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 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

 お振の方(自性院)の霊屋(江戸のヒロインの墓㉘)

江戸検が近づいてきました。皆さん、頑張って準備されていることと思います。江戸のヒロインに関する記事の最後として、お振の方(自性院)の霊屋(おたまや)をご案内します。

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お振の方は、3代将軍徳川家光の最初の側室です。

3代将軍家光は、当寺は男色に熱心で女性にはあまり関心を示さなかったと言われています。そこで、春日局が心配してお振の方を大奥に招いたと言われています。

お振の方の出自は諸説あるようですが、江戸検お題テキスト「江戸のヒロインたち」では、石田光成の孫の岡吉右衛門、母は春日局の姪祖心尼の娘となっています。「徳川妻妾記」(高柳金芳著)には、春日局の姪祖心尼の孫で、後に祖心尼の養女となったとされています。

お振の方が大奥に入ったのは、寛永3年(1626)ですが、春日局の期待通り、家光の最初の子供千代姫を産んだのは、寛永14年(1637)でした。

千代姫は、出生の翌年、尾張藩の世子徳川光友と婚約し、3歳で市ヶ谷の尾張藩邸に輿入れしました。

お振の方は寛永17年(1640821日に亡くなり、法名「自証院殿光山暁桂大姉」となづけられ、牛込の法常寺に葬られました。

そして、徳川家光はお振の方を葬るため1万坪余を下賜し、法常寺を市ヶ谷に移し自証院を建立しました。(下写真は、参道から写した現在の自性院です。中央奥に見えるのが本堂です)

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慶安5年(1652)には、千代姫が施主となって生母お振の方の霊屋(たまや)を自証院境内に建立しました。これが江戸東京たてもの園に現存する旧自証院霊屋です。

寛文元年(1661)、千代姫によって本堂が建立されています。

元禄11年(1698)に千代姫はなくなりましたが、尾張家は、千代姫没後も、自証院を庇護していました.しかし、明治になると尾張家の庇護がなくなり、自性院は荒廃してしまいました。

さらに、明治4年、明治政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。

明治末年には、経済的な困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な寺域も宅地として売却され、さらに昭和3年、境内地の一部が、小学校建設用地として東京都に譲渡されたことにより、境内地は非常に狭くなっています。

旧自証院霊屋は、昭和32年西武鉄道によって買収され、赤坂プリンスホテル内に移築されていましたが、平成7年、江戸東京たてもの園に移され復原されています。(下写真参照)

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そこで、昨日、江戸東京たてもの園を訪ねて旧自証院霊屋を見てきました。

 江戸東京たてもの園は、小金井市の都立小金井公園の中にあります。

 中央線武蔵小金井駅北口から西武バスで5分の小金井公園西口バス亭から公園の中を5分程歩くと江戸東京たてもの園の正面入口になります。

下写真が入り口建物です。

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 西武バスはかなりの本数が出ていますので、交通は便利です。

旧自証院霊屋は、10月28日から11月4日までは東京文化財ウィークの一環として、内部が公開されていましたが、日曜日・祝日には内部が公開されるということを現地で知りました。(下写真は正面から撮った写真です。) 

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旧自証院霊屋の建築に当たった大工は幕府作事方大棟梁甲良宗賀です。

建物の外観は漆と極彩色で飾られていて、創建当初の姿になっていて、須弥壇等内部の移築当時の状態を残して修復されたそうです。

赤印が江戸東京たてもの園です。





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by wheatbaku | 2018-10-31 18:16 | 江戸のヒロイン
お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)

江戸のヒロインのお墓、今日は加賀騒動の当事者の一人お貞の方(真如院)のお墓をご案内します。

 お貞の方(真如院)のお墓は、文京区向丘の長元寺にあります。

 東京メトロ本駒越駅1番出口から徒歩3分の距離にあります。また、東大前駅2番出口からでも徒歩5分の距離にあります。

 長元寺は日蓮宗のお寺です。(下写真は本堂です)

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谷中感応寺を中興した日長上人が開山となり寛永4年(1627)千駄木に創建され、寛文2年(1662)現在地へ移転したといいます。中興開基は、前田吉徳の母預玄院でした。

お貞の方(真如院)のお墓は本堂の北側にあります。

墓表には「眞如院殿照月日清大姉」と刻まれています。

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 お貞の方(真如院)は、加賀騒動の重要な人物ですので、まず加賀騒動についてお話します。

加賀騒動は、江戸時代の中期に加賀藩で起こった御家騒動です。

6代藩主前田吉徳に可愛がられた大槻伝蔵が、前田吉徳の側室お貞の方(真如院)と密通し、お貞の方(真如院)の産んだ利和(としかず)を藩主とするために、前田吉徳および7代藩主前田宗辰(むねとき)を暗殺し、さらに8代藩主前田重煕(しげひろ)を暗殺しようとしましたが、重臣前田土佐守直躬(なおみ)らが中心となって、大槻伝蔵が捕えられ、大槻伝蔵は流刑地五箇山で自害したというのが加賀騒動のストリーです。


 しかし、加賀騒動は、実録ものと言われる小説から広がった物語です。

 実録ものというのは、事実に虚構をまじえて興味本位につくられたもので講釈師の口述を書き留めた講談台本などを書写した読み物です。

 こうしたことから、いわゆる加賀騒動の話には、事実と異なることが多いようです。

 実際は、加賀藩で、財政再建のため前田吉徳が、茶坊主あがりの大槻伝蔵を重用し、経費の節減や上方での金融に独自の腕を振るわせ、それが成功したことから、大槻伝蔵が異例の出世をとげました。これに対して、保守派の重臣たち特に前田直躬が大槻伝蔵を嫌い、延享2年(1745)前田吉徳が亡くなりと、大槻伝蔵は後ろ楯がなくなり失脚し、寛延1年(1748)越中五箇山に流され、同年配所で自殺しました。 

 また、お貞の方(真如院)による前田重煕(しげひろ)を暗殺や大槻伝蔵との密通についても、これという罪状もつかめないところから、前田直躬らが両者の密通・密謀をでっち上げたのではないかという説もあるようです。


お貞の方(真如院)は、芝神明の神職鏑木政幸の娘で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)は、お貞の方(真如院)の妹もしくは姪といわれています。

前田吉徳の側室となり、富山藩主前田利幸に嫁いだ長女総姫はじめに、利和(勢之佐)、楊姫、益姫、八十五郎の23女を産みました。(うち益姫は夭折)

延享2年(1745年)に前田吉徳が没したため、落飾し真如院と称しました。

前田吉徳の跡は、その長男の宗辰(むねとき)が継ぎました。

前田宗辰は、大槻伝蔵に対して厳しくあたり、大槻伝蔵を失脚させています。

しかし、前田宗辰は、延享3年(1746)に死去し、続いて次男の重熙(しげひろ)が藩主となりました。宗辰はわずか1年6ヶ月だけ藩主でした。

寛延元年(1748年)、お貞の方(真如院)の子供八十五郎が加賀藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は八十五郎とともに江戸を出発し、7月11日に金沢に到着しました。

ところが、お貞の方(真如院)の旅行中の6月26日と7月4日、江戸藩邸で、茶釜に毒をいれ、藩主の前田重熙や浄珠院(6代藩主宗辰生母)を毒殺しようという事件が起こりました。 


調査の結果、お貞の方(真如院)の娘の楊姫付きの中臈浅尾に疑いがかけられ、浅尾はお貞の方(真如院)の命令によって行ったと自白しました。

そのため、お貞の方(真如院)は、金沢の金谷御殿に幽閉されました。

さらにお貞の方(真如院)の居室から、大槻伝蔵の手紙が見付かったとされ、大槻伝蔵と密通していたと疑いを掛けられました。(これは今では前述したようにでっちあげだと考えられています。)


これらによって、お貞の方(真如院)は終身禁固と決められたが、体調を崩していたため、そのまま金谷御殿の縮所で幽閉されました。

お貞の方(真如院)は、寛延2215日、病死しました。享年42歳でした。

そして、金沢の経王寺に葬られました。

江戸の長元寺のお貞の方(真如院)のお墓は、後日、建てられた供養墓のようです。


赤印が長元寺です。





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by wheatbaku | 2018-10-29 21:26 | 江戸のヒロイン
大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

大橋巻子のお墓(2)(江戸のヒロインの墓㉖)

 今日も大橋巻子の続きです。昨日は大橋巻子の夫大橋訥庵について書きましたが、今日は大橋巻子について書きます。

 大橋巻子のお墓は、大橋家の墓所のうちの大橋訥庵の隣に建っています。墓表には大橋氏巻之墓と刻まれています。

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 大橋巻子は、江戸日本橋の豪商大橋淡雅の娘として生まれました。

父親の大橋淡雅は、医師大橋英斎の子どもとして生まれ、15歳の時宇都宮の豪商佐野屋治右衛門(菊地孝古)の養子となりました。

大橋淡雅は菊池孝古の一人娘であった民子を嫁に娶って菊地の養子となりましたが、菊池姓は名のらず大橋姓を名のりました。

また、家督を継ぐ立場でしたが、大橋淡雅が26歳の時、養父菊池孝古は、大橋淡雅に江戸日本橋に出店することを許しました。

大橋淡雅は、商売上手で、一代で木綿を取り扱う豪商へと商売を発展させました。

しかし、大橋淡雅は若い頃から学問をしたいという希望をもっていて、大橋家を継ぐ後継者は学者から迎えたいと考え、娘巻子の婿養子に佐藤一斎の弟子で儒家として有望な清水順蔵(大橋訥庵)を迎え、大橋家の名籍を継がせました。

一方、商売の方は、巻子の実弟菊池教中(きょうちゅう)に継がせました。

下写真が大橋淡雅のお墓です。墓表に淡雅大橋知良之墓と刻まれています。

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大橋巻子は、幼いころから母民子に学び和歌に優れ、国学も修めました。

巻子は、大橋訥庵を婿養子に迎えた後は、大橋訥庵の開いた思誠塾や尊王運動を助けました。

文久2(1862)113日、夫の大橋訥庵が、坂下門外の変の首謀者として逮捕され、さらに実弟菊池教中(きょうちゅう)も坂下門外の変に関与したことから逮捕されました。

大橋訥庵の逮捕後、思想塾の家宅捜索が行われましたが、大橋巻子は事前に証拠となるような文書は破棄しておきました。また、奉行所にも呼ばれ尋問を受けましたが、それにも屈せず、大橋訥庵の留守を守り通しました。

しかし、77日に出獄した大橋訥庵は、大橋巻子の看病の甲斐もなく、文久2712日に亡くなり、実弟教中も88日なくなりました。

この時期に大橋巻子が書いたのが、有名な『夢路日記』です。

『夢路日記』は、夫訥庵と実弟教中が投獄された文久2年正月から約半年間の大橋巻子の心情を40首の歌とともに綴ったものです。

この『夢路日記』は尊攘派の志士の間で評判となりました。

勤皇思想と大橋訥庵や菊池教中への思いを豊かな表現力を駆使して綴られたこの日記は、当時の尊攘志士たちの間で評判となりました。

遠く離れた九州福岡の野村望東尼も『夢路日記』を読んだと言います。

大橋巻子は、大橋訥庵が亡くなった後、思誠塾を継いだ養子陶庵と一緒に暮らし、明治14年12月23日58歳で亡くなりました。

そして谷中天王寺の大橋家の墓所に大橋訥庵と並んで眠っています。
 下写真の右が大橋巻子のお墓、左が大橋訥庵のお墓です。

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by wheatbaku | 2018-10-26 17:27 | 江戸のヒロイン
大橋巻子のお墓(1)(江戸のヒロインの墓㉕)

大橋巻子のお墓(1)(江戸のヒロインの墓㉕)

谷中の天王寺の墓地には、江戸検お題テキスト「江戸のヒロイン」に載っている大橋巻子のお墓があります。

 大橋巻子のお墓は大橋家の墓所の一画にあります。

 下写真が大橋家の墓所の全体写真ですが、天王寺の墓地は、都立谷中霊園と接していますが、谷中霊園のように墓所番号表示がされていないため、大橋家の墓所を探すのは大変です。やはり、天王寺の寺務所で問い合わせてからお参りするのが一番よいと思います。 

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 大橋巻子のお墓は、その夫大橋訥庵と並んで建てられています。(下写真の右が大橋巻子、左が大橋訥庵のお墓です)

大橋巻子について語るには、大橋巻子の夫大橋訥庵について述べた後のほうが良いので、まず今日は大橋訥庵について話をします。

 大橋訥庵は宇都宮藩の儒者で、坂下門外の変での老中安藤信正の襲撃には加わりませんでしたが、その計画を立案した中心人物で実質的な首謀者です。

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大橋訥庵は長沼流兵学者清水赤城の4男として江戸飯田町に生まれました。訥庵は号、名は正順、通称順蔵と言いました。

大橋訥庵は、幼いころから学問を好み、20歳の時、佐藤一斎の愛日楼塾に入門し、同門には佐久間象山、山田方谷などがいます。

天保12年(1841)、26歳の時、佐藤一斎の勧めにより、江戸日本橋の豪商「佐野屋」の大橋淡雅の娘巻子と結婚しました。

結婚を機に大橋訥庵は日本橋に思誠塾を開き弟子を育成しました。また大橋淡雅の援助で宇都宮藩に仕え、江戸藩邸で月1回講義を行い、大橋訥庵の影響が宇都宮藩に浸透するようになりました。

大橋訥庵は、過激な攘夷論を主張し、ペリー来航時には幕府に攘夷の実行を迫る上書を提出しています。また安政の大獄の際には、刑死した頼三樹三郎の遺骸が小塚原に放置されているのを忍び難いと考え密かに埋葬しています。

桜田門外の変後は、和宮降嫁・公武合体に反対し、王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に首を突っ込んだりしましたが、うまくいきませんでした。

そこで、水戸藩士と宇都宮藩士による老中安藤信正襲撃計画を立案し、その斬奸趣意書を起草したといわれています。この計画が実行され坂下門外の変となります。

一方で一橋慶喜を擁立して攘夷を実行しようとする運動が宇都宮藩内で計画され、大橋訥庵はそれにも協力して一橋慶喜に仕える元弟子の山本繁三郎に、その計画を話し仲立ちを依頼したところ、その内容の重大なことに驚いた山本繁三郎が老中久世大和守に訴え出て幕府の知るところとなり、大橋訥庵は文久2(1862) 112日に、町奉行所に捕らえられました。

老中安藤信正襲撃を計画していた同志は、大橋訥庵逮捕の報を聞くと、一刻の猶予もないとして、大橋訥庵逮捕の3日後の文久3年1月15日坂下門外で老中安藤信正を襲撃しました。これが有名な坂下門外の変です。

逮捕された大橋訥庵は、尋問にも耐えていましたが、非常に不潔な牢環境で体調を崩していました。

ちょうどこの時期、幕政改革のため勅使として下向していた大原重徳に大橋訥庵の赦免嘆願書を提出したり、大橋訥庵と同門の山田方谷を通じて老中板倉勝静へも赦免嘆願を行いました。こうした運動の結果、文久377日、大橋訥庵は出獄が許され宇都宮藩に預けられました。 


しかし、出獄直後の12日に死去しました。表向きは病死とされていますが、出獄の際に毒を盛られたのではないかとの疑いも持たれています。
亡くなった大橋訥庵は天王寺の大橋家の墓所に埋葬されました。
 大橋訥庵のお墓は、「訥菴大橋君之墓」と刻まれています。(下写真)

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by wheatbaku | 2018-10-24 22:04 | 江戸のヒロイン
柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)

江戸のヒロインのお墓、今日は柳沢吉保の側室染子(以下柳沢染子と言います)のお墓をご紹介します。

 柳沢染子は、柳沢吉保の側室ですが、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていない女性ですので、あまり知られていないかもしれません。

 ただ、柳沢染子のお墓は、笠森お仙のお墓がある正見寺のすぐそばにありますので、ご案内しておきます。

 柳沢染子のお墓は臨済宗妙心寺派のお寺である龍興寺にあります。 

龍興寺は、寛永6年(1629)に牛込津久土明神下に創建され、承応3年(1654)には小石川小日向に移転し、さらに、明治41年中野区上高田へ移転しました。下写真は龍興寺の本堂です。

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柳沢染子のお墓は、本堂の裏手にあります。お墓の表面には「霊樹院殿月光寿心大姉」という柳沢染子の戒名が刻まれています。(下写真)

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 柳沢吉保は、5代将軍綱吉の側用人を勤め、綱吉の寵臣で、佐貫藩で大名となった後川越藩主となり、その後、甲府藩15万石の藩主まで栄進をしました。

 その柳沢吉保は、上野国館林藩士柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれました。
 吉保の母は柳沢安忠の側室の佐瀬氏(了本院)でした。

 了本院は、柳沢吉保を生むとまもなく、吉保を正室の子として育てるため実家に帰され、吉保は生母を知らずに育ちました。そして父親の正室が亡くなった後、生母の存在を知った吉保は20年ぶりに母子の名乗りをあげました。

 柳沢染子は、吉保の生母了本院に侍女でした。


柳沢染子は、柳沢氏の領地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女として生まれた、了本院に仕えていました。


柳沢吉保の正室は、甲州出身の旗本の曽雌定盛の次女定子でしたが、子供が生まれなかったため、正室定子と相談のうえ、染子が側室に挙げられたようです。
 そして、貞享4年(168793日に、染子は柳沢吉保の嫡男となる吉里を生んでいます。そして、吉里が嫡子となりました。
 そのため、染子は正室定子に準ずる地位を与えられていました。
 そして、宝永2年(1705510日になくなりました。41歳でした。


この柳沢染子は、5代将軍の側室であり、懐妊したまま、柳沢吉保が拝領し、それから生まれたのが柳沢吉里だという話があります。

つまり、柳沢吉里は、5代将軍綱吉の御落胤ということになります。そこで、柳沢吉保は、柳沢吉里を徳川綱吉の養子にして将軍職を継がせようとしたという話にまで発展していているようです。

しかし、これらはあくまでも俗説のようで、柳沢吉保邸へ、徳川綱吉がしばしば訪れているため、それは、徳川綱吉が染子と吉里に会うために御成になったためと考えられたことなどから、そうした俗説が唱えられたようです。

赤印が龍興寺です。青印が正見寺です。






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by wheatbaku | 2018-10-16 19:35 | 江戸のヒロイン
笠森お仙のお墓(江戸のヒロインの墓㉓)

笠森お仙のお墓(江戸のヒロインの墓㉓)

江戸のヒロインのお墓、今日は、笠森お仙のお墓をご紹介します。

笠森お仙という名前を初めて聞くという人は、江戸検を受検する人では一人もいないと思うほど江戸好きな人には有名な女性です。

笠森お仙は、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、明和年間、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、浅草の二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよしとともに明和期の三美人に数えられる女性です。

 笠森お仙のお墓は、東京都中野区上高田の正見寺にあります。

 正見寺は、浄土真宗本願寺派のお寺で、東京メトロ東西線落合駅1番出口から約5分、JR中野駅西口から約10分で到着します。(下写真)

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 笠森お仙のお墓は、本堂裏手の倉地家の墓所の中に建っています。ただし、笠森お仙のお墓は、現在は公開していないという情報を聞きましたので、お参りは難しいかもしれません。
 下の写真は、6年ほど前に、笠森お仙のお墓参りに行った際に撮らさせていただいたものです。その当時は寺務所にお願いすればお参りをさせてくれました。
 左側の「深教院妙心大姉」が笠森お仙です。

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 笠森稲荷は、谷中の天王寺の福泉寺の境内ありました。

 その笠森稲荷の前にあった水茶屋の看板娘が、笠森お仙です。

 大変な美人であったため、江戸っ子の評判を呼び、鈴木春信の錦絵にも取りあげられ、さらに評判となりました。

 どのくらい評判になったかについて、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「笠森お仙其外」で次のように書いています。(本来は文語で書かれていますが、ここでは、わかやすいように書き換えています。)

 谷中の笠森稲荷にある水茶屋の娘でお仙(18最)が美人だというのでみんな見に行く。水茶屋の名は鎰屋(かぎや)五兵衛と言う。錦絵の一枚絵、あるいは絵草紙、双六、読売等に出ている。手拭いに染められる。飯田町中坂の世継稲荷が開帳した時(お仙の)人形も作って奉納した。明和五年五月に堺町で、中島三甫蔵の台詞で次のように言われた「釆女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙云々と」 これによってますます評判になった。

 その秋七月には、森田座で、中村松江のおせんの狂言が大当りとなった。

浅草観音堂の後ろ、銀杏の木の下の楊枝店のお藤もまた評判が高い。あだ名は「いちょう娘」と言い、錦絵、絵草紙、手拭い等にも取り上げられた。読売や歌にも取り上げられた。それで、あちこちの娘の評判が上り、浅草地内大和茶屋の女蔦屋およし、堺屋おそでが錦絵の一枚絵に取り上げられるになった。

童謡に、「なんぼ笠森お仙でもいちょう娘にかないやしよまい(注意書:実は、笠森お仙の方が美しかった)どうりでかぼちゃが唐茄子だ」ということばがはやった。

 これを読むと、明和三美人と言いながら、笠森お仙が最も美人だったようです。

 そんな美人で大評判だった笠森お仙が、明和7年2月ころ、突然鍵屋から姿を消しました。

 このことについても、太田南畝が『半日閑話』巻十二の「とんだ茶釜」で次のように書いています。

 明和7年2月頃、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。

笠森稲荷の水茶屋のお仙がどこかにいってしまい、その跡に年取った父親が居るための戯れ言だという。

笠森お仙が突然消えたのは、御家人倉地政之助(甚左衛門)に嫁いだからです。

笠森お仙は桜田御用屋敷に住み、子宝にも恵まれ、文政10年1月29日に亡くなりました。享年77歳でした。

赤印が正見寺です。






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by wheatbaku | 2018-10-07 21:00 | 江戸のヒロイン
三沢局のお墓(江戸のヒロインの墓㉒)

三沢局のお墓(江戸のヒロインの墓㉒)

 前回紹介した阿茶局のお墓のある雲光院のすぐそばに浄心寺があります。

 浄心寺に眠っている江戸のヒロインは4代将軍徳川家綱の乳母三沢局です。

 ただ、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていないので、注目していない人も多いと思います。

 浄心寺は、雲光院の南西にあります。

 浄心寺は、三沢局の菩提を弔うため、万治元年(1658)に創建された日蓮宗のお寺で、江戸時代は十万石の格式をもつ大寺院で、身延山の出開帳がしばしば行われた日蓮宗の名刹です。(下写真が本堂です)

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三沢局のお墓は、本堂の左手の西側にある墓所の中央最奥部にあります。

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 三沢局は、3代将軍徳川家綱の乳母です。

 慶長16年(1611)に三沢為毘(ためあきら)の娘として生まれました。

大名茶人や造園家として有名な近江小室藩主小堀政一つまり小堀遠州の側室となり、寛永18年(1641)に5男政貞を生みました。同じ年、徳川家綱が生まれ、家綱の乳母として召し出されました。

慶安4年(1651)に家綱が4代将軍に就任すると御年寄に昇進し、本丸御殿へ移り、大奥老女として重用されました。

明暦2年(1656)3月30日亡くなりました。法名は「浄心院殿妙秀日求大姉」といいます。享年46歳でした。

亡くなった2年後の 万治元年(1658)三沢局の生前の願いにより将軍家綱により江戸深川に浄心寺の建立がゆるされ、三沢局が開基とされました。

なお、三沢局は、谷中の延命院の開基でもあります。

延命院については、下記の記事をお読みください。



赤印が浄心寺です。青印が雲光院です。








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by wheatbaku | 2018-10-02 21:07 | 江戸のヒロイン
阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

阿茶局のお墓(江戸のヒロインの墓㉑)

 阿茶局のお墓については、以前、京都の金戒光明寺にある阿茶局のお墓を紹介しました。

阿茶局のお墓は、東京の深川の雲光院にもあります。

 

 雲光院は、慶長16年(1611)阿茶局により、増上寺の高僧であった潮呑上人を初代住職として創建された浄土宗のお寺です。阿茶局の法名「雲光院」がそのままお寺の名称となっています。(下写真が本堂です。)

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 最初に創建されたのは、現在の中央区馬喰町付近でしたが、明暦の大火で焼失し、神田岩井町に移転した後、天和2年(1682)現在の深川に移転しました。

 雲光院は、東京メトロ清澄白河駅 出口から徒歩8分の場所にあります。

 雲光院に向かう途中に、松平定信のお墓があることで有名な霊厳寺や深川江戸資料館があります。

 阿茶局のお墓は本堂の右側(方位でいうと北側)の墓所のほぼ中央部の最奥部にあります。

 大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)で雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉と刻まれています。(下写真)

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 阿茶局については、以前も書きましたが、今日は少し詳しく書いておきます。

阿茶局は、武田氏の家臣飯田直政の娘として生まれ、今川家臣神尾忠重に嫁ぎ、夫の死後、寡婦となっていましたが、天正7年(1579)、徳川家康に召し出され家康に仕えました。

阿茶局は戦場にも随行し、小牧長久手の戦いの際にも妊娠していた身で戦場にいて、結果的に流産してしまいました。

阿茶局は、才知に優れ、側室よりも側近といったほうがよく、大坂冬の陣では、淀君の妹で京極高次の妻常高院と交渉し、大坂城に入り和睦の使者となって淀君・秀頼母子の誓書をとっています。

元和2年に徳川家康がなくなった際にも、通常であれば側室も落飾するのですが、徳川家康の命令により髪を下ろしませんでした。

徳川家康が亡くなった後も、徳川秀忠の信頼は厚く、秀忠の娘和子の入内の際には、母代わりをつとめました。

その後、皇女(のちの明正天皇)誕生にも立ち会いました。

そうしたことから、元和9年(1623)、朝廷より、従一位をさずけられました。そのため、神尾一位局とよばれました。

 寛永9年、徳川秀忠が亡くなった際に、剃髪し、雲光院と名乗りました。

 家康没後、竹橋門内に屋敷を拝領し、そこに住んでいましたが、寛永14年(1637)正月22日に83歳でなくなりました。

 そして、当時、日本橋馬喰町にあった雲光院に埋葬されました。

 なお、雲光院のホームページには、「(阿茶局は)京都にて逝去されたと伝えられ、晩年の活躍の場であった京都東山金戒光明寺に葬られ(た)」と書いてあります。

多くの本には、深川の雲光院に埋葬されたと書いてありますので、雲光院さんに、事情を伺ったところ、「ホームページの内容は間違っています。京都の金戒光明寺のお墓は供養塔です」という回答でした。 

赤印が雲光院です。
青印が霊厳寺です。
ピンクが深川江戸資料館です。






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by wheatbaku | 2018-09-29 19:41 | 江戸のヒロイン
瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

瑤泉院のお墓(江戸のヒロインの墓⑳) 

前回ご紹介したお岩さんのお墓のある妙行寺に、瑤泉院のお墓がありますので、ご紹介します。

 

 瑤泉院のお墓は、お岩さんのお墓へ向かう途中にありますので、お岩さんのお墓を目印にするとすぐにわかります。

 瑤泉院のお墓は、浅野家の奥方のお墓がある一画にあります。

 浅野家の墓所の中央には、浅野内匠頭長矩のおじいさん浅野長直の奥方つまり浅野内匠頭長矩のお祖母さんのお墓があります。お墓には高光院殿と刻まれています。(下写真)

c0187004_20474611.jpg

瑤泉院のお墓は、高光院殿の左手にあります。

瑤泉院のお墓は泉岳寺にあります。妙行寺にあるのは供養塔です。

瑤泉院は、松の廊下の刃傷事件により浅野家が断絶となったため、お祖母さんの供養がされなくなると心配したため、永代供養料として30両を妙行寺に納めました。

妙行寺の供養塔はそのことを記念して昭和28年に建立されたものです。

c0187004_20472446.jpg

瑤泉院は、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。

 誕生した翌年の延宝3年、浅野長矩との縁組願いが提出され、延宝5年阿久利4歳で結納が交わされ婚約が成立しました。

長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。

翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。

二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。

浅野内匠頭長矩と阿久利の間には子供は生まれませんでしたが、二人の仲は非常に良かったようです。

元禄14年(1701314日、浅野内匠頭長矩が江戸城松之廊下で吉良上野介義央に斬りつける刃傷事件を起こし即日切腹した際にも、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。

 浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。

 後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。

 それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごしました、

 そうした生活の中で、瑤泉院は、赤穂浪士の遺児たちの赦免に尽力しました。

 赤穂浪士が討ち入りした時点で15歳に達していた赤穂浪士の遺児4人は伊豆大島に流されていました。その遺児たちが宝永3年(1705)にご赦免となりましたが、このご赦免に尽力しました。

 遺児たちが赦免となった9年後の正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。



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by wheatbaku | 2018-09-27 19:59 | 江戸のヒロイン
お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

お岩さんのお墓(江戸のヒロインの墓⑲)

江戸のヒロインの墓ですが、今日は四谷怪談で有名なお岩さんのお墓を案内します。

 お岩さんは「東海道四谷怪談」の主人公として大変有名ですので、お岩さんは芝居上の人物だと思う人が多いと思いますが、そのモデルとなったお岩さんは、実在の人物とされています。

 そのお岩さんのお墓があるのは、西巣鴨の妙行寺です。(下写真は本堂です)

c0187004_20004898.jpg

 都営地下鉄西巣鴨駅A4番出口から徒歩6分の距離にあります。

妙行寺は、法華宗陣門流のお寺です。

妙行寺は、寛永元年に赤坂に創建され、江戸時代には四谷鮫ヶ橋にありました。

明治40年に東京府による市区改正事業のため現在地へ移転しました。

妙行寺の宗派は法華宗(陣門流)のお寺です。日蓮の流れをくむ宗派は日蓮宗だけだと思いましたが、実は多くの宗派があるようです。

日蓮宗は久遠寺(身延町)を中心とする宗派で、日蓮宗のほかに、法華宗があります。さらに、法華宗にも多くの教団があり、法華宗(陣門流)というのは、新潟県三条市にある総本山本成寺を中心とする教団だそうです。

 お岩さんのお墓は本堂西側の墓所の最奥部にありますが、案内がしっかりしているので、探すのは容易です。

c0187004_20005993.jpg

実在のお岩さんは、御家人の田宮又左衛門の娘で、旦那さんは田宮伊右衛門といいました。

妙行寺の説明では、夫の田宮伊右衛門は、隣家の娘とねんごろになりお岩さんを虐待していました。

お岩さんは、寛永13年2月22日になくなり、妙行寺に葬られました。

当時、妙行寺は四谷にありましたので、田宮家とはあまり遠くありませんでした。

最初、お岩さんの法名は「得証妙念」という簡単なものでしたが、田宮家には「災い」がたえなかったため、「得證院妙念日正大姉」と改めました。それからは、田宮家にも災いがなくなったといいます。

お岩さんがなくなったのは寛永年間で、お岩さんが主人公の有名な「東海道四谷怪談」を鶴屋南北が書いたのはお岩さんがなくなって約200年もの後です。

現在も、お岩さんに塔婆を捧げ熱心に祈れば願い事が叶うということから多くの塔婆が捧げられています。

赤印が妙行寺です。






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by wheatbaku | 2018-09-25 19:50 | 江戸のヒロイン
  

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