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征韓論 (八重の桜第33回「尚之助との再会」)
 昨日の「八重の桜」では、「征韓論」が出てきましたので、今日は「征韓論」について書いてみたいと思います。
 これが、後の「西南戦争」につながりますので・・・

 その前ですが、金曜日に出題した「忠臣蔵の模擬試験問題の正解」をアップしてあります。
 「忠臣蔵第3回模擬試験問題の正解」 をご覧ください。

 「八重の桜」で描かれた明治6年ごろに征韓論を主張したのは、岩倉使節団が、欧米に派遣された後の留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣たちでした。
当時の留守政府の参議は、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、副島種臣で、西郷以外は、土佐藩と肥前藩の出身者で占めており、土肥政権といっていい政府でした。

征韓論 (八重の桜第33回「尚之助との再会」)_c0187004_1317449.jpg 明治6年初夏、朝鮮が日本に対して侮蔑したとして、国内で「征韓論」が強くなります。
 その状況下で、西郷隆盛は自身が使節として朝鮮に行くと主張しました。
 板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成しました。しかし、留守を預かる太政大臣の三条実美は閣議をなかなか開かず決定が遅れました。
 が、8月17日についに西郷隆盛を使節として派遣することが閣議決定されました。

 これに対して、ヨーロッパから順次、帰国した岩倉使節団の岩倉具視(9月帰国)木戸孝允(8月帰国)・大久保利通(5月帰国)らは、岩倉具視が帰国した9月以降これに断固として反対しました。
 しかし、10月15日の閣議では、西郷隆盛の派遣が閣議決定されました。
 この決定を受けて16日木戸孝允と大久保利通は参議の辞表を提出します。
 17日の閣議では、岩倉・木戸・大久保が欠席したため、三条実美は奏上の結論が出せず翌日に延期しました。
 翌18日朝、両派の対立を収拾することができなくなった太政大臣三条実美は、病に倒れました。
 20日、明治天皇が三条実美を見舞うとともに太政大臣の職務を代行するよう岩倉具視に命じます。
 22日に、太政大臣の職務を代行することとなった岩倉具視は、西郷隆盛たち征韓派の参議を招集して協議をしますが、閣議決定の上奏を要求する征韓派に対して、岩倉具視は、自分の反対意見も奏上するといって譲りませんでした。
 そして、23日、岩倉具視は、派遣反対の自分の意見を添えて、閣議の決定を奏上しました。
 明治天皇は、最終的には岩倉具視の意見を採用し、西郷隆盛の使節派遣は中止されました。
 その結果、その日のうちに西郷隆盛が辞表を提出し、24日は、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の征韓派の参議が一斉に辞表を提出し下野しました。

 これが、昨日の「八重の桜」でも描かれた「征韓論争」の経緯です。

 それでは、征韓論の中心となった西郷隆盛がねらっていたのは何かですが、これについては、元京都大学名誉教授の井上清が、西郷隆盛が征韓論を唱えたのは、国内対策であったと説明しました。
 明治維新により武士の特権ははく奪されたため、武士の不平不満が高まりました。
 西郷隆盛は、そうした不満を外に向け、さらに士族独裁体制を実現しようとしたのだと言います。
 これに対して、岩倉具視や大久保利通は対外政策としては征韓では同じ考えを持っていましたが、それにもかかわらず、二人が西郷たちに反対したのは、岩倉具視や大久保利通が目指すのが中央集権官僚主義であったため、西郷隆盛や士族の主導による征韓に反対したのだと言います。
 この説は、一般に多くの人々の支持を得たようです。

 ただし、西郷隆盛が、使節として朝鮮に行こうとしたのは平和的に交渉しようとしたという説もあるようですが、これに対しては批判的な意見を鵜飼隆明教授は岩波新書「西郷隆盛」のなかで書いています。
 なお、井上清の考えは中公文庫「日本の歴史20 明治維新」を参考にしています。
by wheatbaku | 2013-08-19 13:19 | 大河ドラマ
王政復古のクーデター(八重の桜 第19回「慶喜の誤算」)
昨日の「八重の桜」は、幕末政治の重要なターニングポイント大政奉還から王政復古までを駆け足で描いていました。
 そこで、今日は、王政復古のクーデターについて書きます。
 倒幕をめざす薩摩藩の倒幕の密勅を準備し、10月14日に公布されます。
 倒幕の密勅は小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允と岩倉具視が関わったと言われています。
王政復古のクーデター(八重の桜 第19回「慶喜の誤算」)_c0187004_113949.jpg この密勅は、形式が異例で、天皇の直筆でなく、連署の三名の花押もありません。手続きにも疑問があり、古くから偽勅と言われていました。
 しかし、昨日の「八重の桜」では、岩倉具視自らが偽勅だと明言していたのには驚きました。

 一方、倒幕を怖れた徳川慶喜は、土佐藩の山内容堂の建白を受けた大政奉還します。
 大政奉還とは朝廷に政権を返還するということで、 この大政奉還により、討幕派は武力発動の口実を奪われてしまいました。
 これに危機感を抱いた討幕派が12月9日に実行したクーデターが「王政復古」です。
12月8日、宮中で、二条摂政ら公卿と尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、芸州の浅野長勲らによる朝議が開かれました。
 徳川慶喜と土佐藩の山内容堂は病気を理由に欠席しました。
 慶喜の欠席は、「八重の桜」に出てましたね。

 翌朝まで続いた朝議では、①長州藩の「朝敵」取り消し、②岩倉具視や三条実美などの蟄居、落飾の処分の取り消しなどが決定されました。
 12月9日となり、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた尾張藩・土佐藩・薩摩藩・越前藩・安芸藩の5藩兵が京都御所九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限しました。
宮門を警備していた会津藩や桑名藩の藩兵は不意を突かれ退去せざるをえませんでした。
 そして、親幕派の二条摂政や朝彦親王などは参内を禁止されました。
 その一方で、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、「王政復古の大号令」を発しました。
王政復古により、①将軍職の廃止 ②京都守護職・京都所司代の廃止、③摂政・関白の廃止、④国事御用掛・議奏・武家伝奏の廃止など伝統的な旧体制が廃止されました。
 そして、代わって、新たに総裁・議定・参与の三職がおかれ、新政府が誕生しました。
 将軍職が廃止されても、慶喜は内大臣の職にありました。
 そこで、12月9日18時頃から、御所内の小御所で明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれました。

王政復古のクーデター(八重の桜 第19回「慶喜の誤算」)_c0187004_11392950.jpg これが、有名な小御所会議と呼ばれるものです。
 小御所は、京都御所の紫宸殿の東北にあり、 江戸時代は、天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見するために利用されました。
 京都御所の参観を申し込むと身近にみることができます。
 右上と左の写真は、昨年9月に御所参観した際に写したものです。

 この会議のねらいは、慶喜の辞官・納地を決定することでした。
 辞官とは内大臣の辞退で、納地とは領地の返上でした。
山内豊信・松平春嶽ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の実現を主張しました。
 これに対し岩倉らが反対し激論が続きました。その中で、山内容堂が「幼沖の天子を擁して権力を私しようとするもの」と岩倉らを責めると、岩倉がただちその失言を責めたというのは有名な話で、昨日の「八重の桜」に描かれていました。
 しかし、深夜になっても結論がでず、遂に議長役の中山忠能が休憩を宣言しました。
 この時、会議に出席していた薩摩藩の参議岩下方平は、西郷隆盛にその状況を報告し意見を求めると、西郷は「ただ、一本の短刀があれば片付く」と述べ、その決意を岩倉に伝えさせました。この意味は山内容堂がいつまでも反対するなら短刀で刺し殺せばよい」という意味です。
 このことが芸州藩を介して土佐藩の後藤象二郎に伝えられ、後藤象二郎から山内容堂に伝わり、再開された会議では山内容堂も矛を収め、辞官納地が決定されました。

 これには幕府側は大いに反発しますが、公議政体派が巻き返しをはかり、政治は流動的になっていきます。
 そうした動きは、次回「鳥羽・伏見の戦い」で描かれるのではないでしょうか。
by wheatbaku | 2013-05-13 11:33 | 大河ドラマ
強敵西郷隆盛が登場(八重の桜 第13回「鉄砲と花嫁」)
 先週の「八重の桜」では、西郷隆盛が蛤御門に薩摩兵を率いて現れました。
 そして、今週は、征長軍の参謀として、勝海舟と面談する場面があるようです。
 そこで、今日は、この時期の西郷隆盛について書いてみます。

 西郷隆盛は、明治維新の立役者であり、国民的人気が高いこともあるので、倒幕から明治維新にかけて一貫して活躍してきた印象があります。
 しかし、西郷隆盛は、島流しされていたり、薩摩で暮らしたりしていて政治の中枢で一貫して活躍していたわけではないのです。
強敵西郷隆盛が登場(八重の桜 第13回「鉄砲と花嫁」)_c0187004_8131179.jpg 
 西郷隆盛が生まれたのは、文政10年(1827)です。
 そして、弘化元年(1844)18歳で、郡方書役助となり、その後、書役となり27歳まで勤務します。
 島津斉彬に見いだされた西郷隆盛は、安政元年(1854)に、斉彬に従って江戸に上ります。28歳の時です。
 そして、一橋慶喜を将軍に擁立するために奔走する斉彬を助けて活躍します。
 しかし、安政5年(1858)、斉彬が亡くなります、一度は殉死を考えますが、僧月照に説得され思いとどまりました。
 しかし、安政の大獄が始まり、月照が追及されたため薩摩まで一緒に戻りますが、薩摩藩は月照を殺そうとしたため、西郷隆盛は、僧月照とともに薩摩の海に身を投じます。
 月照は死亡しましたが、隆盛は助かり奄美大島に流刑となります。32歳の時です。従って、約5年間、斉彬のもとで活躍したことになります。
 その後、文久2年(1862)2月、36歳の時に赦され,帰藩しました。約4年間、島流しになっていました。
 そして、久光の上京に合わせて下関までの先発を命じられます。
 しかし、西郷隆盛は、その命令に反して、京都まで進み、浪士と交わったため、久光の怒りをかい、4月帰国を命じられ、6月、徳之島に流され、8月改めて沖永良部島に遠島を命じられます。

 そして元治元年(1864)正月、大久保利通の計らいにより赦免され、2月に帰藩します。約2年間島流しになっていました。 
 8月18日の政変が起きたのは、文久3年(1863)のことですので、この時には、西郷隆盛は沖永良部島に流されていたのです。
 
 元治元年2月22日、吉井幸輔、弟の西郷従道らが沖永良部島に迎えにいきました。
 2月28日に鹿児島に帰着しました。3月4日京都に向かい。京都には14日到着し18日に軍賦役兼諸藩応接係を命じられます。軍賦役は、京都における薩摩藩の軍事面での最高責任者であり、今でいえば軍司令官です。
 4月には、さらに小納戸頭取に任命され、薩摩藩を代表する人物となります。37歳の時です。
 これから、西郷隆盛が政治の表舞台で活躍するのです。
 そして、蛤御門の変を迎えます。
 薩摩藩は、乾御門を守備していましたが、蛤御門を守備していた会津藩が苦境に陥った際に、薩摩藩兵を率いて、長州藩を撃退しました。
 西郷は、この戦いで、足に鉄砲傷を負いましたが、久光から刀と陣羽織と感状をもらいました。
 朝廷は、長州征伐を決定し、尾張藩の徳川慶勝が征長総督となりました。そして、西郷隆盛は総参謀となりました。
 当初、西郷隆盛は、長州藩を叩き潰す考えでした。
 しかし、その考えが一変して寛大論に変わります。
 そのきっかけとなったのが、9月に神戸海軍操練所頭取となっていた勝海舟と大阪で会見したことでした。
 幕臣であった勝海舟が「今は国内で争う時ではない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、国内の統一をはかるのがよい」と言ったのでした。
 西郷隆盛は、この時の勝海舟の評価を次のように書いています。
 実に驚き入り候人物にて、最初は打叩く賦(つもり)にて差越し候処、頓と頭を下げ申候。どれ丈けか知略の有やら知れぬ塩梅(あんばい)に見受け申し候、先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来候儀は一層も越え候はん。

 勝海舟の意見を聞いて、西郷隆盛は、長州征伐を厳格に行うことによって衰退した幕府を助けることになってはならない考え、総督の徳川慶勝から長州藩処分について一任を取り付けました。
 そして、西郷隆盛自ら広島に向かい長州藩に、禁門の変の指揮を執った福原越後、国司信濃、益田喜右衛門の三家老を処分し、五卿を筑前に移すことなどを要求します。
 長州藩政府は、要求を飲みますが、高杉晋作たちが、五卿の筑前藩に移すことに抵抗しました。
 そこで、西郷隆盛は直談判を行い事態を収拾しました。
 こうして、長州藩と一戦も交えず、長州征伐を収束させるのでした。

 この後、西郷隆盛は、会津藩の強敵となってきます。
 今日の「八重の桜」では、勝海舟と西郷隆盛の会見の場面が設定されているようです。
 どんな会話がかわされるのでしょうか楽しみです。 
 ただし、私は、日曜日は、江戸検一級2期会の定例会がありますので、後で録画を見ることになりそうです。
by wheatbaku | 2013-03-31 08:15 | 大河ドラマ
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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