
出題は、前回同様大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からとします。
前回は、四大和食に関してだけの出題でしたが、今回は、それ以外の項目について出題します。本を持っている方は、軽く斜め読みに読んでおいてください。
さて、「軍師官兵衛」ですが、今回のタイトルは「帰ってきた軍師」でした。
竹中半兵衛亡き後の秀吉の軍師として官兵衛の活躍を描いていますが、その冒頭は、三木城の別所長治に対する降伏の勧告でした。
今日は、この三木城攻防戦について書いてみたいと思います。
三木城攻防戦は、俗に「三木の干殺し」と呼ばれました。
秀吉が徹底した兵糧攻めを行ったからです。
三木城主別所長治は、天正6年(1578年)3月、織田方に敵対しました。
これに対して羽柴秀吉は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の策をいれて、三木城近くの平井山に本陣を設け、三木城を包囲するため、多くの付城を築き、兵糧攻めを行いました。

天正7年(1579年)5月には、丹生山明要寺と淡河城が落城するなどし、三木城への兵糧の補給が困難となります。
そして、ついに天正7年11月には、有岡城が落城します。
既に、備前の宇喜多直家は、織田方に加わっており、毛利方の援軍、兵糧補給も絶望的となり、三木城内の食料はすでに底をついて城内の兵士は飢餓状態にありました。
これがいわゆる「三木の干殺し」です。
三木城の兵糧が尽きて、城兵の士気が衰えてきたと判断した秀吉は天正8年(1580年)1月、三木城の支城に対して総攻撃を開始します。
1月11日には別所長治の叔父別所賀相が守る鷹尾山城を攻めました。
別所賀相は、城を脱出し、三木城に入りました。
ここで、秀吉は、別所長治のもう一人の叔父で織田方についていた別所重宗を通じて三木城の開城勧告を行いました。
「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛と別所重宗が、三木城で勧告をしたと描いています。
この勧告をうけて、別所長治は、開城することを決意します。
開城の条件は、別所長治はじめ一族が切腹する代わりに城兵の命を助けるというものでした。
正月17日、長治以下城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。
長治の辞世の歌は
いまはただうらみもあらず もろ人の命に代わるわが身と思へば
でした。
秀吉は、この経験から、因幡の鳥取城を攻める際に、兵糧攻めを行っていますが、「軍師官兵衛」の中では、詳しくは取り上げられないようです。