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船遊山(江戸の祭礼と歳事)
 昨日は、東都歳事記の5月28日の項を紹介しました。
 今日は、守貞謾稿にも『5月28日 浅草川川開き』という項があり、両国の様子が書かれていますので、その紹介から始めます。
近世風俗志(守貞謾稿)をお持ちの方は、4巻の217ページを見てください。
 そこには次のように書かれています

五月二十八日 浅草川川開きc0187004_15510764.jpg 今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮限りなり。今日より夜を聴す。その他観場および音曲、あるひは咄・講談のよせと云ふ席等も、今日より夜行を聴す。今夜大花火ありて、後納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根船に乗じ、浅草川を逍遥し、また両国橋下につむぎ涼むを、橋間にすゞむと云ふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く。

 この中で、注目すべきことは、花火の費用が、「船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり」 と書かれていることです。 
 花火の費用は、船宿などが負担していたのですね。やっぱり客寄せの面もあったと思われます。
 船宿というのは納涼・遊郭への往復、宴会などに利用された宿です。

 その船宿がどこに多かったかについて、東都歳事記に書かれています。
 東都歳事記には、昨日書いた「夕涼み」に続いて「船遊山」という項目があり、大変詳しく書かれています。
 最初は次のように書かれています。
 船遊山  両国より浅草川を第一とす。花火の夜はことに多し。やかたぶねの名は「江戸砂子拾遺」に百艘を挙ぐ。今は次第に減じて、屋根船(本名日よけ舟)のみ、年々に多くなれり

 そして、その後に船宿が多い場所が列挙されています。

 船宿  日本橋東西河岸・鞘町河岸・本銀町壹丁目・江戸橋・堀江町・伊勢町・両国橋東西・柳橋・米澤町・本所一ツ目辺・石原・浅草川吾妻橋の東西・鉄砲洲・霊元島(後略)

 東都歳事記には、屋形船についても説明しています。
 屋形船は、東都歳事記にも、守貞謾稿にも、幕末には少なくなったように書かれていますが、東都歳事記に面白いことが書いてありましたので、紹介しておきます。

 屋形船は、寛永の頃より時花(はやり)出て、百艘に極りしとぞ。東國丸といへるを大船の始とし、夫より続て、熊市丸、山市丸あり。
 熊市は座敷九間に台所一間ある故なり。
 山市は座敷八間台所一間ありし故なり。(後略)

 これおもしろいですね。

 さらに猪牙船の由来について書いてありましたが、それがおもしろいのでそれについて書いておきます。

 (菊岡)沾凉が「世事談」に「猪牙舟は明暦の頃両国橋笹屋利兵衛見付の玉屋勘兵衛と云う者これを造る。押送りの長吉というもの、船を薬研の形に作り、魚荷を積て押に、至て早し。是を考へてつくるものなり。長吉船というべかりけるを、ちょき舟と云えり。近年猪牙の2字を用う。猪の牙に状(かたち)似たるゆえか」とあり。

 なるほど、なるほど! 最初は長吉という人が工夫したので長吉船と呼ばれていたのがいつしか「ちょき船」と呼ばれるようになったという説があるんですね。





by wheatbaku | 2015-05-28 11:32 | 江戸の祭礼歳事
夕涼み
 「東都歳時記」をお持ちの方、5月28日の項を読んでみてください。
 両国橋の両側、いわゆる両国広小路が大変な盛り場であったということは知っていましたが、「東都歳事記」という身近な本に、こんなに詳しく書いてあるということを初めてしりました。

c0187004_23530427.jpg 「東都歳事記」には次のように両国橋の夕涼みの様子が書かれています。 「両国橋の夕涼今日より始り、八月二十八日に終る。ならびに茶屋、見せ物、夜店の始にして、今夜より花火ともす。逐夜貴賎群衆す」
とあります。
 
納涼と言えば両国橋が大変有名でした。
「この地四時蕃昌(はんじょう)なるが中にも、納涼の頃の賑はしさは余国にたぐひすべき方はあらじ」と書かれていて、いつも賑やかな両国橋周辺が納涼の頃は一層賑わった書いてあります。
 その賑わいの様子も「東都歳事記」に書かれています。

 私なりに書かれている内容の概略を書いてみると次のようになります。

 両岸には茶店がならびきれいどころが客をさそっている。
 路には、つなわたり、かるわざ、なんきんあやつり、さるしばい、そのほか、珍獣などの看板をかかげたみせ物などの小屋が並んでいる。
 また、楊弓(ようきゅう)、影芝居、落語、髪結い床、人相観、占い師、水菓子、心太売りなどがあり、ないものはないという賑わいぶりである。
 日が暮れてくると茶店の軒にともしびが灯って、まるで暗闇がない国のようである。
 雷のようなすごい音がするので驚いて首を上げてみると、花火が天空に広がっている。
 両国橋で遊んでいる人は、金持ちも貧しい人も金を惜しまないというのももっともなことである。
 誠に世界第一の見事な景観である。

 納涼は、3代将軍家光の時代である寛永・慶安年間に始って、承応年間には盛んになっていたとも言います。

 そして、明暦3年(1657)の明暦の大火後、両国橋が架けられました。
 両国橋の東西のたもとは、橋に類焼しないように広小路が設けられました。
 そして、恒久的な建物の建築が禁止されたため、すぐに解体できる床店や芝居小屋・見世物小屋が建てられました。
 そのため、江戸随一の盛り場となりました。

 天保4年の瓦版「両国八景はうたいよぶし」には次のように両国の見世物が詠いこまれています。
「これは両国盛り場の名寄せ、咄講釈浄瑠璃や、万作踊りに小供芝居、操人形、軽業じゃ、子供新内、玉ぞろい、楊弓、茶見世に花火船、続いて影芝居、さっても願おう夕涼に江戸の花」

 両国橋には、いろいろな見世物があったんですね。




by wheatbaku | 2015-05-27 09:32 | 江戸の祭礼歳事
相馬野馬追騎馬武者(神田祭② 江戸の祭礼と歳事)
 今日は昨日に続いて神田祭についてですが、相馬野馬追の騎馬武者のお話を書こうと思います。
 先日の神田祭では、相馬野馬追の騎馬武者が9騎、附け祭に参加して、勇壮な姿を見せてくれました。
 しかし、この騎馬武者は、江戸時代の神田祭に参加していたわけではありません。
c0187004_10182923.jpg 平成2年から神田祭に参加するようになったものです。
 なぜ福島県の相馬野馬追と東京の神田明神と関係あるのだろうと思う人も多いと思います。

 この相馬野馬追の騎馬武者は、神田明神の御祭神平将門と関係があります。

 平将門は、桓武天皇の5世の孫で、いわゆる桓武平氏の一族です。 平安時代中期の承平5年(935),一族との争いが起きて,叔父の国香を殺害し、天慶2年(939)に、常陸・下野・上野の国府を攻せめおとし,自ら新皇(しんのう)と称しました。
 一時は関東全体を従えましたが,翌年,藤原秀郷・平貞盛らによって滅ぼされました。 これが有名な天慶の乱です。
c0187004_10185916.jpg 殺害された将門の首は、京都に送られ獄門となりました。
 その首が京から持ち去られて、現在の大手町に葬られました、それが、将門の首塚であると言われています。
 その後、将門の首が葬られた塚の周辺では、疫病の発生や天変地異が起こり、これが将門の祟りであるとして周辺の人々から怖れられました。
 そうした中で時代が下り、鎌倉時代に時宗の僧侶真教上人が塚を訪れ、平将門の供養を行ない霊を慰め、さらに、塚近くの神田明神にお祀りしました。
 これ以降、平将門は神田明神の御祭神として崇められました。

 相馬野馬追が開催される南相馬市は、江戸時代には、相馬中村藩と呼ばれました。
 この相馬中村藩の藩主は相馬氏です。
 この相馬氏の直接の祖は坂東平氏の一つ千葉氏の祖千葉常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)です。
 千葉師常は下総国相馬郡(現在の千葉県柏市北部や我孫子市、さらに茨城県守谷市一帯)を領して相馬氏を名乗りましたが、源頼朝の奥州平泉討伐の功によって陸奥国行方郡(なめかたぐん:現在の南相馬市・相馬郡飯舘村)を与えられました。
c0187004_10192432.jpg   その後,千葉胤村の五男師胤が行方郡の所領を譲られて,その子重胤が一族とともに行方郡に下向しました。
 それ以後、下総国相馬郡に残った相馬氏は下総相馬氏、奥州に移住した相馬氏は奥州相馬氏と呼ばれました。
 下総相馬氏は、戦国時代には北条氏に仕えましたが、豊臣秀吉の北条征伐により、北条氏とともに滅びます。
 一方、奥州相馬氏は、戦国時代を生き残り、江戸時代には相馬中村藩を領して明治維新を迎えました。

 この相馬氏は直接的には千葉氏の一族ですが、平将門が幼名「相馬小次郎」と称したとされ、千葉師常は相馬氏の養子として迎えられたという言い伝えもあって、相馬氏は平将門の後裔とも言われています。
 ですから、神田明神と相馬氏は平将門を介して深い関係があります。

c0187004_10194885.jpg ところで、平将門を御祭神とする神田明神の随神門(右上写真)の2層の左右にに繋ぎ馬の彫刻があります。
 気づきましたか?
 この繋ぎ馬は平将門の紋とも言われていますが、中村藩相馬家の家紋でもあります。
 右下写真は、文化元年の武鑑の相馬氏の部分ですが、家紋が繋ぎ馬であることがわかると思います。
 こんなところにも、神田明神、平将門、相馬氏の関係がのぞいています。

c0187004_10215225.jpg 平将門と相馬氏との間にはこのような関係があり、有名な相馬野馬追について書いた南相馬市のホームページを見てみると
 (相馬野馬追は)一千有余年の昔、相馬氏の祖といわれている平将門が下総国(千葉県北西部)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられる
 と書かれています。
 つまり、相馬野馬追の原型を作ったのは平将門という言い伝えがあります。

 相馬中村藩では、江戸時代を通じて、野馬追行事を、戦闘訓練の場として重視してきました。
c0187004_10222315.jpg 現在でもその伝統が受け継がれ、相馬野馬追は、毎年7月末の土曜日・日曜日・月曜日に開催されます。
 平成23年に起きた東日本大震災で大きな被害を受けた南相馬市ですが、大震災にもめげす、大震災が起きた年も相馬野馬追を実施したと出陣式の際、南相馬市桜井市長が挨拶されていました。
 桜井市長は出陣式の挨拶だけでなく、実際に馬に乗って騎馬武者隊の先頭を進んでいました。
 右上写真は、有馬小学校を出発する騎馬武者隊の先頭に立つ桜井市長です。

c0187004_12355542.jpg 相馬野馬追当日は、甲冑に身を固めた500余騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指物をつけて疾走する豪華絢爛で勇壮な戦国絵巻を繰り広げるそうです。
 相馬野馬追はまだ見たことがありませんが、相馬野馬追の騎馬武者の勇壮な姿の一端を、神田祭で垣間見ることができました。
 また、東日本大震災にも負けず祭に参加される相馬野馬追の騎馬武者の皆さんから元気をもらった神田祭でもありました。











by wheatbaku | 2015-05-13 10:16 | 江戸の祭礼歳事
神幸祭と附け祭(神田祭① 江戸の祭礼と歳事)

土曜日に神田祭の神幸祭と附け祭の巡行を見てきましたので、日曜日には、その様子をアップしました。

 しかし、昨日のブログでアップしたように、日曜日には「1級合格者の集い」があり、慌ただしかったので、説明は省略して、写真だけのアップでした。
 それにもかかわらず、記事を見て、コメントやメールで神田祭の様子がよくわかるという感想をいただきました。

 喜んでいただいたようですが、そもそも写真だけでは不十分だと思っていましたので、今日は少し説明を加えながら再度掲載します。

 前回と順序を変えて、神幸祭の方からご案内します。

神幸祭

 神幸祭は、午前8時に神田明神を出発します。

 そのコースは神田地区から日本橋地区つまり神田明神の氏子町をすべて回るという長いコースです。

c0187004_21223960.jpg

 行列の人数は1000人程、500mもの長さになるそうです。

 その中心は、鳳輦・神輿です。

 神輿とは、漢字の通り神の乗る輿です。つまり神様の乗り物です。

 鳳輦とは、国語辞書では、金色の鳳凰の飾りをつけた輿をいうと書いてありますが、神田明神のガイドブックでは、「鳳輦は胴部分が箱形で空洞になっている、神輿の方は、胴がくびれたような形になっている」と書いてあります。

 神田明神の御祭神は三柱ですので3基あります。

一の宮鳳輦

c0187004_21065537.jpg神田明神の一の宮は、大己貴命(おおなむちのみこと)を乗せています。
 大己貴命(おおなむちのみこと)は、天平2年(730)の神田明神の創建時にお祀りされたとされている御祭神です。

 別名「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と呼ばれ、親しくは「だいこくさま」とも呼ばれています。

 鳳輦は昭和27年に作られたものです。

二の宮神輿

c0187004_21073226.jpg 二の宮は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を乗せています。

 「少彦名命」は、俗に「えびすさま」と呼ばれている神様です。

 明治7年に大洗磯崎神社から勧請された神様です。

 この御神輿は日本橋三越から奉納されたものだそうです。

三の宮鳳輦

c0187004_21075600.jpg 三の宮は、平将門を乗せています。

 神田明神では「まさかど様」と呼んでいます。

 平将門は、鎌倉時代の延慶2年(1309)に神田明神にお祀りされるようになったと言われています。

しかし、明治7年に本殿から摂社に移されてしまいました。

それが、昭和59年に本殿の御祭神として復座しました。

 この鳳輦は、復座後の昭和62年に作られたものです。

 神幸祭では、鳳輦・神輿のほかにも、注目すべきものが巡行していました。

 まず諫鼓(かんこ)山車です。

諫鼓(かんこ)山車

c0187004_21102269.jpg 諫鼓というのは、中国で皇帝の政治を諌める時に打ち鳴らす太鼓です。良い政治が続き平和が続くと諫鼓が打ち鳴らされないので、諫鼓の上に鶏が止まるようになるという話があります。

 江戸時代も長く平和がつづいたことから諫鼓鶏が神田祭と山王祭の一番山車と曳かれました。

 それを平成2年に再興したものです。

 現在の諫鼓山車には、だいこく様とえびす様が乗っています。

 いうまでなく、たいこく様は一の宮であり、えびす様は二の宮です。

獅子頭

c0187004_21111032.jpg 獅子頭は、雌雄の獅子を飾り付けしたもので、行列を守護する役目を果たします。

関東大震災で消失していましたが、昭和58年、復興したものです。

附け祭

附け祭と聞いて、附け祭って何?と思う人もいると思います。

資料館の説明には

「江戸時代に流行した文化芸能を多様に採りいれた舞台や底抜屋台、地走踊(じばしりおどり)、引物や仮装行列のことで、各氏子町で競い合い毎回趣向を凝らし衆目を魅了した行列であった」

と書いてあります。

簡単にいうと、中学校や高校の文化祭や体育祭でやった仮装行列をイメージするといいのかぁと私は思っています。

江戸時代には、この附け祭が大変人気があったようで、現在の神田祭でも次々と附け祭を復活させています。
 現在の附け祭は、有馬小学校から3時に出発し、神幸祭の巡るルートとは一部違うルートを進み神田明神まで行列しました。

浦島太郎

c0187004_21140291.jpg 平成27年つまり今回復活したのが浦島太郎です。

 これも、江戸時代の神田祭に曳きだされていたものを復活したものです。

 確かに文久元年頃に描かれたと言われる「神田明神祭礼絵巻」にも描かれていますので、幕末の神田祭には曳かれていたものです。

 亀に乗った浦島太郎で、背後の赤いものは竜宮城の門です。

花咲か爺さん

c0187004_21142394.jpg 前回の神田祭で復活したものです。

 右写真は、スタート前の写真ですので、花咲か爺さんがいませんが、実際の行列では花咲か爺さん役の人が乗っているようです。

 その様子を写真に撮ろうと思っていましたが、当日は一の宮を追いかけるのに夢中でしたので、撮る余裕がありませんでした。

大江山凱陣

c0187004_09302611.jpg これは江戸名所図会にも挿絵にも描かれている有名なものですが、その絵を見て何が書いてあるんだろうと思う人もいると思います。(最下段の画像をご覧ください)

 大江山凱陣というのは鬼の首の出し物です。

 なぜ、鬼の首が大江山凱陣と呼ばれるのかですが、その為には酒呑童子のお話を知っておく必要があります。

 京都近くの大江山に酒呑童子と呼ばれる鬼が住んでいて都を荒らしまわっていました。

 そこで、源頼光(みなもとのよりみつ)および、四天王の坂田公時、渡辺綱、ト部季武(うらべすえたけ)、碓井貞光が、大江山へ差し向けられて。酒呑童子を退治しました。

 大江山凱陣は、源頼光らが酒呑童子の首を持って都に凱旋してくる景色を真似たものです。

 ですから、鬼の首が曳き回されるわけです。

大鯰(なまず)と要石(かなめいし)

c0187004_09340559.jpg この出し物は、神田明神祭礼絵巻にも描かれています。

 これも大鯰と要石についての話を知らないと理解できません。

 地震は今も大変怖い天災ですが、江戸時代も現在同様に怖れられていました。

江戸の庶民の間では、地震は地中の大鯰(おおなまず)が暴れて引き起こすものと信じられていました。

そこで、地震が起きないようにと大鯰を押さえ込んでいるとされるたのが「要石(かなめいし)」です。

鯰の上にある大きなな石が要石です

この出し物は、平成17年に復活されたものです。

 附け祭には、相馬野馬追の騎馬武者も参加していましたが、これについて書くとさらに長くなるので、騎馬武者については、明日書きます。

 下図が江戸名所図会に載っている「大江山凱陣」の挿絵です。
画像をクリックすると少し拡大されます。

c0187004_09321038.jpg



by wheatbaku | 2015-05-12 08:15 | 江戸の祭礼歳事
鎧冑飾り(端午の節句 江戸の祭礼と歳事)

 端午の節句についていろいろ勉強してきましたが、最後は、「鎧兜」について勉強しました

 東都歳事記によると、4月25日から5月4日まで、冑人形菖蒲刀幟市が立つと書かれています。

c0187004_00343922.jpg その冑ですが、私は、なんとなく鎧兜は金属製だと思っていました。 

 東都歳事記には、「鎧冑」については

五月五日 武家は更なり、町家に至る迄、七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、冑人形等飾る

 とだけ書かれているだけで、詳しいことは書いてありません。

 

そこで、近世風俗志(守貞謾稿)を読んでみますと、そこに、次のように詳しく書かれています。

今世の飾り鎧兜、その製金・革を用いず。厚紙を重ね張り、胴・草摺・小手・脚当、これを用ひて製造し、あるひは切小さねのごとく、その他種々。外見真の甲冑のごとく、蚕の組糸をもってこれを威し、紙張り表に漆し、あるひは黒ぬり、または鉄粉を塗り、所により鉑を押し、蒔絵を描き、金めつきの銅具を打ちて、精製なるあり

 なるほど、江戸時代の後期の鎧兜は、本物の鎧のように金属や革を用いず、厚紙を材料とし、兜だけでなく鎧まで製作されていたんですね。

しかも、それは、外見はまるで本物の甲冑のようだったようです。

紙の表面には、漆で黒くぬったり、鉄粉を塗ったりし、場所によっては箔押しし、蒔絵を描いたり、金メッキしたりして作った様子がわかります。

こんなに加工されているんですから随分立派なものだったようです。

さて、以上で端午の節句についてはおしまいですが、東都歳事記の五月六日には次のように書いてありました。

今日婦女子の佳節(せっく)と称して、遊楽を事とすれども、未(いまだ)その據(よ)るところを知らず

6日は婦女子の節句で、婦女子が遊ぶようだけれど、斉藤月岑もわからないと書いています。

書いている斎藤月岑がわからないのでは私もわからないなぁと思いながら注釈を読むと

 田植に先立つ物忌みに女がこもっていたことの名残であろう

と書いてあります。

まだ、わからん!

そこで、年中行事辞典をいくつ読んでみると、「日本まつりと年中行事事典」には

端午の節供を男の子の節供とし、3月の節供と対比させる考えが一般的となっているが、各地の習俗をみると女性に関する伝承も多い。この日を女の家・女の宿などと称する地方は広く分布し、嫁の里帰りの日と伝える所もある。

これらの例は、元来5月が皐月つまり田植え月であったことと関係が深いと考えられる。皐月は田植えという祭に際して斎戒禁欲し、田の神を迎える月であった。その月の初めに早乙女として祭りの主役をなす女性は忌み籠りをし神を祀った。

と書いてあります。

なるほど、そうか!!

日本の古来の習俗として、5月5日に、田植えを控えた女性が仕事をせずに籠った名残が、6日の婦女子の節句となったようですね。

私は納得しました。



by wheatbaku | 2015-05-06 10:10 | 江戸の祭礼歳事
鯉のぼり(端午の節句③ 江戸の祭礼と歳事)
 今日は、5月5日「子供の日」で、まさに端午の節句です。
 江戸時代は、江戸にいるお大名は江戸城に総登城しました。
 東都歳事記に書いてある「端午御祝儀、諸侯登城」です。
 今日も、端午の節句のお勉強をしましたので、端午の節句について書きます。

c0187004_11532223.jpg さて、端午の節句といえば、男の子がいる家庭では、鯉のぼりを飾ります。鯉のぼりを見ると端午の節句だと感じる風物詩でもあります。
 最近では、日本各地で鯉のぼりの集団が飾られ、ニュースの話題になったりもします。
 右写真は相模川の鯉のぼりです。
 このように鯉のぼりは端午の節句の象徴です。

 この鯉のぼりを描いた有名な浮世絵があります。
 歌川広重の名所江戸百景「駿河台水道橋」です。
 画面一杯に大きく一匹の鯉のぼりが大胆に描かれています。
広重の名所江戸百景は、大胆な構図で驚かされるものが多いののですが、この構図も抜群だと思います。
 この絵をよく見ると、大きな鯉のぼりの先にも鯉のぼりが数匹描かれています。
 これからすると、江戸時代でも鯉のぼりが空を泳いでいたように思いますよね。
 私は、そう思っていました。
c0187004_11534992.jpg
 しかし、「駿河台水道橋」は安政4年(1857)5月に出版されていますが、こうした光景は、この「駿河台水道橋」が描かれた江戸時代の後期の江戸の姿のようです。 
 東都歳事記によると、下記のように書いてあります。

 五月五日 武家は更なり、町家に至る迄、七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、冑人形等飾る、又坐鋪のぼりと號して、屋中へかざるは、近世の簡易也、紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也、出世の魚といへる諺により、男兒を祝するの意なるべし、たヾし東都の風俗なりといへり、初生の男ある家には、初の節句とて別て祝ふ

 この東都歳事記を読むとたくさんのことがわかります。
c0187004_11560237.jpg まず、端午の節句では、初期は、幟を戸外に立て、家の中に冑人形を飾っていたことです。
 そして、坐舗(=座敷)のぼりといって、家の中にかざるのは、最近の簡略な取扱いであること。
 紙で鯉の形にして幟と一緒に立てるのは最近のこととであり、これは鯉が出世魚と言われていることから男児のお祝いするためだろうということ。
 鯉のぼりは、江戸の風俗であること。

 東都歳事記によれば、鯉のぼりが飾られるようになったのは、江戸時代の後期のことになります。東都歳事記が出版されたのは天保9年(1838)のことですから。
 江戸時代の中期頃までは、端午の節句には、鯉のぼりではなく幟が戸外に立てられていました。
 幟というのは、某社の画像からお借りましたが、右写真のようなもので、鯉のぼりとは全く異なるものです。
 それが家の中でも飾られるようになり、そして、幟と一緒に鯉の形をした紙飾りが飾られるようになったということのようですね。
 しかも、鯉のぼりは、江戸だけ飾られていたようです。

 この幟を建てる風俗は、元寇の役に由来するという説があるそうで、守貞謾稿にも紹介してあります。 近世風俗志(守貞謾稿)では次のように書かれています。
 「前前太平記」に云う、後宇多院の御宇、弘安2年5月5日に、元の蒙古来たりし時、鎌倉北条家の政務として、天下万民に旗を建てさせ、その備えとして、今の世まで、この風俗欠かさざるは、その時異敵を退けし吉例を伝へ遺すなり。昔の時の事にはあらず、云々。
 ただし、 「いずれか是(ぜ)なる、識者に逢ひて訂正すべし」 と書いて、この説が正しいかどうかわからないと筆者の喜多川守貞も書いています。

 最後に、歌川広重が描いた鯉のぼりですが、布製に見えますが、布が貴重な江戸時代に、こんな豪華な布製の鯉のぼりがどのくらいあったのか疑問がわきました。
 しかし、疑問は解けませんでした。
 そこで、喜多川守貞風に「識者に逢ひて訂正すべし」と書いておきます。











by wheatbaku | 2015-05-05 11:30 | 江戸の祭礼歳事
粽と柏餅(端午の節句① 江戸の祭礼と歳事)
 まもなく端午の節句です。

 江戸検でも、五節句はかなり出題されています。しかし、どういうわけか端午の節句については過去一度も出題されたことはありません。
c0187004_12404814.jpg この過去問の傾向から、「今年も端午の節句は出題されないだろう」と考えるか、「いやいや、これまで出題されていないのであれば、今年は危ないのではないのかな」と考えるかは、受検される方が判断することだと思います。 
 ただ、私は、後者の考えですので、端午の節句について勉強しています。
 そこで、端午の節句に関連する事柄をブログにもアップしていこうと思います。

東都歳事記には
 五月五日 端午御祝儀、諸侯登城。粽(ちまき)献上あり。貴賤、佳節を祝す(家々軒場に菖蒲(しょうぶ)・蓬(よもぎ)をふく。菖蒲酒を飲み、また、粽・柏餅を製す、小児、菖蒲打ちの戯れをなす。
と書いてあります。

 ここでは、菖蒲と粽・柏餅について書いてあって、この後に「幟や冑人形」についての説明が続くのですが、長くなるので、幟等については、明日以降書きます。

 まず、端午の節句の由緒について書いてみます。
 日本年中行事辞典 (角川小辞典 16)には
 「端午 5月5日。端とははじめという意味(正月を端月という類)で、端午は、月のはじめの午の日をいうことば。 五月以外の月に使った用例もあり、必ずしも五月の第一の午の日と限定されなかったが、漢代もしくはそれ以後から五月五日をさして端午というようになった」
 と書いてあります。

 他の年中行事辞典を見てもほぼ同じように、「端午の端は初めの意で、端午とは5月の最初の午の日という意味であり、午と五の音が通じるため5月5日をさすようになった」というふうに書いてあります。
 いままではそう覚えていましたが、実は、最初の午の日がなんで5月5日になるのかと、なんとなくしっくりこないなぁと思っていました。
 一方、「東京年中行事1」には
 「端午は、支那では昔五と午の音の通ずるところから、端午の字を用いるようになったのである。端午の意は初五の意であって、必ずしも5月に限った名ではなかったのが、五月の節の重んぜらるるに至って、自然と五月五日のことをさすようになったのである」
 と書いてあります。
 五日をさす五が音の似ている午になったというのです。
 こちらの方が、私は理解しやすように思います。

 さて、端午の節句の食べ物といえば「柏餅と粽(ちまき)」だと思います。
c0187004_12372004.jpg そこで。「粽と柏餅」について書きます。
 関東に住む私たちは、端午の節句と云えば「柏餅」ですが、「柏餅」が端午の節句に食べるようになったのは、江戸時代になってからで、それまでは、端午の節句といえば粽だったようです。

 松下幸子千葉大学名誉教授のコメントには次のように書かれています。
 「江戸初期までは、端午の節句菓子は粽で、中期から柏餅が併用され、後期には関東では柏餅、関西では粽が主流となり現在に至るということのようです。」
 なるほど! なるほど!

 粽は中国から伝来したものです。
 中国古代の楚の国の詩人・政治家である屈原(くつげん)が川に身を投げて非業の死を遂げ、その屈原の霊を慰めるために人々が命日の5月5日に供えた物が粽でした。
 奈良時代には粽の原型が見られ、平安時代の「延喜式」にはその名前が見られるとのことです。

 そして江戸時代後期の様子は 守貞謾稿に次のように書いてあります。

 京坂にては、男児生まれて初の端午には、親族および知音(ちいん)の方に粽を配り、2年目よりは柏餅を贈ること、上巳の菱餅と戴(いただき)のごとし。

 その後に、具体的に粽の挿絵を載せて、粽について詳しく書いてあります。(下図参照)
 江戸検を受検される方で近世風俗志(守貞謾稿)をお持ちの方は214ページから215ページを読んでみてください。
c0187004_12350949.jpg
 柏餅は、江戸時代後期に関東で広まったようです。
 柏餅が広まった時期については、宝暦の頃、天明の頃と諸説あるようです。
 柏の葉は、新芽が出てから古い葉が落ちるので、子孫繁栄の縁起をかついで武家の間で大事にされました。
 こうしたことから、柏餅が武士の町江戸で広まったものと思われます。

c0187004_12381685.jpg 守貞謾稿では、柏餅についても詳しく書いてあります。

 江戸にては、初年より柏餅を贈る。三都ともその製は、米の粉をねりて、円形扁平となし、二つ折りとなし。間に砂糖入り小豆餡を挟み、柏葉、大なるは一枚を二つ折りにして、これを包む。小なるは二枚をもって包み蒸す。
 江戸にては、砂糖入り味噌をも餡にかへ交ぜるなり。
 小豆餡には柏葉を表に出し。みそ噌には裡(うら)を出して標とす。

 江戸では、小豆餡の他に味噌餡の柏餅があったんだぁ。
 なるほど!なるほど!
 そして、柏の葉の裏表で、それを区別していたのですね。
 賢い!! 
 そして、これを詠んだ川柳までありました。
 
  葉うらうら 葉表おもて 味噌とあん

 さらに、こんな川柳もあります。

  かしわ餅 念頃ぶり「(親しいところ)は 味噌もやり




by wheatbaku | 2015-05-03 12:24 | 江戸の祭礼歳事
冑市(かぶといち) (江戸の祭礼と歳事)
 今日は、東都歳事記から歳事の話題です。

 4月25日から5月4日まで、3月の雛人形と同じように冑や人形を売る市つまり冑市がたちました。

 東都歳事記には次のように書かれています。

廿五日 
 今日より五月四日迄、冑人形、菖蒲刀、幟の市立、〈場所は三月の雛市に同じく、往還に小屋を構へ、甲冑、上り冑、幟旗挿物、馬印、菖蒲刀、鎗長刀、弓箭、鉄砲、偃月刀(せいりゅうとう)、其外和漢の兵器、鍾馗像、武將勇士の人形等を售ふ、夜にいたれば、燈燭にかヾやきてうるはしく、買人昼夜にたえず。
 再刻の江戸総鹿子に云、通塩町、昔は此町にて冑人形細工人多く、塩町人形と号し、其製麁(そ:雑なこと)なり、価の賤(やす)きをもって、田舍人のもてはやしける、今はこの名をだに知る人稀なり云々、 此節より菖蒲刀、街を売り歩行(ある)く、〉
 男子ある家には、おおかた今日より5月6日までのぼりをたつる。

c0187004_1720412.jpg 雛市は、2月25日から3月2日まで、十軒店などで開かれましたが、端午の節句を前に、冑や人形を売る市が開かれた様子が書かれています。

 絵本風俗往来には
 大名方・旗本衆ならびに町方の富める家々は前々より調え、注文御出入にて引き受けて納む。十軒店見世売りはこの以下の者の需めに応ず。されば品物も店先に飾り並べて商うは並製多し。即ち仕入数物なり。もし上物を求めんとならば、前々より注文し、金力惜しまざるにしかずとなり。

 と書いてあります。

 十軒店で普通に買うのでは、普通のものしか買えないようです。
 しかし、庶民は、普通のもので良かったのではないでしょうか。
 ですから、東都歳事記の挿絵(右)のように、十軒店の冑市が大勢のお客でにぎわったのでしょう。
by wheatbaku | 2015-04-23 17:21 | 江戸の祭礼歳事
安居(あんご)  (江戸の祭礼と歳事)
 ブログをお読みの皆さん、「安居(あんご)」という言葉を知っていますか?
 今日は、そのお話を書きます。

 江戸検を受検される方は「東都歳事記」を持っている方もいらっしゃると思います。
 その「東都歳事記」の4月15日の項に
「浮屠(ほうし:僧侶)の結夏(けつが)また安居(あんご)」と書かれています。
「安居(あんご)」という言葉を私も初めて知りました。

 この安居(あんご)について、東洋文庫の「東都歳事記」には注釈がのっています。、
しかし、ちょっとわかりにくいので、「安居」は仏教用語のようなので、仏教関係の辞典を調べました。
 そのため、アップが一日遅くなりました。

 わかりやすく書かれていた「仏教大辞典」と「岩波仏教辞典」を参考に「安居」について書いてみます。

 「安居」というのは、もともとはインドの降雨季の行事で、4月16日から7月15日までの90日間、一定の場所に住んで、もっぱら研究修養に勤めることだったようです。
 これを行うのは、雨が降って外出に不便になることやこの期間に外出すると草木の若芽を踏んだり小さな虫類を踏み殺すことが多いのでそれを防ぐためだったようです。

 c0187004_23205775.jpg気候風土の異なり、雨期がない中国・日本でも行われ、日本では、天武12年に初めて行われ、平安時代以降は一般の寺院でも行われるようになりました。
 特に禅宗においては、厳しく行われ、夏だけでなく冬も行われます。
 夏は「夏安居(げあんご)」と言い、冬は「冬安居(とうあんご)」というそうです。
 

 安居の開始は、夏安居の制度を結ぶということから「結夏(けつげ)」といい、また「結制」ともいいます。
また、安居の終了は、夏安居の制度を解くことから「解夏(げげ)」といい、また「解制」といいました。
 
 この「結夏(けつげ)」が、「東都歳事記」のタイトルになっているわけです。

 こうしたことを踏まえて、東都歳事記の文章を読むといくらかわかったような気がします。

 「浮屠(ほうし:僧侶)の結夏(けつが)また安居(あんご)」
  今日より始まり(これを結制という)、7月15日に終わる(これを解夏、また解制という)
  90日禁足して外に出ず。草木虫類をやぶらん事を厭うが故なりとぞ

by wheatbaku | 2015-04-15 23:22 | 江戸の祭礼歳事
灌仏会(江戸の祭礼と歳事)
  今日、4月8日は「灌仏会(かんぶつえ)」別名「花祭」です。
  今日は、「灌仏会」について書きます。
 「灌仏会」は、お釈迦様が誕生したのは4月8日と言われていて、お釈迦様の誕生を祝う行事です。キリスト教のクリスマスと同じことになります。

c0187004_09494609.jpg 「東都歳事記」には、挿絵とともに次のように書かれています。
 灌仏会 諸宗寺院勤行あり、本堂中または境内に花の堂を儲(もう)け、銅像の釈迦仏を安じ、参詣の諸人に柄杓をもって香水を仏頂に澆(そそ)ぎ奉る。

 現在では、「東都歳事記」に書かれている「花の堂」は「花御堂(はなみどう)と呼ばれ、香水ではなく甘茶が灌がれますが、そうなった経緯について、浅草寺のホームページに由来が書かれています。

 故事によるとお釈迦さまご誕生の際、天から九頭龍(くずりゅう)が舞い降りてきて甘露(かんろ)を灌(そそ)いだといわれています。
 これにちなんで、日本ではお釈迦さまの誕生仏に香水を灌ぐ儀式が行われてきましたが、江戸時代からは香水に代わって甘茶(霊水である甘露になぞらえている)を灌ぐようになりました。
 また、近年ではお釈迦さまがルンビニの花園で誕生したというお話から、誕生仏を花御堂(はなみどう)に安置して祝うようになりました。

 「東都歳事記」にも、灌仏会を行う寺院の主なものとして、東叡山、増上寺、浅草寺、本所回向院、同弥勒寺、大塚護国寺、牛込済松寺、小石川伝通院があげられています。

 現在でも、インターネットで検索すると、寛永寺、増上寺、浅草寺、護国寺(先週日曜日実施)、伝通院で、灌仏会が開催されているようです。 代表的な浅草寺か寛永寺に行こうかと思いましたが、あいにくの真冬並みの天気で、出かけるのはやめることにしました。

 灌仏会で詠んだ川柳におもしろいものがあります。

 あれを聞け あれをば食へと 指を差し

c0187004_09493869.jpg お釈迦様は、生まれるとともに 右手を天に差し、左手を地に指して、「天上天下唯我独尊」と唱えたと言われています。
 灌仏会で祀られるお釈迦様の仏像も、その姿を現しています。

 この姿にあわせて、右手は、天を指して、ホトトギスの鳴き声を聞けと言っており、左手は、初鰹を指して 「あれをば食え」と言っているようだという意味です。

 灌仏会には、一般の家庭では、卯の花(右下写真)を挿す習慣がありました。
 「東都歳事記」には次のように書かれています。

 在家にも新茶を煮て仏に供し、卯の花をささげ、また戸外に卯の花を挿すなり。

これを詠んだ川柳もあります。

 卯の花に 柊取って 捨てられる
 卯の花の 片手に持ちし 枯れ柊

c0187004_09554701.jpg 柊は節分に、各家庭の門口に挿されたものです。
 この柊と卯の花が挿し替えられるという意味です。
 現在では、節分の柊は節分が終わるとすぐに取り払われますが、江戸時代には、灌仏会の頃まで挿されたままだったようですね。


 「東都歳事記」には、「花くそ」という不思議な名前の餅についても書いています。

 今日仏に供する所の餅を号して、「いただき」、また「花くそ」といふ。
 「年中行事大成」に、花供御(はなくご)の誤にやといえへり

 「花くそ」という名前は、「花供御」がなまったものなんですね。
by wheatbaku | 2015-04-08 09:52 | 江戸の祭礼歳事
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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