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白峯神宮〔今出川沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

白峯神宮〔今出川通り沿いの神社仏閣史跡①〕(30年京都冬の旅②)

今回の京都旅行2日は、今出川通り沿いに、神社仏閣や史跡を訪ねてきました。

主な訪問場所は、白峯神宮、大聖寺、同志社大学、相国寺、旧三井下鴨別邸です。

これらを順にご紹介していきますが、今日は、白峯神宮をご紹介します。

白峯神宮は、今出川堀川の交差点の北東にあり、今出川通りに面しています。

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白峯神宮は、慶応4年、明治天皇により創建された神社です。

もともと、この神社を創建しようと思われたのは、121代孝明天皇です。

孝明天皇は、保元の乱に敗れ失意のうちに亡くなった第75代崇徳天皇の御霊を慰め、さらに未曾有の国難にご加護を祈るため、崇徳天皇の御霊を、四国・坂出の「白峰山陵」から迎え、これを祀ろうとしましたが実現しないうちに亡くなりました。

 そこで、孝明天皇のその思いを継いだ明治天皇が、公卿「飛鳥井家」の邸宅地跡に創建したのが、白峯神宮です。

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 そして、明治6年には、崇徳天皇とともに第47代淳仁天皇も併せてお祀りするようになりました。

 従って、御祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇です。

 下写真は拝殿です。

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 お祀りされている第75代崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇の第1皇子で、鳥羽天皇から譲位されましたが、鳥羽上皇により近衛天皇へ譲位をしいられ,近衛天皇崩御後は、同母弟の後白河天皇が即位しました。

鳥羽上皇の死後、後白河天皇と争い、保元の乱が起きました。崇徳天皇は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、失意のうちに讃岐でなくなりました。

崇徳天皇は、和歌が上手で、百人一首にも次の歌が載せられています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

   われても末に 逢はむとぞ思ふ

 この歌は、落語「崇徳院」にもなっているほど有名な和歌です。

 そうしたことから、この歌の碑が、境内に建てられていました。

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 白峯神宮が創建された場所は、公卿飛鳥井家の邸宅跡です。

飛鳥井家は、和歌・蹴鞠の宗家でした。そこで、飛鳥井家が「まり」の守護神として代々邸内にお祀りしてきた「精大明神」も祀られています。

そのために、今では白峯神宮は、「まりの神様」とされ、野球・サッカーを始めとする球技の上達を願う人たちが大勢参拝するそうです。

拝殿には、多くのボールが奉納されていました。(下写真)

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また、春季例大祭や七夕祭りには蹴鞠の奉納が行なわれています。そのための球戯場も用意されています。(下写真)

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さらに、境内には蹴鞠の碑もありました。中央のボールを回転させると球運が授かります。

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赤字が白峯神宮です。








by wheatbaku | 2018-03-21 14:10 | 京都探訪
日枝神社の歴史(日枝神社① 江戸の祭礼と歳事)

 先週は、江戸検受検のための基礎知識を覚えるための記事を書きました。

 これも暗記、これも暗記」という記事が続くと疲れると思いますので、今週は史跡案内の記事を書いていきます。 

先日の鬼平散歩では、日枝神社をご案内しました。

c0187004_19540790.jpg 日枝神社は、今年の江戸検のお題にも関係する神社ですので、今日から数回にわたって日枝神社について書いていきます。

 今日は、日枝神社の歴史について書きます。

日枝神社は、以前は、川越の山王宮(現日枝神社)を太田道灌が江戸に勧請したと言われていました。

 江戸名所図会を読むと「日吉山王の社」として書かれていますが、その中で、

文明年中(1469~87)太田道灌、この(武蔵国入間郡仙波にある星野山無量寺にある=現在の川越の喜多院)山王三所の御神を星野山より江戸に遷し奉る。

 と書いてあり、斎藤月岑も喜多院から勧請されたと理解していたようです。

しかし、近年は、「千代田区史」や「日枝神社史」に書かれているように、太田道灌が勧請する以前に江戸氏が勧請した山王宮が江戸郷に鎮座していたと考えられるようになっています。

 その後、太田道灌が改めて川越の喜多院から山王宮を勧請したと考えられています。

c0187004_19543844.jpg 太田道灌が勧請した山王宮は、江戸城内の梅林坂にあったと考えられています。

 梅林坂は、現在も江戸城内に残されています。

右上写真が現在の梅林坂です。

c0187004_19544506.jpg右下写真は、梅林坂の説明板です。

 そして、徳川家康が、天正18年に江戸に入府します。

 その際に、徳川家康は、江戸城内に山王社が鎮座していることを知って大変喜んだそうです。

 そのことが、徳川実紀東照宮御実紀附録巻六に書かれています。

 御遷移のころ榊原康政をめして。この城内に鎮守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎮守の神にもあらん。御覧あれとて。康政嚮導してその所に至らせ給ふ。小さき坂の上に梅樹数株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そなはすと、直に御拝礼ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ当城に鎮守の社なくば。坂本の山王を勧請せんとかねておもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも当城うごきなくして。御家運の栄えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城塁開拓せらるゝに及び。山王の社を紅葉山にうつされ。かさねて半蔵門外に移し。明暦の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてて。当家歴朝の産神とせられ。

 
 このように徳川実紀には徳川家康は山王権現が江戸城内に鎮座していることを大変よろこんだと書いてあります。こうして、徳川家康は山王権現を「産土神」と定めます。

 この後それほどの時間をおかずに江戸城内の紅葉山に遷座したと考えられています。

c0187004_19554580.jpg そして、江戸城の大改造が行われましたが、この影響で、山王権現は、半蔵門外に移されました。

 山王権現が遷座した場所は、現在国立劇場がある近くで、ホテルグランドアーク半蔵門の西側の警視庁隼町住宅隼寮あたりと考えられています。

 右写真はホテル グランドアーク半蔵門です。

 

 この半蔵門外の山王権現は、明暦3年に起きた明暦の大火で焼失してしまいました。

 そこで、幕府は溜池の上にある星岡(ほしがおか)の福知山藩松平忠房の上屋敷を収公し、そこを山王権現の新しい用地と定め、社殿を造営しました。

 遷座の理由は、武江年表には次のように書いてあります。

 旧地は御堀端にして、彦根候の御屋敷より道を阻て北に在しが、社地狭く、火災の時、類焼の患あるが故、当時の所、松平主殿頭殿御屋敷にてありしを、災後社地となし給へり

 半蔵門外の山王権現は境内が狭くて類焼しやすかったためと思われます。

 そして、永田の地が選ばれたのは、江戸城の裏鬼門にあたる方角であるためと言われています。

 明暦の大火が起きたころには、すでに表鬼門には寛永寺が造営されていました。

 寛永寺はいうまでもありませんが、天台宗です。

 近江坂本の山王権現(現在は日吉大社という)は、もともと延暦寺を守護する神社でもありました。そのため、天台宗と山王権現と非常に密接な関係をもっていました。
 喜多院も天台宗でした。また、
山王権現の別当寺は寛永寺の末寺でした。
 山王権現の別当寺は当初最教院その後観理院が務めました。
 初代別当の晃海が天海大僧正の愛弟子でした。
 こうしたことをみても天台宗と山王権現の関係がわかるとと思います。

 そこで、明暦の大火後の江戸の大改造の際に、表鬼門の寛永寺と対をなすようにして裏鬼門守護の役割を持つ神社として山王権現が選ばれたのではないかというのが私の推測です。

 それ以降、江戸時代を通じて、山王権現は、永田の地に鎮座していました。

 しかし、明治元年に神仏分離令が発布されました。

 そこで、山王権現は、社名を「日枝神社」と変更しました。

 山王権現の別当寺は観理院でしたが、最後の別当「広深」は退転し常陸国稲敷郡新利根村逢善寺に移りました。

その他の子院の住職たちも還俗したり退転しました。こうしたことと現在は日枝神社周辺に1か寺もないことを考えると、観理院をはじめとした寺院はすべて廃寺になったものと思われます。



by wheatbaku | 2015-10-12 08:54 | 江戸の祭礼歳事
巣鴨大鳥神社(巣鴨食文化散歩2)
 巣鴨食文化散歩の2回目は、巣鴨大鳥神社です。

c0187004_155656.jpg 巣鴨大鳥神社は、「巣鴨のお酉様」と親しまれている神社です。
 これは、幕末の元治元年(1864)に 初めて「酉の市」が立って以来現在まで「鳥の市」が続いているためです。
 11月の「酉の市」には、境内一杯に熊手を売る露店がでて、参拝客で大いににぎわうようです。

 この大鳥神社の鳥居の脇に、ひっそりと「子育稲荷」が鎮座しています。
 現在は、巣鴨大鳥神社の方が有名のようですが、大鳥神社は、幕末の江戸切絵図には「子育稲荷」として載っています。
c0187004_15685.jpg しかも、別当寺の感応院とともにかなりの広さをもって描かれています。
 この「子育稲荷」は、貞享5年(1688)に巣鴨村の新左衛門によって創建されたと伝わっているそうです。
 また、子育て稲荷には、宝暦5年(1755年)に、境内に「時の鐘」が設置されていて、明治まで続いたそうです。
 江戸切絵図では、「時の鐘」も描かれています。

 この「子育稲荷」は、池波正太郎の代表作「鬼平犯科帳」にも登場してきますので、そのこともご案内しました。

 「鬼平犯科帳」では、鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の実母は、巣鴨の大百姓三沢家の娘園という設定になっていて、鬼平は、母の実家で17歳まで育ったという設定となっています。
c0187004_853122.jpg 三沢家は、鬼平の従兄弟の三沢仙右衛門が家督を継いで住んでいるため、鬼平も時々、巣鴨に出かけてきています。
 そうした中で、盗賊たちと出合い、事件を解決していく話の中で、「子育稲荷」が登場しています。

 具体的には「鬼平犯科帳」の中の「女掏摸お富」(文春文庫第2巻収録)および「白と黒」(文春文庫第8巻収録)という作品に出てきます。
 「女掏摸(めんびき)お富」では、かつて掏摸であり、現在は巣鴨追分の笠屋の女房となっているお富が、昔の仲間に脅されて、100両の大金を工面するために、昔やっていた掏摸を行い、100両調達できた後も、掏摸がやめられなくなり、鬼平に逮捕されるというお話です。
 その主人公の女掏摸のお富が子育稲荷で籠をおりる場面があります。
 ところで、「女掏摸」をなぜ「めんびき」というのですかという質問を受け、その時にはわからなかったので、その後も調べましたが現時点でもわかりません。

c0187004_8542081.jpg 「白と黒」では、鬼平が子育て稲荷の門前の居酒屋で、三沢仙右衛門の家から一緒帰ってきた按摩・富の市一杯飲もうとすると、かつて平蔵が取り逃がした盗賊亀太郎が居酒屋から出てきて、あわてて鬼平が身を隠すと、亀太郎は、鬼平に気付かず富の市に按摩を頼むという場面がでてきます。

 江戸切絵図を横に置きながら、この子育稲荷が出てくる「女掏摸お富」と「白と黒」を読んでみると、子育稲荷以外に、「巣鴨追分」「行人塚」「枡形横町」など、かつての巣鴨をを描いた切絵図に載っている地名が多数でてきた大変興味深く読めました。
 鬼平犯科帳も切絵図を見ながら読むという楽しみを知りました。



赤印が巣鴨大鳥神社です。

by wheatbaku | 2014-05-06 13:47 | 大江戸散歩
桜田神社(六本木散歩)
 今日は、六本木散歩の続きです。
 六本木ヒルズのすぐ近くに桜田神社があります。
 江戸で桜田をいえば桜田門を思い浮かべますし、桜田門のあたりが桜田と呼ばれていたと考えます。
 その桜田を神社名とした「桜田神社」がなぜ六本木にあるのでしようか。

 桜田神社は、治承四年(1180)に源頼朝の命により、渋谷重国が霞山(現在の霞ヶ関桜田門外)に祀ったことに起こるといいます。
c0187004_1703937.jpg 文治5年(1189)には、奥州征伐の奉賽として、源頼朝から30貫の田畑を寄進されました。
 この寄進された田の境界に、一般農家の田と区別するため、御神田の畔に桜を植えたことから、その田地は「桜田」と呼ばれるようになり、村の名も桜田村と称したと伝えられています。
 文明年間(1469~87)には太田道潅が社殿を再興し、太刀甲冑を奉納しました。
 寛永元年(1624)、江戸城の整備に伴い、氏子とともに霞ヶ関から現在の社地に遷りました。
 そのため、桜田神社が六本木にあることになります。
 また、桜田神社の前の通りいわゆるテレ朝通り両側の江戸時代の町名は、麻布桜田町といい、桜田村から移ってきたことを占めす町名でした。
 また、桜田と名前のついて町名は、芝にはもありました。
 芝には、桜田本郷町、桜田伏見町、桜田和泉町、桜田鍛冶町、桜田久保町、桜田備前町、 桜田善右衛門町、桜田太左衛門町などの桜田を冠した町名がありました。
 これらも、桜田村から移転した町名だそうです。

 また、桜田神社で、港七福神の寿老人がお祀りされています。
by wheatbaku | 2013-04-16 07:55 | 大江戸散歩
三次藩屋敷跡の赤坂氷川神社(赤坂六本木散歩)
 今日は、赤坂六本木散歩に戻ります。
 今日は、赤坂氷川神社についてご案内します。

 赤坂氷川神社のある場所は、元禄の頃は、現在の広島県の三次にあった備後国三次藩浅野家の屋敷がありました。
c0187004_8172631.jpg 三次藩浅野家は内匠頭の正室瑤泉院の実家でした。
 三次藩は広島藩の支藩です。初代藩主は浅野長治といいました.
 浅野長治は、広島藩初代藩主浅野長晟(浅野長政の次男)の長子として生まれましたが、母が側室であったため、正室から生まれた光晟が、浅野家宗家の家督を継ぎました。
 そして、長兄の長治が、三次藩を立藩しました。

 瑤泉院は長治の娘で、落飾前は「阿久里(あぐり)」と言っていました。
 阿久里は、10歳で内匠頭結婚しました。
 なお、内匠頭と阿久里は従兄同志と書いている本も見ますが、阿久里の母親は、内匠頭神長矩のおじいさん浅野長直の娘ですので、 阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、正しくは  「いとこ」ではなく「いとこおば」です。

 瑤泉院は、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
 そのため、大石内蔵助が事件前に瑤泉院を訪ねるとすると赤坂の下屋敷を訪ねることになるため、「南部坂」が舞台として登場することになります。
 南部坂は赤坂氷川神社から歩いて5分ほどの所にあります。
c0187004_8175314.jpg 三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 → 浅野長澄→ 浅野長経 → 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代寔と2代続いて子供がなくて三次藩は断絶しました。
 そして、屋敷も収公されていたようです。

 その後、8代将軍吉宗の時に、この用地を氷川神社としました。
 赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故(ころこ)ヶ岡)に祀られました。
 赤坂氷川神社が紀州徳川家の赤坂の中屋敷の産土神であったことから、徳川吉宗が、老中水野忠之に命じ、社殿を造営し、享保15年(1730)一ツ木台地から現在地へ移りました。
 氷川神社の本殿は享保15年(1730)建立されたもので、現在、東京都の重要文化財となっています。

 赤坂氷川神社は、東京十社の一つです。
 すでに十社巡りの中で書いているので、 「氷川神社 (十社巡り4)」  もあわせてご覧ください。


 赤印が赤坂氷川神社です。


by wheatbaku | 2013-04-03 08:14 | 大江戸散歩
元神明宮(三田散歩5)
 三田散歩に戻ります。
 今日は元神明宮をご案内します。

 元神明宮は、綱町三井倶楽部の前の通りを北側に下る坂を下りていきます。
 そうしますと右手に元神明宮があります。 
c0187004_8444694.jpg 元神明宮は、江戸時代有馬家の御屋敷があった西側にあります。
 元神明宮は、社伝によると、平安時代の寛弘2年(1005)に一条天皇の勅命により創建されたと伝えられています。 
 平成17年(2005)に、「御鎮座壱千年」の記念事業が行われている大変古い神社です。
 また、近くで渡辺綱が生まれたという言い伝えがあり渡辺綱の産土神でされていたことから、多くの武人に崇敬されたといいいます。
 江戸時代に徳川将軍家の命により神体や神宝が飯倉神明(現芝大神宮)に移されることになった際に、氏子の熱意により境内に神体を隠し留め、これを昼夜警護したとも伝えられ、「元神明宮」と呼ばれるようになったようです。

c0187004_845696.jpg 道路わきの鳥居から石段を登ると社殿があります。
 石段を登るに従って、少しづつ社殿が見えてきますが、一千年の歴史を持つ神社の御社殿が、右写真のようにあまりにも近代的なのに驚かされます。
 現在の社殿は旧社殿の老朽化したために全面的な改築を行い、平成6年に竣功したのだそうです。
 外観は近代的ですが、社殿内部は、通常の社殿になっています。

 この元神明宮には、水天宮が相殿としてお祀りされています。
 これは、隣の有馬家上屋敷の邸内社としてお祀りされていた水天宮が、明治の初めに青山の有馬家中屋敷に移転するに際して、その分霊を相殿としてお祀りすることになったそうです。



 赤印が元神明宮です。
 青印は綱町三井倶楽部です。

by wheatbaku | 2013-03-05 08:22 | 大江戸散歩
仙波東照宮
 今日は、川越の仙波東照宮について書きます。

c0187004_22434242.jpg 毎年恒例にしている川越の喜多院に御札授与にいってきました。
 例年、大勢の人が参拝しているのですが、今年はとりわけ多かったように思います。
 喜多院そのものも混雑していたのですが、周辺の道路の込み具合がすごかったです。


 今年は、喜多院とともに仙波東照宮もお参りしてきました。
c0187004_22442164.jpg 徳川家康が、久能山から日光に改葬された時に、4日間川越喜多院の本地堂に留まり、天海大僧正が丁重な法要を執り行いました。
 仙波東照宮はこの由縁から寛永10年(1633)に創建されたものです
 寛永10年に天海大僧正により創建さた東照宮は寛永15年8月の大火により焼失してしまったため、寛永17年に再建されたものです。
 随身門は朱塗の八脚門・切妻造りで、銅板で噴かれています。
 以前は、この随身門には後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」と書かれた額が架けられていたそうです。
 この随身門をはじめ、 本殿、 瑞垣、 唐門、 拝殿及び幣殿、 石鳥居は国の重要文化財となっています。

 石鳥居は、寛永15年9月に堀田正盛が奉納したものです。
c0187004_22444243.jpg 堀田正盛は造営奉行として再建の指揮をとっていました。
 堀田正盛は、春日局の義理の孫ですが、養子となっていましたし、家光の男色の相手であったとも言われていて、家光寵愛の家臣です。
 この堀田正盛が造営奉行ですので、家光の再建にかける意気込みがわかります。
 もっとも寛永15年8月の大火で燃える直前の同年3月まで川越藩主であったという事情もあるかもしれません。
 向かって左の柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」と刻まれています。

c0187004_2245416.jpg 拝殿は、桁行三間、梁間二間で単層入母屋造りで銅板で噴かれています。
 拝殿の中には、後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」の額があるそうです。
 また、拝殿の前の石灯籠は柳沢吉保が奉納した者です。


 東照宮本殿は、非公開ですので中にはいれません。
c0187004_22452726.jpg  本殿の中には、天海が作った家康の木像が安置されているそうです。
 本殿前の石灯籠は、松平信綱、輝綱、信輝の三代の川越藩主が奉納したものです。
 松平信綱はいわゆる知恵伊豆と呼ばれた幕府の重鎮で寛永16年(1639年)に堀田正盛の次に川越藩主となりました。輝綱は信綱の子供で2代藩主、信輝は信綱の孫で3代藩主です。
 信輝の代に古河藩に転封しています。
by wheatbaku | 2013-01-20 00:10
日本橋七福神めぐり(人形町散歩)
 昨日は、江戸検一級2期会の特別例会で日本橋人形町を歩いてきました。
 そこで、今日と明日に分けて、その様子をお知らせします。
 今回のメインテーマは、①日本橋七福神めぐり、②人形町の甘味老舗めぐり、③人形町の史跡めぐりでした。
 そのうち、今日は、日本橋七福神めぐりについて紹介します。

 日本橋七福神は、比較的狭い範囲の中にあり、短時間で回れるので、個人的にはもう何回かお参りしてきているので、慣れた道筋ではありました。 
 しかし、昨日は、6日でしたが、七福神めぐりする人たちが多くびっくりしました。
 今回は、小伝馬町よりから順に七福神めぐりをしました。
 つまり、①椙森神社、②笠間稲荷神社、③末廣神社、④小網神社、⑤茶ノ木神社、⑥松島神社、⑦水天宮の順に巡ってきました。
 
1、椙森神社   恵比寿    詳細はこちら ⇒ 「椙森神社」

 参拝を待つ人で一杯でした。この後にも行列は続いていました。

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2、笠間稲荷神社  寿老神   詳細はこちら ⇒ 「笠間稲荷神社」

 写真手前では、参加者が地図を見ながら現在地の確認中です。奥には長い行列が見えています。
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3、末廣神社  毘沙門天   詳細はこちら ⇒ 「末廣神社」

 参拝客の行列が長く続いています。左手に列は伸びていました。

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4、小網神社  福禄寿、弁財天 詳細はこちら ⇒ 「小網神社」

 もっとも長い列ができていました。人気が高いようですね。

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5、茶ノ木神社  布袋    詳細はこちら ⇒ 「茶ノ木神社」

夕方近くなったので、参拝客が減ってきました。参加者ものんびり立ち話中です。

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6、松島神社  大国神   詳細はこちら ⇒ 「松島神社」

 神社の由緒書を熱心にみている参加者たちです。もう暗くなり始めていました。

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7、水天宮、  弁財天    詳細はこちら ⇒ 「水天宮」

 水天宮についたときは5時でした。夕暮れ時で、暗くなっていました。それでもかなりの参拝客がいたのは、さすが水天宮です。

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最後は、東京シティエアーターミナルの「龍鳳」で新年会でした。
全員で記念撮影です。2期会の皆さんお疲れ様でした。そして本年もよろしくです。
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by wheatbaku | 2013-01-07 00:30 | 七福神めぐり
水天宮に初詣
 今日は仕事開始めです。
 取引先への挨拶をすませた後で水天宮に初詣をしてきました
 6日に.人形町を案内しますので、その下見の意味もありました。
 もう5時近くでしたので、初詣の人は少なくなっていましたしビジネスマンが多かったように思いました。
 やはり、仕事始めですね。

 さて、水天宮は、安産の神様として大変有名ですね。c0187004_20113371.jpg では、水天宮にお祀りされている神様はどなたでしょうか?
 主祭神は、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)ですが、さらに三柱が祀られています。
 その御三方は、安徳天皇、建礼門院、二位の尼という平清盛の関係者が祀られてています。
 
 もともと、水天宮の総本宮は久留米市にあります。
 この水天宮は、壇ノ浦で滅んだ平家に仕えていた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢という人が、小さな祠を建てて平氏一門の霊を慰めたのが始まりだそうです。ですから、平清盛の関係者がお祀りされているのです。
 江戸時代になって、久留米藩2代藩主の有馬忠頼が7000坪の土地を寄進して社殿を造営しました。
 江戸の水天宮は、久留米藩9代藩主の有馬頼徳が江戸の上屋敷に勧請したものです。
 有馬家の上屋敷は、現在の港区の赤羽橋付近にありました。
 明治になってから、青山に移転した後、明治5年に現在地に移転をしたものです。
 従って、江戸時代には、日本橋蛎殻町(かきがらちょう)には水天宮はありませんでした。

c0187004_20121621.jpg 水天宮にお参りした後に人形町を散歩していたら、左のようなポスターを見つけました。
 昨晩、テレビで放映されていた「麒麟の翼」のポスターです。
 「麒麟の翼」は昨年上映された映画ですが、見なかったので、我が家では「麒麟の翼」を家族で見ました。
 この情報は月猫さんが江戸検一級2期会のメンバーにも発信していたので、2期会のメンバーも見た人がいると思います。
 「麒麟の翼」では、水天宮をはじめとした日本橋七福神が出てきました。
 そこで、人形町にポスターが貼られていたのです。
 町ぐるみで応援していたんだと感じました。

c0187004_20122835.jpg そんな気持ちを持ちながら、6日に案内する予定の甘酒横丁の「玉英堂彦九郎」さんにごあいさつにお邪魔しました。
 そうしましたら、店内に「麒麟の翼」の阿部寛さんのサインが飾られていました。
 「玉英堂彦九郎」さんは、映画にはでてなかったと奥様がちょっと残念そうでした。
 「玉英堂彦九郎」さんは天正4年創業の老舗中の老舗です。
 「虎家喜」や「玉饅」というお菓子が評判のお店です。
 詳しくはこちら「玉英堂彦九郎(江戸からの和菓子)」をご覧ください
by wheatbaku | 2013-01-04 20:28 | 神社参拝
初詣
 元旦には、地元の氏神様に初詣で行ってきました。

 
 毎年、元旦には、氏神様に初詣に行くようにしています。
 
c0187004_21321352.jpg 地元の人が、三々五々、お参りにきていました。
 昨年の家族の無事と健康にお礼を言い、今年の家内安全をお願いしてきました。

 我が家の氏神様は「箕田八幡氷川神社」と言います。

 鴻巣市の箕田は、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、平安時代には、源仕(つこう)、源宛(あたる)、渡辺綱三代が、この地を拠点として活発な活動を展開していました。
c0187004_2133168.jpg この「箕田八幡氷川神社」は、もともとは箕田八幡神社といい、平安時代に、源仕が石清水八幡宮を勧請して創建したといいます。
 箕田源氏の中で、最も有名なのが源頼光の四天王の一人に数えられた渡辺綱です。
 
 渡辺綱は、鴻巣の箕田で生まれたものの幼少の時に父親がなくなったため、摂津の渡辺で育ったため、渡辺を名乗ったと言われています。
 渡辺綱は、祖父が創建した箕田八幡神社を再興したと伝えられています。

 箕田八幡神社は鴻巣市を通る旧中山道沿いにあります。
 鳥居の前の道路が旧中山道です。
 江戸時代には、多くの旅人も旅の安全を願ったのではないでしょうか。

 実は、我が家は、この旧中山道近くにあり、日々、この道路を通勤・買い物などに利用しています。
 昨日は、お参りをしながら、歴史のある土地で、毎日、江戸時代の旧街道を利用している喜びを改めて感じました。
by wheatbaku | 2013-01-02 07:05 | 神社参拝
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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