本徳院妙亮日秀大姉です。

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 このほかに有名人のお墓がありますが、長くなりましたので、今日は紀州徳川家関係者のお墓だけの案内とします。
 狩野探幽のお墓などは次回にご案内します。

赤印が紀州徳川家の墓所です。それぞれのお墓は省略します。
ピンク印が多宝塔ですので、多宝塔の背後に紀州徳川家の墓所があります。
オレンジ印が五重塔です。
青印が深徳院のお墓です。
緑印が本徳院のお墓で、深徳院の北側で少し離れた場所にあります。








by wheatbaku | 2019-11-12 21:39 | 新江戸百景めぐり
池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1)

池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1

 江戸検が終わりましたが、新江戸百景めぐりは、まだ途中ですので、引き続き「新江戸百景めぐり」(小学館刊)で紹介されている寺社等をご案内していきます。

 再開の初めに、前回の記事で、総門の扁額の筆跡で江戸検受検者を悩ませた池上本門寺をご案内します。

 池上本門寺は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、145ページの第82景で紹介されています。

 池上本門寺は、非常に見どころの多いお寺ですので、訪ねるときには、十分余裕を持っていくとよいと思います。私は2時間かけて回りましたが、見どころすべてを見ることができませんでした。

 そんなに見どころの多い池上本門寺ですので、2回に分けてご案内します。初回は、建造物をご案内していきます。
 下写真は本堂です。

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 池上本門寺は、東急池上線の池上駅から徒歩10分の場所にあります。池上駅からは一本道ではありませんので、池上駅を下りたら道順をよく確認してから出発することをお勧めします。

池上本門寺は、正式には長栄山本門寺といいます。その山号の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けたものです。

池上本門寺は、日蓮聖人が今から鎌倉時代後期の弘安5年(1282)10月13日に亡くなった場所に建てられた寺院です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かう途中、武蔵国池上の豪族池上宗仲の館で亡くなりました。

そして大檀越の池上宗仲が、日蓮聖人が亡くなった後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し、それ以来「池上本門寺」と呼ばれています。

池上本門寺は、昭和20年4月15日の空襲で多くの建物が焼失していますが、奇跡的に総門・経堂・五重塔・多宝塔などが炎上を免れて、現在も昔の姿を留めています。下写真は総門です。

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総門

総門は、池上本門寺にお参りする際に最初に通る門で、元禄年間に建立されたと伝えられていて、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない建物です。

 総門の扁額「本門寺」は、前回書いたように寛永の御三筆の一人である本阿弥光悦の筆によるものです。ちなみに、この扁額は門が建てられた時期より古く、寛永4年(1627)に書かれたものだそうです。

現在本物は、霊宝殿に所蔵されていて、総門に掲げれられているものは複製です。(下写真が現在の扁額です)

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 本阿弥光悦の扁額は、下記池上本門寺のホームページの境内案内のうちの総門をクリックするとみることができます。
 池上本門寺 ウェブサイト
 上記をクリックすると池上本門寺のトップページにとびます。トップページの最上段の「知る」の中に境内案内の項目があります。
 総門の柱等がきれいですが、平成30年9月に建造当初の姿に復刻・改修されたものです。

此経難持坂 (しきょうなんじざか)

 総門を入ると正面に急な坂が見えてきます。この坂が此経難持坂(しきょうなんじざか)です。 

この坂は、加藤清正が寄進したものです。加藤清正は、熱心な法華信者でした。加藤清正は、母の第7回忌にあたる慶長11年(1606)、追善供養のため、祖師堂を建立寄進していることから、その時に築造されたものと考えられています。

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仁王門

 仁王門は、昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、仁王門は昭和52年に再建されました。

旧仁王門は、慶長13年(1608)に2代将軍秀忠が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。

旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦が書いたもので関東三額の一つであった、そうです。

現在の扁額「長栄山」の「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてあるそうです。

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大堂(だいどう)

 大堂は、日蓮聖人をお祀りする建物です。旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい、昭和39年に再建されたもので鉄筋コンクリート造りの建物です。

旧大堂は、慶長11年(1606)、熱心な法華信者として有名な加藤清正が、母の七回忌追善供養のために建立したもので、間口25間の堂々たる建築で、加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝わっています。

その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して、上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだといいます。

また、旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆であったそうです。

その祖師堂は、宝永7年(1710)に焼失し、享保8年(1723)、8代将軍吉宗の用材寄進で、大岡越前守を普請奉行として、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されましたが、旧祖師堂は、昭和20年4月15日の戦災で焼失しました。

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経蔵

 大堂の左手(西側)に経堂があります。

 現在の経堂は、天明4年(1784)に建立されましたが、それ以前に2回建立されていたようです。

この経堂は、昭和20年4月15日の空襲の際に焼失を免れました。

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本殿

本殿は、大堂の北側にあります。

昭和20年4月15日の空襲で焼失した釈迦堂を再建したのが本殿です。元々、祖師堂の左隣にありましたが、再建にあたって境内の奥の方へ移されました。

 正面内陣にある釈迦仏の胎内には、インドのガンジー伝来で故ネール首相より寄贈された釈尊の真舎利2粒が奉安されているそうです。

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日蓮聖人御廟所

境内の最も奥にあるのが日蓮聖人御廟所です。日蓮聖人の遺灰と御骨を奉安しているお堂です。かつては昭和6年に建てられた御真骨堂がありましたが、昭和20年4月15日の空襲で焼失し、昭和54年に再建されました。

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多宝塔

 大堂から西に下る大坊坂と下る途中に北側に大きく見えてくるのが多宝塔です。

 この多宝塔は、日蓮聖人の尊骸を荼毘に付した蹟に建つ供養塔です。

日蓮聖人の550遠忌を期に、文政11年(1828)に上棟、文政13年(天保元年)に開堂供養されています。

石造りの基壇の上に木造宝塔が建っています。総高17・5メートルあり、漆や彩色によって華やかな装飾が施されている堂々たる多宝塔です。

国の重要文化財に登録されています。

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五重塔

五重塔は、仁王門をくぐると右手に見えますので、すぐわかります。
 関東には、幕末以前の五重塔が4基ありますが、この塔は、慶長12年(1607)に建立された一番古い塔です。

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文禄2年(1593)に、徳川秀忠が疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。その時、熱心な法華信者であった乳母岡部局(のち正心院)が、大奥より池上本門寺に日参し、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」とひたすら祈った甲斐あって、秀忠は快癒しました。

秀忠が将軍となった後、慶長12年(1607)に、その御礼と武運長久を祈って、五重塔が建立されました。

当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられましたが、建立直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉の命で現在地へ移築、修復されたといいます



by wheatbaku | 2019-11-07 20:59 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4(新江戸百景めぐり番外④)

江戸検お題問題解説その4は、16問から20問まで解説します。

これまでの問題は、すべてお題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下お題テキストといいます。)から正解がわかる問題でしたが、今日解説する18問だけはお題テキストを読んだだけではわかりませんので、苦労された方も多いだろうと思います。

16】次にあげるのは、徳川将軍家ゆかりの寺とその説明です。正しいものはどれでしょう?

 い)寛永寺には、秀忠ら6人の将軍が葬られている

 ろ)護国寺には、家光が寄進した惣門が現存している

 は)伝通院には。家康の生母・於大の方の墓所がある

 に)鵬祥院は、秀忠の娘・千姫の発願で創建された

これらは、すべて、お題テキストに関連することが書かれています。

い)お題テキストの96ページは寛永寺についてですが、寛永寺には6人の将軍が埋葬されていますが、秀忠は増上寺に埋葬されていますので、これは間違いです。

 ろ)お題テキストの95ページは護国寺について書いてあります。 この中で、護国寺の惣門は、綱吉と母桂昌院の御成りのためにつくられた門だと書かれています。従って、ろ)は間違っています。

は)お題テキストの94ページに伝通院について書いてあり、問題文は正しいので、これが正解です。

に)お題テキストの94ページに麟祥院について書いてありますが、麟祥院は春日局が創建したお寺ですので、これも間違いです。

 

17】徳川家の祈願所だった穴八幡宮で行なわれる行事で、8代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のために奉納したことに始まるものは何でしょう? 現在は、近くの戸山公園に場所を移して行なわれています。

 い)獅子舞    ろ)薪能  
 は)梯子乗り   に)流鏑馬

 これもお題テキストの90ページに書かれています。に)の流鏑馬が正解です。

18】池上本門寺は日蓮聖人終鷲の地に建てられた日蓮宗の名刹です。江戸時代には、庶民の信仰を集めるとともに、幕府や諸大名の寄進も多く、格式を誇りました。元禄期(16881704)の建立と伝えられる総門の扁報は、著名な文化人の筆跡ですが、それは誰でしょう?

 い)狩野探幽   ろ)松花堂昭乗 
 は)本阿弥光悦  に)三井親和

 この問題は、お題テキストを読んでいただけでは正解が分らないので難しかっただろうと思います。

 この正解は、は)の本阿弥光悦です。

 池上本門寺の公式ホームページに書かれていますし、扁額の写真も載っていますので、ホームページで確認してください。

 下写真が、現在の本門寺の惣門ですが、本阿弥光悦の扁額は、霊宝殿に所蔵されていて、惣門に掲げられているものは複製です。

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 このことを知らなくて、どう正解を導くかですが、そのヒントを書いておきます。

 まず、い)狩野探幽 は、絵師ですので、これはないだろうということになります。次いで、に)三井親和は、元禄年間に生まれ、江戸時代中期に活躍した人ですので、この人もないだろうということになります。ここまでは、『江戸博覧強記』に書いてあるレベルの知識でわかると思います。

 そこで、残るのは二つです。松花堂昭乗も本阿弥光悦も寛永の三筆の一人で、この二人が候補となります。

そこで、どちらかということになりますが、これからは、松花堂昭乗と本阿弥光悦に関する知識がどれだけあるかによります。

松花堂昭乗は、男山石清水八幡宮の社僧であったことや真言密教を修業したことを知っていれば、この人が日蓮宗の本門寺の額を書くことはないだろうという推測がたちます。

また、本阿弥光悦が熱心な日蓮宗信者であったことを知っていれば正解はわかります。また、そこまで知らなくても日蓮宗が京都の町衆の多くに信仰されたことを知っていれば、本阿弥光悦は日蓮宗の信者だろうという推測がたち、そこから、正解を導き出すこともできます。

いずれにしても、お題テキストに書かれていること以外の知識が必要ですので、難しい問題だったと思います。

       

【19】下の4枚の絵は、いずれも「江戸名所図会」のものです。では、神田明神の祭礼を描いたものはどれでしょう?

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 これらの絵はすべてお題テキストに掲載されている絵です。
 従って、丹念にお題テキストをよく読んでおけば、正解がわかる問題です。

い)は、お題テキスト115ページの神田明神の中に載っています。従って、これが正解です。

ろ)は、お題テキスト132ページの日枝神社の中、は)は、お題テキスト136ページの芝神明宮の中に載っています。 に)は、お題テキスト141ページの品川宿の中に載っている「品川牛頭天王神輿洗の図」です。

 また、神田祭が、江戸時代には9月15日に行われていたことを知っていれば、い)の挿絵の右上に9月15日と書いてあるので、それから、い)が正解だとわかります。

20】品川宿一帯には、多くの寺社がありました。では、次の寺社についての説明で、間違っているものはどれでしょう?

 い)海晏寺一紅葉の名所として知られた

 ろ)品川神社一境内の鯨塚が有名だった

 は)品川寺一江戸六地蔵の第1番だった

 に)寄木神社一伊豆長八の鏝絵が現存する

 これらの選択肢は、すべてお題テキストの140ページ~141ページに載っています。ここを読んでいれば、正解は簡単に分かったと思います。

 鯨塚があるのは、品川神社ではなく利田(かがだ)神社ですので ろ)が間違っています。

以上で、江戸文化歴史検定の「今年のお題」関連の問題についての解説を終わりにしますが、お題テキストを読み込んでいれば、正解がわかる問題が大半であったということがお分かりいただけたことと思います。


by wheatbaku | 2019-11-05 13:08 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その3(新江戸百景めぐり番外③)

江戸検お題問題解説その3(新江戸百景めぐり番外③)

江戸検お題問題解説その3は、11問から15問まで解説します。これらの問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下お題テキストといいます。)から正解がわかります。


11】江戸に入った徳川家康が隅田川に初めて架けた橋が、千住大橋です。この橋の杭には、伊達政宗が寄進した水に強く腐食しにくい材木が用いられ、明治時代まで長持ちしたといいます。その橋杭に使われた木は何でしょう?

 い)榎   ろ)黒松  は)高野槙   に)檜

 お題テキストの62ページに、千住大橋の橋杭には高野槇が用いられたと書いてありますので、正解は 4) です。

 千住大橋には現在も3本の高野槇が残されているとのことで、隅田川の水位が下がる時には姿を現すと千住大橋に設置されている説明板(下写真)に書いてあります。

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説明板のタイトルは「水面に浮かぶ三個のブイの謎」と書かれていて。丁寧に説明されています。

下写真のブイがある場所が高野槇がある場所だそうです。

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 また、京成線千住大橋駅の駅前には、高野槇が植えられています。(下写真)

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12】家康が開削させた小名木川は、旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河です。その後、本所・深川では、小名木川と直行する運河も整備され、大きく発展していきます。では次のうち、小名木川と直交するのはどれでしょう?

 い)大横川  ろ)仙台堀川  は)竪川  に)平川

お題テキストの55ページに「南北方向の横十間川および大横川と直交している」と書いてあります。
 従って、正解は い) です。

 念のため、お題テキストの20~21ページに載っている深川の地図を見ておいてください。大横川と横十間川が南北に流れて小名木川と直交し、仙台掘川が小名木川と並行して東西に流れていることがわかると思います。

13】江戸の橋は、陸路と海路の結節点であり、人が集まる名所にもなっていました。では、『江戸名所図会』に〈此所は諸国への廻船輻輳の要津たる故に橋上至て高し〉と記されている橋は、どれでしょう?

 い)永代橋  ろ)千住大橋  は)日本橋  に)両国橋

 選択肢となっている橋は、それぞれ、お題テキストで、次のページで説明されています。

 い)永代橋 67ページ   ろ)千住大橋  62ページ 

 は)日本橋 60~61ページ 
 に)両国橋 64~65ページ

 しかし、どのページにも、江戸名所図会の説明はされていません。
 そこで、江戸名所図会に書いてある文章とお題テキストのそれぞれの説明を比較してみます。

 江戸名所図会で強調しているのは、「橋上至て高し」と書いてある通り橋が高いということです。そこで、高い橋がどの橋かを探すと、67ページの永代橋の説明に、「永代橋は、橋の下を船が余裕をもって通れる高さが必要で、橋脚が高い永代橋は見晴らしが良かった」と書いてあります。

 この説明から、正解は い) ということがわかります。

 ちなみに、ちくま文庫「新訂江戸名所図会Ⅰ」の188ページにある永代橋の中で問題文に採用された文章が書かれています。

14】新大橋を描いた歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』は、ゴッホが模写したことでも知られる作品です。面題にある「あたけ」とは新大橋の東側にあった地名ですが、その由来はどれでしょう?

 い)この地にあった船番所の通称

 ろ)この地の名産だった野菜の通称

 は)ここに砦を築いた太田道灌の家臣の名前

 に)ここに係留されていた幕府の軍船の名前

これも正解がお題テキスト66ページに書いてあります。  

お題テキスト66ページには、「幕府の木造大型軍船(安宅丸)がこの地の船蔵に係留されていたことから、その名でよばれる」と書いてあります。そこで、 正解は に) です。

15】隅田川には多くの渡しがありましたが、山谷堀と三囲神社を結ぶ渡しは、何と呼ぱれたでしょう? 山谷堀にあった料亭の名前に由来する名称です。

 い)有明の渡し   ろ)亀屋の渡し

 は)竹屋の渡し   に)平清の渡し

 これも正解がお題テキスト125ページに書いてあります。正解は は)竹屋の渡し です。

 お題テキストには、竹屋の渡しについては、ほとんど説明されていませんので、ここで少し説明をしておきます。

 竹屋の渡しは、山谷堀と三囲神社を結ぶ渡しで、渡しの下流に言問橋が架かった昭和4年まで営業していました。

現在は、隅田公園山谷堀広場に竹屋の渡し跡の石碑が建てられています。(下写真)

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山谷堀に竹屋という船宿があったことから、その名前がついたとされています。隅田川の渡しで地名がついていない渡しは珍しいそうです。渡しがいつ設けられたかは不詳です。

向島から渡し舟に乗るには、土手下から川向うの渡し舟を、大声で呼ばねばなければならす、『たけや!』と呼ぶ声は、多くの人に知られていたようです。
 次のように長唄の文句にもとり入れられています。

「はるか向ふを竹屋と呼ぶ声に、山谷の堀を乗り出す」(長唄『船揃』)

「土手の錦も花の空、竹屋、竹屋と呼ぶ舟に乗合せたる猿廻し」(長唄『籾猿』)

また、三囲神社側には 「都鳥」という茶屋があって、そこのお美代という女将がいて、「たけや~」といって渡し舟を呼ぶ声が美しいと評判だったという話も伝えられています。



by wheatbaku | 2019-11-02 17:24 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説その2(新江戸百景めぐり番外②)

江戸検お題問題解説その2(新江戸百景めぐり番外②)

  今日は、江戸検のお題解説の2回目です。今日は、6問から10問まで解説します。

 この中では、6問が難しいと思いますので、丁寧に解説します。

それ以外の問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)をよく読んでいれば、正解は導き出せる問題です。

【6】江戸には高い建物がなかったこともあり、眺望に恵まれた山が行楽地となりました、では、『江戸名所図会』に(見落ろせぱ、三条九陌の万戸千門は、甍をつらねて所せく、海水は渺焉とひらけて、千里の風光を貯へ、もっとも美景の地なり〉と記されている山は、どれでしょう?

い)飛鳥山   ろ)愛宕山   

は)道灌山   に)待乳山

 この問題は、お題の問題の中では、難しいほうの問題だと思います。

そもそも、問題文の中の『江戸名所図会』に書かれている内容が、難しいと思う人が多いと思います。 

 この文章は、ちくま文庫「新訂江戸名所図会1」の「愛宕山権現社」の項(263ページ)に載っています。正解は ろ)愛宕山 です。

 しかし、『江戸名所図会』の該当部分を読んである人はほとんどいないと思います。そこで、お題テキストから正解がわかるかですが、お題テキストの愛宕山の中で、『江戸名所図会』を引用した説明はされていません。 

ですから、お題テキストから直接正解はわかりません。しかし、前述の『江戸名所図会』の文章と四つの選択肢について説明している以下のページの挿絵・写真とを比べると正解がわかります。

 い)飛鳥山―30ページ、52~53ページ 
 ろ)愛宕山―48ページ  は)道灌山―54ページ  
 に)待乳山―106ページ

 『江戸名所図会』の文章は、なかな読むのが難しいのですが、そののなかの①「甍をつらねて所せく」と②「海水は渺焉(びょうえん)とひらけて」に注目します。

 まず、①「甍をつらねて所せく」とは、多くの家並が建ち並んでいるということを意味しています。また②「海水は渺焉とひらけて」は海が見えるということだろうと推測できます。
 そこで、選択肢のなかから海が見えそうな山をさがします。すると飛鳥山や道灌山は内陸部だから無理、待乳山は隅田川が見えるが、隅田川は海ではないから、海が見える山となれば、ほぼ ろ)愛宕山だろうとなります。
 さらに、山頂から多くの家並が見える山を探すには、お題テキストの前述の四つの選択肢を説明しているページの挿絵や写真が参になります。
 い)飛鳥山について30ページの名所江戸百景「飛鳥山北の眺望」をみると人家は見えません。
 は)道灌山について54ページの江戸名所図会「道灌山聴虫」を見ると人家がありません。
 に)待乳山について106ページの「東都名所 真土山之図」を見ると人家はありますが、密集しているほどではありません。
 ろ)愛宕山について、48~49ページのベアトの写真を見ると、明らかに、人家が密集しているのがわかります。
 以上から、山頂から見下ろして山の麓に人家が建ち並んでいるのは ろ)愛宕山 しかありません。
 ですから、正解は ろ)愛宕山 で間違いないということになります。

 こうしたことから、この問題の正解は、お題テキストには直接書かれていませんが、お題テキストの挿絵と写真をよく見ていれば、正解を導きだすことができる問題です。難しい問題ですが、よく工夫した問題だと思います。

【7】次に示すのは、幕府の施設とその位置の組み合わせです。間違っているものはどれでしょう?

 い)金座一日本橋の北西    

ろ)小塚原刑場一千住宿の北  

は)猿江御材木蔵一深川の横十間川西岸

 に)鈴ヶ森刑場一品川宿の南

 これは、選択肢となっている四景について説明しているページを読んだうえで、巻頭部分にある地図を見てあれば解ける問題です。

 い)金座一日本橋の北西  
 説明は73ページ、地図は7ページに書いてあります。これには間違いありません。

 ろ)小塚原刑場一千住宿の北  
 説明は161ページ、地図は17ページに書いてあります。
 小塚原刑場は千住宿の北でなく南にありますので、これが間違っています。

 は)猿江御材木蔵一深川の横十間川西岸 
 説明は71ページ、地図は20ページに書いてあります。これには間違いありません。

 に)鈴ヶ森刑場一品川宿の南 
 説明は160ページ、地図は25ページに書いてあります。これには間違いありません。

 以上より、正解は ろ) となります。

 

【8】幕府が全国の募領から集めた米を管理・保管するために設けたのが、浅草御蔵です。では、浅草御蔵についての次の記述のうち、間違っているものはどれでしょう?

 い)隅田川の西岸にあった

 ろ)4本の船入堀が設けられた

 は)勘定奉行配下の蔵奉行が管轄した

 に)30万石以上の米を保管することができた         ’

浅草御蔵について説明したある69ページに、四つの選択肢の内容が書いてあります。 浅草御蔵の船入堀は、8本ありましたので、 3)が間違っていることなり、正解は ろ) です。

【9】千鳥ヶ淵が整備されたのには、江戸城の防御のためだけでなく、もうひとつ別の目的もありました。それは、次のうちどれでしょう?

  い)火災の延焼を防ぐため  
  ろ)食用の魚を養殖するため

  は)水害を防ぐため     
  に)生活用水を確保するため

 千鳥ヶ淵について説明したある42ページに、四つの選択肢の内容が書いてあります。それによれば、 に)生活用水を確保するため  が正解です。

10】下の絵は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武陽佃島」です。画面中央の島の右側が佃島の漁師町ですが、その左の木が茂っているところは、どこでしょう?

 い)石川島  ろ)永代島  は)越中島  に)月島

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問題となっている葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武陽佃島」は、お題テキスト47ページに載っていて、同じページに説明してある通りで、い)石川島が正解です。



by wheatbaku | 2019-10-31 13:58 | 新江戸百景めぐり
江戸検お題問題解説-その1(新江戸百景めぐり番外編①)

江戸検お題問題解説-その1(新江戸百景めぐり-番外編①))

 昨日実施された江戸検を受検された皆さん、お疲れ様でした。

めでたく合格ラインを越えた人おめでとうございます。また、惜しくも合格ラインに達しなかった人、とりあえず一休みして英気を養ってから、来年も是非挑戦してください。

 さて、江戸検の今年のお題は『新江戸百景めぐり』で、このブログでも連載してきました。この今年のお題は、私自身関心が高いテーマでしたので、江戸検の問題を入手して、挑戦しながら内容を分析してみました。

 その結果、お題の問題20問のなかで、お題のテキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)から出題されている問題が19問ありました。

 従って、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)を読み込んでいた人は、お題に関係する問題は、比較的良い成績がとれただろうと思います。

 しかし、その一方で今年の問題は難しかったという声も届いています。

 そこで、数回に分けて、お題の問題がお題テキスト「新江戸百景めぐり」(小学館刊)のどこから出題されているか解説していきます。とりあえず、初回は、1問から5問まで解説します。

【l】右(このブログでは下)の絵は、歌川広重『名所江戸百景』の1枚です。画面奥に描かれている池は上野不忍池ですが、手前に描かれた鳥居ほどこの鳥居でしょう?

    い)神田明神   ろ)根津権現 
    は)不忍池弁天堂 に)湯島天神

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 この問題は、お題テキスト『新江戸百景めぐり』(小学館刊)(以下はお題テキストと略します)の110ページに、そのまま載っていますので、正解は に)です。

 湯島天神に上がる坂には男坂と女坂がありますが、上画像の右隅の坂が男坂で、絵の正面に描かれているのは女坂です。なお、上画像は国立国会図書館のHPから転載させていただきました。


 今回は、絵に関する問題が多いのではないかと8月に開講した「合格虎の巻講座」の受講者の皆さんにお話ししておきましたが、案の定、絵に関する問題が4問出題されていますが、この問題もその一つです。
 

【2】次にあげるのは、大名庭園の名残をとどめる庭園と、
そこにある施
設の組み合わせです。間違っているものは
どれでしょう?

   い)旧芝離宮恩賜庭園一玉藻池  
   ろ)小石川後楽園一九八屋

   は)肥後細川庭園一松聾閣  
   に)六義園一出汐の湊

 いきなり、答えるのは難しい問題だと思いますが、4つの選択肢は、次の通り、全てお題テキストに載っています。

 い)旧芝離宮恩賜庭園一玉藻池 
   玉藻池は、お題テキスト83ページに載っているごと
  く新宿御苑内にある池です。これが間違いです。
   なお、芝離宮恩賜庭園については82ページで説明さ
  れていて、大山・大島、石柱が取り上げられています。

 ろ)小石川後楽園一九八屋  
   お題テキストの85ページに載っています。

 は)肥後細川庭園一松聾閣  
   お題テキストの87ページに載っています。  

 に)六義園一出汐の湊    
   お題テキストの86ページに載っています。

今回の問題は、この第2問と同様に、お題テキストの4ヶ所から選択肢を作成するという形式の出題が多いように思います。この形式の問題は、1ヶ所だけでなく4ヶ所までよく読んでいないと正解がわからないということになります。そのため、幅広い知識が求められることになります。

【3】梅と萩の名所として知られる「向島百花園」は、文化
  元年(1804)に開園した花園がもとになっています。
  では、ここを「百花園」と名付けたのは、誰でしょう?

   い)画家の酒井抱一   は)俳人の宝井其角 

ろ)骨董商の佐原鞠鳩  に)文人の大田南畝

この問題は、お題テキストの126ページの本文に、そのまま載っています。正解は い)です。お題テキストをしっかり読んでいる人にはすぐにわかった問題だったと思います。

なお、選択肢の は)俳人の宝井其角は、元禄時代に活躍した人ですので、まず選択肢から外れることになります。ろ)骨董商の佐原鞠鳩は、「向島百花園」を作った人、に)文人の大田南畝は、「花屋敷」の扁額を書いています。
 下写真は向島百花園の入り口です。

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【4】現在多くの参拝者でにぎわう寺社のなかには、江戸時
  代の建物が残っているところも少なくありません。では
  次のうち、最も古い建物はどれでしょう?

    い)赤坂氷川神社の社殿  ろ)王子稲荷の拝殿

    は)泉岳寺の山門     に)根津権現の楼門

 4つの選択肢の建立時期は全て、お題テキストに明確に載っていますので、選択肢の順に書いていきます。

い)赤坂氷川神社の社殿 
     享保15年(1730) 
     お題テキスト134ページに載っています。

  ろ)王子稲荷の拝殿   
     文政5年(1822)  
     お題テキスト149ページに載っています。

  は)泉岳寺の山門    
     天保3年(1832)  
     お題テキスト153ページに載っています。    

  に)根津権現の楼門   
     宝永3年(1706)  
     お題テキスト112ページに載っています。

 建立年をみていただいてわかるように、最も古い建物は に) ということになります。

 この問題も第2問と同様に、4ヶ所を理解していないと解けない問題ということになります。

【5】下の絵は、歌川広重『東都坂尽』のうちの1枚です。
  富士見の名所として知られ、坂の上の茶屋が人気だった
  この坂は、どこでしょう?

  い)神楽坂      ろ)九段坂  
   は)日暮里富士見坂  に)目黒行人坂

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(上画像は国立国会図書館のHPからの転載です。)

 お題テキスト51ページに載っている絵がそのまま出題されています。正解は に)です。
 お題テキストをよく読んで、この絵にも注目した人にとっては簡単な問題だったと思います。      
 
 




by wheatbaku | 2019-10-28 18:46 | 新江戸百景めぐり
神田明神(新江戸百景めぐり㊽)

神田明神(新江戸百景めぐり㊽)

 いよいよ明日が江戸検本番となりました。

 江戸検を受検される皆さん、全力で頑張ってください。そして、ぜひ合格を勝ち取ってください。

 先日、受検される皆さんの合格を祈念して、神田明神に合格祈願に行ってきました。

 神田明神は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の114ページの第59景で紹介されていますので、今日は、江戸検を受検される皆さんの合格を願うつもりで神田明神のご案内をします。

 この記事を読まれた方にも、神田明神の御加護が必ずあると思いますので、その御加護を信じて是非頑張ってください。下写真は、本郷通りに面している鳥居です。

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神田明神か神田神社か

神田明神の正式な名称は神田神社です。しかし、神田明神と呼ぶ人が多いと思います。数年前に、神田明神の神官に「神田明神を案内する際に、神田神社が正式名称なので、神田神社とお呼びしたほうがよいでしょうか」と尋ねたことがあります。その時の回答は「神田明神でも結構です」ということでしたので、それ以降は、私は「神田明神」と呼んでいます。

神田明神の歴史

神田明神は、社伝によると、天平2年(730)に創建されたとされています。

天平2年というのは、奈良の大仏を造った聖武天皇の時代ですから大変歴史の古い神社でもうまもなく創建1300年になるということになります。ちなみに大仏完成が天平勝宝4年(752)ですので、奈良の大仏より古いということになります。

当初は大手町にある平将門の首を埋めたとされる将門塚近くに創建されました。

その後、近くに埋葬された平将門の天罰を恐れ、将門の霊を鎮めるために鎌倉時代後期に、時宗真教上人により平将門を一緒にお祀りするようになりました。

江戸時代になると、2代将軍秀忠の時代の元和2年(1616)に、鬼門を守護するために現在地に鎮座し、江戸の総鎮守として、江戸っ子から崇拝されました。

明治に入って、正式な社名が神田明神から神田神社に改称されました。


現在の祭神

現在、お祀りしている神様は、三体あります。

まず、 一之宮は、大己貴命(おおなむちのみこと)別名は大国主命(おおくにぬしのみこと)と言いますが、 だいこく様のことです。天平2年(730)の創建当時からお祀りされています。
  次いで、二之宮は 少彦名命(すくなひこなのみこと)です。少彦名命は、えびす様とも呼ばれている商売繁昌の神様です。この神様は、明治7年に新たにお祀りされた神様です。
 そして最後に三之宮として平将門が平将門命(たいらのまさかどのみこと)として祀られています。神田明神では「まさかど様」と呼んでいます。

平将門は、もともとは、鎌倉時代後期の延慶2年(1309)に祀られて、その後江戸時代を通じて祀られていましたが、明治になって、明治天皇が行幸する際に、本殿から摂社に移されました。

そして昭和59年に改めて、本殿のご祭神となったものです。

随神門

現在の随神門は、昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立されました。

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外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」の彫刻がされています。そして、二層目には「繋馬」の彫刻が飾られていますが、この繋馬は平将門の家紋に由来しています。下写真

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社殿

随神門を入ると正面に見えるのが社殿です。

江戸時代末期の天明2年(1782)に造られた社殿は、関東大震災で焼失してしまいました。

今の社殿は昭和9年に竣工したもので、設計は伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一が担当し、国の重要文化財に登録されています。

木造のように見えますが、鉄骨鉄筋コンクリート造りです。そのため、昭和20年の東京大空襲の際にも焼失を免れました。

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だいこく様

随神門を入った左手に「だいこく様」の像があります。これは一之宮の大己貴命(おおなむちのみこと)が大国(大黒)様と呼ばれていることにちなみお祀りされています。この「だいこく様」は、昭和51年に完成しました。高さ約6.6メートル、重さ約30トンあり、石造りとしては日本一の大国(大黒)像です。

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えびす様

 平成30年12月に開館した神田明神文化交流館(通称 EDOCCO)の南側に「えびす様」がお祀りされています。下写真

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二之宮として祀られている少彦名命(すくなひこなのみこと)は 恵比寿様とも呼ばれます。

そうしたことから「えびす様」が祀られています。この像は、平成17年に作られたものです。

少彦名命(すくなひこなのみこと)は、神話では、木の実を舟にして海の彼方から来た小さな神様と伝えられています。そのため、この像は、いろんな海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡る『えびす様』としてつくられています。
 東京芸術大学の宮田亮平学長によって作成されたものです。

普通の恵比寿様は、烏帽子をかぶり、釣り竿、そして立派な鯛を小脇に抱えているお姿です。

しかし、宮田学長は、そのイメージとは違っている神田明神以外どこにも無いえびす様をつくろうと考え、さらに心が安らぐえびす様をつくりたいと考えて、この像を作ったそうです。下写真は拡大です。

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銭形平次の碑

神田明神の拝殿の東側に銭形平次の碑があります。下写真

大川橋蔵が演じた銭形平次は、テレビで、昭和41年から昭和59年まで18年間も放映されました。

 原作は、野村湖堂の「銭形平次捕り物控」で昭和6年から昭和32年にかけて書かれたものです。

原作では銭形平次は明神下に住んでいたという設定になっていますので、神田明神に、銭形平次の碑が作られました。

平次の碑は寛永通宝を模した台座の上に設置されています。隣には、八五郎(通称:ガラッ八)の碑も設置されています。

昭和45年に建てられたもので、発起人には、大川橋蔵や長谷川一夫などが名をつらねています。

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国学発祥の碑

銭形平次の碑の隣には、国学発祥の碑があります。下写真

京都伏見神社の神官である荷田春満が、江戸に出て初めて国学の教場を開いたのが神田神社の宮司であった芝崎家の邸内でした。有名な賀茂真淵もここに学んだそうです。

こうしたことから、神田神社が江戸における国学の発祥の地とされています。

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摂社・末社と力石

神田明神には、数多くの摂社・末社があります。摂社・末社は社殿の西側から北側にかけて鎮座しています。

 その中で、最も有名な摂社が、江戸神社です。(下写真)

 江戸神社は、大宝2年(702)に現在の皇居内に創建された江戸最古の地主神とされています。


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江戸神社のほかに、大伝馬町八雲神社、小舟町八雲神社などの摂社・末社があります。

江戸神社と大伝馬町八雲神社の間にあるのが、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)でも取り上げられている力石です。下写真の左側です。奥は小舟町八雲神社です。この力石は直径80cm・短径67cm で、文政5(1822)に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたもので、文化財に指定されています。

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神田祭

神田明神のお祭りは、神田祭とよばれ、東京を代表するお祭りです。

江戸時代には、江戸城内に山車を乗り入れられることができたため、山王まつりとともに天下祭りと呼ばれていました。

江戸時代は、9月15日に行われていましたが、現在は、神田祭は、5月中旬に行われています。

下写真は今年の神田祭の宮入の様子です。まさに同朋町の神輿が随神門を潜ろうとしているところです。

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男坂と女坂

神田明神は、 台地の先端にあるため、神田明神の東側は急に下がっています。

そのため、東側から、神田明神に通じる道は、多くの石段を登ることになります。その坂は、男坂と女坂があります。

男坂は、明神下から直接境内に通じる坂です。下写真

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女坂は、男坂より南側にあります。女坂は境内とは直接つながっていなくて、境内より少し南の道路に通じている坂です。下写真

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通常ですと、女坂の方が勾配がゆるやかですが、神田明神の場合には、女坂のほうが急坂となっています。上の男坂と女坂は共に最上部から撮ったものですが、写真を見ていただくだけでも女坂が急坂であることがわかると思います。

赤印が神田明神の社殿です。

青印が随神門です。

緑印が「だいこく様」です。

オレンジ印が「えびす様」です。

ピンク印が江戸神社です。

紫印が男坂です。

黒印が女坂です。







by wheatbaku | 2019-10-26 12:57 | 新江戸百景めぐり
湯島聖堂(新江戸百景めぐり㊼)

湯島聖堂(新江戸百景めぐり㊼)

江戸検まで、あと3日となりました。

受検される方は、最後の追い込みに頑張っていることだと思います。

残り期間、全力で頑張って、合格を勝ち取ってください。

さて、今日の新江戸百景めぐりは湯島聖堂をご案内します。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、76ページの第31景で紹介されています。

下写真は江戸時代から残る入徳門です。

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湯島聖堂の歴史

湯島聖堂は、徳川家康のブレーンであった林羅山が、江戸時代初期の寛永9年(1632)に、上野の自分の屋敷内に孔子廟を建設したのが始まりです。

そして、5代将軍綱吉が、元禄3年(1690)に、孔子廟を湯島に移し、湯島聖堂ができました。将軍綱吉は、犬公方として有名ですが、実は、大変な学問好きな将軍で自ら学ぶだけでなく、家臣にも講義するほどの打ち込みようでした。そこで、儒学を盛りたてるために、湯島聖堂を建てたそうです。
 しかし、13年後の元禄16年(1703)には、大火のため、主要な建物が全焼し、翌年の宝永元年(1704)大成殿などを再建復旧しました。このとき復旧した入徳門は、現在も残っています。

そして、100年程時代がさがった寛政9年(1797) に昌平坂学問所(または昌平黌とも言います)が設置され、幕府直轄の学校となりました。

「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前からとったもので、昌平坂という地名は現在も聖堂の東側の坂に残っています。下写真が昌平坂です。

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明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府が所管するようになります。

当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存続していましたが、明治4年(1871)に廃止されて文部省が置かれることとなりました。

そして明治5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置されました。両校はそれぞれのちに、明治19年(1886)、23年(1890)】高等師範学校に昇格したのち、東京師範学校は現在の筑波大学、そして、東京女子師範学校はお茶の水女子大学へと発展しました。

さらに、ここには、わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれました。また、わが国初の図書館である「書籍館」が置かれました。まさにわが国の文教政策の源流としての重要な役割を果たしてきました。

湯島聖堂は、江戸時代に何回もの(元禄12年、安永元年、天明6年)大火に見舞われた後、関東大震災により入徳門と水屋を残し、すべて焼失してしましいました。
 現在の多くの建物は、昭和10年に再建されたものです。

聖堂の敷地は約4300坪あり、いろいろな建物が並んでいます。

湯島聖堂の回り方は秋葉原から向い仰高門から入る方法、お茶の水から向い杏壇門から入る方法とあります。今日は、仰高門から順にご案内します。

仰高門

秋葉原駅から向かって最初にある門が、「仰高門」です。この門は、聖堂の第1の門で、昭和10年(1935)に再建されたものです。

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仰高門の仰高という言葉は、論語の中に出てくる言葉です。

孔子がどんな人物か訪ねられた弟子の顔回が「先生は仰げば仰ぐほど高さをますすばらしい人です」と答えたことに由来するそうです。

現在の額の字は、徳川圀順(くにつぐ)氏によるものです徳川圀順氏は水戸徳川家第13代当主で貴族院議長、日本赤十字社社長を務めました。

楷の樹

仰高門を入ると正面に「楷の樹(かいのき)」があります。漢字の書体で、楷書という書き方がありますが、その語源となった木です。

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漢字は楷書、行書、草書という順で字がくずされていき、楷書が一番整然としています。楷の木は、枝が整然としているので、楷書の語源になったと言われています。

それだけでなく、中国では、楷と孔子は切り離すことができないものとなっている木です。それは、楷は、中国山東省の曲阜の孔子の墓所に植えられているからです。最初に孔子の弟子の子貢が植えたと伝えられている木で現代まで植えつがれているそうです。

楷の木は、中国では殆ど全土に生育しています。しかし、日本に到来したのは大正4年です。曲阜から種子を持ち帰り、苗に育成し、儒学に関係深い所に植えました。現在、日本では非常に少ない木として珍重されています。

孔子銅像 
楷の木の右手に非常に大きな孔子の像があります。

この孔子像は、昭和50年に台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。

高さは4.57メートルあります。重さは1.5トンあるそうです。

孔子の銅像では世界最大のものだそうです。

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入徳門(にゅうとくもん)
 入徳門は、将軍綱吉の晩年になる宝永元年(1704)に建築され、その後の大火や関東大震災も免れた聖堂内で数少ない木造建築物です。もう建築以来300年を超えています。  

入徳とは、「大学」という本にある「大学は孔氏の遺書にして、初学(しょがく)の徳に入(い)る の門なり」によるそうです。
  「入徳門」の額は、門を建設した当時に能書で有名であった寺明院基輔の書いたものです。

下写真は、入徳門から見た杏壇門、さらにその奥に大成殿が見えています。つまり、入徳門、杏壇門、大成殿は一直線上にあります。

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杏壇門 

入徳門の正面にある門は杏壇門といいます。
 中国山東省の曲阜で孔子が教えていた講堂跡に建てられた門の名前が杏壇門です。

講堂跡の周囲に杏を植えられていたので、杏壇門と名づけられたようです。杏壇の杏はあんずのことで、湯島聖堂もそれにちなんでいるそうです。
 鉄筋コンクリート造りで、昭和10年に再建されたものです。額の字は徳川宗家第16代の徳川家達公の書いたものです。

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大成殿

大成殿は、孔子が祀られているところです。孔子を祀った建物は、上野にある頃は先聖殿と呼ばれました。先聖とは孔子のことを言います。その後、湯島に遷った時に、大成殿に変更されました。

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大成という言葉は「孟子」という本の中から取られた言葉です。「孟子」という本の中に、「孔子をこれ集大成という」という文章があり、それから大成という言葉がとられています。  

なお、「集大成」という言葉があります。この言葉は多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることを指し、何々を集大成するという風に使われますが、もとは孔子のことをいったようです。

湯島聖堂の大成殿の額は、元々の額は将軍綱吉が書いていたそうです。現在の額は、昭和の時代に海軍軍令部総長を務めた伏見宮博恭(ひろやす)王の書いたものです。

大成殿は、土曜日曜祝日のみ公開されます。

赤印が湯島聖堂大成殿です。
青印が仰高門です。
緑印が入徳門です。





by wheatbaku | 2019-10-25 15:41 | 新江戸百景めぐり
薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

今日の新江戸百景めぐりは、「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑のある薩摩藩蔵屋敷跡をご案内します。

「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では158ページの第94景で紹介されています。「西郷南洲・勝海舟会見之地」というのは、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟が会見した場所のことです。下写真は「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑です。

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 「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は、JR田町駅から徒歩3分の場所に、三菱自動車工業の本社が入居していた第一田町ビルの敷地内に立てられていました。

建てられていましたと過去形で書くのは、実は、私が訪ねた令和元年10月7日現在では、「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は撤去されていて、下の写真が掲示されているだけでした。上記の写真は以前撮影したものです。

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第一田町ビルがある場所は再開発されるため、解体作業が始まっていました。下写真のように仮囲いに掲示されているだけですので、この状態もすぐに変わるのでは思います。 

 再開発後、どうなるのか、第一田町ビルに問い合わせましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。
令和元年10月25日追記
 第一田町ビルを所有している三菱重工㈱に、再開発完了後は石碑が戻るかどうか問い合わせていましたが、「建替え後(2026年春予定)、石碑は所定の位置に戻す予定ですが、正確な位置は未定です。その間、現状どおり写真を掲示しております。」という回答をいただきました。

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さて、新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛薩は、摩藩蔵屋敷で会見し江戸無血開城を取り決めました。

薩摩藩蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜でした。当時、薩摩藩の国元より船で送られてくる米などが陸揚げされ蔵屋敷に保管されていました。

 3月14日の西郷・勝の会見が行われたのは薩摩藩蔵屋敷だと書きましたが、西郷・勝の会見場所については、田町の蔵屋敷(田町藩邸)のほか、高輪藩邸、愛宕山、田町の橋本屋など諸説があるようです。

 田中惣五郎氏は、人物叢書「西郷隆盛」の中で、「田町藩邸」としています。また、勝部真長氏は、「勝海舟」の中で、「田丁(たまち)の蔵屋敷」としています。海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」の中で、「芝田町の薩摩屋敷」としています。このように、田町の蔵屋敷とする人が多いようです。

 しかし、犬飼隆明氏は、岩波新書「西郷隆盛」の中で、「田町の橋本屋というしもた屋」としています。また、吉村昭氏は、「彰義隊の」の中で、3月13日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、その後、愛宕山に一緒に登ったとしています。

 このように、西郷隆盛と勝海舟の会見場所には諸説ありますが、石碑のあった薩摩藩蔵屋敷跡が、最も馴染みがあります。

 薩摩藩は、77万石の大藩ですので、江戸に、いくつもの屋敷がありました。幕末には、薩摩藩邸は最低6か所あったと言われています。

 三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷 そして現在は八芳園になっている白金の屋敷、以上6か所です。

 その中で、上屋敷と蔵屋敷はお互いすぐそばにありました。

 三田では、NECの本社が一際目立ちますが、NECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。下写真は東側から撮ったNEC本社です。

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 多くの案内書では、下写真の石碑がよく紹介されます。この石碑は、NEC本社の北側の植え込みに設置されています。

そのため、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちです。しかし、NEC本社は、正しくは、北側が薩摩藩上屋敷跡で、南側が因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。

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 NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれとなっていて、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行と「ホテル ザ セレスティン東京芝」のある部分です。

 三井住友信託銀行と「ホテルザ セレスティン東京芝」の間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた説明板があります。下写真の中央が説明板で、左手の建物が「ホテル ザ セレスティン東京芝」です。

 

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 三田にあった上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。

 ここが薩摩藩の江戸での中心になりました。

 幕末には、島津斉彬が住んでいました。また、天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に、三田の上屋敷に入りました。

 しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に、安政の大地震が起きて、上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。

 篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。

下写真が「芝さつまの道」に掲示されていた薩摩藩邸の見取り図です。掲示されている写真は縦長ですが、南北を揃えるため横長にしました。上が北になります。

 赤い印がある地点が「芝さつまの道」です。この藩邸見取り図を見るとNEC本社のある場所が、薩摩藩邸の南端であることがよくわかります。

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この屋敷が慶応3年12月25日に、旧幕府側の庄内藩等の軍勢により焼き討ちされた事件が、薩摩藩邸焼討事件です。

 西郷隆盛から江戸を攪乱するようにと命じられた益満久之助らが、多くの浪人たちを集め、強盗などを働かせ江戸の治安を混乱させたことに怒った幕府は、慶応3年12月25日、庄内藩と上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩の約千人の軍勢が薩摩藩邸を包囲したうえ焼討ちしました。

 これにより、薩摩藩上屋敷は全焼し、薩摩藩邸の周囲も焼失しました。

 こうした事情により、西郷隆盛と勝海舟が会見しようとした慶応4年3月には、薩摩藩上屋敷がなかったため、焼け残っていた蔵屋敷で会見したと思われます。

赤印が「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑があった場所です。 

青印がNEC本社北側にある「薩摩屋敷跡」の石碑です。

緑印が「芝さつまの道」の説明板がある場所です





by wheatbaku | 2019-10-24 19:22 | 新江戸百景めぐり
  

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