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三沢初子のお墓(江戸のヒロインの墓⑰)

三沢初子のお墓(江戸のヒロインのお墓⑰)

 江戸のヒロインのお墓、今日は三沢初子のお墓をご案内します。

 三沢初子という人はあまり有名でないので、ご存知の方は少ないと思いますが、歌舞伎の『伽羅先代萩』の政岡のモデルとなった女性です。

 三沢初子のお墓は、中目黒の正覚寺にあります。

正覚寺は、中目黒駅から徒歩5分の山手通りに沿ってあります。

正覚寺は、実相山正覚寺といい、日蓮宗のお寺です。

元和5年(1619)に日栄上人によって創建されました。最初は日蓮宗の不受不施派のお寺でしたが、幕府によって不受不施が弾圧された際に、受布施派の身延山久遠寺の系統になりました。

 正覚寺は、江戸三大鬼子母神に数えられた伝教大師作と伝えられている鬼子母神像が有名ですが、鬼子母神が祀られている鬼子母神堂は現在修復工事中です。

 下写真は11代将軍徳川家斉が江戸城中で深く帰依していたという日蓮聖人木像が安置されている祖師堂です。

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 三沢初子のお墓は、本堂の東側の墓所内にあります。墓所の中央にありますので、比較的容易に見つけられると思います。

 三沢初子は、寛永16年(1639)、鳥取藩士三沢清長の長女として生まれ、13歳のとき母と死別してしまいました。そこで、初子は、叔母の紀伊局に養育されることになりました。

 紀伊局は、徳川家康の次女の督姫と池田輝政の間に産まれた振姫の侍女でした。

 振姫は、伊達政宗の嫡男忠宗と元和3年に結婚しました。

 紀伊局は振姫とともに伊達家の奥向きに入ることとなり、初子も同じように伊達家で振姫に仕えました。

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 初子は美しいうえに利発であったことから、忠宗の嫡男綱宗の側室に選ばれることになりました。

 初子は、明暦3年(1657)には、正室となり、浅岡局と呼ばれるようになりました。

万治元年(1658)、伊達忠宗が亡くなったため、綱宗は3代仙台藩藩主になりました。

そして、翌年の万治2年(1659)、初子は江戸屋敷にて亀千代(後の伊達綱村)を産みました。

しかし、万治3年(1660年)伊達綱宗は、遊蕩が過ぎ、幕府から隠居を命じられました。そして、次期仙台藩藩主となったのが、まだ2歳の亀千代でした。

2歳では、とても藩政を取り仕切ることはできないため、後見役とされたのが伊達兵部宗勝と田村右京太夫宗良でした。この伊達兵部宗勝が藩政を牛耳ろうとしたため、いわゆる伊達騒動が起こります。

この伊達騒動は、家老の原田甲斐が、伊達安芸に斬りつけ殺害するという結末を迎えます。

これにより、幕府は、伊達兵部を土佐藩山内家にお預けとしますが、伊達綱村に対しての御咎めはありませんでした。

騒動中、伊達綱村は毒殺の怖れがあったため、三沢初子を必死になって、綱村を守りました。
 騒動が解決した後、綱宗と仲睦まじく暮らし、48歳でなくなり、法名は浄眼院殿了岳日巌大姉と号しました。
 この法名は、正覚寺のお墓にも刻まれています。

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伊達騒動は、歌舞伎などに取り上げられ、「伽羅千代萩」や「伊達競阿国戯場」が有名です。

この中の女主人公が「乳母の政岡」です。幼君毒殺をおそれ、自ら飯を炊き、毒入りの菓子を我が子千松に食べさせてまで、綱村を守りぬく忠義の女性と描かれています。

この政岡のモデルとなったのが三沢初子です。

正覚寺の鐘楼脇に、3メートル余りもある三沢初子の銅像が建てられています。

この三沢初子の銅像をよく、見ると嫋やかな女性ではなく、ごつい女性の銅像です。

それもそのはず、この銅像は、6代目尾上梅幸の弟子尾上梅朝が演じた先代萩の政岡を元にデザインされたものです。つまり女形が演じた三沢初子の銅像です。

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赤印が正覚寺です。












by wheatbaku | 2018-09-18 11:09 | 江戸のヒロイン
大鳥神社(目黒史跡散歩⑱)

大鳥神社(目黒史跡散歩⑱)

目黒史跡散歩の最後は、大鳥神社をご案内します。

 

 大鳥神社は、目黒通りと山手通りが交差する「大鳥神社前」交差点の西南角  にあります。

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旧目黒三村(上目黒、中目黒、下目黒)の総鎮守で、主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

 日本武尊が、東国の蝦夷を平定した際に、大鳥神社で、東夷を平定できるよう祈願するとともに、部下の「目の病」が治るようにお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治ったので、手近に持っていた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に奉納し感謝したといいます。

社伝によると、大同元年(806)に社殿が造営されました。

現在の社殿は昭和37年に完成したものです。

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大鳥神社で11月の酉の日に行われる「酉の市」は、大変にぎわうようです。

この酉の市について、目黒区のホームページに興味深いことが書いてありましたので、紹介しておきます。

その一つは、酉の市は日本武尊が焼津で草薙の剣で火難を防いだことに由来する火難除けの神事であると書いてあることです。

また、「酉の市」が酉の日に行われるのは、日本武尊が熊襲を撃つために出発した日が酉の日であったためといわれるとも書いてありました。

詳しくは、目黒区のホームページをご覧ください。

 大鳥神社境内に、茶人の古田織部正重然(しげなり)が考案したといわれる織部灯籠があります。

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 この石燈籠は、胴の部分に十字模様や像が刻まれているため、切支丹灯籠とも呼ばれています。

肥前島原藩主松平主殿頭の下屋敷内にあったものだそうです。

 切支丹燈籠は、江戸時代は大鳥神社の別当寺であった大聖院にもあります。

 大聖院は、大鳥神社の隣にあります。

弘治3年(1557)貞順によって開創されたと伝えられていますが、江戸時代の、元和年間(161523)生運和尚が中興し、大鳥神社の別当寺でした。

現在の鉄筋2階建ての本堂は、昭和42年に新築されたものです。

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正門をはいると正面右手に3基の織部灯籠があります。(下写真)

この石燈籠も、旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷にあったものが、大正15年10月大聖院に移されたものです。

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 赤印が大鳥神社です。青印が大聖院です。



by wheatbaku | 2018-05-07 20:29 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
行元寺の大田南畝の隠語碑(目黒史跡散歩⑰)

行元寺の大田南畝の隠語碑(目黒史跡散歩⑰)

行元寺は、目黒不動駅の北側にある「かむろ坂」の途中にあります。

道路から少し入った先に門があり、門は閉ざされていました。

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門前の参道右手に太田南畝の筆による隠語の石碑があります。

行元寺はもともと牛込肴町にあり行願寺とも称されていました。

明治末に区画整理により、現在地に移転しました。

戦災により本堂が焼失し、昭和30年に本堂が再建されました。ただ、門がとざれていて本堂の様子はわかりませんでした。

行元寺にある太田南畝の筆による隠語の石碑の表面には、「念彼観音力 還著於本人」と観音経の一部が刻まれています。下写真

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この石碑の裏面に次のように書かれています。

「癸卯天明陽月八 二人不戴九人誰 同有下田十一口 湛乎無水納無絲  南畝子」

これが隠語で書かれています。

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太田南畝は自分自身で「一話一言」巻四十一(『日本随筆大成』では別巻六に収録されています)の中で次のように書いています。

○牛込行元寺復讎の碑  

天明三年契卯十月八日牛込行元寺にて敵討あり。寺門の内の柳の木のもとにてありしかば、一の碑をたてゝ、これにものかきてよと寺主のこひしまゝ、此寺に観世音あれば、

     念彼観音力 還著於本文

といふ文字を書つかはして、その碑の背に隠語にて、

     癸卯天明陽月八 二人不戴九人誰

     同有下田十一口 湛乎無水納無糸

二人は天なり九人は仇なり、敵うちしものは富吉といひし故、同下の田は冨の字、十一口は吉の字なり。敵の名は甚内といひし故、湛に水なく納に糸なきは甚内帽鈴いその比寺主人の見てとやかくいはん事を恐れ、碑面の字ばかり刻して背の字は刻せざりしが、近比三十三回の忌にあたりて、もはや年へし事なれば子細あるまじきとて、刻そへしといふ。庚辰五月十一日晨

つまり、仇討ちがあった時に、行元寺の住職から、仇討ちの事を書いて欲しいと依頼されたので、表に「念彼観音力 還著於本文」と書いて、その裏面に隠語で、「葵卯天明陽月八 二人不戴九人誰 同有下田十一口 湛乎無水納無糸」と書いた。 しかし、仇討当時は、とやかくいわれるのを恐れて、「念彼観音力 還著於本文」とだけ書いておいたが、33回忌を迎え、かなりの時間がたち問題がないだろうと考え、隠語の裏面も刻んだということです。

 隠語の意味をひもとくと次のようになります。

癸卯天明陽月八とは、癸卯(みずのとう、きぼう)の年つまり天明3年を表し、陽月は10月の異称ですので、天明3年10月8日となります。

 二人不戴九人誰は、二と人を重ねると「天」の字になり、九と人(にんべん)を合わせると「仇」になります。これで「天不戴仇誰」となり「(ともに)天を戴(いただか)ざる仇=不倶戴天の仇は誰」になります。

 同有下田十一口は、同の字の下に田の字有りの意で「冨」となり、十一口は、続けて書くと「吉」の字になり、二つあわせて「冨吉」となります。 

湛乎無水納無絲とは、湛の字に水(さんずい)が無いので、「甚」となり、納の字に糸が無いので「内」となり、二つあわせて「甚内」となります。

 それでは、この仇討ちはどんな仇討だったのでしょうか

 それについては、『武江年表』の天明3年の項(中公文庫「定本武江年表中」)に次のように書いてありました。

 (天明三年)十月八日、牛込神楽坂行元寺境内にて親の仇討ありき。此事、豊竹肥前座にて浄るり狂言に作る。松平一学知行所、下総相馬郡早尾村名主八右衛門組下百姓富吉心願の意趣、左に申上候といふ書付、懐中す。敵の首を切落したるものは此富吉、討たるものは、同村百姓甚内といふ者なり。富吉(本年二十八歳)、当時剣道指南戸ヶ崎熊太郎召使初太郎と云ふ。甚内、当時御先手浅井小右衛門組二宮丈右衛門(本年四十七歳)。

 下総国相馬郡早尾村の百姓冨吉が、同じ村の百姓の甚内が親の仇を牛込神楽坂の行元寺境内でうったのが、この仇討で、「神楽坂の仇討」と呼ばれています。


 最後に、読売新聞の題字(下写真)の話題です。

行元寺の18世印南慶隆は書道家としても有名で、終戦直後に書いた隷書の読売新聞題字は現在も使用されています。

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赤印が行元寺です。青印が龍泉寺(目黒不動尊)です。







by wheatbaku | 2018-05-06 21:07 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
成就院と保科正之(目黒史跡散歩⑯)

成就院と保科正之(目黒史跡散歩⑯)

 成就院は、目黒のお不動様からみて、南東方向つまり目黒のお不動様の本来の参道沿いにあります。

 成就院は、天安2年(858)慈覚大師円仁により創建されたお寺です。下は成就院の本堂です。

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本尊は慈覚大師の作と伝えられ坐像の薬師如来像で3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗っていることから俗に蛸薬師とよばれています。


 蛸薬師様は、次のような由来があります。

慈覚大師円仁は、下野国都賀郡(現在の栃木県下都賀郡)に生まれ、幼くして伝教大師最澄の弟子となるため比叡山に登り、学問修行に励みました。

慈覚大師は若いころから眼病を患っていたため、自分でお薬師さまの小さな像を刻み、唐に渡る時もこれを持仏として持っていきました。

そして、修業が終わり帰国する際、海が荒れましたので、そのお薬師様を海に投じた所 風雨がおさまり、無事に筑紫の港に帰り着かくことができました。

その後、慈覚大師が、肥前の松浦に行った際に、さきに海の神様にささげられたお薬師さまのお像が海上に光明を放ちながら蛸にのって浮かんでいたので、大師は大変喜ばれたそうです。

その後、天安2年(858)目黒の地に来た時、諸病平癒のためとして、さきに松浦にて拝んだお御姿を模して、お薬師様を彫られ、蛸薬師如来としてお祀りになりました。

こうしたご由緒から、蛸薬師如来は秘仏とされていて、1月8日の初薬師縁日にだけ、ご開帳となります。

目黒区史によると、江戸時代は、祈願者は蛸を断ち、蛸の絵馬を掲げ、疫病除けを願ったそうです。

《お静地蔵》

 本堂の脇にある7体の仏様は「お静地蔵」と呼ばれています。

 「お静」というのは、会津藩初代藩主保科正之のお母さんの名前です。

 ここの7体の仏様は、お静様が寄進されたものです。それが下の写真です。

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お静は「お腹さま」となることを願い、3体の観音像を納めました。
  7体の右側にある3体です。それが下写真です。

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そして、生まれたわが子が無事成育するよう祈り3体のお地蔵様を納めたものと言われています。7体のうち左側の3体です。それが下写真です。

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 そして、わが子が、高遠城主保科正之となり願いが叶ったことからお礼として阿弥陀如来像を寄進したそうです。7体の中央に鎮座しています。

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 お静は、秀忠の乳母「大姥」の侍女として奉公にあがりましたが、2代将軍秀忠の目にとまり、寵愛を受けることになりました。

 やがて、身ごもりますが、「お江」の威勢を怖れ、中絶し、再度、奉公に戻り、再び秀忠の寵愛を受け、また身ごもります。

 この時、また中絶の話が出ますが、今度は弟が強く反対し、一族あげてお静を助けることとなりました。この時、頼もしい協力者が現れます。武田信玄の娘見性院でした。

見性院は、妹の信松院をつけて自分の領地の武蔵国足立郡大牧村に匿い、無事にお静に子供を産ませたのです。

こうして男子が誕生し「幸松」と名付けられました。

 「幸松」は、見性院の保護を受けた縁から、武田家の旧臣でもあった高遠藩の保科正光の養子となり、保科姓を名乗り「保科正之」となりました。

 お静は、秀忠が没した寛永九年(1632)、落飾して浄光院と号し、寛永3年に57歳で没しました。

3代将軍家光が、異母弟の保科正之の存在を知ることになったきっかけは、成就院での住職との会話です。

鷹狩りに来ていた家光は、身分を隠して、成就院で休憩をとりました。

その時、家光が住職に、こんな片田舎のお寺の客殿にりっぱな絵がかかれているが、誰の援助かと聞かれたので、住職は、「保科肥後守の母上の御援助」ですと答えました。


 そして、その話の延長で、住職が

「保科肥後守殿は、今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しかもらえず、貧しい暮らしをしているそうで、おいたわしい。我らのような賤しきものも、兄弟は仲良くするのが人の習いであると知っている。身分の高い人というのは、ずいぶんと情けがないものだ」といったので、家光は保科正之が異母弟であることを知ったといいます。


秀忠の死後、第3代将軍家光はこの異母弟を大変かわいがりました。

寛永13年(1636)には出羽山形藩20万石を拝領し、寛永20年(1643)には、会津藩23万石の藩主となりました。

 なお、正光は実子がいなかったため、養子として弟の正貞を迎えていましたが、正之が養子となったため、正貞を廃嫡しました。

しかし、後に、保科正貞は17000石(最終2万石)の大名となりました。これが飯野藩(千葉県富津市)保科家です。


赤印が成就院です。
青印が龍泉寺(目黒不動尊)です。




by wheatbaku | 2018-05-05 20:49 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
白井権八・小紫の比翼塚(目黒史跡散歩⑯)

白井権八・小紫の比翼塚(目黒史跡散歩⑯)

今日は、目黒のお不動様の仁王門前にある「白井権八・小紫の比翼塚」について書いていきます。

目黒のお不動様の仁王門から道路を挟み西南の方向の道路脇に「白井権八・小紫の比翼塚」があります。

案内板もあるし、南側にはお稲荷様があるので、少し注意をしてみればすぐにわかると思います。

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白井権八とは、江戸時代初期の元鳥取藩の武士で、本名を平井権八といいます。権八は、父を侮辱した家中の者を斬り、江戸に逃れ、大名屋敷に徒として奉公しました。そうしているうち、吉原三浦屋の遊女小紫と馴染みとなりますが、徒奉公はいわゆる三両一人扶持という安月給のためお金があるはずがなく、金策のため辻斬りを重ねて、ついに鈴ヶ森で磔刑に処されました。

目黒不動の前に、江戸時代には、普化宗の東昌寺というお寺がありました。

普化宗は、臨済宗の一派で虚無僧の宗派です。武家の浪人が多く、下総小金の一月寺、青梅の鈴法寺を本山としました。

東昌寺は、『江戸名所図会』を見ると、「虚無僧寺」として紹介されています。

東昌寺の住職随川は、権八に尺八を教えていた縁で、遺骸を東昌寺に葬りました。

これを知った三浦屋の遊女小紫は、吉原を秘かに抜けだし、墓前で後追い心中したと言われています。

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明治4年に本山とされた一月寺や鈴法寺は廃寺となり、普化宗は廃止され、東昌寺も廃寺となりました。

東昌寺境内に建てられていた比翼塚も、幕末の切絵図に「ヒヨクツカ」とカタカナで書かれている程有名でしたが、東昌寺が廃寺となった後、各地を転々とし、昭和37年に現在地に設置されました。

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「権八小紫」の話は、歌舞伎などに取り上げられています。代表的なものが鶴屋南北の『浮世柄比翼稲妻』です。

この演題は、幡随院長兵衛ものと権八小紫ものが一緒になったもので、幡随院長兵衛の「お若ぇのお待ちなせぇ」と白井権八の「雉も鳴かずば撃たれまい」は大変有名なセリフです。


 赤印が「白井権八・小紫の比翼塚」です。




by wheatbaku | 2018-05-04 17:18 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
青木昆陽の墓〔目黒不動尊③〕(目黒史跡散歩⑭)

青木昆陽の墓〔目黒不動尊③〕(目黒史跡散歩⑬)


 瀧泉寺の墓域に、青木昆陽のお墓があります。

 ただ、本堂からはちょっと離れています。(下記地図をご覧ください。)

青木昆陽は晩年、富士山を望む景勝地の目黒を好み、目黒に別邸(下屋敷と書いてある本もあります)を構えて、「なくなったら目黒に葬むるように」と言い残しました。そのため、目黒のお不動様にお墓があります。

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 青木昆陽の遺言のなかに次の一文があります。

我等死去いたし候ハヾ目黒へ葬り可申候 勿論軽ク葬り可申候 我等存生之間彫り申候石塔ヲ建可申候 外二碑銘杯建申間敷候 我等何之功徳無之二碑銘ヲ建ハ甚恥手事二候

 つまり、死んだ場合は目黒に埋葬し、生前に彫った石塔だけを建てることと言い残しました。そのため、青木昆陽の下屋敷の南にあたる地にお墓が建てられました。

 お墓の表面にある「甘藷先生墓」の文字は青木昆陽が生前自ら刻んだものです。お墓の向かって左面に青木昆陽が自ら「甘藷先生之墓」と刻んだ壽塚(せいぜん建てた墓)を作ったと刻まれています。

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青木昆陽のお墓が少し高くなっていますが、その台座は、東京の薩摩芋問屋が明治2年に造ったものです。

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青木昆陽のお墓の向かって左脇に「誠心孺人(じゅじん)墓」と書かれたお墓があります。

これは青木昆陽の妻「住(すみ)」のお墓です。住(すみ)の法名は「自光院殿照誉智鏡誠心大姉」です。

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 独鈷の瀧の脇に、大きな青木昆陽に関する石碑があります。

よく読むと「昆陽青木先生碑名」と刻まれています。

この石碑は、明治45年に建立されました。

碑文は、蘭学者大槻玄沢の孫大槻文彦が書いています。全文が『年譜青木昆陽傳』(青木七雄編集)に載っていますが、長いので、ここに転載するのをやめます。

その隣にあるのは「甘藷講碑」です。こちらの碑文は短いので全文を掲載しておきます。

青木昆陽先生諱敦書通稱ヲ文蔵卜云、元禄十一年江戸二生ル明和六年歿、壽七十二先生嘗テ甘藷ハ凶救ノ好食物タルヲ知、栽培シ書ヲ著シ廣ク衆庶二頒ツ該法各地二傅播シ到ル成種養セザル無二至レリ故二其ノ徳ヲ稱シテ墓二彫シ甘藷先生卜云、予輩亦甘藷ノ賣ヲ業トシ其洋二浴ス因ッテ該事ヲ石記シ以永遠二傅ント為卜云爾

 干時明治三十一年五月上浣建之 (當山六世現住 清香良水書)

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目黒のお不動様では、毎年10月28日の目黒不動の緑日に青木昆陽の遺徳を偲んで「甘藷まつり」が開催されています。

「甘藷まつり」、以前は甘藷先生の命日である10月12日に行われていましたが、戦後から、目黒不動の縁日に合わせて28日に行われるようになったそうです。


 赤印が青木昆陽のお墓です。青印が目黒不動尊の本堂です。






by wheatbaku | 2018-05-02 22:38 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
独鈷の瀧〔目黒不動尊②〕(目黒史跡散歩⑬)

独鈷の瀧〔目黒不動尊②〕(目黒史跡散歩⑬)

目黒のお不動様は正式名称を瀧泉寺といいます。

その名前の由来となったのが、独鈷の瀧です。

《独鈷(とっこ)の瀧》

 仁王門を入ると参道の左手に、瀧が見えてきます。それが独鈷の瀧です。

(下写真が、独鈷の瀧の全体写真です。右手が水かけ地蔵、左手奥が前不動堂です)

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円仁が唐から帰り、故郷下野に戻る途中で目黒に立ち寄ったとき、独鈷で地を掘ったところ、水がわき出て滝になったといいます。独鈷とは、密教で用いる法具です。

目黒のお不動様の正式な名前は瀧泉寺といいますが、この瀧から、寺号が瀧泉寺と付けられたといいます。

清水が二つの銅製の竜口から注いでいますが、この独鈷の瀧は、旱魃でも涸れないと言われ、信者が祈願成就のため瀧にうたれて垢離をとる水垢離場(みずごりば)でしたが、目黒区史によれば、納涼のために瀧にうたれる人も少なくなく、この瀧水で子供のさかやきを剃ると、明王の効験で子供が動かないでおとなしく剃らせるといわれたそうです。

 西郷隆盛が島津斉彬の病気平癒を祈願したこともあり、大河ドラマ「西郷どん」でも紹介されました。

二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈願し、東郷元師は日本海海戦の勝利を祈願したといいます。

瀧の前の「水かけ不動明王」」は平成8年に建立されたものです。

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《前不動堂》

独鈷の瀧の左手にあるお堂が前不動堂です。都指定有形文化財に指定されている

前不動堂の御本尊は不動明王立像です。江戸時代に将軍や大名の参拝があると庶民は本堂に近づけませんでした。そのため、庶民の便宜を図ったものと考えられています。

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《勢至堂》

勢至堂は、前不動堂の西側にあります。

正面は前不動堂まえふどうどうとよく似ていることから、前不動堂を意識してそれほど遠くない時代に立てられたと推測されています。

もとは前不動堂の手前にありましたが、昭和44年に現在地付近に移築されたそうです。

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《本堂》
 男坂を登りきると、正面目の前に本堂が現われます。

目黒不動尊は、戦災でほとんどの堂塔を焼失しました。

本堂は、昭和25年に再建されたものです。

 ここにご本尊のお不動様が祀られていますが、ご本尊は、秘仏で、12年に一度、酉年に開帳されるだけです。

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by wheatbaku | 2018-05-01 13:25 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
仁王門と鷹居の松〔目黒不動尊①〕(目黒史跡散歩⑫)

仁王門と鷹居の松〔目黒不動尊①〕(目黒史跡散歩⑫)

有名な目黒のお不動様の正式な名前は龍泉寺と言います。

目黒のお不動様は、寺伝では、大同3年(808)慈覚大師円仁が15歳の時に下野国から比叡山に赴く途中に、この地で不動明王の夢を見ました。そして夢にみた像を自ら刻み、それを安置したことに始まるといいます。

貞観4年(862)清和天皇から「泰叡」の勅額を賜わり、それから山号を「泰叡山」とつけられました。

ご本尊は、目黒不動明王と呼ばれています。

江戸には五色不動と呼ばれるお不動様があります。

五色不動とは、五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の56個所のお不動様をいいます。

《仁王門》
 目黒のお不動様でまず目に入るのが仁王門です。

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 目黒のお不動様は昭和20年5月の空襲でほとんどの建物が焼失しまいました。

仁王門は昭和36年に再建されたものです。

仁王門の上には、「泰叡山」と書かれた額があります。

「名所図会」には、江戸時代の楼門に掲げられていた「泰叡山」の額は後水尾天皇の筆によるものと書かれています。

仁王門に安置されている仁王像は、目黒在住の彫刻家・後藤良(ごとうなおし)が制作を依頼され製作にとりかかりました。後藤良は皇居外苑の楠正成の銅像の馬などを制作した後藤貞行の息子ですが、能彫刻を確立したことで有名です。

後藤良(ごとうなおし)は、昭和32年、原型が完成したところで、突然に亡くなり完成を見ることができませんでした。その後の作業を3人の高弟が引き継ぎ、仁王像は昭和35年に完成しました。

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《鷹居の松(たかすえのまつ)》

仁王門を過ぎ、真っ直ぐ進むと、本堂に通じる男坂が現れます。その男坂の登り口の右手に松がありますが、その松は鷹居(たかすえ)の松と呼ばれています。

寛永元年(1624)、家光が目黒の地で鷹狩をした際に、鷹が行方不明になりました。

そこで寺の別当の実栄に命じて祈願したところ、鷹が帰ってきて、松のこずえに止まり、家光が声をかけると、鷹は手に移りました。

家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名するとともにこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔ことごとく烏有に帰した当寺再建のため堂塔を寄進し、寛永11年(1634)には諸堂末寺等53棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が完成したといいます。

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《役の行者像》

 男坂は急坂ですが、男坂の右手に登りの緩やかな女坂があります。

 その途中に役の行者像があります。

役の行者像は、高さ42.2センチメートル、坐高92.7センチメートルある銅製で、その表面は黒光りし鋳工の間でカラス銅と呼ばれる色をしています。

腹部、胸部、腕部に刻銘があり、それによると、寛政8年(1796)太田駿河守藤原正義による制作だそうです。

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by wheatbaku | 2018-04-30 14:04 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
獏王像・三匝堂(さんそうどう)〔五百羅漢寺②〕(目黒史跡散歩⑪)

獏王像・三匝堂(さんそうどう)〔五百羅漢寺②〕(目黒史跡散歩⑪)

今日は、五百羅漢寺の2回目です。

五百羅漢寺には、見ごたえのあるものがありますので、それらを紹介します。

ただし、建物内の写真撮影が禁止されているので、文章だけになることをお許しください。

羅漢堂の中に《獏王(白沢)像》があります。この獏王は重要文化財に指定されています。

獏は人間の悪い夢を食い、善い夢を与えてくれる動物であると古くから言い伝えられています。

昔わが国では、いい夢を見るために大晦日の夜、枕の下に宝船の絵を敷いて眠る風習がありましたが、その宝船の帆に獏の字や絵を書いたものです。

また江戸時代の百科事典には「白沢(はくたく)は獏なり」とあって、獏は中国の想像上の神獣である白沢と同じものと考えられていました。

松雲元慶もそのことを念頭において獏王像を彫ったと思われ、人面牛身虎尾で額と腹の両側に各三個ずつ、計九個の眼があります。

もとは本尊のうしろに護法神として安置されていましたが、今はこの屋上の守り神として祀られています。

本堂(下写真)の南側にある法堂の脇にも見ごたえのあるものがあります。

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 そのうち、《造立寄進者名簿》は、本尊や五百羅漢像などを造るために寄進をした人たちの名前が記載されたものです。

その名簿には、五代将軍徳川綱吉の母桂昌院、浅野内匠頭長矩、浅野大学長広、日本橋越後屋などの名前も見られます。名簿も重要文化財に指定されています。

また、五百羅漢寺にあった三匝堂(さんそうどう)通称「さざえ堂」の額も展示されています。

五百羅漢寺の境内にあった三匝堂(さんそうどう)は、寛保元年(1741)に建立されました。

「匝」とは一周廻ると言う意味で、三匝堂とは、3回廻る堂の意味で、内部が三層の螺旋状をしており、同じ通路を通らずに上り下りができる構造でした。

その形状がサザエのようであることから「さざえ堂」と呼ばれました。

さざえ堂は、秩父、坂東、西国の三大観音霊場百ヶ所の観音様を請来し一堂に集めてあり、参詣者は右回りに堂内を一巡すれば百観音の霊場巡りができました。

さざえ堂は、明治初年に壊されてしまい、現存していません。



by wheatbaku | 2018-04-27 18:53 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
五百羅漢寺の羅漢像〔五百羅漢寺①〕(目黒史跡散歩⑩)

五百羅漢寺の羅漢像〔五百羅漢寺①〕(目黒史跡散歩⑩)

海福寺のすぐそばに、五百羅漢寺があります。

 五百羅漢寺は、海福寺と同じように、江戸時代は、本所にありましたが、明治になってから目黒に移転してきたお寺です。

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五百羅漢寺の創建は、元禄8(1695)で、五百羅漢像を制作した松雲元慶(しょううんげんけい)により創建され、松雲が開基、師の鉄眼が開山とされています。

五百羅漢寺は、本所五ツ目(現在の江東区大島)に創建 されましたが、江戸時代後期の弘化年間の暴風雨や安政の大地震で荒廃し、明治20年に本所緑町に移転した後、明治41年、目黒の現在地に移ってきました。

移転後も、大正6年の暴風雨や大正12年の関東大震災によって、昭和初期、大円寺は大変零落しました。

そうした時期に、もと新橋の芸者で「お鯉さん」と呼ばれていた安藤妙照尼が昭和13年に出家し大円寺に入り、それから4代にわたり尼僧が大円寺をまもってきました。

大変近代的なお寺ですが、これらのお堂は昭和56年に完成したものです。

五百羅漢寺で有名なのは五百羅漢像です。

羅漢像は当初は500余体あり、現在でも305体が残されています。

そのうち146体の羅漢像が羅漢堂に安置されていて、残りは本堂(下写真)に安置されています。

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羅漢堂や本堂内部は撮影禁止ですので、羅漢像をアップできないのが残念です。

下写真は、拝観する際にいただいたパンフレットです。こちらでご想像ください。

こうした像が、羅漢堂を本堂にずらっ~と並んでいて壮観です。

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五百羅漢像を造ったのは、松雲元慶(しょううんげんけい)というお坊さんです。

松雲元慶は、黄檗宗の鉄眼道光(てつげんどうこう)に師事し、豊前国耶馬渓の羅漢寺の羅漢像に感激して五百羅漢を造ることを発願して、江戸で5代将軍綱吉の母桂昌院らの寄進をえて完成させました。

下写真は、お寺入口にある五百羅漢の一つ「不退法尊者」の銅像です。

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羅漢さんは お釈迦さまのお弟子さんで実在した人々です。

お釈迦さまの説法を実際に聴き教えのとおりに修行に励んで煩悩を払い聖者になった人たちです。

修行を積んで煩悩を払い真実の智慧を完成した聖者をインドで「アラハン」と讃えました。仏教が中国に伝わり「アラハン」の発音をそのまま生かして「阿羅漢」と表現し、使い慣れるうちに「阿」がとれて「羅漢」と呼ばれるようになったそうです。

ちなみに「江戸名所図会」の行人坂の説明の中に、大円寺の五百羅漢の解説がありますが、その中では、「五百阿羅漢」と書いてあります。

お釈迦さまが亡くなられたときに集まった500人のお弟子さんたちが「五百羅漢」のモデルであるといわれています。


by wheatbaku | 2018-04-26 11:15 | ~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩
  

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