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薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

薩摩藩蔵屋敷跡(新江戸百景めぐり㊻)

今日の新江戸百景めぐりは、「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑のある薩摩藩蔵屋敷跡をご案内します。

「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では158ページの第94景で紹介されています。「西郷南洲・勝海舟会見之地」というのは、江戸城無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟が会見した場所のことです。下写真は「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑です。

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 「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は、JR田町駅から徒歩3分の場所に、三菱自動車工業の本社が入居していた第一田町ビルの敷地内に立てられていました。

建てられていましたと過去形で書くのは、実は、私が訪ねた令和元年10月7日現在では、「西郷南洲・勝海舟会見之地」石碑は撤去されていて、下の写真が掲示されているだけでした。上記の写真は以前撮影したものです。

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第一田町ビルがある場所は再開発されるため、解体作業が始まっていました。下写真のように仮囲いに掲示されているだけですので、この状態もすぐに変わるのでは思います。 

 再開発後、どうなるのか、第一田町ビルに問い合わせましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。
令和元年10月25日追記
 第一田町ビルを所有している三菱重工㈱に、再開発完了後は石碑が戻るかどうか問い合わせていましたが、「建替え後(2026年春予定)、石碑は所定の位置に戻す予定ですが、正確な位置は未定です。その間、現状どおり写真を掲示しております。」という回答をいただきました。

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さて、新政府軍の江戸城総攻撃の前日にあたる慶応4年3月14日、幕府陸軍総裁勝海舟と新政府軍の西郷隆盛薩は、摩藩蔵屋敷で会見し江戸無血開城を取り決めました。

薩摩藩蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜でした。当時、薩摩藩の国元より船で送られてくる米などが陸揚げされ蔵屋敷に保管されていました。

 3月14日の西郷・勝の会見が行われたのは薩摩藩蔵屋敷だと書きましたが、西郷・勝の会見場所については、田町の蔵屋敷(田町藩邸)のほか、高輪藩邸、愛宕山、田町の橋本屋など諸説があるようです。

 田中惣五郎氏は、人物叢書「西郷隆盛」の中で、「田町藩邸」としています。また、勝部真長氏は、「勝海舟」の中で、「田丁(たまち)の蔵屋敷」としています。海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」の中で、「芝田町の薩摩屋敷」としています。このように、田町の蔵屋敷とする人が多いようです。

 しかし、犬飼隆明氏は、岩波新書「西郷隆盛」の中で、「田町の橋本屋というしもた屋」としています。また、吉村昭氏は、「彰義隊の」の中で、3月13日の会談は高輪の薩摩藩邸で行われ、その後、愛宕山に一緒に登ったとしています。

 このように、西郷隆盛と勝海舟の会見場所には諸説ありますが、石碑のあった薩摩藩蔵屋敷跡が、最も馴染みがあります。

 薩摩藩は、77万石の大藩ですので、江戸に、いくつもの屋敷がありました。幕末には、薩摩藩邸は最低6か所あったと言われています。

 三田の上屋敷、日比谷の装束屋敷、高輪の中屋敷、田町の蔵屋敷、渋谷の下屋敷 そして現在は八芳園になっている白金の屋敷、以上6か所です。

 その中で、上屋敷と蔵屋敷はお互いすぐそばにありました。

 三田では、NECの本社が一際目立ちますが、NECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。下写真は東側から撮ったNEC本社です。

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 多くの案内書では、下写真の石碑がよく紹介されます。この石碑は、NEC本社の北側の植え込みに設置されています。

そのため、NEC本社全体が薩摩藩邸の跡のように受け取られがちです。しかし、NEC本社は、正しくは、北側が薩摩藩上屋敷跡で、南側が因幡鹿野藩上屋敷の跡に建っています。

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 NEC本社は薩摩藩上屋敷の南のはずれとなっていて、薩摩藩上屋敷の中心は、NEC本社の北側にある三井住友信託銀行と「ホテル ザ セレスティン東京芝」のある部分です。

 三井住友信託銀行と「ホテルザ セレスティン東京芝」の間の広場に、「芝さつまの道」と書かれた説明板があります。下写真の中央が説明板で、左手の建物が「ホテル ザ セレスティン東京芝」です。

 

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 三田にあった上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。

 ここが薩摩藩の江戸での中心になりました。

 幕末には、島津斉彬が住んでいました。また、天璋院篤姫が13代将軍家定に輿入れする際にも、まず最初に、三田の上屋敷に入りました。

 しかし、その後、安政2(1855)年10月2日に、安政の大地震が起きて、上屋敷が被害をこうむったため、渋谷の下屋敷に移りました。

 篤姫は1年余り、下屋敷で過ごした後、安政3年11月11日に江戸城に輿入れしました。

下写真が「芝さつまの道」に掲示されていた薩摩藩邸の見取り図です。掲示されている写真は縦長ですが、南北を揃えるため横長にしました。上が北になります。

 赤い印がある地点が「芝さつまの道」です。この藩邸見取り図を見るとNEC本社のある場所が、薩摩藩邸の南端であることがよくわかります。

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この屋敷が慶応3年12月25日に、旧幕府側の庄内藩等の軍勢により焼き討ちされた事件が、薩摩藩邸焼討事件です。

 西郷隆盛から江戸を攪乱するようにと命じられた益満久之助らが、多くの浪人たちを集め、強盗などを働かせ江戸の治安を混乱させたことに怒った幕府は、慶応3年12月25日、庄内藩と上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩の約千人の軍勢が薩摩藩邸を包囲したうえ焼討ちしました。

 これにより、薩摩藩上屋敷は全焼し、薩摩藩邸の周囲も焼失しました。

 こうした事情により、西郷隆盛と勝海舟が会見しようとした慶応4年3月には、薩摩藩上屋敷がなかったため、焼け残っていた蔵屋敷で会見したと思われます。

赤印が「西郷南洲・勝海舟会見之地」の石碑があった場所です。 

青印がNEC本社北側にある「薩摩屋敷跡」の石碑です。

緑印が「芝さつまの道」の説明板がある場所です





by wheatbaku | 2019-10-24 19:22 | 新江戸百景めぐり
元和キリシタン遺跡(新江戸百景めぐり㊺)

元和キリシタン遺跡(新江戸百景めぐり㊺)

新江戸百景めぐり、今日は、元和キリシタン遺跡をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では159ページの第95景で紹介されています。元和キリシタン遺跡は、JR田町駅から徒歩7分の第一京浜沿いにある住友不動産三田ツインビル西館の裏側(西側)にあります。

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浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。

 下写真は田町駅側から見た札の辻の交差点とその南側方向を撮った写真です。下写真の中央の高いビルが住友不動産三田ツインビル西館です。その西側に元和キリシタン遺跡はあります。

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元和キリシタン遺跡は、元和9年(1623)12月4日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、原主水をはじめとする50人が処刑された場所です。

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最初に一般信徒たちが殺害され、次いで2人の神父と原主水が炎の中で神に命を捧げたといいます。

原主水は家康の小姓でしたが、駿府城を追放され、江戸市中に潜伏していたところを捕えられました。

同じ年の12月24日には、殉教者の妻と子どもたちの24人が、同じように市中を引き回しされた上、ほぼ同じ場所で処刑されました。

その後も、札の辻近くで、キリシタンの処刑が行われています。

札の辻は東海道から江戸への正面入り口で、高札場であったため、多くの人が江戸に入るために通過しました。小高い丘となっていたこの地で処刑されたのは、見せしめのためでした。

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智福寺

元和キリシタン遺跡のある場所は、処刑場だったことから長いこと空地となっていました。そこに、浄土宗の智福寺が建てられました。

智福寺は、寛永2年(1625)、桜田元町に光誉一空(こうよいっくう)上人によって開かれた浄土宗のお寺です。その後、芝の田町に移転しましたが、智福寺がいつ頃移転したのかは、はっきりしていないようです。

ここに移転したのは処刑された人々の慰霊のためだったようです。

その智福寺は、明治になってから、明治44年に崖崩れにあい、さらに大正14年にも崖崩れで本堂・庫裡が倒壊、墓地も埋没するという被害にあっています。

そして、昭和20年5月の空襲でも、建物が全焼してしまいました。

こうした災害が多かったため、田町からお寺を移すことになり、昭和41年、練馬区上石神井に移転しました。智福寺はまだ訪問していないので、写真はありません。

カトリック高輪教会

智福寺が上石神井移転する前の昭和31年に、智福寺境内に、「江戸の殉教者顕彰碑」がカトリック信徒によって建てられました。

その石碑は、智福寺移転の際に、聖マリア学園に移され、その後カトリック高輪教会に移され、現在もカトリック高輪教会にあります。下写真がカトリック高輪教会です。

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高輪教会はJR品川駅から真西にむかって坂を上っていくと南側に高輪教会があり、道路からも「江戸の殉教者顕彰碑」を見ることができます。

下写真の左が顕彰碑です。右側の白いものが「江戸の大殉教」と題された説明板です。

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済海寺

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には、済海寺についても書いてありますので、済海寺もご案内します。

元和キリシタン遺跡の隣にあると『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には書いてありますが、これは不正確です。地図の上では隣かもしれませんが、斉海寺と元和キリシタン遺跡の間には、高い崖があり、以前は、ぐる~っと回らないといけませんでした。しかし、現在はエレベーター塔が建てられていて、エレベーターを利用して移動することができます。

下写真がエレベーター塔です。

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 済海寺は、浄土宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。

元和7年(1621)に越後長岡藩初代藩主牧野忠成と念無聖上人によって創建されました。
 そのため、江戸時代は越後長岡藩牧野家の菩提寺でした。
 しかし、昭和57年、長岡の悠久山蒼柴(あおし)神社への改葬が行われ、現在は、合祀墓が残るだけとなっています。
 また、伊予松山藩松平家の江戸での菩提寺であり、松平家から1500坪の土地の寄進を受けたこともあったようです。
 伊予松山藩松平家は久松松平家ともいい、家康の生母於大の方の再嫁先で、譜代の名門です。明治以降は、久松家と名前を変えています。

下写真が山門前から写した済海寺です。

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済海寺は、安政6年(1859)にフランス公使館となり、明治7年まで続きました。 
 安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
 文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
 文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。下写真が港区教育委員会設置の説明板です。

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札の辻

 元和キリシタン遺跡の前にある札の辻についてもご案内しておきます。

 札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。

 「札の辻」という地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。

 埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。

 また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。

 その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて六大高札場と呼ばれていました。

 六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。

 元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。

 そして、高札場は、後に 天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されたと港区教育委員会の説明板には書かれています。

(下写真が港区教育委員会の説明板です)

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 なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設と書いてあります。どちらが正しいのかは確認できていません。

 高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は、「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。


赤印が元和キリシタン遺跡です。
青印が札の辻です。緑印が済海寺です。 





by wheatbaku | 2019-10-22 15:08 | 新江戸百景めぐり
高輪大木戸(新江戸百景めぐり㊹)
高輪大木戸(新江戸百景めぐり㊹)

新江戸百景めぐり、今日は、高輪大木戸をご案内します。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では70ページの第23景で紹介されています。

高輪大木戸は、都営地下鉄「泉岳寺」駅のすぐそばにあります。駅の上といってよい所にあります。

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 輪大木戸は、芝口門が新橋に移転した年の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが始まりといわれています。
 そして、享保9年(1724)に現在地に移されました。
 また、現在地に宝永7年(1710)に造られたという説もあります。

 高輪大木戸は、道幅約6間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていました。
 天保2年(1831年)には、ここより北にある「札の辻」から高札場も移されました。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は石垣だけとなっています。
 東海道を行く旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿に至る海岸の景色もよく、月見の名所でもありました。

 歌川広重の名所江戸百景の中に「高輪うしまち」というのがあります。

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高輪大木戸を出た岡側に、車町、俗称「牛町」という町がありました。
 寛永11年(1634)、増上寺安国殿を普請するにあたり京都から牛持ち人足を呼び、木材や石材の運搬にあたらせたことに始まります。
 この牛は江戸城の拡張にも用いられ、これらの工事が完了すると、牛持ち人足は江戸に定住し、車町(いわゆる牛町)が作られました。
 それ以来、江戸では牛車による荷物の運搬が行われ、牛は山王祭や神田祭にも使われるようになりました。
 この絵には、手前に大きく牛車が書かれています。
 そして、絵をよく見ると遠く海の中にはお台場が見えています。
 この絵が描かれたのが、 安政4年(1857)です。
 お台場は、嘉永6年(1853)8月から安政元年(1854)5月の間に作られましたので、描かれていて不思議はありません。



現在、高輪大木戸周辺に牛町の面影はまったくありません。

そうした中で、高輪大木戸近くにある願生寺に牛供養塔があります。(下写真)

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牛供養塔は、願生寺門前の車町の牛屋7(吉田・水谷・仙波・田中・山口・大田・岩井)によって、最初、牛供養のため元文3(1738)に建立されました。その後、文化3年(1806)の大火で焼失してしまったため、その当時まだ残っていた4家が中心となって文政11年(1828)に再建されたものです。

供養塔はその後3回、江戸時代では、慶応2年(1866)に修復が行われているようです。

赤印が高輪大木戸跡です。

青印が願生寺です。




by wheatbaku | 2019-10-18 18:04 | 新江戸百景めぐり
東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

東 禅 寺(新江戸百景めぐり㊸)

 台風19号は日本列島各地に多くの被害をもたらしました。
 私も近くの大河川が氾濫する怖れがあるということで大変心配しました。そうしたことから被害を受けた人々のことが他人事とは思えません。被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。


さて、新江戸百景めぐり、今日は、東禅寺のご案内をします。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では158ページの第93景で紹介されています。

 東禅寺は、品川駅から、第一京浜を田町方向に歩いて、丘陵側に少し入った場所にあります。徒歩で約10分かかります。 下写真は本堂と庫裏の全景です。

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 東禅寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、妙心寺派の江戸四箇寺の1つでした。妙心寺派江戸四箇寺とは、東禅寺の他、湯島の麟祥院、浅草の海禅寺、牛込の松源寺を言いました。

東禅寺は、慶長15年(1610)嶺南和尚が日向国飫肥藩2代藩主伊東祐慶(すけのり)の帰依を受け、溜池に開きました。
 当初は嶺南庵と呼ばれていました。アメリカ大使館とホテルオークラの間にある霊南坂の名称は、嶺南庵に由来します。
 開基の伊東祐慶の法名が東禅寺殿前匠征泰雲玄興大居士ですので、東禅寺という寺号は伊藤祐慶の法名からとられたものと思われます。

 寛永13年(1636)、現在地に移転しました。眼前に江戸湾が広がることから海上禅林とも呼ばれ、その額も本堂に掲げられています。(下写真)本堂と庫裏は昭和6年に建てられたものです。 以前のものが震災や火災にあったためでなく、古くなったため建て替えられたとのことでした。

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 江戸時代の境内は、多くの塔頭が建ち並んでいたそうですが、現在は、緑の多い静かな雰囲気の境内となっています。下写真は山門から見た参道ですが、参道自体はあまり広いわけではないのですが、参道両脇に樹木が植えられていて、緑の参道となっています。

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 その境内に大きくそびえる三重塔が建っています。
 この塔は、建築後25年とのことですので、昭和の終わりに建てられたようです。
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 江戸時代には東禅寺は、開基の飫肥藩伊東家をはじめ、陸奥仙台藩伊達家、伊予宇和島藩伊達家 備前岡山藩池田家、信濃高島藩諏訪家、豊後佐伯藩毛利家など多くの大名家の菩提寺でした。 そのため、少し離れた墓地には、今も諸大名の見事な墓群がありますが、一般の人には公開されていません。その中で、墓所の外から見えるお墓もかあります。下写真は、仙台藩伊達家の合祀墓です。また、有名な蘭学者大槻玄沢のお墓が港区の史跡となっているのですがこれもみることができません。

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 東禅寺は、安政6年(1859)には日本初のイギリス公使館が置かれ、初代公使オールコックが駐在しました。

山門の前には、「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建てられています。(下写真)

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東禅寺事件

この東禅寺では有名な「東禅寺事件」という外国人に対する襲撃事件が起きています。

「東禅寺事件」というのは第一次東禅寺事件と第二次東禅寺事件と2回起きています。

第一次東禅寺事件は、文久元年(1861)5月28日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使オールコックらを襲撃した事件です

文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入りました。

この行動に対し、尊攘派の志士らは「神州日本が穢された」と憤激しました。

オールコックが東禅寺についた翌日の5月28日午後10時頃、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃しました。

オールコックは危うく難を逃れたが、乗馬用のムチで立ち向かった書記官オリファントとピストルで応戦した長崎領事モリソンの2人が負傷しました。

一方、攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し、警備側に3名が討取られたり、一旦は逃走したものの逃げ切れず切腹した者もおり、その後逮捕された者もいますが、逃亡した後、坂下門外の変に参加した者もいます。

第二次東禅寺事件は、「第一次東禅寺事件」のちょうど1年後の文久2年(1862)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス人2人を斬殺した事件です。

第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移しました。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻しました。

その頃、東禅寺の警備を命じられていたのが松本藩でした。警備を任せられていた松本藩士伊藤軍兵衛は、公使を殺害しようとして夜中にニールの寝室に入ろうとしましたが、警備にあたっていてイギリス兵2人に発見され戦闘になり、イギリス兵が殺害されました。襲った伊藤軍兵衛も負傷し自刃しました。

これにより松本藩は警備の任を解かれ、藩主戸田光則は差控(謹慎)処分を受けることになりました。

 また、この事件により、イギリスは、公使館を襲撃されやすい寺院に置くのではなく、独立した公使館を建設するよう幕府に要求しました。この要求に応えて幕府が建設することにしたのが品川御殿山の公使館です。

赤印が東禅寺です。
青印が泉岳寺です。






by wheatbaku | 2019-10-14 19:43 | 新江戸百景めぐり
泉 岳 寺(新江戸百景めぐり㊷)

泉 岳 寺(新江戸百景めぐり㊷)

今日から高輪周辺の新江戸百景めぐりをしたいと思います。高輪といえば泉岳寺をまず思い浮かぶ人が多いと思いますので、最初に泉岳寺をご案内します。
 『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では153ページの
第88景で紹介されています。

泉岳寺は、都営地下鉄泉岳寺駅A2出口から徒歩2分で山門に到着します。JR田町駅からですと徒歩20分かかります。

泉岳寺は、赤穂浪士のお墓があるお寺としてあまりにも有名ですが、泉岳寺と言うのはどういうお寺かというのはほとんど説明がされません。

そこで、最初に泉岳寺の説明をしたいと思います。

泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康が今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて今川義元の菩提を弔うため、外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した曹洞宗の寺院です。

しかし、寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失してしまい、現在の高輪の地に移転してきました。

しかし、高輪泉岳寺の復興がままならないので、3代将軍家光が、毛利家、浅野家、朽木家、丹羽家、水谷(みずのや)家の五大名に手伝いを命じ、高輪の泉岳寺は完成しました。

浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。

橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松(せいしょう)寺とともに曹洞宗江戸三ヶ寺の一つとして触頭(ふれがしら)となりました。

 泉岳寺は、徳川将軍家と縁の深いお寺です。そもそも、泉岳寺の創建は徳川家康の命令によるものです。開山は、徳川家康が幼い頃に人質として保護されていて駿河の家康の三男ともいわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚です。

 そして、泉岳寺という寺号は、徳川家に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと云いますし、山号は「萬松山」といいますが、これは松平の松を取り、「松が萬代に栄ゆる」という意味を持っています。

それでは、境内を順にご案内します。

中 門

泉岳寺の最初に目に入るのが中門です。この門は総欅造りで天保7年(1836)、35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚の時代に再建されたものです。

また昭和7年に大修理が施されています。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書だそうです。

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山 門

山門は天保3年(1832年)に再建されたものです。

二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。

「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵という人による書です。

大野約庵は伊予の人で、名は猷、字は美徽、号を約庵と称し、松山藩の藩士で漢学と書を頼春水・頼山陽父子に学んだ書家で、佐藤一斎の推挙に高輪泉岳寺楼門の篇額「泉岳寺」を揮毫しました。


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大石内蔵助銅像

中門の脇には、大石内蔵助の銅像があります。この銅像は、浪曲家の桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。

内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。

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本 堂

旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失しました。

現本堂は昭和281214日に落成した鎌倉様式の建築です。

ご本尊は釈迦如来がお祀りされていますが、その他、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。

正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指しています。

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赤穂浪士墓地入口

 本堂の左手に赤穂浪士の墓地があります。

 墓地の入り口の石段の上に門があります。

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。(下写真)

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赤穂浪士の墓地への参道の脇には、「血染めの梅、血染めの石」や「首洗いの井戸」があります。
 「血染めの梅、血染めの石」は、浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。 下写真の左手の白い説明板が「血染めの梅、血染めの石」の説明板です。

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 「首洗いの井戸」は、赤穂浪士が吉良上野介の首級を浅野内匠頭の墓前に供える前に、吉良上野介の首を洗ったといわれている井戸です。

(下写真)

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浅野内匠頭長矩のお墓

 墓地の入り口の門を通って、まっすぐ進み、赤穂浪士の墓地の手前を右手に入ると浅野内匠頭長矩のお墓があります。

 戒名は「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」と言います。

 少府とは内匠寮のことを言い、生前は内匠頭であったことを指します。朝散大夫というのは、官位を指す言葉で五位にある人を言います。

戒名に院殿と大居士が付けられていますが、院殿と大居士があることから罪人としてでなく普通の大名として亡くなった扱いとなっています。

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瑤泉院のお墓

 こちらが浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院のお墓です。

瑤泉院は、俗名阿久里といい、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。

二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。

 浅野内匠頭長矩が切腹した時、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。

 浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。

 それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごし、正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。

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赤穂浪士のお墓

 赤穂浪士のお墓は、浅野内匠頭や瑤泉院のお墓がある場所より一段と高いところにあります。

赤穂浪士は、それぞれ、宗派も違い菩提寺も違っていましたが、泉岳寺に一緒に埋葬されているのは、赤穂浪士が一緒に埋葬されるのを願ったからです。

細川家の堀内伝右衛門が書いた記録によると、富森助右衛門が、一緒に埋葬して欲しと希望したと書かれています。下写真が墓地の全体説明図の写真です。

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赤穂浪士は、御預けになった大名家ごとに埋葬されています。

赤穂浪士の墓所の最奥部には、大石内蔵助のお墓があります。その左手と手前には、大石内蔵助と同じ細川家に御預けになった人たちのお墓が並んでします。(下写真)

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 実は赤穂浪士の葬儀は、御預け先ごとに行われたそうです。

 最初、細川家の葬儀が行われ、赤穂浪士の遺骸が細川家を出発したのは午後6時30分ごろ、水野家が午後8時、松平家が午後10時、毛利家が午前0時と2時間ずつ違っていたそうです。

 これは、泉岳寺から近い順に葬儀を行ったようです。

そして、泉岳寺での葬儀は午後9時から細川家の葬儀が始まり、毛利家が終わったのは午前3時ごろだったそうです。

 このように、葬儀が御預けになった大名家ごとに行われたこともあって、お墓も大名家別になっているのではないかと思います。下写真が墓地全体の写真です。

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浅野内匠頭長矩のお墓より高い所に赤穂浪士のお墓があります。

普通であれば、上位の人のお墓が奥もしくは上の方にありますが、赤穂浪士の場合にはそうなっていません。

これには理由があります。赤穂浪士が一緒に埋葬して欲しいと希望したため、泉岳寺では、墓地の用地がなかったため、急いで藪を開いて墓所をつくりました。そのため、浅野内匠頭長矩公の墓は下の方となりました。

 赤穂浪士の戒名には、「刃」と「剣」がついているのが特徴です。例えば大石内蔵助は「忠誠院刃空浄剣居士」、堀部安兵衛は「刃雲輝剣信士」のように、「刃」と「剣」を織り込んまれています。下写真は大石内蔵助のお墓です。

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 この戒名は、当時の泉岳寺住職の酬山和尚がつけたものです。これは、赤穂浪士が勇ましいから「刃」と「剣」を適当につけたかというとそうではありません。

 碧巌録という本に「碧巌録(へきがんろく)」という文章があります。これから採ったものです。

 詳しくは過去に書いた下記記事をお読みください。

「フレーフレー受験者の皆様!(江戸検お題「本当の忠臣蔵」108)」

赤印が泉岳寺です。





by wheatbaku | 2019-10-11 23:01 | 新江戸百景めぐり
赤坂離宮に行ってきました(大江戸散歩)
 一昨日、迎賓館赤坂離宮に行ってきました。
 迎賓館赤坂離宮は、年に一度、公開されています。
 迎賓館赤坂離宮は、江戸時代には、紀州徳川家の屋敷であった場所にあります。一度は観に行きたいとおもっていた場所です。
c0187004_173174.jpg 参観は、事前申し込み制となっていますが、6月ごろ、一級2期会の極骨さんから案内をもらっていたので、申し込んでおきました。
 今回も大勢の申込者がいるため、抽選になりましたが、幸運にも拝観日26日分に当選しましたので、月曜日にいってきました。

 東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として明治42年に建設されました。
 片山東熊設計の、日本で唯一のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築です。
 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかったようですが、嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
 その後、昭和天皇が皇太子の時代に、赤坂離宮は再び東宮御所として利用されました。

c0187004_173383.jpg 戦後は、国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などに使用されました。

 その後、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることになり、昭和42年に決定され、村野藤吾が改修の指揮をとり、昭和49年3月に現在の迎賓館赤坂離宮が完成しました。

 迎賓館赤坂離宮は、現在は、国賓・公賓が宿泊するとともに歓迎行事や会談など様々な催しの舞台や東京サミットなどの重要な国際会議の舞台として使用されています。
c0187004_1742535.jpg 平成21年に、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)本館、正門、主庭噴水等が国宝に指定されました。

 本館は、東西125メートル、南北89メートル、高さ23.2メートルあり、地上2階・地下1階の鉄骨補強煉瓦造りです。
 外壁は、すべて茨城県産の花崗岩が使用されています。

 正面玄関の屋根に兜・鎧で武装した鎧武者が一対置かれていますのが目立ちましたが、これはあたかも阿吽の仁王像のように一体は口を開け、もう一体は口を閉じているんだそうです。


c0187004_175241.jpg 入り口近くには参観順路を示した掲示板があります。
 赤坂離宮内は、外観を観た後、離宮内の各部屋を巡ります。 
 離宮内は、彩鸞の間(さいらん の ま)、花鳥の間、中央ホール、朝日の間、羽衣の間の順に拝観しました。
 その後、主庭を拝観しました。

 それでは各部屋の紹介を下に書きますが、室内は撮影禁止ですので、部屋の写真は、販売されていた絵葉書を利用してあります。

彩鸞の間(さいらん の ま)
 最初に拝観できる部屋は「彩鸞の間」と呼ばれています。
c0187004_1753690.jpg この部屋の名前は、東西の大きな鏡の上と、ねずみ色の大理石の暖炉の両脇に、「鸞」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることに由来しているそうです。
 室内は、アンピール様式であり、金箔と石膏のレリーフで装飾されています。
 そして、10枚の鏡が部屋を広く見せています。
 天井は、楕円形上のアーチ状となっていて、天幕が張られてように見えます。
 この部屋は、晩餐会の招待客が国・公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されています。広さは約140平方メートルあるそうです。

花鳥の間(かちょう の ま)
 天井に描かれた36枚の油絵や欄間に張られたゴブラン織り風綴織、そして壁面の七宝に花と鳥の絵が描かれていることから「花鳥の間」と呼ばれています。、
c0187004_1755148.jpg 室内はアンリー2世様式であり、腰壁は茶褐色のジオン材を板張りしており、重厚な雰囲気となっています。
 広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂であり、最大約130名の席が設けることができるそうです。

c0187004_1034965.jpg 壁面には木曾産のシオジ材が利用されて、30面の七宝焼きが飾れています。
 七宝焼きは、下絵は渡辺省亭が書き、濤川惣助が「無線七宝」という技術で作りあげられました。
 従来の七宝は、釉薬を挿す際の色の仕切り兼図柄の輪郭線として金線や銀線を利用していました。
 無線七宝というのは、釉薬を焼き付ける前の段階で、その輪郭線を取り外してしまうそうです。
 そこから「無線」という名前が生まれました。
 図柄の輪郭線がなくなることによって、微妙な色彩のグラデーションが生まれ、立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になったそうです。
 現在では、この「無線七宝」の技術を継承している人は数少なっているようです。
 右写真は、「尉鶲(じょうびたき)に牡丹」です。

朝日の間(あさひ の ま)
 天井に「朝日を背にうけた暁の女神オーロラが左手に月桂冠を持ち馬車を走らせている姿」の絵が描かれていることから「朝日の間」と呼ばれています。
c0187004_1761172.jpg 天井画は長径8.26メートル、短径5.15メートルの大きな楕円形の絵です。
 室内は古典主義様式であり、壁には京都西陣の金華山織の美術織物が張られています。
 広さは約180平方メートルあります。
 ここで国賓・公賓の表敬訪問や首脳会談などの行事が行われます。

羽衣の間(はごろも の ま)
 天井には、謡曲の「羽衣」の景趣を描いた200平方メートルの曲面画法による大壁画があります。
c0187004_1762384.jpg そのため、「羽衣の間」と呼ばれます。
 ただし、日本的な「羽衣」ではなく、西洋的な「羽衣」となっています。
 室内の内装は、古典主義様式で装飾されています。
 部屋の中央には迎賓館の中で最も大きいシャンデリアが3つあります。
 シャンデリアの重さは800キロもあります。部屋の広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、雨天の際に歓迎式典を行ったり、在日外交団が国賓に謁見したり、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒が供される場所として使用されます。


c0187004_843078.jpg 本館の南側には主庭と呼ばれる西洋風庭園があります。
 庭園は、全面に化粧砂利が敷き詰められています。
 庭園に中央には、大噴水池があり、7.8メートルの噴水施設があり、噴水した時の高さは8.5メートルになるんだそうです。

 赤坂離宮に入ったら、偶然にもこの特別公開を教えてくれた極骨さんに会いました。 
 そこで、拝観が終わった後は、極骨さんと四谷で一杯ということになりました。
 極骨さん、お蔭で滅多にみられない「赤坂離宮」をみることができました。ありがとうございました。
 お酒と会話もおいしかったですよ。
by wheatbaku | 2013-08-27 17:01 | 大江戸散歩
麻布高校【高鍋藩上屋敷跡】(六本木散歩)
今日は、六本木散歩に戻ります。

 テレビ朝日通りを六本木から広尾に向かってあるくと、右手に中華人民共和国大使館が見えてきます。

c0187004_1742685.jpg さらに進むと盛岡町交番があります。。その交差点を左に曲がり、南に向かうと間もなく麻布高校があります。

麻布高校は、開成高校と並ぶ私立名門校で、現在は中高一貫制の男子校です。
 麻布高校は現役国会議員出身高校ランキングでは3位(1位慶応義塾、2位開成高校)閣僚経験者出身高校ランキングでは2位(1位日比谷)だそうです。
 元総理や国会議員では、橋本龍太郎元総理、福田康夫元総理、谷垣禎一元総裁、与謝野馨、平沼赳夫、中川昭一など錚々たる人たちが卒業生です、
 その他、有名人では倉本聡、堤義明、小沢昭一、北杜夫などが卒業生です。

 ところで、江戸時代、ここは日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町など)の上屋敷がありました。
 高鍋藩は、豊臣秀吉により筑前から秋月種実が移封されました。その後、初代藩主となる秋月種長が関ヶ原の戦いで東軍に寝返って本領を安堵されました。石高は3万石です。
c0187004_1745539.jpg この高鍋藩出身で非常に有名な人物が、米沢藩上杉家中興の祖上杉鷹山(治憲)です。
 杉鷹山は高鍋藩主の秋月種美(たねみ)の次男としてここで生まれました。
 幼名は松三郎といいました。
 母は筑前国秋月藩の黒田長貞の娘の春姫です。
 黒田長貞の正室は上杉綱憲の娘豊子です。
 つまり、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘でした。この
 ことが縁で、松三郎は1 0歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となりました。
 重定は綱憲の長男吉憲の四男つまり綱憲の孫になります。春姫も綱憲の孫になるため、重定の従兄弟になります。

 ところで、上杉綱憲が、吉良上野介の実子であることは、既にこのブログでも書きましたので、ご存じの方が多いと思います。
 このことを思い出していただきたいと思います。
 もう一度、上杉綱憲と上杉鷹山の関係を復習すると、鷹山は、綱憲の孫の孫です。孫の孫は玄孫や「やしゃご」といいます。つまり鷹山は「やしゃご」になります。
 そして、綱憲は吉良上野介義央の子供であすから、鷹山は吉良上野介からみると「孫の孫の子」です。「孫の孫の子」は「来孫」というそうです。つまり、鷹山は、吉良上野介の「来孫(らいそん)」となります。

 有名な上杉鷹山には、吉良上野介の血が流れているんですね。驚きました。

 赤字が麻布高校です。

by wheatbaku | 2013-04-23 07:57 | 大江戸散歩
専称寺(六本木散歩)
 今日は専称寺のご案内です。
 桜田神社の前のテレ朝通りを広尾に向かい2分程度のところにあります。
c0187004_17202796.jpg 寛永7年(1630年)に創建された浄土宗の寺で、沖田総司の墓があることで新撰組ファンには有名です。
 専称寺という名前は、「専らに称える」、つまり、専修念仏、称名念仏の意であるため、浄土教系の寺院に「専称寺」という名前が多くつけられているようです。

  沖田総司は、陸奥白河藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩下屋敷で生まれました。
 幼くして両親をなくし、姉に育てられたと言われています。
 9歳の頃に、市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」の内弟子となりました。剣の実力は天才的とも評され、若くして試衛館塾頭を務めました。
新撰組の近藤勇、土方歳三とは同門であり、浪士組結成の際に、近藤・土方らとともに 京都に上りました。
 浪士組が江戸に戻らされた際にも、近藤・土方らと一緒に京都に残り、新選組の結成に加わりました。
 新撰組では、一番隊組長として活躍しましたが、肺結核を発病し、有名な池田屋事件の際には、戦っている最中に血を吐いたともいわれています。
c0187004_17203229.jpg  鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻り、療養を続けましたが、慶応4年5月30日になくなりました。
 沖田総司の父沖田勝次郎は奥州白河藩の家臣で麻布の下屋敷に詰めていました。
 この専称寺は白河藩阿部家の下屋敷の藩士たちの檀家寺だったそうです。
 幕末の切絵図を見ると、阿部家下屋敷は、専称寺の西側のごく近いところにあります。
 その縁で、この専称寺に沖田総司のお墓があります。
 しかし、沖田総司のお墓詣りは制限されています。
 庫裏には、左上のような張り紙がされていて、お参りができない旨が書かれています。

 沖田総司の墓を訪れることはできませんが、寺の脇の小径から墓地の中にある墓を望むことができます。
c0187004_17211530.jpg  屋根のあるお墓が沖田総司のお墓です。
 他のお墓と比べると小さめのお墓です。しかし、きれいに整っているのは、さすが新撰組人気ナンバーワンだけのことはあります。
 通常の日はお墓参りはできませんが、新選組友の会が、年に一度「総司忌」を開催していて、総司忌には専称寺のご厚意により、お墓詣りが可能です。
 今年の総司忌は6月22日に開催されるようです。
 新撰組友の会のHPによると、今年の総司忌は次のようだそうです。
 第39回沖田総司忌
 日 時:平成25年(2013年)6月22日(土)
 墓参11:00~12:30

 赤字が専称寺です。 青が昨日紹介した桜田神社です。

by wheatbaku | 2013-04-17 08:03 | 大江戸散歩
桜田神社(六本木散歩)
 今日は、六本木散歩の続きです。
 六本木ヒルズのすぐ近くに桜田神社があります。
 江戸で桜田をいえば桜田門を思い浮かべますし、桜田門のあたりが桜田と呼ばれていたと考えます。
 その桜田を神社名とした「桜田神社」がなぜ六本木にあるのでしようか。

 桜田神社は、治承四年(1180)に源頼朝の命により、渋谷重国が霞山(現在の霞ヶ関桜田門外)に祀ったことに起こるといいます。
c0187004_1703937.jpg 文治5年(1189)には、奥州征伐の奉賽として、源頼朝から30貫の田畑を寄進されました。
 この寄進された田の境界に、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたことから、その田地は「桜田」と呼ばれるようになり、村の名も桜田村と称したと伝えられています。
 文明年間(1469~87)には太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納しました。
 寛永元年(1624)、江戸城の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現在の社地に遷りました。
 そのため、桜田神社が六本木にあることになります。
 また、桜田神社の前の通りいわゆるテレ朝通り両側の江戸時代の町名は、麻布桜田町といい、桜田村から移ってきたことを占めす町名でした。
 また、桜田と名前のついて町名は、芝にはもありました。
 芝には、桜田本郷町、桜田伏見町、桜田和泉町、桜田鍛冶町、桜田久保町、桜田備前町、 桜田善右衛門町、桜田太左衛門町などの桜田を冠した町名がありました。
 これらも、桜田村から移転した町名だそうです。

 また、桜田神社で、港七福神の寿老人がお祀りされています。
by wheatbaku | 2013-04-16 07:55 | 大江戸散歩
六本木ヒルズ毛利庭園(六本木散歩)
 今日は、赤穂浪士ゆかりの地である六本木ヒルズの毛利庭園のご案内です。
 ここは、長府藩毛利家の上屋敷でした。屋敷の広さは約1万1千坪ほどありました。
c0187004_932375.jpg 長府藩は、長州藩の支藩で、長門府中藩とも言います。
 初代藩主は毛利秀元で、毛利元就の四男、穂井田元清の長男として生まれましたが、実子に恵まれなかった従兄の毛利輝元の養子となりました。天正20年(1592)朝鮮出兵に向かうために毛利氏の本拠であった広島城に入った秀吉によって毛利輝元の養嗣子となることが認められました。
 しかし、後に輝元に嫡男(後の秀就)が誕生すると、秀元は家督相続を固辞しました。
 関ヶ原の戦いの後に、毛利家が長門周防を領する長州藩となった際に長州藩から分かれて長府藩を立藩しました。

 毛利庭園は、慶安3年(1650)、毛利秀元が甲斐守となり、麻布日ヶ窪(現在の六本木六丁目他)に上屋敷を設けた際に、その屋敷の庭園として築造されたものです。
 
 長府藩毛利家には、赤穂浪士のうち次の10人が預けられました。
  岡嶋八十右衛門常樹、小野寺幸右衛門秀富、勝田新左衛門武堯、
  倉橋伝助武幸、杉野十平次次房、 武林唯七隆重、
  間新六光風、前原伊助宗房、村松喜兵衛秀直、吉田沢右衛門兼貞

 当時の長府藩主は、3代目毛利甲斐守綱元でした。
c0187004_935887.jpg 毛利綱元は江戸城にて命令を受取ると、藩士200名余りと乗物10挺を用意し仙石伯耆守邸に向かわせ、10人を引き取りました。
 護送の途中では、駕籠の戸に錠をかけ、青網をかけるという扱いであり、上屋敷では、長屋に入れるなど、当初、赤穂浪士は罪人扱いされたようです。
 しかし、細川家の厚遇ぶりなど他家の取り扱いを知って、その待遇も改善され、12月29日には、藩主綱元が赤穂浪士一同を謁見しています。

 赤穂浪士一同は翌元禄16年2月4日、全員がこの地で武士の本懐を遂げました。
 ここ預けられた10人の中に、間新六もいました。当時は切腹といっても実際に払えお斬ることはなくなっていたようです。しかし、間新六だけが実際に切腹をしています。
c0187004_941468.jpg また、間新六は、近親者から遺骸引き取りの申し出があり。引き渡しがされ、築地本願寺に埋葬されました。 従って、間新六だけが唯一泉岳寺に埋葬されていません。
 また、この屋敷では、嘉永12年(1849)に陸軍大将「乃木希典」が生まれ、幼年期9年をこの「日ヶ窪屋敷」で過ごしました。
 また、幕末には、長州藩が朝敵となり長州征伐がおこなわれ、江戸にある長州藩邸は取り上げられました。 そして、元治2年(1865)、堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領します。
 明治20年(1887)には、中央大学の創始者であり、弁護士、法学者、法学博士でもあった「増島六一郎」がこの地を取得し、庭園を「芳暉園」と名づけました。
 昭和27年にはニッカウヰスキーの東京工場となり、昭和52年にはテレビ朝日が当地を取得し、池はニッカ池と通称されていました。
 その後、平成10年に六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立され、平成12年4月に、再開発事業が着工し、平成15年4月に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」も誕生しました。
by wheatbaku | 2013-04-10 08:53 | 大江戸散歩
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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